昭和30年頃について 2007-2-15記
読売の「遠景近景」なるエッセイを愛読しています。14日の「昭和30年代は良かったか」に興味をそそられました。それについてちょっと書いてみます。北さんは、そう呼ばしていただきます、《昭和33年》(布施克彦著 ちくま新書)に共鳴をおぼえ、現在その時代を描いた映画もヒットし、盛んに30年時代が謳歌されている。ご自身の体験も加えそれに反論を述べられています。その本も反論の書なわけです。いろいろ資料を駆使して検証されているそうです。
北さんは31年上京後、経済白書では「もはや戦後ではない」と宣言しています。初めて東京は墨田区の社宅で一人住まいしたとき、そこは共同の炊事場で七輪で煮炊きをし、いつも空きっ腹をかかえていたそうです。
そして北さんはこう結んでいます。多くの人がその時代を懐かしむのは、平成の日本人が豊かさと引き換えに失った、穏やかさ優しさ、初々しさが昭和のその時代に多々あるからと。
昭和30年代あたしはなにをしていたのだろう。齢は間違いなく満で23になっています。そして家業である食堂を手伝っていました。店は月二回第一第三日曜が休みでしたが朝は営業しています。そしてその都度1500円の小使いを貰いました。これはがっちりとおぼえています。暖簾をさげるときは既に昼近くになっています、それから映画を見に行くかします。巷には石原裕次郎の人気が凄まじかく、映画全盛の時代だったわけです。夜は単独か、近所の高校の友人と赤提灯の暖簾をくぐります。既に酒の味も覚え、たまには紅灯の悪所にも…、
そうでした、29年を忘れるわけにはまいりません。テレビで力道山の人気が沸騰していました。近所の飲食店はテレビを置き、客を集めていました。あたしはその時間店を抜け出し、近所の知り合いの座敷で観戦です。いい若者がみっともないとすぐに反省しました。さっそく母を口説く作戦に入ったのです。
店にもテレビを設置しよう、客が他の店に流れるのをせき止めなければならない。小使いは半分で我慢する、遊びにも行かない、その分をテレビの月賦の支払いに協力する。大上段に構えての交渉でわが食堂にもテレビが導入されたのです。21インチ?20数万?だったと思います。
いやあ、レスリングのある日は大変でした。食事どころではありません。店の明かりを客が勝手に消すは、当時映画館気取りで灯りを消して見たのですね。見ず知らずの人が食事もしないでテレビの前に陣取ったりしています。とにかく面白かったです。そこそこに売り上げはあったのでないでしょうか。その後も小使いは貰ったし、遊びにも出たし、無責任なことだったと思います。しかし母は暖簾を下げた後も、おそくまでテレビにかじりついていました。「日真名氏飛び出せ」?に夢中でした。母としては日々これといった楽しみが無かったのですから、いくらか親孝行の真似事をしたと思っていました。
33年には東京タワーが出現しています。35年皇室ラブ・ストーリーに大衆は憧れ拍手を送り、感動の溜め息を洩らしました。
話を店にもどします。冷蔵庫のことです。33年ごろまちがいなく、店の冷蔵庫は氷でした。もちろん大型で上は一枚扉で、下の食材を入れるところは観音開きの二枚扉です。目方はおぼえていませんが、大きな塊が二枚入りました。
あるとき年配のセールスが電気冷蔵庫の売り込みにきました。ここからはチト曖昧な部分もありますが、代々木の旧日本軍の練兵場跡に戦後すぐに進駐軍の兵舎が建てられ、かまぼこ兵舎と呼ばれていたものです。東京オリンピックの際、選手村が作られたところではないでしょうか。そこにはアメリカ兵の家族の住宅も併設されており、順次帰国する家族もいたわけです。そこで電気冷蔵庫です。帰国するアメリカ人の家具の払い下げが常時あったというわけで、大量に売りにだされていたというこどしょう。
セールスの売り込みに負けて、一応現物が運び込まれましたがダメでした。とにかく運転音が凄いのです。店に電気冷蔵庫が入ったのはまだまだずっとあのことです。
皇太子が結婚された前年、33年にあたしは結婚しています。これは関係ありませんね。