自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

”経世済民”で世界に誇れる日本のリーダー・保科正之(3代将軍家光の異母弟)

2016-11-20 16:32:42 | 自然と人為

 BS歴史館 今いてほしい!?日本を変えたリーダーたち②
 会津藩主・保科正之~知られざる名君”安心の世”を創る~(動画)

 もしも名君 保科正之公がいなかったら、徳川幕府は4代家綱で危なかったかも? それだけでなく、日本人の体質が変わっていたかも? と言われる程、リーダーによって歴史が変わるだけでなく、集団の体質までも変わる。1611年生まれの保科正之は、1631年に高遠藩3万石、1636年に山形藩20万石、1643年には会津藩23万石藩主となるが、会津藩では「餓死者が出るのは、政治の責任」として藩が米を備蓄して凶作や飢饉に備える「社倉制度」や、誰でも無料で医者に診てもらえる制度を実施し、90歳以上の老人には「養老扶持」として掛け金なしの生涯年金を支給した。
 そして幕府の副将軍格として1657年の明暦の大火により失った民の命と消失した町の復興のために、「両国橋は架けるが、天守閣は再建しない」ことに象徴されるように、藩や幕府は民によって支えられていることを深く知る保科正之は、本心から民のことを考えた。リーダーが正直だから民も正直になり、善政を敷くから民も善人になる。

 保科正之を理解するには、徳川家康から知っておくのが良いと思う。徳川家康は織田信長、豊臣秀吉を経て内戦を終結させたが、その過程で豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)の後、「三河、遠州、駿河、甲斐、信濃から関東への国替え」という地政学的な戦略を選択した。
 また、戦国の世では勝者と敗者の複雑な人間関係が生まれ、それを治めていくことが内戦のない平和な時代を築いていくためには必須であった。この2点が徳川家康の特徴であるとともに、保科正之の誕生と成長にも大きく影響していると思う。江戸への国替えの状況については今後の研究の進展を待ちたいが、明暦の大火で10万人の死者が出たとされていることからすれば、何もない湿地帯と伝えられているイメージよりは伊達の仙台に匹敵する活発な町ではなかったかと思う。
 
 戦国時代、敗者の男の子は処分されたが、女の子は生き延びて女の社会で政治にも影響を与えている。今の時代も男は仕事だと大きな顔をしているが、男を支えているのは女であり、その男の時代も終わりつつあるように思うが・・・。信長の妹、お市の方の娘、お茶々、お江、お初の3姉妹は有名だが、男尊女卑の日本においても権力者の娘はその子供を通して立場が尊重されたようだ。政略結婚等で複雑に絡み合った人間模様の中で、女性はそれぞれの資質を活かして政治の裏方の仕事をしていた。世界に誇れる日本のリーダー・保科正之が生まれ育ったのも、素晴らしい日本の女性達がいたからだと思う。

 徳川家康は20人以上もいた妻・側室から生涯で11男5女の子宝であった。家康の最初の正室・築山殿は今川義元の姪っ子で長男・信康とともに、信康の正室・徳姫の父・織田信長から謀反の疑いがかけられ処分されている。次男秀康は秀吉の養子(人質)に出されていたが、お茶々に子が出来たので関東の結城家に養子に出され、関ヶ原の戦いの後に家康によって越前国(今の福井県)に68万石の領地を与えられている。3男秀忠は家康の側室・西郷局の子であるが、母は28歳の若さで亡くなっているので、大乳母殿を実質的に母と慕って育ったと思う。

 保科正之の実母お静は、その秀忠の乳母の下女であった。お静の父は北条氏直の家臣/神尾伊予栄加であったが、秀吉の小田原攻めで敗れたため、浪人して一家が江戸に出ていたとされている。なお、北条氏直は小田原北条家最後の当主であり、徳川家康の娘・督姫は氏直に嫁いでいる。戦国時代の複雑な親戚関係の中で、秀忠は自分の乳母に仕えていた侍女の、目鼻立ちが整い、しかも非常に利発なお静に心を許し寵愛した。お静は懐妊するが嫉妬深い正室お江を怖れて大奥を下り、兄の神尾嘉右衛門の家で最初の子を堕胎する。しかし、秀忠は、お静のことを忘れられず再び大奥に呼び戻し、お静は再び秀忠の子を懐妊する。これも堕胎しようとしたが、「将軍様の御子を再度まで水と成し奉り候儀天罰恐ろし義」と弟の神尾才兵衛が大反対し、一族に累が及んでも、出産させることにし、その日の夜、姉婿/竹村助兵衛次俊 (神田白銀丁) 宅(貸家)に身を寄せた、とされている。

 一方、武田信玄の次女、見性院は家康に保護されて江戸城比丘尼屋敷に住まいを与えられていたが、見性院の姉は北条氏直の父、北条氏政の正妻であったことから大奥ではお静と交流があったと思われる。お静の再度の懐妊を知った見性院は妹/信松尼を呼び寄せ、家臣/有泉五兵衛夫婦を世話役として派遣し、胎児が安定するまで養生の世話役をさせる。将軍秀忠の4男として生まれた幸松(後の保科正之)は、姉婿/竹村助兵衛次俊 (神田白銀丁) 宅(貸家)よりも、この信松尼が八王子に建てた庵で生まれたと考える方が妥当だと思う。
 信松尼のもとで実母と共に育てられた幸松が3歳になると、見性院がお静とともに江戸城に引き取り、7歳になるとお静とともに高遠の保科正光に預けた。(7歳までの幸松の育ち方は、いろいろな解説からの推定だが、どのような方法にせよ見性院の世話は得ていたと思われる。)
 参考: 伊奈高遠の地が育てた 名君 保科正之 (拡大)
      武田信玄の娘に孫を託した家康の思惑
      会津藩祖保科正之と見性院(詳細)
      会津保科家の誕生は「見性院」のおかげ 
      特集 見性院
      見性院 - 会津への夢街道
      浄光院お静の生涯と保科正之
      歴史の不思議 見性院・お静の方・保科正之公


 幸松が7歳になると武田の忠臣「保科正光」の養子とされたため、実母お静もそれに伴って信濃の高遠城に移り住み、幸松を育てた。
 実母お静も見性院も欲のない女性であった。そのような他者に優しい女性に育てられたこと、天下の将軍でありながら本妻の怒りを恐れて認知をしなかった当時としては大変に誠実で思慮深い父を持つこと、家康の孫に産まれながら家臣に徹したこと、才能に優れ江戸城外で育ったこと等が「保科正之」を育てた、と私は思う。ことに高遠で農家の生活を身近に見ながら、多くの人々の声を聞きながら育ったことが、世界に誇れる「民を大切にし、民の安心の世」を創る”経世済民”のリーダーを生んだと思う。
 参考: 1) 保科正之公の略歴
      2) 保科正之(1)その生涯
      3) 歴史今昔・今なぜ保科正之公か! 高遠町歴史博物館 北原紀孝館長(2009)
      4) 将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方


 アイデアは固定観念からちょっとずれたところにある。あんまりずれ過ぎると、皆は採用しない。ちょっとずれたところにあるので、その考えはいろいろな面に影響を与えて一石二鳥、三鳥、四鳥にもなる。
 保科正之のアイデアは、藩の財政を支えている農民を大切にすることことを本気で考えることから生まれていた。鎌倉時代以来、武士は与えられた土地を一所懸命に守ることにより成立していた。しかし、会津藩主・保科正之は、それまで領主から土地を与える知行制から蔵米制に変更した。それは譜代を重要視した当時の常識に反する違法行為のようなのだったが、武士はこれに従い、能力によって仕事が与えられ、仕事も評価されるようになった。武断政治から文治政治へ、保科正之は時代を大きく変えた。「戦う集団」の武士から「人間の生きる規範」を示す武士への変化は、それまでの固定観念を大きくずらすものであったが、その変化は時代の要請でもあったと言えよう。
 参考: 近世の武士と知行
      会津藩の俸禄制度
      会津の歴史 江戸時代


家光と保科正之との関係
 3代将軍家光は乳母、「春日局」に育てられ、両親(秀忠・お江夫妻)は育てた忠長を愛したことから後継者争いが生まれたが、家康の裁定で長男家光が将軍となる。このことで家光は家康を尊敬した政治に力を入れ、家臣に徹した保科正之を信頼するようになる。保科正之は明暦の大火の際や後の復興に顕著な功績を上げているが、高遠城主となり江戸城に参内するのは21歳(1832年)であり、鎖国等の対外政策は家康を尊敬する家光とその重臣により進められたと思う。
南蛮貿易鎖国
 1549年のザビエルの来日以来、西日本ではキリスト教が拡がり、また宣教師のもたらすポルトガルとの南蛮貿易の利益もあって、特に西日本にキリシタン大名が出現した。「霊魂と胡椒」と言われたように、ポルトガルやスペインの東洋進出では宣教師の布教と南蛮貿易の利益は一体であった。
 1616年、家康が死去すると、その後の幕府はキリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策に急速に進め、同年に貿易港を平戸と長崎に限定した。さらに1624年にはスペイン船の来航を禁止した。なお、イギリスは1623年にオランダとの東南アジアでのアンボイナ事件で衝突して敗れたため、日本貿易からも撤退し、インド経営に専念するようになっていた。島原の乱を1638年に幕府が鎮圧した後(1639年)にポルトガル船の来航を禁止した最後の第5次鎖国令が布告されている。

 そして幕末、武装集団でなくなった武士団は「人間の生きる規範」を示す武士団に成長していただろうか?
BS歴史館 奇兵隊150年(動画)

初稿 2016.11.20

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