うたのすけの日常

日々の単なる日記等

昔のお話です 番外

2015-10-21 09:09:48 | 昔のお話です

       家の近所には朝鮮人が多勢住んでいた 2007-1-13記

 旧聞に属するが石原都知事の「三国人」発言が問題になった。多くは差別発言であるとする非難であった。あたしは「昔のお話」を書いている過程で、この問題を無視するわけにはいかない思いがある。育った環境においてあたしは、そしてあたしの家族も少なからぬ朝鮮人と交わってきているからである。戦中戦後と彼らの変わり様の落差を子供の目で見ている。いささか書くことに強い怯みを感じるが勇を鼓舞して書いてみる。あくまで客観的に。
 
 「三国人」のいわれは今大戦の終結に当たって、朝鮮は戦勝国でもなく敗戦国でもない立場にあった。そのため「第三者」という解釈から三国人と呼ばれたときいている。そして都知事が先般この言葉を発したことから、朝野を挙げての騒ぎとなった。都知事の発言は今更の観があっていかなる思惑があっての発言か、あたしはそこにキナくさいものを感じ不快である。しかし、「三国人」なる言葉を差別であると非難するには当たらないと思う、納得できないのである。
 差別どころではない、戦後彼らの荒々しい挙動や声高に発せられる言葉に、少なくともあたしは恐怖をおぼえた。それはこの目で見た電車内やホームでの傍若無人の振る舞いにである。ただただ傍観、逃げの姿勢を見せる日本人の大人たち。そして食糧買出しで、彼らがホームに並ぶ日本人を押しのけ乗り込む。座席を少数で大幅に占拠するといった大人たちの話。闇米の買出しの取り締まりでも、警察は彼らに対して及び腰だと口惜しがる大人たち。こんな光景を見たり聞いたりしたら、彼らを「三国人」といって、差別するなんて傲慢な気持ちなど持てるわけがない。持ったのは恐怖感である。

 「三国人」イコール「差別」なる図式にはどうしても納得できないでいる。

 小学生のころ、級友には多くの朝鮮人がいた。巷でよくきく話だが、彼らをチョーセンと呼び侮蔑した日本人。少なくともクラスでそんな光景は見てない。先生にもそんな態度は、微塵もなかったと断言できる。それよりそんな差別なんて発想は、はなから存在してなかったのではないだろうか。皆遊び仲間で泥んこになって遊んだのである。共に僻地に集団疎開し、空腹に耐え親恋しと泣いた仲なのである。

 家業の食堂であるわが家で朝鮮人の青年が働いていたという。母からよくきいた話だが、この青年アカの嫌疑で所轄の警察に拘引された。母は着替えや食べ物をもって面会に行ったが、取調べ中とかで差し入れは受け取ってもらえたが会えなかったそうだ。それから何日かのあと、母が勝手で洗い物をしていたら、背後に人の気配を感じ振り返ったとたん悲鳴をあげたそうである。そこには無残にも拷問で変形した顔に涙を流す青年がひれ伏していたのだという。だからどうしたと言われても言葉に詰まるのだが。

 彼らはいちじ、日本の法律の及ばない、決して差別といった意味ではない「三国人」として処遇されていたのではないか。差別どころか恩恵を混乱のさなか受けていたのではないか。
  
 彼らにもしどうしても看過できない不法があれば、占領軍の出番を待つしかなかったのであろう。

 



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2 コメント

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Unknown (志村建世)
2007-01-13 10:13:15
私の小学校には、朝鮮の人はいませんでした。ただしチョーセン将棋という変なルールがあって、すぐ下の駒の性質が、上の駒に乗り移るのでした。しかし蔑称としてのチョーセンは、禁止されていました。戦後の買出しの取締りで、三国人を名乗る男が「戦勝国民に対して失礼だぞ」と怒鳴っていたと、母が憤慨していたのを覚えています。
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Unknown (うたのすけ)
2007-01-13 14:47:50
米の買出しで官憲の取り締まりに業を煮やし、リュックの米を、ホームにぶちまけてやったという、闇屋のお客さんの話をきいています。
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