観測にまつわる問題

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七湊(京~北陸~みちのく~蝦夷)

2019-02-06 00:15:51 | 日本地理観光
十三湖(らけ)1.jpg(ウィキペディア 十三金氏)

七湊って北陸~出羽・陸奥ルートのようです。京から近江経由で北陸からは海路での交易が結構盛んだったんでしょうね。太平洋岸でも安濃津からの交易はあったようですが。同じ日本海側でも(それぞれ山陽との結びつきが強く)山陰方面は陸路に比重もあったかもしれません。以下、ウィキペディア「三津七湊」(2019/2/6)よりコピペ。前回の記事で触れましたが、三津七湊は瀬戸内海賊衆だか海運業者の評価のようです。

三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口
本吉湊(美川港) - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市)、手取川河口
輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口
岩瀬湊 - 越中国上新川郡(富山県富山市)、神通川河口
今町湊(直江津) - 越後国中頸城郡(新潟県上越市)、関川河口
土崎湊(秋田湊) - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口
十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口

三國湊レトロ(福井県坂井市観光ガイド)

>朝倉氏の後福井を治めた「柴田勝家」も水運を重視し足羽川近くに居城「北の庄城」を構え、荷揚げ用の港を設けていました。

北の庄城址・柴田公園のご案内(福井市)

>九十九橋(つくもばし)は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋ですが、江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。
>展示されている鎖は、北陸道が九頭竜川と交わるところに、柴田勝家公が天正6年(1578)に渡したと伝えられる舟橋で用いられていたものです。

織田家の重臣で明智光秀滅亡後に豊臣秀吉に対抗する勢力のリーダーだった北陸の雄柴田勝家の居城として知られる北の庄城ですが、安土城にも匹敵したとも言われる巨城だったようで、九頭竜川支流の足羽川(あすわがわ)とその支流の吉野川の合流地点に築かれており、足羽川の水運を利用すると共に、天然の堀として利用する意図があったのではないかと思われます。※足羽川桜並木が一つ一つの桜が大木であり、日本一のスケールの桜並木として知られるようです。

織豊系城郭で言えば、他に天空の城として知られる越前大野城(城主は金森長近。後に飛騨一国を与えられた)があるようですが、こちらも「「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町」を造り、「二重の堀と川をつないで城を守っていた」ようで、九頭竜川の水運に関係しているのではないかと思います。北の庄城もそうですが、これは意図して行われ、津島の商人・濃尾平野の水運を押さえて成長した織田家のやり方を踏襲しているんだろうと思います。豊臣秀吉の大阪城も水運と関係あったでしょう。時代としては織田家の支配以前にはなりますが、この内陸水運が意識された河口の重要拠点が三国湊という訳です。

>戦国時代の武将「朝倉義景」が居城を構えた「一乗谷朝倉氏遺跡」内の庭園跡には、船によって運ばれてきた東尋坊周辺の岩が庭石として残っています。

一乗谷は足羽川近くの支流にあり、これまた水運と関係が深いんだろうと思います。現代日本の観点では、河川交通はまず意識されることはありませんが、歴史的には内陸水運の占める地位は決して低くはなかったことを理解しないと当時の事情は中々分からないのかもしれません。

廻船業が福井県(越前・若狭)で始まったのは鎌倉時代のようです。港は敦賀津・小浜津・三国湊。九頭竜川擁する越前平野(福井平野)の三国湊が七湊の一角であるのは当然と言えば当然だと思いますが、終着点のはずの敦賀津と小浜津が数えられてない不思議はありますね。共に陸路で湖西ルートから京のような気がしますが、ほぼ等距離で分散していたでしょうか。それとも単に海路の終着点(京への通過点)に過ぎず、生産が少なかったからか。廻船というからには、商売上の観点からも往復で物資を積むのが前提だったようにも思えます。そう考えると、小浜津周辺・敦賀津周辺で積み込んだり、売りさばいたりする物資が少なかったと考えられるのかもしれません。

また、敦賀は越前であり、七湊は国ごとに一つ選んだのであって、北陸から始まる日本海ルートの七大港湾ではない可能性もあると思います。七湊に敦賀より小規模な港があるとしても、越前の代表に三国湊を選んだから、敦賀津を選ばなかったという可能性です。小浜津は若狭で若狭は北陸道に含まれますが、比較的小規模です。佐渡国の港も七湊に選ばれていません。現代的観点で七湊に山形庄内の港が選ばれていないのが不審ですが、出羽の代表を土崎湊としたと考えることも出来そうです。

美川港(旧本吉湊)(白山手取川ジオパーク)

>北前船の寄港地である旧本吉港。加賀地方では、海流などの影響を受けて海岸砂丘が発達し、港湾として利用できる場所は入江や潟湖に限定される。本吉は中世頃より港湾として整備されてきた。

手取川は石川の名で呼ばれていた時期があり、石川郡・石川県の語源であるようです。白山に源を発する加賀国を代表する大河(急流)ですが、加賀は一揆が支配する「百姓の持ちたる国」でしたし、九頭竜川のような広がりはなく、従って内陸水運の比重はやや低く、港湾として利用できる場所が本吉だったという意味合いが強く陸路も利用された可能性があります。他に加賀国の港として金沢御坊が近くの台地にある犀川河口の宮腰(大野庄湊)も栄えていたようですし、梯川河口で流域に加賀国府(中世には百姓の持ちたる国でしたが)を擁する安宅も有力だった可能性はあると思います。それでもあえて本吉湊だったとすれば、手取川上流の白山との関係なのでしょうが(序章 白山本宮の勢威篇 Vol.2)、白山本宮が在地の領主として権勢を誇っていたのは室町時代中頃までのようです。室町後期以降は百姓持ちたる国で中心が金沢に移り荒廃したようですから、廻船式目の室町末期にまとめた説もどうなんだろうという気がしないでもありません。あるいは流路の変更とか何らかの理由を考えてみましたが、やはりよく分かりません。

比楽湊・本吉湊(美川漁港)の「みなと文化」 (港別みなと文化アーカイブス)

古代には付近の比楽湊が栄えたようですが、流路の変更で今湊が使われるようになり、その後本吉湊の名が見られるようになったようです。中世に三津七湊の名が見られるように繁栄したようですが、その繁栄が具体的に知られるのは江戸時代の北前船が活躍した時期になるようです。

次に輪島湊ですが、能登半島沖は海の難所であり、寄港地・避難港として適していたようです(加賀と越中の中間の位置からも港としての機能面で選ばれたように思えます)。北前船でも栄えたとか。小屋湊とも。能登国の中心地は富山湾、七尾湾に面する七尾ですが、富山湾の代表的港は越中の岩瀬湊となるようです。

次の岩瀬湊は神通川河口ですが、舟運で飛騨国の特産物も運ばれたようです(富山市岩瀬 富山県:歴史・観光・見所)。神通川流域の中世富山城は管領畠山氏の譜代の家臣で越中等の守護代を務めた神保氏の長職(ながもと)が築いたとされる城ですが、発掘調査により室町時代初期に遡る遺構が見つかっているようです。北陸街道と飛騨街道と大河川が交わる交通の要衝であり(富山城について考える(学芸員の小部屋)の地図参照。元は古川知明氏(富山市埋蔵文化財センター)の資料)、中世越中の中心地のひとつだったのでしょう。中世越中においては他に射水郡放生津(ほうじょうづ)の越中公方(1493年~1499年)が注目されます。明応の政変で足利義材が京を脱出し、越中守護代神保長誠の放生津城に入り、後に越前に移るまで御所がありました。こちらの場所は津(港)ではあったものの、内陸水運にはあまり関係なかったよう。富山国府があった富山県西部の港でないもうひとつの理由は陸路で加賀に近かったからかもしれません。能登半島を海路で回るのが大変です。

今町湊(直江津)(直江津(府内湊) 戦国日本の津々浦々)は越後国府が置かれた越後の中心地。付近は越後でもそう大きな平野と言えませんが、京に近く、信濃国と直線距離で近いことが注目されます。戦国大名として著名な上杉氏の拠点でもあります。ここまでが北陸道における東西の境界のようです。(越後)府内湊とも。飛騨国府に神通川・飛騨街道で繋がる岩瀬湊もそうですが、普通に交通の要衝であることが港にとって重要なんでしょうね。信濃川・阿賀野川河口付近の三ヶ津「新潟、蒲原、沼垂」も栄えた港ではあったようです。柏崎も越後中部の鵜川、鯖石川河口部に位置する港町で、越後西部と南北魚沼郡、上野国を結ぶ街道の要衝として繁栄したようです。

土崎湊(土崎湊の繁栄 秋田市公式サイト)は雄物川河口で安東氏が湊城を築いています。湊安東氏は蝦夷沙汰を担い、蝦夷とも交易していたようです。ルイス・フロイスの書簡に出羽の国の大いなる町秋田には交易をするものが多いと書かれたとか。出土した物資で注目されるのは12~15世紀末の石川県珠洲市付近(能登国)の珠洲焼(すずやき)でしょうか。出羽南部の最上川下流の庄内地方の酒田湊も栄えていたようです。安東氏の拠点が置かれたこともあったようですし、より上流の最上郡に羽州探題の最上氏も存在しました。ただ、大宝寺城(鶴岡市)に大宝寺氏がいて、勢力がやや分散していたかもしれません。当時から庄内地方に中心がふたつあったでしょうか。

最後の十三湊(とさみなと)も蝦夷沙汰(蝦夷管領)の安東氏の港。国内外の陶磁器が出土し、北方の海産物をも扱う等、かなり繁栄したようです(【中世・十三】青森県奥津軽観光サイト)(【最果ての国際貿易港?】謎の豪族・安東氏ゆかりの地「幻の中世都市」十三湊 ユカリノ)。十三湖(当時は内海だったそう)がある津軽郡は陸奥国。土崎湊や十三湊は日本の北の境界とも言える交易拠点だったようで、陶磁器等も出土し、直江津以西とはまた違った感じはあったのかもしれません。一般に貿易港は栄えます。十三湊の繁栄は15世紀半ばまでのようですから、やはり室町時代末期の事情を廻船式目は正確に反映した訳ではなさそうです。

こうして見ると瀬戸内の海運業者が必ずしも北陸から東北に至る最も繁栄している湊を七つ選んだという訳ではやはりないのかもしれません。ただ、京と繋がる北陸を起点にして、その生産力を背景に日本海交易が発達し、その終着点が北の異民族との交易がある土崎湊や十三湊であったとは言えるんじゃないかとは思います。また、江戸時代に栄えた北前船西廻海運の前身と見ることも出来ますね。


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