観測にまつわる問題

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大嘗祭を内廷費でやるべきか(五穀豊穣、天皇彌榮)

2018-12-03 08:31:52 | 日記

農林水産省ツイッター(17:21 - 2016年11月23日)

秋篠宮さま きょう53歳に 大嘗祭めぐり政府決定と異なる意見
(2018年11月30日 NHKニュース)

>秋篠宮さまは30日、53歳の誕生日を迎えるにあたって記者会見に臨み、来年の皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」の費用に、公的な予算が充てられることについて、儀式の宗教色を踏まえ、天皇の生活費にあたる予算から支出されるべきだという考えを示されました。

大嘗祭が違憲であるとか止めるべきとかそういう意見ではなく、内廷費から出すべきだという意見を示されたということなのですが、先ほど「大嘗祭反対」で検索してみたところ、投稿時期は秋篠宮殿下の発言以降でないものの、1位で「終わりにしよう天皇制集会」の人や3位で「大嘗祭は悪魔崇拝そのものだ」の人がひっかかって、安倍政権及び皇室に強く反発している人と立場が近いと誤認されかねない懸念はあると思います。安倍政権に対してと同様、皇室に強く反発する自由はあって(ノールールという訳でもないんですが)、そうした方々の勢力はあまり強くはないようであり、皇室もその意味で懸念はしていないと思いますが、そういう絶対的に相容れない立場を保持する方々がニコニコ近づいてくる危険性はあると思います。

ただ、秋篠宮殿下は記事によると、「平成の「大嘗祭」の時から同じ考えだったということで、今回もこうした考えを宮内庁の長官などに伝えてきた」のだそうです。皇室の祭事ですから、やはり懸念等ない方が望ましく、記事によると宮内庁は殿下に説明してきたとしていますが、結果的に殿下の懸念は払拭されなかったようで、残念なところだと思います。

大嘗祭に国費を支出するか内廷費で支出するかなんですが、平成30年度で3億2,400万円の内廷費の内、『週刊ダイアモンド 2016 9/17 36号』(ダイヤモンド社)(ウィキペディア「内廷費」(2018/12/03)から孫引き)によると、宮中祭祀の関連は8%程度を占めるに過ぎないようです。ですから、内廷費でやる大嘗祭とは予算面で宮中内でやる新嘗祭同様の小規模ものにならざるを得ず、明治以来地方で行われた明治天皇・大正天皇・昭和天皇・今上天皇の全ての大嘗祭を受け継がない異例のものになってしまい、到底時の政府が受け入れることが困難な厳しい意見だと考えられます。仮に戦前のものを別として方針転換するなら今上天皇の時だったと思う訳です(その時も秋篠宮殿下は懸念を伝えられ、今に至るまで懸念は払拭されなかったようです)。

今は即位の礼が国事行為で、大嘗祭が国事行為にあたらない内廷費以外の臨時予算でとりおこなわれており、位置づけが曖昧なようです。ただ、大嘗祭とは「天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭」であり、儀式の性質上、新嘗祭より大規模に行う必要性があると考えられます。律令制が整備されて以降、一世一代の践祚大嘗祭は大切にされてきた儀式のようです(戦乱で皇室が困難な時に221年間行われなかった時期もあるようです)。つまり、大嘗祭を内廷費で行うとは、事実上、新嘗祭の規模にまで縮小させるということのようであり、これまでの伝統を引き継がない一種革命的な考え方だということになります。ですから、天皇制廃止を訴える革新派に近い立場に結果的になってしまう訳です。

だとしたら、大嘗祭を即位の礼に連動した国事行為にして公費を支出した方が話が分かり易い訳ですが、宮中祭祀である新嘗祭は内廷費で行われているでしょうから、その性格が問題になってくるんだろうと思います。新嘗祭はそもそも五穀の収穫を祝う風習ですから、これまで違和感があった人はあまりいなかったかもしれませんが、炭水化物をとらない風潮もある昨今では考えられてもいい問題なのかもしれません。いずれにせよ、現政権はこれまで通り、その辺は曖昧にやりたいと考えられます。秋篠宮殿下はその宗教性を指摘されており、それは理解できるところもあるのですが、宗教性を強く問題にする一派は、天皇制自体を否定する一派とほぼ同じであり、衣冠束帯姿にまでクレームをいれているらしい(大嘗祭が合憲・合法であることの法的論拠(協和協会)参照)ことに注意された方が良いのではないかと思います。原理的に宗教性を排除したら、天皇制自体、存続が難しくなります。記紀に皇室は皇祖神の血を受け継ぐと書かれており、記紀を否定したら系譜すら分からなくなり、皇室存続の根拠すら怪しくなってしまい、実際に大嘗祭に否定的な意見を煽動する方々は天皇制廃止論者だったりする訳です。

宗教性に関して言えば、日本において信教の自由について誤解があるようです。例えばアメリカにおいて信教の自由は認められ、政教分離が成されていますが(戦後日本もアメリカ型です)、これは国から宗教性を排除することを全く意味しません。例えば、大統領就任式に聖書は使われますし、アーリントン墓地は無宗教の施設ではなく、無宗教すら含むあらゆる宗教を許容する施設です。また世界にはアメリカ型の政教分離を行わず、信教の自由を保障しながら、国教を定めるイギリスや北欧のような国も存在します。そもそも宗教を否定するなら、死体はゴミ袋に入れて捨てておけとなります。人の死は避けられず、よって国家から宗教性を完全に排除するなんてことはありそうにもありません。

程度問題はありますが、筆者はこの問題に関して特に変えなくてもいいんじゃないかと思っています。あるいはどちらかと言えば、公費を出すなら国事行為と位置づけた方が分かりやすくて良いし、問題もないと思っています。即位に連動した五穀豊穣の大きな願いをワザワザ国に止めさせる必要があるんでしょうか。それを「無駄」と判断するのはあまりにもラディカルに過ぎるでしょう。宗教性と不可分とも言える皇室の存続は寧ろ憲法で保障されているとも言えます。天皇制廃止を主張する方というのは原理的には改憲主義者かテロリストだと言えますが、何故か憲法を変えさせない護憲派として活動したきたという戦後日本の奇観があって、そういう意味不明の迷走を終わらせるのが戦後レジームの脱却ではないかと自分は思っています。


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