うたのすけの日常

日々の単なる日記等

昔のお話です 六十五

2015-10-24 05:57:30 | 昔のお話です

     上野駅は子供の頃からお馴染みさん 2007-1-24記

 上野駅は現在、見違えるようにきらびやかな姿に生まれ変わっていて、昔の面影は微塵もないといえる。しかし上野駅には違いない、あたしは駅頭に立つとなぜかほっとする。そして昔の匂いを懸命に嗅ごうとする、すると確かに匂うばかりか、昔のそれぞれの姿かたちが彷彿とと脳裏によみがえってくるのである。

 あたしは昭和19年、親兄弟、近所の人たちそして多勢の上野の駅員の励ましの歓呼の中、学童疎開の一員として東北に出発した。そして翌年9月やせ細った中学一年生として上野駅に迎えられた。それは憐れな姿であったに違いない。だが暗闇同然の窓の外の荒涼とした風景からうって変って、上野駅の灯りはまぶしく、子供心にも胸の鼓動が高鳴る蘇生感を十分に味わった。
 
 あたしは中学の転校届けを済ましたものの、しばらくは勉強する気にもなれず、というより世の中の激変の様子に興奮し、学校どころではなかったのである。上野駅周辺を彷徨い、浅草の六区に足を延ばす。都電で行ったり地下鉄を利用した。地下道には浮浪者や浮浪児と呼ばれた戦争孤児が屯していたり、昼間から正体なく寝入っていたりした。引揚者や復員兵が大きな荷物を背負って行き来する。すえた臭いが地下道に充満している。

 
 駅前では今駅に着いたばかりといった引揚者に、アメリカ兵が自転車の空気入れのような器具で、容赦なくDDTを吹き付ける。兵隊は通りがかりの娘にまで、面白がって筒先を胸に差込み吹き付ける。娘は嬌声を上げて体をくねさせていた。

 一歩上野の山に足を踏み入れれば、所在なく大人たちが西郷さんの銅像の周りに立っている。心ここにあらず、茫然自失とした表情である。当時の日本を象徴した佇まいであった。浮浪児は煙草をくゆらせ人混みを行く、中には広場の端に座り込み、裸になってシャツの虱取りに余念のない浮浪児、それに浮浪者が混じる。平和だった頃の面影はない。
 その頃あたしは夏休みになると、兄と二人父や叔母に連れられ田舎で過ごしていた。父が迎えにくる、上野駅に降り立ち父の後を懸命について行く、心は躍っている。大きな食堂に入る、京成聚楽である。大きなテーブル、兄と椅子を奪い合うようにして取り合い掛ける。父は終始無言である。父の前には大きなジョッキが置かれ、二人の前にはくやしいが、なにが並んだか覚えがない。おそらく焼き飯か、カツ丼だったろう。

 そんな親子の和やかな情景も束の間のことであった。僅か数年の後、あたしは浮浪児同然の姿で上野駅に降り立ったのである。これが中学一年生に降りかかった激変である。これでは世の中まともには見られない。右か左か選択肢は用意されている。いずれの道を歩むか、子供なりに悩んだことが懐かしい。
 焼け跡のバラックにどうにか、大家族は生活の拠点を辛うじて得た。話を上野駅に戻す。
 三番目の姉は戦後すぐに職を得た。女学校は繰り上げ卒業になったとかである。銀座の老舗の楽器店に勤めだし、それはいいのだが職場の男性に、当たり前だ、みそめられて結婚した。子供も生まれ、そして連れ合いが両親に孫を見せに田舎へ行くというわけである。遠方である。
 切符はどうにか手に入れたが、赤子連れの長旅である。どうしても席を確保しなければならない、出番は当然あたしとなる。前の晩から上野駅の大天井の改札口に並んだ、確か陽気のいい季節だったと思う。改札口の前はそれぞれ行き先ごとに長蛇の列だ。太い木枠の改札口の上に駅員が仁王立ちとなり、帽子の顎紐をきりりとし、メガホンで懸命に叫んでいる。改札になっても、慌てず、列を乱さず、駆け出さず、ということである。

 あたしは辺りを見回したり、背伸びして上を見上げる。天井のガラスは黒く、おそらく敵機の目標よけに迷彩をほどこしのだろう、ところどころ割れてどんよりした空が覗いていた。そしてその日もある一箇所に目はいった。進駐軍専用の旅行案内所、待合室も兼ねている。あたしはよく覗いたものである。そこは日本ではなかった。日本人立ち入るべからずの聖域ってわけである。アメリカ兵や女の兵隊、そして中には輝くばかりの衣裳をまとった婦人もいる。煙草をくゆらし飲み物のグラスを手にし、ソファーに腰を下ろしている。そして発車時刻ともなれば、列車待ちする長蛇の日本人客を尻目に、専用の改札口からホームへ足取り軽く向かうのである。
 天皇陛下のお召し列車も彼らに徴発され、進駐軍専用列車にされたという噂もきいたりした。敗戦国の悲哀ここに極めりである。

 やがて、スマンスマンという義兄の声と共に三人が到着した。田舎への土産であろう、大変な荷物である。聞けば隣近所くまなく土産を届けるそうである。そんな荷物の中、姉が新聞紙で包み、紐で縛った板のようなものを持っている。なにそれ、あたしの問いに姉は答えたにこにこと。洗濯板よ、義兄と向かい合って座り、間に毛布で包んだ洗濯板を渡し、赤子を寝かせていくのだという。

 姉は義兄のアイデアだとまたもにこにこした。あたしは姉の嬉しそうな顔を見て、いっぺんに疲れも眠気も吹き飛んだ。

 

 



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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (志村建世)
2007-01-24 11:30:58
京成聚樂の「あの頃」は、疎開以前の年代のことですね。私にも家族で行った記憶があります。よく目立つ建物でした。
 お姉さん夫婦の、満員列車での幸せな旅立ち、日本復興の第一歩だったのでしょう。じんときます。進駐軍専用の鉄道事務所RTOの看板は、特権階級の標識でした。
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Unknown (うたのすけ)
2007-01-24 12:44:06
実は RTOの頭文字の看板が掲げられていたと書きたかったのですが、今ひとつ自信がなく、あのような書き方になりました。ありがとうございます。
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Unknown (うたのすけ)
2007-01-24 13:00:48
志村さんへ
聚楽に訂正させていただきました。おかげさまです。
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Unknown (やまちゃん)
2007-01-24 14:11:51
こんにちわ! 上野駅は懐かしいです。私は公園口の方に良く行きました。時代はずうっと後でしょう。都美術館、文化会館 動物園 芸大 自転車で行きました。今でも好きな所です。
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Unknown (うたのすけ)
2007-01-24 14:20:17
やまちゃんさんへ
何年か前に、不忍池の周辺を散策して以来、ご無沙汰です。暖かくなったら行ってみようなんて思ってますが、いつも掛け声だけで終わってしまいます。
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Unknown (koba3)
2007-01-24 15:43:05
上野駅は、昭和30年代以降しか知りませんが、線路が切れて無くなってしまう地上ホームに、独特の哀愁を感じます。スキー、山登りにと、夜汽車(上野駅では、こう呼びたくなります)に乗るため、昼間から新聞紙を敷いて並びました。
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Unknown (志村 建世)
2007-01-24 16:20:09
上野駅のあの構造のおかげで、機関車時代の列車は尾久で編成して、バックで入線しました。最後尾に車掌が乗り、警音器もつけていました。操車場の取材で、国鉄の連結手から苦労話を聞いたことがあります。電気機関車では、機関士が前向きなら「推進」で、後向きなら「後退」だと教えられました。
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Unknown (うたのすけ)
2007-01-24 16:34:14
志村さん、koba3さん貴重なお話、ビックリしました。線路が切れる、バックで入線のお話、初耳です。
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Unknown (oldsan)
2007-01-24 19:07:43
こんばんは お姉さんの話いいですねー.また戦後の上野周辺の様子が浮かぶようで,いいですねー.色川武大(阿佐田哲也)さんの小説にも戦後の上野界隈の様子が出てきて関心もっていました.私は昭和40年代の学生時代,上野駅から本郷,御茶ノ水,根津周辺が懐かしいです.
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Unknown (うたのすけ)
2007-01-24 20:25:00
oldsanへ
上野駅は昔から北の玄関口と、その一言で暗いイメージの代名詞のようにいわれてきました。事実そんな雰囲気もありますが、そこにあたしは拭いきれぬ魅力を感じます。もちろん駅界隈を含めてです。
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