十二坪のバラック建ての家 2007-2-16記
屋根は杉皮葺き、壁は荒壁のまま、戸にはガラスも入らず障子紙を貼った、九人の家族のバラック生活が始まったのは、昭和21年のことである。それでもやがて壁は中塗り上塗りと徐々に進み、屋根もトタン張りと進化し、戸にもガラスが入り家の趣きを呈してきていた。
12坪の家の横には羽目板を利用しておっかぶせの物置も出来、反対側には同じくおっかぶせで、調理場も広げた。食堂商売も僅かながら客足も伸びてきていた。そんな中相変わらずあたしは、中学高校と学業のかたわら店の手伝いをこなしている。姉二人は嫁ぎ妹二人は中学どまり、上は店を手伝い下は住み込みで好みの仕事を転々としている。一番下の妹は高校に進む。入学式にあたしは付き添いで行っている。家族はいつしか変動はあったが基本的には四人に減少していた。昭和25.6年のわが家の状態はこんなものだったろうか、当たらずとも遠からずてあろう。
その頃か、区画整理の話が区役所から提示された。有無もいえない強制的なものである。なにしろ戦後バラックを建てる際、建築許可の条件として、将来区画整理の時は無条件もちろん無償で、土地を道路拡張に提供するといった一札を、区に提出しているのである。町内に旋風が走った、一大叙事詩ともいうべきイベントが行われるわけである。しかし無償といってもいくばくかの補償も将来だが出るし、商家には営業補償も出ることになった。
わが家は営業補償の代わりに、道路にまたがり仮店舗での営業を申し出て認可を受けた。お客さんに迷惑はかけられないといった母の強い主張からである。バラック建ての隣に時代劇の茶店さながらの、丸太を組んでよしづ張りの店舗、かまどを築き水道を引く。洗い場は野天であった。約二ヶ月、今考えてもよく頑張ったと思う、なにしろ大雨が降ったり、風でも吹こうものなら散々であった。それよりお客さんもよくまあ来てくれたものである。頭が下がった。
そしていよいよ家ごとの引越しである。幸いお客さんに駅前の建築会社で、現場監督をしている人がいて、全てしきってくれた。
一口に家をそっくり移動するといっても、話には聞いてはいたが、まさかわが家が見舞われるとは、夢にも思っていなかったことである。道路の反対側はそのまま、こっち側だけ下がって土地を提供し道路を拡張する。災難といえば災難ともいえるが、これも致し方ないことである。
家の両側に寄り添うように建てられていた、物置と調理場は取り払われ、基本的には12坪の家の移動である。太い角材や丸太を縦横に家の下の壁の部分をぶち抜いて通し各柱に結びつける、そしてジャッキを重点的にかまし、家を持ち上げ、コロを入れる。これで家の移動準備完了である。あらかじめ移動先には間取りどおりの土台石が作られていて、そこにそっと下ろすわけである。主要な柱をワイヤーで縛り、地網引きさなからにワイヤーを手繰り、静かにゆっくりと移動させ所定の場所に下ろす。そんな作業が各所でおこなわれた。見物人も集まりなかなかの賑わいがしばらく続いたのである。
この区画整理を機会に、店も大改築を行った。一応棟上の行事も行って店も広げ、店舗部分の外回りは吹き付けで化粧し、看板もかかげ袖看板も付いた。暖簾も今までの手縫いものに、墨で屋号を書いたものはお払い箱にし、染め上げた粋な暖簾が下がった。わが食堂も高度成長の波に乗ったのか。
とんでもない、住居部分は相変わらず六畳二間である。
当事者は「冗談じゃない!」と怒るかもしれませんが、団塊世代の僕は懐かしさを感じて読みました。
暫らくブログをお休みですが、お元気でしょうか。志村ご隠居さま主宰の長屋連歌へもお顔が見えませんので、気がかりになりました。
急に冬めいて参りました。
のんびりと、何事もなくお過ごしなら嬉しいのですが、姉上さまもご高齢ですし、どうか元気な様子をお伝え下さい。
松戸市民劇団の皆様方と、またお会い出来たら、其れも楽しみです。本日たまっている雑文など整理し、廃棄と保存に仕分けした処、お芝居のパンフレットが出てきました。保存の方のダンボールへ入れました。
また石上瑠美子さまがお元気で演じるお芝居を拝見したいものと思いました。どうぞ、今後共によろしくお願い申し上げます。