TVで日本語の上手なアメリカ青年ニコラス・エドワーズさんのことを知った。
上手な日本語で話すだけではなく、美しい正統な日本語を話すことに感心した。
長く外国に暮らしている日本人は、昔の美しい日本語で話すうえに適切な慣用語や熟語の使い方が正しいので、ハッと気付かされることがある。
思い過ごしであればいいのだが、最近もう我慢できないくらいに気になる日本語表現に関心を持っている。 元々の美しい日本語を忘れてしまい、何気なく語っている日本語が劣悪化傾向にあることや、望ましい日本語表現の変化に関心が薄くなっている日本人が多くなってきたと思っている。
例えば、自分の意思をはっきり伝えなければならない場合の言い回しが曖昧なことだ。
一般人ではなく政治家が断定すべきところ「~だろう。」とか「~かと思う。」と明言しないのには強い違和感がある。言いきれない後ろめたさが伝わって、本気でないことが透けて見える。
この場合「良いことだろう」と推定や推測で言っているのに、TVの字幕は「良いことだ」と断定として出るし、新聞や雑誌でも「良いことだ」と印刷されている。
ホームランを打った後のヒーローインタビューの野球選手や、その他の競技で勝利したアスリートがインタヴューに応えて「~で良かったと思います。」と言わず「~で良かったかなと思います。」と曖昧に言うのをTVで度々視聴することがある。
良かっかどうかは分からないと言った方が、明言するより奢りに聞こえないと思い違いをしてるためなのか、それとも流行の言い回しに流されているのか、かな付き言葉で感想を聞きたくはない。
自分自身の気持ちもはっきり言えず「嬉しいかな・・・」なんて言うのを聞くこともあるが、自分の感情を疑うのは情けないことだ。
同じ類いに「~です。」「~でございます。」と言わずに「~になります。」とか、「~は、」「~については、」「~のことは、」を「~のほう」と意味不明な言い回しは不快感が残る。