観測にまつわる問題

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安濃津と焼津

2019-02-05 07:55:54 | 日本地理観光
ウィキペディア「双方中方墳.png」カイツブリ氏作成

安濃津(三重県・伊勢)は日本の主要港である三津七湊(室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である廻船式目による)の一つとして栄えたようです。三津は他に博多・堺(中国の史書では坊津)ですが、安濃津が並び称されるのは現代の観点では違和感があります。安濃津は平安京への近さから、その外港・東国への玄関口として栄えてきた歴史があるようですが(東国に向かうメインルートは現代から見て、近江~美濃~尾張~遠江~駿河の陸路のように思えるのですが、安濃津経由の海路が栄えていたと仮定しないと史書や考古学に見る安濃津の繁栄が理解できません)、平安京~安濃津が北回り(近江回り)よりやや距離的に近いにせよ、何故安濃津かに関して、恐らく大和の外港として伊勢(志摩)が機能してきたことを考慮しないと、理解できないんじゃないかと思います。というのも、近江や美濃・尾張といった国は結構な大国ですし(通り道で用も足せます)、太平洋岸の港が栄えていたという話はあまり聞かないからです。大和の方が平安京より南にありますから、伊勢(志摩)との繋がりがよりあったのは間違いないように思います。記紀は奈良時代であり、伊勢神宮との絡みもあるはずです。関東の上総~下総(共に千葉県)は南が上で三浦半島から上総に渡るのがメインルートだったことが知られますが、古代ほど海路の比重が高かったような感じが無くもありません。魏志倭人伝でも北九州から投馬国(吉備か?)~邪馬台国(考古学では大和が有力との見方が強固なようです)と水行していることも、こうした見方を裏付けるものと言えるかもしれません。瀬戸内海ルートや九州の港は分かり易いですが、今では分かり難くなった東国ルートが存在し、その起点が安濃津だったのでしょう。もうひとつ見え難くなったルートが北陸ルートでこれは七湊に当たるんだろうと思いますが、北陸ルートの方は北前船との絡みでも注目があるように思います(江戸時代に大阪と江戸も海路で繋がっていたと思いますが、地理的に伊勢湾を飛ばして繋いでいたようです)。

安濃津は明応の大地震・津波(1498年)で壊滅的な被害を受けて廃れたとされますが、これにはやや疑問がないではありません。三津七湊は廻船式目の用語のようですが、北条義時制定の旨の奥書があるもののこれは後世の仮託で、実際には室町時代(1336年~1573年)末期に瀬戸内の海賊衆/海運業者の慣習法を纏めたものだとされます。これに安濃津や七湊が十大港湾として記載されているなら、やはり相当栄えていたはずですが、既に滅びて用が無くなった港を三大港湾として評価するでしょうか?この疑問を解消するには、廻船式目の成立を明応の大地震前とするか、北条義時(鎌倉幕府)の時代の内容が反映されていると考えるか、明応の大地震後も復興してそれなりに栄えていたと見るしかないんじゃないかと思います。いずれか現時点でよく分からないところはありますが、筆者は現時点では、明応大地震後にそれなりに復興したのではないかと思っています。必要だから港があるのであって、一度壊滅したとして、京・畿内から東国へ向かうルートの必要性が無くなった訳ではなく、伊勢に海路が必要なくなった訳でもありません(ただ、安濃津だけでなく、明応大地震ではルート上の多くの港が壊滅したとは思います)。明応地震後、江戸幕府開府まで100年の時を経ており、これは決して短い期間と言えません。大阪を拠点とした豊臣政権以降は伊勢の海路がそれほどは重要だったようには思えないところもありますが、大和を拠点とし畿内を席巻した松永秀久は伊勢と結構関係があるんじゃないかと思えますし(松永久秀のルーツは伊勢にあった!? 歴史 風説ながれ旅/個人ブログ)、織田氏の拠点として津島港は有名ですが、濃尾平野の物資を津島港に集めて向かう先は東国しかなかったはずで(さすがに畿内には陸路で運ぶと思えます)、伊勢・安濃津はその途上にあるとも言え、また六角征伐(長享・延徳の乱)は明応地震前ですが、乱後も南近江の六角氏は幕府や細川京兆家の内紛に巻き込まれる関係にあって、乱の時には伊勢の北畠氏の活躍もあり、東国への玄関口としての伊勢の重要性は依然としてあったように思われ、更には安土~甲賀~安濃津ルートも考えられますし、信長が伊賀や伊勢との戦争に苦労したことからも力を持っていたのは間違いなく、その背景に交易があったように思えます。安濃津というか伊勢の港の重要性が相対的に落ちたのは、江戸時代に大阪~江戸ルートが紀伊半島回りになり、参勤交代ルートが整備され確立してからだったと、ここでは推測しておきます。

江戸時代には安濃津藩が置かれ、三重県の前身に安濃津県があり、三重県の県庁所在地津市の津は要は安濃津です。三重県の歴史を知らない人間から見ると、伊勢=神宮・伊勢市ではないのかというイメージはありますが、伊勢の拠点として歴史的に最も重要だったのは(畿内の東国に向けた外港としての)安濃津であり、ゆえに重んじられてきた事情があるのかもしれません。

安濃津(三重県埋蔵文化財調査報告147 1997年 独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧よりダウンロード)によると、安濃津は安濃(あのう)川河口に位置し、安濃郡は安濃川が形成した肥沃な土壌の影響で古来より高い文化を形成してきたようです。「あのう」とは何かですが、大和(奈良県)吉野の賀名生(あのう)(元は穴生(あなふ))や近江(滋賀県)の比叡山山麓の石工集団として知られる穴太(あのう)衆とも関係のある用語で、穴(あな)ですから鉱山と関係しているような気がします。更に調べてみると筑豊炭田で知られる北九州にも穴生(あのお)という地名があります(全天候型のドーム式多目的グラウンドとして穴生ドームも)。これに関連して古代史を調べた方がいて、古事記に垂仁天皇の子伊許婆夜和気(いこばやわけ)王は沙本(さほ)の穴太部の別の祖なり、古代の軍事氏族物部の根拠地河内の八尾市宮町には穴太神社、聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、聖徳太子の叔父が穴穂部皇子(あなほべのみこ)、京都府亀岡市曽我部町穴太東辻に穴太寺(穴太部の菩提寺だそうで、近くに大谷鉱山。小田治「地名を掘る」による)と古代において穴太(あのう)の存在感が大きいことが分かってきます(こころ旅 その3 スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語)(一般に朝鮮半島の安羅(あら)との関係に言及されてきたようですが、牽強付会のように思います。日本では朝鮮半島南部は任那(みまな)でしたし、古代において高麗郡、百済王神社、新羅神社とか朝鮮半島との関係を隠した形跡がありません。素直に穴(アナ)は和語であると考えるべきでしょう)。あるいは安濃川上流に鉱山があった可能性もあると思いますが、それはともかく、「あのう」は日本的な珍しくはない地名のひとつではあるんだろうと思います。伊勢の中でも特に安濃津が最初に選ばれた経緯は定かではないと思いますが、安濃川西岸に5世紀前半築造と推定される珍しい双方中方墳(吉備(岡山県)の楯築墳丘墓が2世紀後半~3世紀前半建造の日本最大級の「弥生墳丘墓」とされ双方中方墳なのだそうです。吉備は考古学的に古墳時代の開始に関係あるとも言われる瀬戸内海の雄です。伊勢に関連があるとして不思議はありません)、の明合(あけあい)古墳(古墳マップ)が明合古墳群の主墳として存在しており、古代に有力な王が安濃郡に存在していた時期はあるんだろうと思います(他に池の谷古墳が安濃津からも眺望できる位置に造られた全長約90mの前方後円墳なのだそうです)(朝鮮系の土器も出土し古代らしく渡来系の影響がないとまでは言いません)。

安濃津は関ヶ原の戦いの前哨戦安濃津城の戦いでも知られるようです。徳川家康の会津征伐に従軍していた伊勢の諸将は西軍決起後に急遽東軍として伊勢に帰国しますが、安濃津城に立て籠もったものの、西軍の大軍に攻められ結局降伏、助命された諸将の一人冨田信高は関ヶ原の戦い後給料安堵の上加増され、その後伊予宇和島城に転封、これが伊予宇和島藩の始まりのようです(後に改易されますが、大久保長安事件に連座したとも言われるようです)。津藩は伊予今治城から転封してきた藤堂高虎に引き継がれ、以降江戸時代を通じて津藩は藤堂家が治めるところになったようです。藤堂高虎は近江犬上郡(彦根付近)藤堂村の没落した小領主の家系に生まれますが、最終的に徳川家の重臣まで出世しますが、築城の名人として知られます。穴太衆や国友村の鉄砲もそうですが、当時の近江は技術的先進地でもあり、高虎も技術・実力を活かして成り上がったところがあるのでしょう。藤堂高虎の傑作とされる今治城は日本三大水城(みずき/他に高松城、豊前(大分県・福岡県)の中津城)として知られる名城です。藤堂高虎のデビュー作は宇和島城で(板島)丸串城から改名したのが藤堂高虎であるようです。当初は海城で島と言えるようです(他に板島(亀次)城もありますが、当地は宇和郡でもあり、命名の由来は宇和郡の島ということになるんでしょう)。伊勢と海路は想像以上に関係が深いことが分かってきましたが、であるがゆえに四国の一角の伊予とも繋がりがあるんだろうと思います。

さて、安濃津が畿内から東国に向かう外港として重要だったとして、港はひとつでは成り立ちません。対する港が必ずあったはずです。勿論室町時代は貨幣が普及していたでしょうから、商人がいる港が存在したんだろうと思います(濃尾平野の物資を集積する津島(商人)を押さえたことで織田氏が強かったとも言われます)。北陸道に七湊があったように、(津島から濃尾平野とも繋がる)安濃津を起点に東国(関東)に向かう東海道に栄えた港はあったのでしょうが、陸路も同時に栄えていたのか、途上に有名な港の名前がないようです。推測ですが、安濃津が安濃川河口にあるように、内陸水運重視で河口の港が栄えていた可能性はあると思います。目的地は関東で江戸湾か銚子あたりが終点だと言えるのかもしれません。利根川は江戸時代に東遷されて鬼怒川と合流しましたが、鬼怒川は元々毛野川といって、毛野地域(上野(群馬)及び下野(栃木))を流れる川の代表例だったようですから、東遷以前も河口の銚子は内陸水運の重要拠点だったんじゃないかと思います。ただ、古代においては地方に貨幣が普及しておらず、古代道路(官道)も自然に衰退していますから、地方で商売等基本的には成り立たず、貢物を運搬するというような形で所謂港町というほどのものは基本的には無かったかもしれません。鎌倉時代の鎌倉なんかは発達しており、安濃津は海路で重要だったかもしれませんが。そういう訳であえて安濃津に対する港を想定すると、河川舟運を考えると、近代東海地方では富士川(駿河)、安倍川(駿河)、大井川(駿遠)、天竜川(遠江)、豊川(三河)、矢作川(三河)、庄内川(濃尾平野)、木曽川(濃尾平野)、長良川(濃尾平野)、宮川(伊勢)になるようです。宮川なんかは伊勢湾を横断するルート上にあって重要そうですね(その裏が志摩なのでしょう。上総の裏が安房であるように)。富士川は甲斐と結び、甲斐は古代、東海道に属します。ここにない河口の港で気になるのは沼津でしょうか。狩野(かの)川を遡ると伊豆国府に辿りつきます。関東の港をひとつ上げると三浦です。鎌倉時代の三浦氏の活躍は知られますが、元は御浦(みうら)で浦賀水道を渡るための重要な中継地となる港だったはずです。古代に亀卜の風習がありましたが、三浦半島で遺物が出土しているようです。風や潮・天気に関連して占いをやっていたのでしょう。海岸の集落を浦といいますが、恐らく重要な浦だったから御浦という訳です(表記する漢字が変わったりブレたりすることは歴史的に珍しくはありません)。まぁ結局、安濃津に対する栄えた港というのもよくは分からないのですが(鎌倉時代の鎌倉ぐらいでしょうか)、最後にひとつだけ東海道上の気になる港「焼津」を考察しておきます。

焼津は記紀神話ヤマトタケルの東征伝説で知られますが、焼津は神奈川(相模)ではないかという説もネット上等で流布しているようです。これは古事記に場所が相武国とあることに由来するようですが、筆者は通説通り駿河(静岡県)の焼津でいいんだろうと思います。まず正史である日本書記に駿河とあるのですから、それを優先すべきなのですが、相武国とは相模国の誤記かもしれませんし、相模と武蔵をあわせて言っているのかもしれませんが、とにかくそんな国は存在しないというのは致命的です。古くは越の国が出羽まで含んでいましたから、駿河が相模をも含んでいた可能性はあるかもしれず、その場合は相模でもおかしくはないのですが、ヤマトタケルの活躍で関東をイメージした誤伝のような気はしますし、それでも駿河が相模を含んでいたというのも完全に想像であり、史料的根拠が無いことに変わりはありません。焼津あたりはそう大きな平野ではなく、一見大勢力がいたかな?と思ってしまうあたりが逆に伝説をそのまま伝えたような感じで信憑性があるような気がするんですよね。正史に載せたということはそれだけの根拠があったということもであると思います。万葉集では駿河の地名として焼津邊、焼津神社や駿河に草薙神社もありますし、天然ガスを産する(静岡県相良地域におけるガスの地球化学 - J-Stage)から「ヤキツ」という説も説得力があります(ウィキペディア「焼津神社」2019/2/5参照。焼津市史等による)。津は分かるとして、普通じゃ焼き(ヤキ)の意味が分かりません。ヤマトタケルの焼津伝説は地名ありきの地名説話と考えられなくもないんですよね(ヤマトタケルと後に呼ばれる人が焼津あたりで活躍しなかったと主張するつもりはありません)。焼津神社では中世に入江大明神を祭っていたそうですが、津という地名でも分かるように当地に重要な港があったんだろうと考えられます。焼津神社付近には、古墳時代に宮之腰遺跡があるんだそうです。

ただ、大井川は山深く、焼津あたりはそう大きな平野でもありません。とりわけ重要そうな港が存在すると言われても、中々イメージが湧かない訳です(だからこそ古事記が別の話を伝えた可能性が高いと思われます。相模が事実なら日本書記も相模とすればいいだけで、わざわざ正史が不審な話を採用する理由も特にないと考えられます)。正史に書いているからそうなのだとしてもいいのですが、ここであえて焼津が重要な港であった理由を考察してみたいと思います。その前に伊豆半島の下田津ですが、江戸時代に江戸―大阪間の風待ち湊として特に栄えたようです(「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番))。何故下田かと言えば、駿河湾を横断するためでしょうが、「首都」江戸から見て最後の風待ち湊だったから、下田だったのでしょう。しかしながら逆側から見て最後の風待ち湊があっていいはずです。それが畿内が首都地域の古代においては焼津だったのではないかと思います。駿河も広いですが、特に焼津である理由はその北側が大崩海岸であることによると思います。大崩海岸は急崖が続き、その名の通り地名は崩落が多いことに由来するようです。大崩海岸を避けて更に北側まで行ってしまうと、駿河湾をカットして時短を狙うことが出来ません。富士川や沼津も重要で、勿論その北側に向かうこともあったでしょうが、関東という大きな存在を考えると、焼津からの横断がメインルートと考えてもよいと思います。特に貨幣経済が発達しない古代においては、特に一々中継しなければならない重要港はなかったようにも思えます。そういう訳で焼津あたりに関東に向かう重要港があって、天然ガスを産し時々燃えるような珍しい現象があったから焼津(ヤキヅ)。重要な土地だったからヤマトタケルが活躍し神社が出来たと考えることが出来ます。

現代においては風待ちもありませんし、航続距離が伸びていることから、物流の拠点としての港は大きな港に集約され、中々伊勢(三重)や駿河(静岡)の港も難しいところはあるかもしれません。ですが、特に伊勢は日本の宗教(神道)において極めて重要ですし、かつての繁栄は観光・文化面で活かしていけるんじゃないかと思います。リニアの駅も三重に出来ますし、そこから伊勢神宮に向かう途中に県庁所在地である津(安濃津)は存在します。単なる通過点にするのもどうかですし、今はクルーズ観光の流れもあります。東海地方~東京クルーズも意外と整備すればポテンシャルはあるのかもしれません。三重県と言えば伊賀で忍者も想起されますが、織田信長の有力家臣(関東御取次役を命じられるまで出世)滝川一益の根拠地が伊勢(長島)でこれまた忍者で有名な甲賀(滋賀)の出身という説(他に伊勢説・志摩説)もあるようです。忍者は修験道と関係あるとも言われ、神宮で有名な三重県らしい売りになるのかもしれません(近江もそうですが、首都地域に近いからこそ、先進的な技術が発達したようにも思えます)。地方創生に独自の売りは必要で、それが三重の場合、ひとつの柱として文化・観光になるんだろうと思います。


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1 コメント

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十楽の津、大湊 (管理人)
2019-03-24 08:30:10
桑名市の十楽の津がかつて栄えていたということを知ったのですが、それで安濃津との関連が気になりました。検索で見つけたページでは「16世紀初頭には桑名湊、大湊はそれら問屋衆による自治都市化が進められ堺、博多と並ぶ自由交易都市へと成長し桑名湊は「十楽の津」と呼ばれ」(http://hya34.sakura.ne.jp/musasinannbu/kaizyoukoutuu/kuwanaminato.html 中世桑名湊)ということですから、明応7年8月25日(1498年9月11日)に発生した明応の大地震・津波で安濃津が廃れた後に桑名の湊と伊勢市の大湊が栄えたという感じでいいのかもしれません。

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