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石川県小松市の観光(古代日本と北陸、安宅住吉語源考、加賀百万石の失われた巨大浮城及び経済と文化、世界のコマツ)

2018-12-04 05:39:56 | 日本地理観光
小松市内を貫流する梯川(国土交通省ホームページ 梯川

石川県小松市はコマツの企業城下町で金沢都市圏に次ぐ石川県南部の第二の都市。航空自衛隊との共用飛行場小松空港があって、北陸の重要な物流拠点でもあるよう。以下、筆者の3日前のツイッターの再録・修正・追加・まとめ記事になります。

小松市の観光名所①粟津温泉と泰澄大師。

加賀温泉郷は主に加賀四湯(小松市の粟津温泉、加賀市の片山津温泉、山代温泉、山中温泉)を指し(山代温泉、山中温泉の歴史もかなり古いようです)、粟津温泉はそのひとつ。粟津温泉は修験道の僧で白山信仰(北陸鎮護の大社 白山本宮・加賀一ノ宮 白山比咩神社)で知られる白山を開山したと伝えられる泰澄(越(こし)の大徳、鎮護国家の法師、正一位大僧正位)開湯と伝えられ、1300年の歴史を持ちます。粟津は内陸部にあって地名に津がつくのが疑問ですが、大きな川はないようで、琵琶湖最南端部の瀬田川河口西岸の粟津庄と関連があるかもしれません。

粟津温泉の泉質は美肌の湯(温泉ソムリエが教える!美肌効果のある「美人の湯」「美肌の湯」って? マイトリップ)とされる硫酸塩泉。

泰澄は越前国麻生津(福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれます。若き日に修業をして悟りを開いた山が丹生山地の奥深くの越知山(日本山岳会)。越智は伊予(愛媛県)に多い(県内で4番目)名字ですが、大和(奈良県)にも多いそう。越智という地名がある奈良県高市郡高取町は古墳も多く、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置にあって、渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)がこの地域に定着したようです。中世越智氏は大和における有力な存在で北部の筒井氏に対抗していました。東漢氏の祖は阿知使主(あちのおみ)。修験道の祖とされるのは役小角ですが、役氏は地祇系賀茂氏で三輪氏と同族。三輪氏は神(みわ)氏とも書き、大三輪氏(大神氏)ともいう。つまり三神安角の次男である泰澄は、元々修験道の家系に生まれた地方のエリートだったのかもしれません。この越前と大和の関係は継体天皇に遡る可能性もあります。

そういう訳で、粟津温泉には国内(世界)最古級の旅館「法師旅館」が存在することでも知られるようです。貨幣経済が発達してなかった時代の「旅館」とは疑問ですが、恐らく日本には古来湯治という温泉地に長期間滞留して温泉療養を行う文化があって、粟津温泉では法師旅館が滞留者を泊める役割を担っていたのでしょう。

付近には泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる那谷寺(高野山真言宗別格本山)もあります。那谷寺による那谷寺の見所としては那谷寺のヒミツ。後で触れますが、小松城を築いた前田利常が那谷寺を再興したようです(前田利常と粟津温泉 あわづの歴史 あわづ温泉)。

話は逸れますが、越前(福井県)麻生津という地名に関して。内陸部で津(港)のつく地名に違和感がありますが、越前平野には一級河川九頭竜川(流域面積は福井県の面積の約70%)が流れます。麻生という地名は麻の生えている土地を意味する日本の地名です。縄文時代の衣服も麻だったのではないかとも言われるようです(縄文人の衣食住)。縄文の縄とは麻ではないかとの推測もあります(麻の歴史(前篇) 日本麻紡績協会)。いずれにせよ、15世紀末~16世紀中頃に木綿の栽培が始まり、麻に取って代わるまで、広く日本で衣服に使用されたのが麻です。綿花はインド原産で12世紀にベトナムから中国に伝わり、明代15~6世紀に長江下流で綿業が発達し全国に普及したそう(綿織物/木綿 世界史の窓)。インド綿はインダス文明が起源で、長くインドの特産品だったようです。話が逸れましたが、埼玉の津(万葉遺跡・小埼沼 行田市教育委員会)の例もあり、内陸部で津も無くはないのでしょう。

修験道の歴史ももはや分からない部分は多いとは思いますが、古墳時代に大和中心に前方後円墳の宗教が全国各地に広がったことは間違い無さそうで、そうした大和中心の宗教の一側面が修験道(の前身)だったんじゃないかと思います(後に密教を中心とする仏教と習合して確立したようです)。(三輪山信仰の)大三輪氏(大神氏)と三神氏が関連する可能性は既に指摘しました。日本や皇室を小さくみようとする歴史学は完全に失敗しており(邪馬台国をリーダーとする倭国は九州を支配するに過ぎないだとか、ヤマト王権表記だとか、王朝交代で皇室は連続していないの類)、いずれ修正を迫られると考えていますが(「記紀そのまま完全に事実」に対するアンチテーゼぐらいにはなったでしょうか)、北陸というのはかなり日本(大和)に近いところはあったと思います。

埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣記述の年代は471年が定説。雄略天皇に仕えたとされるヲワケの剣で、その先祖がオホヒコ。オホヒコは四道将軍の大彦が通説です。これが金石文として出土したことに非常に大きな意味があって(銘文にあるワケとかヒコとかスクネとかいう人名は記紀の記述のある程度の信憑性を裏付けるものと言え、ワカタケルとして記憶された天皇が後に雄略とされたという話です。)、概ね日本書記の四道将軍の記述に類する歴史的事実があったろうことが推定できます。ここからは自分が知る限り、筆者個人の説ですが、大彦は崇神天皇の一世代前の人物ですから、北陸への遠征は崇神天皇以前に遡ると考えます(ずっと後の戦国時代においても「美濃のマムシ」斎藤道三一代の国取り物語ですが、当時の資料の研究の進展から父である新左衛門尉との二代に渡るものが定説になっています。ですから、2~3世代の事跡を「開祖」に纏めて不思議はありません。崇神天皇は古事記によれば「はつくにしらししみまきのすめらみこと」です)。東海に派遣された武渟川別は大彦命の子で崇神天皇と同世代と見られ、会津説話は少し怪しいような気もしますがそれはともかく、武蔵(埼玉県・東京都)は元々東山道で、北陸経由で東山道の方が一足早く大和中心の日本に組み込まれたような気もします。だからこそヲワケの祖先は大彦命であって武渟川別命を経由していないのかもしれません。こうした考古学的証拠によれば、魏志倭人伝の三世紀の倭国が九州に収まっていたとは到底考えがたいところですが(如何にも任那の日本支配を否定したい半島に都合のよい考え方でしょう)、残念ながら日本の歴史学会は両論併記の傾向にあります。筆者の考えでは大和中心の日本が現状より古くに遡ると同時に北陸の歴史も遡って古くなると考えています。

小松市の観光名所②安宅の関(まるごと・こまつ・旅ナビ)と安宅住吉神社、勧進帳の時代。

安宅の関は藤原北家利仁流冨樫氏が設けたと言われる関ですが。源義経・弁慶で有名な歌舞伎十八番「勧進帳(歌舞伎演目案内 – Kabuki Play Guide –)」の舞台。資料的根拠で関の実在性は疑われていますが、北陸道の能美郡安宅駅は当地。

安宅住吉神社「安宅住吉神社について」によれば、安宅住吉神社は古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ、人生に於ける道先案内の神、開運厄除、交通安全、縁結び、また難関突破の霊神として多くの信仰を受けているそう。勧進帳の舞台を擁しご利益がありそうです。住吉信仰については日本三大住吉 御朱印めぐり | 楽しい御朱印めぐり参照。

>住吉三神(住吉大神)とは、伊邪那岐尊と伊邪那美命の子で海から生まれ出た底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称になり、海の神、航海の神などとされています。神功皇后が新羅に出征の折、住吉大神に祈願し、国の安定をはかられたことが元になり、住吉大神の信仰が発展することになったと言われています。

住吉三神は渡来系海人族に結び付けられることが一般的なのですが、国産み神話に関わる神なのですから、普通に考えて日本土着の海の神だと思います。代表的なのが大和の港である摂津、山陽道の西端長門、北九州筑前(博多)ということなのでしょう。日本書記における記述は「「海の底に沈き、潮の中に潜き、潮の上に浮き、濯ぎたまふ」by日本書紀」(日本神話.com)参照。

3~4世紀当時も航海は危険でしたから、神に祈ることは当然であって、住吉三神の起源は少なくとも神功皇后の時代まで遡ると思います。その重要な神様が記紀神話に記録されたということでしょう。

スミヨシの語源が良く分からず考えたのですが、住吉(区)のお隣の住之江(区)は「澄んだ入り江」(ウィキペディア「住之江」2018/12/04)のようです。地名でヨシと言いますと、まず日本に広く分布し古くから利用されてきた元はアシ(葦)というイネ科の植物を想起しますが、これは日本書記で豊葦原(とよあしはら)の国が見られ、この時は葦なので関係ないことは明らかです。良しかなと思うものの澄み良しという地名に確信がなく、ついで国吉(クニヨシ)という地名を想起しました。「国吉」名字の由来、語源、分布(日本姓氏語源辞典 人名力・別館)によると、沖縄だけでなく、千葉・山口の地名でもあり、高知・富山・広島でも古来記録のある地名のようです。ただやはり語源に関して今ひとつピンと来ません。ついで「ヨシ 地名」で検索したところ3番目に「広島県に三次市という市がありますが、「三次」と書いてどうして「みよし」と読むのですか? 漢字文化資料館」がHit。どうもミヨシという音にヨシと読むことがあった次を宛てたのが三次という地名のようです。よりメジャーな三好も同じですね。これで大体分かってきたような気がします。ミヨシは美+良しで一種の瑞祥地名なのでしょう。国吉も恐らく同じで、住吉も澄み良しで瑞祥的な地名・神名だったのだと思います。昔は漢字を適当に宛てており、場所によって使われる漢字が違ったり、縁起のいい漢字変えたりすることが良くありました。大阪の住吉が百済系という説もあるようですが、摂津百済郡(当時の大阪には白村江の戦い等に関連して亡命者が住んでいました)が住吉郡に編入されたことから来る誤説ではないかと思います。読みは「よし」(良し・善し・好し)の古形はえしだと言われ(コトバンク・weblio辞書参照)、スミヨシではなくスミエシだったかもしれません。いずれにせよ、スミは他に住み、隅、済み、棲み、墨、炭等あり、ヨシも他に由、芳等あって、スミヨシが和風の名前であることは動かないように思います。これが近年の歴史学に存在する「一国史観を批判し、国境を越えた海域史の観点からダイナミックに歴史を読み替えていこう」という風潮(「海の王国・琉球」(上里隆史 洋泉社新書)17p)や縄文人=南洋人の固定観念、弥生人=渡来人の固定観念の悪影響で分からなくなっていると筆者は考えています。詳細は別の機会にしますが(いずれ全て記事にするつもりですが)、その意味する範囲や表す言葉はともかく日本は外来のものを受け入れながらも日本は日本であって、それは氷河期旧石器時代まで遡るだろうと思います。

安宅は一級河川梯(かけはし)川(安宅川)の河口周辺に位置します。名称は寇が浦に由来すると言われているようですが、検索では古地図で名称を確認出来ず、暴れるを意味する「あだける」から来た「暴れ川」が由来かもしれません。暴れ川を意味する地名としては荒川が有名。「方言で「あたける」ということばの、石川県金沢での具体的な用例について」(レファレンス共同ベース)を参照すると、当地ではあだけるに転訛したかもしれませんが(それで分かり難くなったかもしれませんが)、いずれにせよ、「あたける=暴れる」は割に使われるようです。加賀の暴れ川としては、手取川がより有名なようですが(ですから分かり難かったかもしれませんが)、梯川も江戸時代から明治時代まで蛇行して流れ、洪水が頻発していたようです(第2章梯川流域等の概要 国土交通省北陸地方整備局)。

ですから安宅の拠点は小山に築くのが適切だと考えられますが、源平合戦の頃(勧進帳の時代)、南北朝時代の戦記史料に見える安宅城は、(現安宅住吉神社がある)二堂山あたりだったと考えられるようです(「小松市安宅城」 小松だよ!小松市の史跡・古道探訪!!)。

安宅の地名としては他に、徳島市と紀州(和歌山県)白浜町が知られるようです。徳島市は日本三大暴れ川のひとつ吉野川を擁し、白浜町安宅は蛇行する日置川河口付近に存在します。紀伊国牟婁郡安宅荘(白浜町)に興ったのが淡路水軍安宅氏(武家家伝)。安宅船は室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた(ゲーム等で馴染みの)軍船ですが、その由来は諸説あるものの、日本の船名としては、肥前松浦の松浦船、熊野灘の真熊野船のように建造地・使用地名が多いそう(ウィキペディア「安宅船」2018/12/02参照)。また、淡路水軍安宅氏説(最有力と思いますが)、「あたける」説、北陸の安宅説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武は全て同じなのかもしれません。阿武隈川は暴れ川であり、アタケクマ川が漢字の読み違いでアブクマ川になったかもしれません。クマ川の例:球磨川・熊川・久万川・隈川。

結局のところ、安宅は安宅川=暴れ川に由来し、当地の重要拠点が渡河前の河口の小山にあって、安宅駅も付近に存在したのではないかと思います。梯川の名前も渡河に関係した(下流の)名前ではないでしょうか。上流域では大杉谷川と呼ぶようです。漢字は当て字で、深い意味はないんでしょう(日本の古い文献の漢字に意味を求める人はあまりいないと思います)。冨樫氏は室町幕府の加賀の守護大名としても知られますが、古く加賀に根付いており、拠点は加賀(石川県)中部野々市の冨樫郷だったようです(富樫のふるさと ののいち地域事典 ※注:文献の記述から富樫表記は誤りで冨樫だと考えられるようです)。

古代道路は結果的に過大な公共事業で後に(源平合戦の頃までには)衰退しましたが(貨幣も律令も大体同じです)、地名や記録が残っていることは当時の地方の歴史を考える上で重要だと思います。

源義経の平泉に向かうルートは諸説あるようですが、安宅を通って不思議はありません。また、源(木曽)義仲及び北陸宮の挙兵との絡みでも北陸はこの頃登場し、加賀・越中境界の倶利伽羅峠は知られるところだと思います。

小松市の観光名所③加賀百万石と北国街道・北前船。

加賀藩は前田利家が開祖で百万石を有し、江戸時代最大の藩でした。支藩の大聖寺藩や隠居領を含めると、一族全体で120万石に達したとか。北国街道とは近江(滋賀県)―美濃(岐阜県)国境の関ヶ原から越後(新潟県)高田に向い分岐する参勤交代のルート(北国街道 松川遊覧船 富山観光遊覧船株式会社)。参勤交代では主に距離的に近い北回りルートを選択しましたが、当然日本経済の中心地である上方や御三家筆頭尾張藩を中心とした東海地方に向かう場合は北国街道を南下したでしょうし、領内を結ぶルートとしても小松市付近の道は重要だったはずです。参考:グーグル検索「北国街道 町並み 小松」及び「北国街道 加賀藩の参勤交代ルート : 三道楽ノート(個人ブログ)」

安宅の町づくりに関しては「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(161)」北前船の寄港地安宅のまちづくり(石川県小松市)(旬刊旅行新聞 2018年6月28日)参照。江戸時代の海運業(北前船)で栄えた安宅は北國銀行のルーツで文化遺産も多いようです(北前船で栄えた安宅の町と北國銀行のルーツ米谷半平家 金沢歴活)。北前船に関しては、江戸時代の海運と五街道(江戸時代の醤油文化)参照。明治時代北陸本線の開通まで安宅の海運は町を支えて文化を残したようです。北前船は意外に北海道や東北・北陸と大阪を結ぶだけでなく、途中の伊予(愛媛県)を含む瀬戸内海地域とも関連が深かったかもしれません(17. 江戸時代 伊予の産業 浦岡胃腸クリニック)。

>まず大阪で木綿と砂糖を積み込み、灘で酒、赤穂で塩を買いつけ、伊予で蝋や鬢付け、長州中の関(現在の防府)で米・紙・蝋、下関で繰綿を買って北上し、蝦夷にいたる諸地域で売りさばき、蝦夷では木綿の肥料となる大量のにしんを買いつけ、上方にいたる諸地域で売りさばきました。

小松市の観光名所④小松城(小松城天守台(まるごと・こまつ・旅ナビ))と前田利常・加賀百万石の文化。

一国一城令の廃城後に加賀藩3代藩主前田利常の隠居城として例外的に幕府から認められ、小松城は復活しました。利常の正室は第2代将軍秀忠の娘珠姫。次代の前田光高は正室との間に生まれた嫡男。その広さは本城である金沢城の倍近くもあったとか。梯川の水を引き入れ、巨大な湖沼に浮かぶ12の島を石橋、木橋で連結した全国でも珍しい「浮き城」だったと言います。名城だったそうですが、廃藩置県後、城内の建造物は入札によって払い下げられ、土地開発の結果、遺構の保存状態は良くないとのこと。類稀な景観であったろう小松城の縄張に関しては、小松城(近江の城郭)参照。小松城浮島にちなんだ小松城浮城マッププロジェクトという地域活性化プロジェクトもあるようです。

前田利常は京の文化を導入・振興し、加賀ルネサンスと言われる一時代を築いたと言われます。九谷焼や加賀友禅、蒔絵、金箔といった伝統工芸や和菓子等、この時代に始まった物は多いようであり、当然小松市やその周辺にも伝統工芸品産業は残ります。

小松市の観光名所⑤小松製作所関連観光施設。

まず、遊泉寺銅山跡(環境王国こまつ)。安永元年(1772年)に開鉱した遊泉寺銅山を近代的に経営したのが、吉田茂の実兄竹内明太郎(高知県宿毛市出身)になります。国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字だとか。竹内明太郎は遊泉寺銅山閉山後に鉱山機械製造の小松鉄工所を経て小松製作所(建設機械・鉱山機械)を立ち上げたことが、世界のコマツ(建設機械で米キャタピラー社に次ぐ2位)に繋がっていきます。今、その貴重な遺産を後世に伝えようと跡地に広場や遊歩道が整備されています。

2011年にこまつの杜がオープン。世界最大級のダンプトラック「コマツ930E」が展示されているとのこと。

最後に、古代から現代まで小松市は栄えたのであって、その文化遺産を活かし、かつ新しい観光の創造をすることによって、益々小松市の観光は発展すると思います。


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