11月12日ソワレの観劇記です。
~あらすじ~
実話から生まれたいのちの寓話が今、語りかける。
ある南の島。
ガジュマルの木に逃げ込んだ兵士二人は、
敗戦に気づかず、二年間も孤独な戦争を続けた――
人間のあらゆる心情を巧みに演じ分け、観る者の心に深く刻みつける山西惇が、再び本土出身の"上官"を演じる。注目の新キャスト・松下洸平は、柔らかく、おおらかな存在感で島出身の"新兵"に挑む。歌手・普天間かおりをガジュマルに棲みつく精霊"語る女"に抜擢。琉歌に乗せて島の風を吹き込む。2016年、こまつ座版『木の上の軍隊』が新たに立ち上がる。
(こまつ座HPより)
2013年にこまつ座&ホリプロで初演された演目。今回はこまつ座の公演として紀伊国屋サザンシアターで上演され新兵と語る女のキャストを一新。じい的には今回の方が良かったかな~~何かストンと心に入ってくるものがありました。こまつ座の演目、特に戦争物というとサザンシアターという印象が根付いているせいかもしれませんがこういうのを観るならコクーンじゃないよねというところがあって 演出等々の違いはあった 正直言ってちょっと 他人事のように外側だけをなぞって観ていた初演の時の記憶が薄いので分からなかったのですがセットは同じだったかな……客席の配置はスタンダードなものに変わっていましたが(コクーンの時はステージ席っぽいエリアがあった)今回はドライで凝縮した空間で集中できたので物語の世界に入り込めました。
キャストのバランスも良かったですね~ 初演の時も決して悪くはなかったんだけど新兵役の藤原竜也くんの存在感や上手さが逆効果になっているというか悪くはないけど←しつこい(苦笑)何か違うんだよなぁと感じる部分があって……キャリアの長短は板の上に乗ってしまえば無関係なんだけど、今回はそこら辺が逆に松下洸平くんの初々しさが活きたというか、そのおかげで上官と新兵の関係性が良く見えていて多角的に様々なものが伝わったので良かったと思いました。「語る女」の役も前回の片平なぎささんから歌手の普天間かおりさんへ 立ち姿のスマートさという部分ではやっぱり片平なぎささんの方が上かなぁと思いましたが、今回の普天間かおりさんも大健闘!沖縄のDNAによって醸し出されているものがあるのかなぁ~~終盤、木の上で広がっていく基地を見ながら語る新兵と上官を木の下から見守り、木が発する言葉を代弁しているかのように歌う普天間さんの横顔にドキッ ウチナーンチュの本音に触れたような空気を感じました。。。
新兵と上官、、、うちなーとないちゃーの象徴なんですよね。もちろん単純にそれだけで語ることができるものではないんだけど……KYで(死語?!)屈託のない純粋で素朴な島出身の新兵。「何でそうゆうことをするのかねぇ、出来るのかねぇと変な気持ちがこみ上げてきます。命を懸けるということはでーじ凄いことと思うのですが、自分にとってはやっぱり不思議なことであり、そのようにありたいと願う一方、何でそうゆうことが出来るのかねぇと不思議な気持ちになる」と物凄~~く真っ当で至極普通の気持ちを上官にぶつける。これ、耳心地の良い沖縄のイントネーションで語られるセリフなんだけど、沖縄の人たちが置かれた複雑な立場と揺れ動く気持ちをズバッと言っているセリフでもあると思うのよね。でも国民や国という価値観にガチガチに縛られた上官には分からない。戦火の下で逃げ場を求めてガジュマルの木に向かう時に新兵は生き残っている仲間たちと共に行こうとするが、上官は自分が生き残るために誰も付いてくるなと追い払う。木の上の生活でアメリカ兵が落とした食料を受け入れる新兵に対して、人間じゃない奴らの食べ物なんてと拒む上官、それなのに戦争が終わった瞬間からその豊かな食糧を“食い漁り”ブクブクと太っていく上官と逆に病んで弱っていく新兵。思いっきり戦後の日本と沖縄そのものじゃない!!!何かね~~見ていて苦しかったです 自分たちのことを責められているようで辛かった それなら学術的に、政治的に、歴史的に、、、どれを当てはめてみても何が正しくて何が間違っているなんて言えないし、本土が全て間違いで沖縄が全部正しいのかと言うとそれも違うと思う。行き着くところに正しい答えも解決も存在しない。
「守られているものに怯え、怯えながらすがり、すがりながら憎み、憎みながら信じるんです……もう、ぐちゃぐちゃなんです」……新兵が吐き出したうちなーの本心。その複雑な心の機微は絶対に受け止めなければならないものだと思います。上官は木の上の生活の慰めに新兵から聞いた島の話(のどかな人間関係や緩やかな男女関係等々)をメモるんだけど、前のめりに興味を示しながらも←このこと自体は人としての純粋な好奇心だと思う どこか蔑視している感情が漂う……新兵が本当に心配して純粋な気持ちでアメリカ兵の残した食べ物を勧めるのにそこに裏があると思ってしまう上官
……もっと素直に対等に普通に向き合えば、、、凄く凄くもどかしいのよね。劇中に出てきた不理解という言葉。「無理解」とは違うのよね~~理解が存在しないのではなく理解を打ち消す。うちなーとないちゃーの関係そのものなんだなぁと 幼馴染の靴を探してあげた道、恋人と過ごした場所はアメリカ兵を殺した場所に変わってしまった、基地はどんどん広がっていく、それでも自分たちはこの島で生きていかなければならない……そういうことなんですよね、戦争は決して終わっていない、現在進行形で続いていること。無責任に他人事のようにアレコレ言えないけれど、そういう現実があるのを「知る」こと、、、頭ではなく肌で心で、それが大事なのではないかなと、、、それしか言えないな……。
~あらすじ~
実話から生まれたいのちの寓話が今、語りかける。
ある南の島。
ガジュマルの木に逃げ込んだ兵士二人は、
敗戦に気づかず、二年間も孤独な戦争を続けた――
人間のあらゆる心情を巧みに演じ分け、観る者の心に深く刻みつける山西惇が、再び本土出身の"上官"を演じる。注目の新キャスト・松下洸平は、柔らかく、おおらかな存在感で島出身の"新兵"に挑む。歌手・普天間かおりをガジュマルに棲みつく精霊"語る女"に抜擢。琉歌に乗せて島の風を吹き込む。2016年、こまつ座版『木の上の軍隊』が新たに立ち上がる。
(こまつ座HPより)
2013年にこまつ座&ホリプロで初演された演目。今回はこまつ座の公演として紀伊国屋サザンシアターで上演され新兵と語る女のキャストを一新。じい的には今回の方が良かったかな~~何かストンと心に入ってくるものがありました。こまつ座の演目、特に戦争物というとサザンシアターという印象が根付いているせいかもしれませんがこういうのを観るならコクーンじゃないよねというところがあって 演出等々の違いはあった 正直言ってちょっと 他人事のように外側だけをなぞって観ていた初演の時の記憶が薄いので分からなかったのですがセットは同じだったかな……客席の配置はスタンダードなものに変わっていましたが(コクーンの時はステージ席っぽいエリアがあった)今回はドライで凝縮した空間で集中できたので物語の世界に入り込めました。
キャストのバランスも良かったですね~ 初演の時も決して悪くはなかったんだけど新兵役の藤原竜也くんの存在感や上手さが逆効果になっているというか悪くはないけど←しつこい(苦笑)何か違うんだよなぁと感じる部分があって……キャリアの長短は板の上に乗ってしまえば無関係なんだけど、今回はそこら辺が逆に松下洸平くんの初々しさが活きたというか、そのおかげで上官と新兵の関係性が良く見えていて多角的に様々なものが伝わったので良かったと思いました。「語る女」の役も前回の片平なぎささんから歌手の普天間かおりさんへ 立ち姿のスマートさという部分ではやっぱり片平なぎささんの方が上かなぁと思いましたが、今回の普天間かおりさんも大健闘!沖縄のDNAによって醸し出されているものがあるのかなぁ~~終盤、木の上で広がっていく基地を見ながら語る新兵と上官を木の下から見守り、木が発する言葉を代弁しているかのように歌う普天間さんの横顔にドキッ ウチナーンチュの本音に触れたような空気を感じました。。。
新兵と上官、、、うちなーとないちゃーの象徴なんですよね。もちろん単純にそれだけで語ることができるものではないんだけど……KYで(死語?!)屈託のない純粋で素朴な島出身の新兵。「何でそうゆうことをするのかねぇ、出来るのかねぇと変な気持ちがこみ上げてきます。命を懸けるということはでーじ凄いことと思うのですが、自分にとってはやっぱり不思議なことであり、そのようにありたいと願う一方、何でそうゆうことが出来るのかねぇと不思議な気持ちになる」と物凄~~く真っ当で至極普通の気持ちを上官にぶつける。これ、耳心地の良い沖縄のイントネーションで語られるセリフなんだけど、沖縄の人たちが置かれた複雑な立場と揺れ動く気持ちをズバッと言っているセリフでもあると思うのよね。でも国民や国という価値観にガチガチに縛られた上官には分からない。戦火の下で逃げ場を求めてガジュマルの木に向かう時に新兵は生き残っている仲間たちと共に行こうとするが、上官は自分が生き残るために誰も付いてくるなと追い払う。木の上の生活でアメリカ兵が落とした食料を受け入れる新兵に対して、人間じゃない奴らの食べ物なんてと拒む上官、それなのに戦争が終わった瞬間からその豊かな食糧を“食い漁り”ブクブクと太っていく上官と逆に病んで弱っていく新兵。思いっきり戦後の日本と沖縄そのものじゃない!!!何かね~~見ていて苦しかったです 自分たちのことを責められているようで辛かった それなら学術的に、政治的に、歴史的に、、、どれを当てはめてみても何が正しくて何が間違っているなんて言えないし、本土が全て間違いで沖縄が全部正しいのかと言うとそれも違うと思う。行き着くところに正しい答えも解決も存在しない。
「守られているものに怯え、怯えながらすがり、すがりながら憎み、憎みながら信じるんです……もう、ぐちゃぐちゃなんです」……新兵が吐き出したうちなーの本心。その複雑な心の機微は絶対に受け止めなければならないものだと思います。上官は木の上の生活の慰めに新兵から聞いた島の話(のどかな人間関係や緩やかな男女関係等々)をメモるんだけど、前のめりに興味を示しながらも←このこと自体は人としての純粋な好奇心だと思う どこか蔑視している感情が漂う……新兵が本当に心配して純粋な気持ちでアメリカ兵の残した食べ物を勧めるのにそこに裏があると思ってしまう上官
……もっと素直に対等に普通に向き合えば、、、凄く凄くもどかしいのよね。劇中に出てきた不理解という言葉。「無理解」とは違うのよね~~理解が存在しないのではなく理解を打ち消す。うちなーとないちゃーの関係そのものなんだなぁと 幼馴染の靴を探してあげた道、恋人と過ごした場所はアメリカ兵を殺した場所に変わってしまった、基地はどんどん広がっていく、それでも自分たちはこの島で生きていかなければならない……そういうことなんですよね、戦争は決して終わっていない、現在進行形で続いていること。無責任に他人事のようにアレコレ言えないけれど、そういう現実があるのを「知る」こと、、、頭ではなく肌で心で、それが大事なのではないかなと、、、それしか言えないな……。