総領の姉の話で締めくくります 2007-1ー29記
母の言葉を借りれば、姉は二十で嫁に行き、二十一で後家となり、二十二で死んでしまった。乳飲み子を残して…
あたしは当時学童疎開で福島にいた。十九年の夏からであって六年生、次代の日本を背負う意気込みで親兄弟と離れてきたものの、所詮子供である。親恋しさに暮れる日々となるのも成り行きか。親のほうも手放した子供が心配なのは当然、面会に訪れる親の姿をしばしば見た。親が面会にきた子供は別室で会い、土産に持参された食べ物を食するわけである。親としても全部の子供にいきわたる土産を用意するわけにはいかなかったのだが、親が帰った後、その子は必ず腹をこわしていた。
あたしは一二度面会に来てくれと、催促の手紙を書いたが戦後帰るときまで面会はなかった。せめて店を手伝っていた二番目の姉に来て欲しかったのだが、その姉は妹たちを連れて縁故疎開してしまっていた。親たちがが忙しいのは、重々承知していたのであっさりとあたしはすぐに諦めた。だが東京の親たちはそれどころではなかったのである。
九州に嫁ぎ、夫を結核で死なれ乳飲み子を抱えて独り身となった姉を、母は姑とともに練馬の下赤塚に家を用意して迎えていた。しかし姉は既に夫の結核に感染するといった体で、膝を結核菌に冒され杖をついていた。
母たちは熾烈さを増す空襲下、福島茨城練馬そして自分たちの住む所と四所帯張っていたわけである。並みの苦労ではなかったはずだ、面会に来てくれなんて軟弱なことを口にしたのが、今になって口惜しい。
その姉だが、そう下赤塚の家へ何度か遊びにいっている。大家は百姓で、自分の住まいのそばに、平屋作りの庭付きの瀟洒な家を、何軒か建てたものである。おそらく都会からの疎開者目当てに建てたのであろう。
姉はときたま母たちに会いにきた。まだ空襲はなかったが街には防空壕が掘られ、防空演習も頻繁に実施されていて、緊迫した空気が漲っていた。街行く人は、男は国民服と呼ばれたカーキ色の洋服、ときたまゲートルを巻き、鉄兜を肩から斜めに背負っている姿も見られた。女性は既にみなモンペ姿である。上着の襟に住所姓名血液型が書かれた白い布を縫い付けている。これは男も子供も同じである。そんな街の風景のなか、モンペ姿でなく、婦人たちはかしこまった所に行くさいには、金紗の着物を仕立て直した、派手な模様のモンペ姿で外出してたものだが、姉は長い袖の侭のあでやかな着物を羽織り、杖をつき悠然として歩いてくる。
当時エプロン姿に愛国か国防か、そんな名をかぶした婦人会のたすきをかけた婦人たちが街角に立ち、姉のような服装をした女性をみると、袖を切れと注意したり、パーマネントをかけた女性に詰め寄って文句をいったそうである。パーマネントも敵性語とかで電髪と呼び名が変わり、禁止されていたのである。電力節約のためかどうかは分からない。
母や次女の姉はそんな姉を心配し、しきりと気をもんだりしたそうだが、姉は動じることなく、そのあと短い死ぬまでの間、袂を切る気配を微塵も見せることなく押し通したそうである。
姉の病状ば確実に悪化していく、それも急速に進んでいったのである。そしてお姑も。
立て続けの葬式は激しさを増した空襲下行われた。棺は後々母が断片的に、細々と語った話からすると、リヤカーか大八車で焼き場へ運び、遺体をお骨にするのに薪まで用意したという。悲しい淋しい野辺のの送りであったろう。
幸い姉の家の近くに母の両親が住んでいたとはいえ、母たちはいかにして東京のはずれまで日夜足を運び、看病やそして葬式、墓石の建立までこなしたのだろう。そして残された赤子は急遽、茨城まで疎開させて二番目の姉に世話させる段取りをつけている。
赤子は戦後落ち着いたところで母は養子とし、あたしたちには八番目の兄弟が出来たのであった。後年その妹はこれもなにかのえにしか、九州の人と結婚し今は福岡で老後を送っている。
母からこんな話も聞いている。お寺に棺を運び供養をしてもらい、そのさい棺を覆っていた姉の、きらびやかな柄の着物をお布施の気持ちとしてお寺に納めさせてもらったそうである。
戦後、あるとき進駐してきた米兵が、お寺の建物が珍しかったのかジープで乗りつけ、本堂に上がりこんで来て、そしてお堂の片隅にかかっていた姉の着物に目をつけ、いくばくかの金を置いて持ち去ったという。住職はそのいきさつを連絡してきて、代金はお布施として頂き供養すると言ったそうである。
母はそんな話をしたあと、姉の着物が海を渡ってアメリカへ行ったのだよと、ポツリと言った。
これにて再録した「昔のお話です」を終わります。
語り尽くせない物語も、いつかは終ります。
尽くせなかった情念は、どこへ行くのでしょうか。
言葉は立ち止まり、次の物語を探します。
全て読ませて頂きましたが、やはりこれで終わりとなると、寂しい気がします。
次はどんな「うたのすけワールド」を聞かせて頂けるのか・・・
ものすごく期待していますが、ひとまず、お疲れ様でした♪
お早うございます。長きにわたってお付き合いくださり、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
うたのすけさんの記憶の良さも驚きです。又、違う自分探しもいいですね。お元気で!
最後のお姉さまの話は泣けますね.たくさんのいいお話ありがとうございました.個人的には戦後から東京オリンピック位までの日本の復興時代の続編などを期待しています.私の母も結核で苦しんだのですが,なんとか持ち堪えて戦後の特効薬で命拾いしました.全快と見えたが,骨に僅かに残っていたらしい結核菌が原因で,右膝関節を失いました.当時は原因がなかなか判明せず,農業で無理してしまったのも重なり,とうとう右足が使えなくなりました.今85歳になります.足は不自由ですが,田舎で元気に暮らしています.
姉上様の哀切きわまりないお話ありがとうございました。最期を感じておられた姉上が美しい着物を纏い、袖も短くつめようとはしなかったとは。若く美しく杖を突きながらも決然として生きた姿に打たれました。
母上はどれ程辛く哀しかったか、もうそれを感じるだけで辺りが曇ります。
疎開児童が母を恋うのは当然です。恋わなかったら却っておかしいです。「尋ねてきて!」と私だったら気が狂います。大変な時代を踏み越えていらしたのですから、間近にした新しい年もご夫婦ともに健康でと祈念致します。