筑波大学硬式野球部のブログ

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ラストシーズンに懸ける想い⑰(体育4・小林絃/松本深志、体育4・森口尚哉/立川)

2023年08月30日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第17回は小林絃(体育4・松本深志)と森口尚哉(体育4・立川)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

ブログをお読みの皆さん、こんにちは。
筑波大学体育専門学群4年の小林絃です。

 

日頃より筑波大学硬式野球部への温かいご支援・ご声援のほど誠にありがとうございます。

 

 

僕は自分の話をするのが苦手なのでお酒の力を少し借りるために今では定期開催となった波戸飲みの後に書いています。変な文章、僕らしくない内容でもお酒のせいなのでご容赦ください。

 

まず、「ラストシーズンに懸ける想い」を綴る前に少し僕の性格について話したいと思います。

 

僕は画家の父とパイプオルガニストの母から産まれて来ました。その上、ドイツ出身で双子と出生話だけで就活の面接を盛り上げたことは1度や2度ではありません。

 

今思うと家にテレビが無かったり、車が無かったりと他にもツッコミを入れたくなるところはありましたが、それでも奇跡的に小中高は社交的で明るい好青年に育ちました。

 

 

ただ、大学に入って寮生活を始めたことで少しずつ化けの皮が剥がれていきました、、、
他人が気にならないところにこだわりがあったり、他人が気になるところに特に何の興味も無かったのです。そんな価値観の違う人が大勢いる中で、24時間生活をしなくてはいけない寮生活は2ヶ月ほどでだいぶ精神的にきついものとなっていました。加えて、ゴミ箱からゴミが溢れていたり、冷蔵庫の食べ物が勝手に食べられていたり、課題を毎回やらされたりとどうして綺麗にしないのか、どうして自分でやらないのかと常にストレスを感じていました。

 

そんな地獄の寮生活の中、自分の考え方や価値観を大きく変える言葉と出会います。

 

「過去と他人は変えられない。」

 

名言らしい名言ではありませんが、当時の僕には物凄くしっくりくる言葉でした。(※結果的にこの言葉の影響でとても苦しむことになりますが、、、)

 

 

これ以後、寮飯の1時間前に起きてごみ捨てと洗面台の掃除をし、余った時間で勉強をするようにしたら、今まで他人のせいにしていたことが自分の行動1つで解決し、生活の質まで向上しました。他人に期待することを辞め、全ての結果の責任を自分に置く習慣がついたことで、1つの結果に一喜一憂したり、感情的になることが減り、精神的にとても楽になりました。唯一の弊害としては他人への興味や関心がすこーし薄れてしまったことですかね、、、

 

 

このような過程を経て今の僕の性格に至ります。何故、ラストシーズンに懸ける想いで自分の性格の話を最初にしたかと言うと、僕のこの性格と投手ヘッドコーチという役職の相性が最悪だったからです。

 

 

投手コーチではアウト1つどころがストライク1つも取れません。今まで避けてた他人に期待して委ねることしか出来ないのです。スタッフミーティングが終わって最初に配属されたAの練習を見ながら心の底から向いてない。野球部を辞めようと思いました。

 

 

ただ、新人練の投手コーチの役割が早々に決まっていたので、割り振られた仕事だけこなしてその後辞めることにしました。当時の新入生(現2年生)には「目が死んでいる」、「サイコパス」と何度言われたかわかりません。確かに、生気は無かったことでしょう笑

 

 

それでも、新入生に罪はないと思い、僕の知識や技術を惜しみなく伝えました。時にはできる限り感情を見せて注意したり、真剣に大学野球について同期の大切さについて伝えたつもりです。人生を振り返ってもあれほど本気で人と向き合ったことはないと思います。

 

 

そして、そんな新人練や例に漏れず全く興味の無かった春リーグが終わり、全体のチームに混じった時に今までと違う感情が芽生えていることに気が付きました。

 

 

1年生が試合に出れば活躍して欲しい。失敗をすれば力になりたい。また、試合に送り出す際にはただ期待するのではなく、自信を持って送り出せるようになっていました。

 

 

この変化は選手達の頑張り、積み重ねてきたものを1番近くで見ていたからでは無いかと思います。

 

 

その後、ヘッドとなったBチームの選手達にも同じようなことを思うようになり、今では投手ヘッドコーチとして投手全員の活躍を心から願えるようになりました。

 

 

きれいごとに聞こえるでしょう。

恐らく、きれいごとです。

 

ただ、今まで知らなかった自分の一面を知ることができ、チームへの関わり方や投手コーチとしての取り組みに大きな変化が生まれたのは確かです。

 

上下関係なく投手陣として一丸となって欲しい、本音で語れる関係性を築いて欲しいという想いで企画したご飯会は「絆飯」と名付けました。その他にも、ブルペンステップや課題練など選手が活躍できるためにもっと個人にフォーカスした取り組みがしたくて始めたこともちらほら?上手くいかないことばっかりでしたが、、、

 

 

そんな大学野球、投手ヘッドコーチ生活も残り僅かとなってきました。早いですね。

 

 

4年生投手陣

こんな適当な人間を投手ヘッドコーチにしてくれてありがとう。1番近くで見てたからこそ、今年の投手陣には力があることをよくわかっています。自分のピッチングを堂々と披露してきてください。結果は必ず付いてきます。みんなの活躍が僕の1番の喜びです。

 

逸聖、耕平

4年間ありがとう。退寮を監督さんに直談判する時、唯一心残りだったのが、2人と生活出来なくなることでした。怪我して、エラーして見ていてハラハラな2人だけどそれでもひたむきに努力する姿にいつも力を貰っています。どのような形でリーグに関わるか分からないけど、それぞれの役割での活躍を心から応援してます。

 

お父さん、お母さん

自分のことを話すのが昔からあまり得意では無いので、ブログの存在を教えることはないと思いますが滅多にない機会なので言葉だけでも、、、
5歳から18年間、本当に野球漬けの毎日で負担も多かったと思います。それでも何も言わずに弁当を作ってくれること、庭1面にトスネットを張って練習に付き合ってくれたことなど、感謝をしてもしきれません。綾と同じように大学野球でも活躍して恩返しをしたかったけどダメでした。ごめんなさい。
グラウンドに立つことは無いけど、誇らしい選手達がリーグ戦で躍動してくれます。少しでも応援してもらえると嬉しいです。
まだまだ心配や面倒をかけると思いますが、社会人1年目から少しずつ恩返し出来るように頑張ります。帰省した際には一緒に美味しいお酒飲みましょう!

 

 

話が長くなって申し訳ございません。
ラストシーズンに懸ける想いですよね。

 

もちろん、

 

リーグ優勝・日本一

 

これしかありません。

 

俺らならできる。夏のOP戦を戦って本気で思えるようになりました。
選手、スタッフ、院生、監督、特任助教
全員の力を合わせて必ず成し遂げましょう!

 

 

体育専門学群4年     小林絃

長野県立松本深志高等学校

 

 

 

 

 

平素より弊部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

今年度、ヘッドコーチを務めさせていただいております。筑波大学硬式野球部4年、森口尚哉です。気持ち込めて書きます。読めるところまで読んでください。

 

 

「ラストシーズンにかける想い」

 

 

実は、一度執筆を終えていい感じにまとめてたつもりで提出しました。しかし、1回目の執筆から今日まで、同期の思いが込もったブログや日々刻々と近づくリーグに思いを馳せると、様々な心境の変化があり、気づけばもう一度パソコンを開いています。

 

 

 

ブログ依頼から2回目の執筆まで、書きたいことをいろいろと考えてきましたが、リーグ目下に迫った今、このブログを通してできるのは、お世話になった方々への感謝を伝えることと、部員に向けて、4年生そして自分の覚悟を感じてもらうことかなと思うので、余すことなく書き留めます。

 

 

まずは、覚悟云々の前にこの場で感謝を述べさせてください。

 

 

これまで約14年間野球を応援してくれた両親へ、まずはありがとう。

 

浪人してまで入った大学では思うようにいかないことも多く、かなり心配させた記憶があります。選手を退いてからはより一層心配をかけた気がします。

 

 

筑波に入るのを反対したお父さん、選手を辞めると言ったときは悲しそうな顔をさせてしまったお母さん、今は選手の時よりも自分を誇れているし、筑波で野球ができてよかったよ。

 

 

社会人になったら何倍にもして返すのでもう少し心配かけさせてください。

 

 

そしてこれまでの野球人生で出会った指導者の方々。野球人生においてもっとも誇れることは、指導者の方に恵まれたことだといっても過言ではないと思います。

 

本当にありがとうございました。

 

 

 

さて、ここからは「覚悟・想い」の方を、文章を作らず飾らず、思いのままに書いていきます。

 

 

だいぶまとまりがない文章になりそうですが、普段鬼軍曹と揶揄されている僕が、グラウンドでどんなことを考えているのか、気持ちだけ感じてください。

 

 

「ラストシーズンにかける想い」

 

 

優勝したい。それだけです。

 

 

春リーグ、戦わずして日体の優勝が決まった4月30日。選手ではないし自分はプレーしていない、できないのに、頭が真っ白になりました。あんな思いはもう2度としたくありません。

 

 

試合では、緊迫した場面で選手が思うようなプレーができなくても、ラインを越えれない自分は声をかけることしかできませんでした。軌道に乗れないチームや選手を見て、リーグ期間は幾度となく唇を噛みしめました。

 

 

せっかくリーグに出れたのに代打で縮こまってしまう選手も、食堂で元気がない3階フロア長も、もう見たくありません。

 

 

あの場所で思い通りにプレーができない選手が一人でも減るよう、接戦で勝ち切れるチームになるよう、春リーグが終わったその日から秋の優勝だけを信じて、1秒に全力を注いできました。

 

 

「Enjoy Baseball」

慶應義塾高校が甲子園優勝を達成し、この言葉が話題になっていますが、ただ楽しめばいいという簡単な話じゃないように感じています。ただ楽しむのではなく、たくさん練習して、いろんなことを我慢して、そしてあの緊張感の中で動じずに楽しめるチームが強いのだと思います。

 

 

練習を楽しめても、緊張感に負けて勝てないと面白くないです。

 

そのためにどんなプレッシャーにも屈しない練習を作ってきたつもりです。

 

特に3年生のみんなには6月期からいろんなことを求めてきたし、多くの重圧を背負わせてきたと思います。ごめん。でも、リーグに近くなるに連れて本当に頼もしく思っています。ありがとう。

 

 

春を終えて一皮も二皮も向けようと苦しんだみんななら大丈夫だと信じています。

 

140人一丸となって圧倒しよう。

 

 

最後に、ヘッドという肩書を取っ払って同期のみんなに感謝を伝える時間をください。

 

 

自分はスタッフミーティングから本気でチームに向き合えるようになりました。

あの二週間が今も自分の原動力です。

 

自分自身の選手への思いがありながらも、チームへの貢献を探して裏方に回ったスタッフのみんな。

涙を堪えながら、また、覚悟を持った目をしたみんなの決意表明とその光景は忘れることができません。

「スタッフがプロになれ」何度言われてきたことか。最後優勝して、日本一のスタッフ陣だったと言われよう。

そして、ミーティングを経て選手として今もなお前線で戦い続ける選手のみんな。みんなのプレッシャーは僕には計り知れません。選手とヘッドという関係から厳しいこともたくさん言ってきましたが、計り知れないプレッシャーの中で戦うみんなを心の底から尊敬しています。

 

怪我に苦しみながらチームへの貢献を考えてくれた人。賑やかしというポジションを見出した人。本当は自分が前線で戦いたいはずだろうと思うけど、役職がついている自分からすれば自ら道を開く皆はかっこいいです。

 

みんな真面目で自分の責任を全うするすごい奴ばかりなので、自分がヘッドとしてどれだけのことができているかはわかりません。

 

ただ、そんな皆が最後、優勝して笑っている姿を見るために、絶対に妥協しないし絶対に妥協させない。それが尊敬する皆の中でヘッド任せてもらっている僕の流儀であり覚悟です。

 

 

最後、チームを勝たせるのは4年生であってほしい。

 

今、下のチームにいる選手には散々厳しいことを言ってきたけど最後まで足掻いてほしい。

 

下級生時は下のチームで苦楽を共にしたみんなのこと、絶対に甘やかしませんが、最後まで待っています。

 

このブログの執筆を終えたら、またいつも通り憎まれ口のヘッドに戻りますが最後に一つ、皆の中で役割を与えてくれてありがとう。

 

 

 

「リーグ優勝」「日本一」

 

どんな景色だろう。その瞬間を想像しただけで泣けてきます。

 

 

後輩たち、後少し4年生に力を貸してほしい、

 

同期のみんな、4年間足掻いたみんなが泣きながら笑う姿を見せてくれ。

体育専門学群4年 森口尚哉

都立立川高校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑯(体育4・生島光貴/福岡県立福岡、体育4・成沢巧馬/東邦)

2023年08月29日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第16回は生島光貴(体育4・福岡県立福岡)と成沢巧馬(体育4・東邦)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

こんにちは。


筑波大学 4年生島光貴です。

 

平素から筑波大学硬式野球部への多大なるご支援、ご協力誠にありがとうございます。

 

普段、多くを口にしない私ですがこのブログを通してどのような大学生活を過ごしてきたのか、どのような気持ちで野球と向き合ってきたのか知って頂けると幸いです。

 

私の大学生活は西浦との出会いから始まりました。

 

引っ越しの作業を終え、部屋でくつろいでいるとピンポーンとインターフォンが鳴り、ドアを開けると物怖じしない太い眉の凛々しい青年がいました。

 

「八尾高校から参りました。西浦謙太です。よろしくお願いします。」

 

これが彼と交わした最初の言葉でした。

 

お互い寮飯生(アパートで生活をし、朝食と夕食は寮で食べることができる制度)ということもあり、同じアパートの隣の部屋だったのです。

 

この青年が私の野球人生に大きな影響を与えることを当時の私は知る由もありませんでした。

 

 

 


次の日から野球部での活動が始まりましたが、新型コロナウイルス感染拡大のためかなり制限された練習でした。そして、その日を最後に無期限の活動停止が告げられました。

 


急にやることがなくなり部屋でボーっとしていると「キャッチボールせーへん?」という西浦からの連絡がありました。

 

そこから、大貝、大高、西浦の4人で毎朝体を動かし、午後に課題をこなすという生活を送るようになりました(オンデマンド授業のため自分の好きな時間に受講することができた)。

 

また、この頃から夜は2人で素振りを行うようになりました。どちらかが「終わろう」というまで続き、長いときは1時間近くバットを振っていました。

 

 


そんなある日、昼寝でもしようとウトウトしていると隣の部屋から「フォーー、あかん、きつすぎる」といううめき声のような、叫び声のような声が聞こえてきました。一瞬にして眠気は吹っ飛び、隣の部屋をのぞきに行くと上裸でプランク(体幹トレーニング)をしている西浦の姿がありました。

 

まるで古代ギリシャ彫刻のように筋張った上半身を今でも忘れることができません。大きな事故やケガではなくよかったと安心し眠りにつこうとしたのですが、どうしても眠ることができませんでした。

 

気が付くと自分も上着を脱ぎ、トレーニングを始めていました。そこからは朝の運動、昼の体幹トレーニング、夜の素振りとハードな生活を送るようになりました。

 

 

 


そんな生活を一か月近く続け、充実と成長を感じていたある日の夜。いつものようにご飯を食べ終え、二人でアパートへ戻っていると西浦が「何のために筑波来たかわからへん、はよ野球したいわ。」と僕に訴えてきました。

 

この言葉を聞いたとき今の生活に満足していた自分を恥ずかしく思うと同時に自分はつくばで何を成し遂げたいのか、どうなりたいのか深く考えさせられました。

 

 

 

その後、西浦はリーグ戦メンバーに選ばれ、代打の切り札として結果を残していきました。

 

一緒に頑張ってきた仲間が活躍することはとても嬉しく、誇らしいことでした。が、その反面悔しさもありました。二年になっても結果を残すことができませんでした。グランドで躍動するAチームの選手を眺めながら鳥かごやハウスなど空いたスペースで練習に取り組んだことは今でも自分を奮い立たす経験となっています。

 

 

このように内容の濃い下級生時代を過ごし、三年からリーグ戦に出場しました。リーグ戦では野球の難しさと奥深さを感じました。こんなにも色々なプレッシャーが襲ってくるのか。心も体も削られていくそんな感覚がありました。

 

ですが、試合を重ねるごとに自分たちの野球を理解し、バラバラだったピースが一つ一つ当てはまっていく、チームとして成長していく、そんな貴重な経験をすることができました。

 

しかし、勝負所で勝ち切ることができず悔しい思いをしてきました。森口ヘッドを中心にどうしたら勝ち切れるのかキャンプやOP戦を通して突き詰めてきました。

 

そして今、新しい筑波の野球が完成しようとしています。

 

 

 

残すところあと秋のシーズンだけとなりました。

 

今の僕があるのも西浦の存在が大きかったと思います。彼の野球に対する取り組み方や向き合い方には常に刺激をもらっています。

 

「西浦に負けたくない」そんな気持ちが僕を突き動かしていたのだと思います。そんな良き友であり、良きライバルに出会えたことを本当に嬉しく思います。ありがとう。

 

 


また、多くの人の支えもありここまでやってくることができました。特に東條さんには目標に対して進むべき方向を明確に示していただきました。正しい努力をすることの大切さ、それを通して勝つことの喜び、上手くなることの楽しさを実感することができました。結果で恩返ししたいと思います。

 

 


同期のみんな


ここまで平坦な道のりではなかったと思います。上手くいかなかったり、悔しい思いをしたり色々な感情を抱えながらやってきたと思います。それでも続けてこれたのは野球が好きだったから、筑波という組織が好きだったから、かけがえのない仲間と出会えたからだと思います。こんな素晴らしいチームで、最高の仲間と本気で野球に取り組めるのも残りわずかです。今の自分の役割を全うしよう。

 

 

粘り強く、泥臭く、相手より少しだけ上回る、そんな筑波の野球を体現していこう。

 

リーグ優勝、日本一、そして、西浦を胴上げしよう。

 

体育専門学群4年 生島光貴

福岡県立福岡高校

 

 

 

 

筑波大学硬式野球部4年、副主将の成沢巧馬です。

 

日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援のほど、誠にありがとうございます。

 

 

小学校4年生の時に始めた野球も、大学ラストシーズンと共に引退します。

 

今まで当たり前の生活だった「野球をする」ということが、あと少しで終わってしまうと考えると、すごく不思議な気持ちになります。

 

僕にとっての野球は、小学校・中学校のクラブチームや、高校・大学の進路など、大きな選択をするときには必ず中心で考えるものでした。そんな野球を通して、良くも悪くも様々な感情を味わわせてもらいました。

 

今回どんなことを書くかすごく悩みましたが、野球人生における「感謝」というものをこのブログでは書いていこうと思います。

 

 

まずは小学校時代から振り返っていきます。

 

僕は、小学校4年生の時に、友達に誘われて日進デポ少年野球クラブで野球を始めました。この時野球を始めるきっかけを作ってくれた親友には、今でも本当に感謝しています。

 

この頃は、練習をすればするほど上達し、そのことが嬉しくて、毎日沢山練習していました。

 

そして、6年生の頃には中日ドラゴンズジュニアに選んでいただき、自分より速い球を投げる人や、遠くに飛ばす人がいることに驚き、さらに努力するモチベーションになりました。

 

 

また中学では、野球人生での大きなターニングポイントとなる出来事がありました。

 

それは豊田リトルシニアに入団し、「唯一やりたくない」と言っていたキャチャーというポジションに出会えたことです。

 

やりたくなかった理由は、硬式ボールが怖かったことと痛い思いをしたくなかったからです。しかし、キャッチャーというポジションで自分の可能性を見出だしてくださった豊田シニアの指導者の方々に、今となってはとても感謝しています。

 

 

そして高校は、「人生において一番輝いていた」と死ぬときにも言えるであろう、“甲子園優勝”という経験をしました。

 

この時の景色を見て、他のなにものにも代えがたい感情を抱いたのを覚えています。

 

そして、「努力は報われる」と初めて感じた瞬間でした。

 

高校時代の恩師である森田監督は、厳しさの中にも人間味のある方で、このブログでは表しきれないほど感謝の気持ちがあります。また、今でも連絡をくださり気にかけてくれる木下コーチ、お互いを高めあえたチームメイトとの出会いは、自分にとっての大きな財産だと思っています。

 

 

 

そんな中で、自分自身に期待して入学した大学では、思い描いていた野球生活とは程遠いものでした。

 

推薦で入学させていただき、自分の中ではリーグ戦で結果を出すことに対する責任というものは常に感じていました。しかし、自分の肩と肘は全く言うことをきいてくれなくなりました。怪我や手術の影響で、夜中に痛みで何度も起きてしまったり、リーグ戦が迫ると出たいという気持ちが強く、痛み止めの注射を打ってプレーをするという生活。

 

高校時代にあれほど最高だと思っていた野球が、こんなにも辛く苦しいものになるとは想像もしていませんでした。

 

しかし、苦しかったことが多かった分、人として大きくなれたのではないかと思っています。これも、なにものにも代えがたい経験でした。野球というスポーツに、本当に感謝です。

 

 

このように野球人生を振り返ると、多くの人に出会い、支えられ、本当に恵まれた環境で野球ができていたことを実感しています。

 

そして特に感謝を伝えたいのは、一番近くで支えてくれた家族です。

 

いろいろなことを犠牲にして僕の野球を支えてくれました。甲子園で優勝できたことで1つ恩返しができましたが、今度は「12年間の集大成」としての恩返しができるよう、ラストシーズンに挑みたいと思います。

 

 

最後にチームメイトへ

 

ここで多く語ることはあまりしたくないので一言だけ。

 

神宮で引退しよう。

 

体育専門学群4年 成沢巧馬

東邦高校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑮(社会4・三戸創世/札幌南)

2023年08月28日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第15回は三戸創世(社会4・札幌南)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援いただき誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部四年の三戸創世と申します。

簡単に自己紹介いたしますと、私は北海道旭川市で生まれ、3歳くらいの頃札幌に移り住み、19歳まで札幌市民として暮らしました。

高校三年生のとき現役で受けた筑波大学社会学類は合格最低点とまあまあな差をつけられて不合格。一年間塾や予備校に通わず浪人(俗に自宅浪人と呼んだりします)し、たまたまストーリーをほぼ覚えていた源氏物語が試験で出題されるなどの幸運を経て一年越しのリベンジを果たして合格します。

ラストシーズンに向けたブログ執筆というせっかく自分のことを語るよい機会が来たものですから、思う存分語ることにいたします。

普段敬体で文を書く機会があまりにもなく、まったく筆が進まずに締め切りに遅れてしまったため、本体のほうは常体で書くことにいたします。

少々冗長な文章かもしれませんが、最後までお読みいただけたら幸いです。

 

 

 

新型コロナウイルスの影響をモロに受けた私たち西浦世代は、入学してから二ヶ月あまり経った6月に顔を合わせることになった。私はそれまで人と話せていなかったこともあり、妙なテンションになっていた。

最初に一年生全員でランニングをしたが、そこで片っ端から人に話しかけていた。そんな私の犠牲者の一人である岸が北海道出身だとわかると、即座に「どこの高校なの」と聞いた。岸が高校名を言い終える前に私は「俺は札南」と被せ気味に言った。私の母校札幌南高校は道内でも有数の進学校である(私はというと常に最下位付近にいた。200点満点の数学のテストで3点を取ったこともある。)。単刀直入にいえば、私は非常に嫌なやつだった。今津には「お前デカくてバカそうだな。成績悪かったろ」と言った記憶がある。初対面である。本人は覚えていないかもしれないが。

そんな当時168cm80kgだった私は、その体型のおかげもあり、あんまりいじめられずにすんだ。たぶん変なマスコットキャラクターか何かだと思われたのだろう。みんな優しく接してくれた。

よい機会だから振り返ろうと思うが、私は中学生の頃入ったシニアでしっかりといじめられていた。小学生の頃全国ベスト4のチームの4番だったこと(全国大会一回戦ではあまりの強打ぶりに敬遠された)を鼻にかけ、同級生にも先輩にも横柄な態度で接していたら先輩からは無視されるようになった。まったく同じことを大学でも繰り返したが、今度は皆優しかったので命拾いした。

大学野球生活のはじまりはこんな風だった。

 

私にとって大きな転機は大学二年生の夏にあった。それも良いほうにではなく、悪いほうにである。ともかく、当時のことを思い出しながら書いてみることにする。

 

2021年の夏は、今と変わらず毎日とても暑かったことを覚えている。7月に入ってから、どうにも身体が重いというかだるい感覚が抜けなくなっていた。自分でも入浴や交代浴、軽めのランニングなどをして疲労を抜こうと試みるのだがまったく効果がない。そうしているうちに今度は朝の三時や四時に必ず目が一度覚めてしまうようになってきた。睡眠の質も悪く、翌日も午前中はほぼ頭が働いていないような感覚だった。このころになるとケアレスミスが増えてきた。ある時は「審判用具を忘れない」とメモを自分で書き、確認したはずなのに審判用具を忘れたことがある。この時ばかりは自分でも驚いたし、当時審判をする予定だった先輩は私のあまりの茫然自失ぶりに「次から気をつけてね...」と言うだけだった。

そんなある日、私の身体はある朝突然動かなくなってしまった。これは比喩表現でもなんでもなく、本当に動かないのである。信じられないかもしれないが、ベッドから起き上がれなくなってしまったのである。

休んでいると、心優しい先輩や同級生が心配する連絡をくれた。しかし私はその連絡さえも返すのが怖くなって、ラインを開くのをやめた。

普段はこの頃のことを思い返すことはない。辛くて記憶から消えているとかそういうことではなくて、特に振り返る気にもならないのだ。私は過去の経験が今の役に立っていると考えるタイプではなく、未来のために今があるという考え方だからかもしれない。だがせっかく自分を振り返る機会だから少し考えてみた。なぜそんなに追い詰められたのだろうと。コロナの状況もあったかもしれない。秋に控えるスタッフミーティングへのプレッシャーがあったかもしれない。だが何度考えても綺麗な答えは出なかった。それでいいのだと思う。今はいろいろなことを経験できてよかったな、くらいに感じている。

夏の間、私はずっと家にいて、時々夜になると散歩した。夜は相変わらず眠れず、人には会わず、ただ毎日を過ごしていた。

 

そんな折、今津が「少し散歩しようぜ」と私を誘ってくれた。

夜の公園で、二人の男がベンチに座ってジュースとチキンを手になにやら話していたら、ほとんどの人は何かを祝福しているのだと思うだろう。楽しげな会話を予測するかもしれない。しかしもう少し近づいてみると、一人の男の手がもう一方の男の背中に添えられていて、その背中が小刻みに震えていたとしたら、少し驚いてしまうかもしれない。

私がこの時何を話したのかはあまり覚えていない。覚えているのは、今津がなけなしのお金(今津は浪費癖がひどい)で近くのコンビニでチキンとジュースを買ってくれたこと。そして私はあまりうまく喋れなかったが、今津の励ましと暖かい手に安心して泣いてしまったことである。

とにかく今津は背中をさすり、私はただ泣いていた。

ちなみにこの公園は、就職活動の時の面接練習でも今津とよく使った。そのときには二人の男は声を張りあげ、互いに鋭い質問を浴びせていた。結局ここで面接練習したときには本番の面接に全て通った。そのせいか、今ではこの公園にあまり感傷的なイメージはない。

 

この当時のBチームヘッドコーチであった池田さんとも話した。これも「私が人に会いたくないから」、というわがままなリクエストで夜にしてもらった。忙しいのに時間をとっていただいたこと、本当に感謝しています。池田さんは私の話をとにかくずっと聞いてくださっていた。そのときの私の話はまとまりがなく、わかりづらいこともあったと思うが、池田さんはとにかく耳を傾けてくれた。

今津と池田さんと過ごした夜のことは今でも思い出し、感傷的になってしまう。

「普段はこの頃のことを思い返すことはない」と書いたが、この二つの夜のことはいつまでも覚えていると思う。本当に心を救ってくれた夜だった。ありがとうございます。

 

 

夏の2ヶ月ほどのブランクを経た上で、大学二年生秋のスタッフミーティングには死にそうになりながら参加した。正直言って、とても参加できる状況ではなかった。2時間ほどのミーティングが控えているというだけで、その日はプレッシャーで吐いていた。最初のほうはミーティングの会話をしっかり聞きとるだけですべての体力を使い果たしてしまうという有様であった。

それよりも決定的だったのは、私と同級生との間に絶対的な隔たりを感じたことだった。ある者はまっすぐな目で「選手を辞め、他の役割で貢献する」と宣言した。迷っている者も、周りの意見をよく聞き、自分の価値を吟味していた。

私にはそれが信じられなかった。自分がこのままでは不本意な形でバットを置くことになることへの忌避感と、なんとかしてそこから逃れられないかという気持ちしかなかったからである。

選手を続けたいと言った。しかしその理由はこんな形で終わりたくないから、という理由だけだった。「ここはお前の自分勝手な情を披露する場ではない。士気を下げるから出ていってくれないか」。あるチームメイトに言われた言葉だった。

 

私が休んだ2ヶ月で、同級生は着々とチームの中枢を担うための準備ができていた。決意が固まっていた。私はできていなかった。

ただ、ここで思いを隠さず言えたことは今振り返っても良かったことだ。選手を辞めるという結末は同じでも、今振り返って後悔があるものにはなっていない。それは批判されるのを覚悟で思いを言えたからだと思う。そしてこのとき面と向かって全力で批判してくれたチームメイトがいなければ、もし選手を続けていたとしても、自分にとっても周りにとっても不幸なことになっただろう。彼にはとても感謝している。

 

スタッフミーティングは完了し、私はSSDになることになったが、準備ができていないことを突きつけられただけのミーティングだった。

私は弱気になってしまい、復帰を先送りすることになる。

 

2021年の冬から2022年の夏まで私の姿を見た人はいただろうか。私はおそらく忘れ去られていた。文字通り幽霊部員である。この空白期間に私は左膝の膝蓋骨を骨折し、全身麻酔をかけられて手術をするとか、すごく太るとか、密着系のドキュメンタリー風テレビ番組に出演しかけるとか、精力的に活動していた。しかしここでは便宜上2022年の夏まで飛んでいただこう。

 

野球部に戻るという選択をしたのは約一年前の2022725日である。私は大学三年生になっていた。もはや幻のようになっていた私がグラウンドに現れると、誰しもが私を三度見くらいしていた。そして戸惑っていた。悪い気はまったくしなかった。セレブリティになったような気がして気分がよかった。

なぜ復帰できたか、ということを振り返ってみると、三人の存在が大きい。一人は復帰の直接のきっかけをくれた母であり、もう一人はなにかあるたびに連絡をくれていた今津。そして定期的に体調を気遣う電話をくれた当時のSSD、海野さんだった。

その年の夏は少々長めの帰省をしていた。当時の私は精神的にほぼどん詰まっていた。わかりにくい表現かもしれないが、これが最もしっくりくる表現なのだ。何かが胸にずっとつっかえていて、吐き出したくても吐き出せないような感覚。それがずっと続いていた。そのことについて母と話していた時、母がふいに「戻ってみたら色々なことがうまくいく気がする」と言った。すぐさまそれに反論した。いきなり戻るなんてできるわけない。色々な準備ができていない。だが、頭には母の言葉がずっと残っていた。あるとき実家の近くのよく馴染みのある坂道を自転車で漕ぎながら考えた。野球部に戻ることで、胸のつかえがとれるかもしれない。それは一種の願望であった。この違和感をずっと抱えて生きるよりも、いっそ一度戻ってみて、それでダメだったら思いきってやめてしまえばいい。そう決心した。

このとき幸運にも海野さんと定期的に連絡をとっており、今津とも日頃からメッセージのやりとりをしていたからこそ、自分の決心を人に伝えることができた。もしこの二人がいなかったら行動に移すことはできなかった。

森口HCにもメッセージを送ったが、森口HCは「復帰一発目即Bキャンプ」を提案してくれた。当時の私にとってそれはエベレストを無酸素単独登頂するようなものだったので、やんわりと理由をつけて断った。

乱れきった生活リズムから規則正しいアスリートの生活へ。ヒイヒイ言いながら慣れ、つくばの灼熱の太陽に焼かれているうちにあっという間に首都大学野球秋季リーグ戦に突入した。

 

秋季リーグはとにかく忙しいの一言であった。ずっと夜中までパソコンの画面に向き合っていたせいで視力はこのころ急激に低下した。一節目には私の配信映像の撮影ミスもあり、非常に叱られ、涙することもあった。しかしとにかく忙しかったので時間が矢のように過ぎていった。気づいたら四年生が引退していた。あの頼りになる寺崎さんも海野さんもいなくなり、来年からは自分たちでやっていかなければならないと身が引き締まる思いだった。

 

それからなんやかんやがあって今にいたる。就職活動と並行した春季リーグのSSD業務も、それなりに大変なことではあったが、なんとか乗り越えることができた。

 

少々長くなりすぎました。過去のことを振り返るのはもう十分だと思います。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

最後には、野球人生の締めくくりとして、周囲への思いを綴ろうと思います。

 

チームメイトへ。まずは目下の秋季リーグである。首都の秋季リーグは本当に恐ろしく、タフさが求められる試合ばかりだ。一点差ゲームは当たり前、サヨナラの連続。本当に厳しいゲームが続くと思う。ひとたび試合が始まれば、私はバックネット裏で偵察の仕事をしながら過呼吸になることくらいしかできない。みんなが優勝優勝と書くものだから、あえて目の前の試合しか見ないことにする。とにかく開幕戦すべてをぶつけよう。私は勝つイメージしかない。

 

札幌市中央区が誇る常勝軍団、緑丘ホーマーズの佐藤監督やお母さん方、そして当時のコーチの皆さん。

間違いなくこの時勝利の味を覚えてしまったためにここまで野球をやることになってしまいました。全道大会準優勝も全国大会ベスト4も全てが最高の経験でした。ありがとうございました。

 

シニアを辞めた私に野球をする機会を下さった中学時代の恩師、佐藤貴之先生。

今でもあの時のメンバーとは仲良くやっています。本当に充実した時間を過ごせました。あのメンバーなら、もっと勝てたなと思う時もあり、今でも悔しいです。ですが、とにかく楽しかったです。ありがとうございました。

 

私が筑波大学に進学するきっかけとなった高校時代の恩師の田畑先生。

大学野球は想像の100倍ほど大変でしたが、トップクラスへ挑戦してみてよかったと思います。高校時代さまざまなことを教えていただき、野球への追求をせずにはいられなくなって大学の四年間も野球を続ける選択をしました。今冷静に振り返れば身の程知らずの挑戦でしたが、あの時飛び込んでみてよかったと思います。

ありがとうございました。

いつも驚きと感動を与えてくれる札南野球部をこれからもずっと応援しています。

 

そして最後に両親へ。大学生活で壁にぶつかり、悩むたびに父さんと母さんの考え方や生き方を参考にしていました。本当に大きい存在だなと、一人暮らしをしてからやっと気づきました。ここまで育ててくれてありがとう。いつもやりたいことをやらせてくれて、二人の子供でよかったと心の底から思います。ありがとう。

 

野球に苦しめられたり、いい思いをしたり、そんなこれまでの人生でしたが、結局私は野球が大好きです。

社会・国際学群社会学類4年 三戸創世

北海道札幌南高等学校

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ラストシーズンに懸ける想い⑭(体育4・山崎晴登/松山東、体育4・山田拓朗/川越東)

2023年08月27日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第14回は山崎晴登(体育4・松山東)と山田拓朗(体育4・川越東)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

筑波大学硬式野球部への応援、ありがとうございます。学生トレーナー4年の山崎晴登と申します。
世界で初めてアイブラックを付けてハッピースをしたことを誇りに思っています。

 

 

ラストシーズンに向けてブログを書かせていただくのですが、大学野球で何も残せなかった私の過去は振り返りません。
残された時間で、この野球部の未来に向けて何か残せるものがないか探してみます。

 


さて、皆さんは「変化」についてどのように考えていますでしょうか。
自分の変化について悩んでいる方がいましたら、少しでも励みになればいいなと思います。

 

 

このブログを読みながら、少しだけ体を動かしていただきたいです。
両手の人差し指を天井に向けてください。そして車のワイパーのように、両手の人差し指が常に同じ方向を向いたまま動かしてみてください。
しばらく動かしたら、その速度を一気にあげましょう。限界まで速く動かしてください。

 

 

動きに変化はありましたでしょうか。
恐らく多くの人が限界まで速く動かそうとした時、両手の人差し指がお互いを向き合うような動作に変わったと思います。

 

 

その変化に予兆はありましたか?
予兆もなく、突然動きが変わったと思います。
変化したきっかけは?
指を動かす速度を変えたことです。

 

 

このように変化というのは、なにかきっかけが与えられることで突然現れます。

 

 

トレーニングを必死にやっても体が大きくならない。バットをたくさん振っても打球が飛ぶようにならない。
このような悩みを持っている選手、多くいるのではないでしょうか。

 

 

練習やトレーニングを変えるということは皆さんよくやると思います。
食事を変えてみる、寝る時間を変えてみる、バットを変えてみる、構えを変えてみる。
このようなちょっとしたきっかけを与えてあげることでも、大きな変化が得られる可能性があります。

 

昨年書かせて頂いた「ホメオスタシスを打ち破る」というブログでは、成長の難しさを「壁」に例えました。
しかし私たちが超えるべき壁だと思っていたものは、実は風船のようなものだったのかもしれません。

 

 

壁であれば時間をかけて少しずつ超えなければなりませんが、もしも風船であるならば針を得ることをきっかけに簡単に打ち破ることができます。
きっかけさえあれば、私たちはすぐに変わることができるということです。

 

 

とは言ったものの、「きっかけ」を得ることがすごく難しいですよね。
針を使うという発想を持つこと、針を正しく使用すること、とても難しいことです。
針の使い方を間違えると怪我をしてしまうし、良い結果も得られません。練習やトレーニングも同じです。

 

 


この選手には針が必要だと見抜き、その正しい使い方を教えられるような4年生でありたかったです。

 

 

まだ少しだけ時間があるので、たった1人にでもきっかけを与えられるように頑張ります。

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

体育専門学群4年 山崎晴登
愛媛県立松山東高等学校

 

 

 

 

 

こんにちは。筑波大学硬式野球部4年の山田拓朗です。このブログを読んでくださりありがとうございます。

 

 

僕にブログの順番が回ってくるのは後半で、おそらくこれまでにみんなが素晴らしいブログを書いてくれていると思うので、僕はあえて余談から入ろうと思います。

 

 

うちのピッチャー陣は、練習でのアップ時やトレーニング時などに曲を流します。選曲はその年のトレーナーに任されているのですが、それぞれ個性が溢れていて僕はとても好きでした。

 

僕が1年生の頃のトレーナーである田上さんは、平成初期に流行った曲をよく流していました。

これまで今流行りの曲しか聴いていなかった僕にはとても新鮮で、それ以降平成初期の曲を好んで聴くようになりました。

その中でも特に僕が好きな曲は、「DIAMONDS/PRINCESS PRINCESS」と「Sunny Day Sunday/センチメンタル・バス」です。特にDIAMONDSを聴くと、猛暑の中悶絶しながらやってた体幹を鮮明に思い出します。

 

 

僕が3年生の頃のトレーナーである小川慶悟さんは、流行りの曲と少し懐かしい曲を組み合わせて流していました。

「ヘビーローテーション/AKB48」や「今宵の月のように/エレファントカシマシ」のように、久しぶりに聴くとテンションが上がる曲があったりして結構好きでした。

慶悟さん、引退したらまた焼肉連れて行ってください。

 

 

そして現在、同期であるトレーナーの高木は、流行りのアーティストの中でも絶妙な選曲をしていて、これも結構好きです。

「damn/藤井風」や、「絆の奇跡/MAN  WITH A  MISSION & milet」といったように、有名だけどド定番でも無い曲を流してくれます。

ちなみに、高木がトレーニング中に流していたことがきっかけで、藤井風さんの曲を聴くようになりました。あと少し、トレーニング時の選曲楽しみにしてます。

 

 

その中でも特に印象に残っているのが、僕が2年生の頃のトレーナー、森さんの選曲です。男子校魂が溢れる森さんを漢字一文字で表すとしたら、「漢」です。

そんな森さんがよく流していたのが、「BABY BABY/銀杏BOYZ」です。初めて聞いた時は暑苦しい曲だなぁと思ったのですが、時間が経つにつれて僕の大好きな曲になりました。

今でも、1人でトレーニングをするときに聴いてます。

 

 

そんなBABY BABYのなかで好きな歌詞があります。

 

サビにある「何もかもが輝いて 手を振って」という部分です。

 

この曲は恋心を歌ったものらしいのですが、僕の大学野球生活を振り返ってみても、この歌詞に当てはまるものがあると思いました。

 

 

入学と同時にコロナ禍がやってきて、オンライン上でしか会えない同期と切磋琢磨したこと。

 

筑波に来てからも満足に練習できず、みんなで近くの公園を巡ってキャッチボールしたこと。

 

先輩方のプレーをみて、「野球で食っていく」とは何かを思い知らされながらも、必死に食らいついたこと。

 

偶然に偶然が重なって取材を受けることになり、「半袖王子」という絶妙なニックネームをつけていただいたこと。

 

猛暑の中、吉本さんと一緒にプライオトレーニングに励んだ日々のこと。

 

リーグ戦、1点差の痺れる場面で出番を頂き、勝利の喜びを皆と分かち合えたこと。

 

怪我と不調で全てが上手くいかなくなり、グランドに行くことが嫌になったこと。

 

でもそんな時にも「一緒に頑張ろうぜ」と言ってくれる仲間がいたこと。

 

 

楽しいことや嬉しいこともあれば、しんどくて辛いこともありましたが、今となってはその全ての日々が、BABY BABYの歌詞のように輝いて手を振っているように感じます。

 

 

そしてきっと、これから始まる最後のリーグ戦もすぐに終わって、数年後には思い出になっていると思います。だからこそ、「いい思い出だったね」では終わりたくないです。絶対優勝しよう。

 

 

最後に、お世話になった方々への感謝を綴らせてください。

 

まず父さん、母さん。

小学校3年生の頃から今まで、何一つ不自由なく野球をやらせてくれてありがとう。手間も時間もたくさんかけてくれて、ありがとう。野球という夢を追いかけてきた14年間、とても幸せでした。

 

そして、ダメになりそうな時に「お前ならできる」と言って根気強くアドバイスを下さった河崎達成さん。本当にありがとうございました。達成さんに胸を張れるような活躍ができるように、ラストシーズン全力でやり抜きます。

 

そして、野球部のみんな。着るものや所作まで真似したくなるほどカッコよくて憧れの先輩方。僕のどんなくだらないギャグにも笑顔で返してくれる後輩たち。そして、個性の塊で、どんな時にも一緒にいた同期のみんな。今の自分があるのは全ての先輩、後輩、同期のおかげです。本当にありがとう。

 

野球に出会えてよかった。

 

体育専門学群4年 山田拓朗  

川越東高校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑬(社工4・田之口輝毅/比叡山、体育4・古市悠之亮/刈谷)

2023年08月26日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第13回は田之口輝毅(社工4・比叡山)と古市悠之亮(体育4・刈谷)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

様々な皆様、こんにちは。

筑波大学硬式野球部 理工学群社会工学類4年の田之口輝毅です。

 

 

先ほど院試を終えました。手応えは、ありません。今出せる力は出し切ったので満足です。後期試験頑張ります。

 

名前の順で進んでいるはずのブログに、た、である自分がなぜ今なのか不思議に思った方もいるでしょう。ブログ担当の一井君、本当にごめんなさい。

 

 

何か尖ったことを書こうかなとも思いましたが、特に思いつかないので普通に書きます。

興味がある方は読んでもらえると嬉しいです。

 

まず軽く自己紹介をします。

出身は滋賀県大津市、びわ湖のすぐ側で生まれ育ちました。

 

 

野球を始めたのは小学校3年生の頃で、試合で良くないピッチングをすると野球素人の父親によく怒られていました。「野球やったことないのに、難しさ分からんやん。」と子供ながらに少し思っていました。

 

 

中学校ではそこそこ結果も出て、それなりにいい思いをしました。

 

 

高校野球では一転、思うような結果は出せず、かなりしんどい思いをしました。正直思い出すのも辛いくらいです。でも、この経験があったことで色々な事を学べたなと今になって思います。成功より失敗から学ぶことの方が多い、というやつです。あと、入学してすぐの新人練のメニューに直立というものがありましたが、あれは何だったのか、未だによくわかりません。

 

 

高校ではほとんど結果が出なかったものの、ネガティブな気持ちを持ったまま野球をやめたくないなという思いと、自分ならまだ成長できるんじゃないかという思いで大学でも野球を続けるという選択をし、当時の自分の実力から考えるとかなりレベルの高い筑波大学を選びました。

 

今思い返すと、野球以外にやりたいこともなく行きたい大学もなかったので、選択肢がなかっただけなんじゃないかとも思います。でもこの時この選択をして本当に良かったです。

 

 

さて、ここからは大学生活を振り返りたいと思います。

 

 

水道や電気が何度も止まったこと、マーくんの全盛期の防御率を下回るGPAを記録したこと、それにより除籍になりかけたこと、家計の問題などについて触れてほしいという声をたくさん頂きましたが、ここでは触れません。

 

野球生活について振り返ると、真っ先に思い浮かぶのは捻挫です。

 

3年の春リーグ前の挟殺の練習で右足首、その年の11月頃、新チームが始まった1発目のランメニューで、左足のリスフラン関節という洋梨みたいな関節を捻挫しました。

 

この2回で、1年弱くらいの期間を棒に振りました。またこの捻挫により(それだけが原因ではないかもしれない)、俊敏性といったものは完全に失われ、お腹もぽっこりとしました。

 

後輩には是非、怪我をした後ではなく、する前から気をつけてほしいと思います。怪我をした後は誰でも再発しないように気をつけますが、怪我をする前はまあ大丈夫やろ、とつい予防を怠りがちです。国本とかアップもろくにせず、いきなり全力で投げてきますが、やめてください。怪我をしてから後悔しても遅いです。

 

あと、捻挫には気を付けてください。長引きます。たかが捻挫と侮るなかれ。

 

 

3年生になった頃からAチームで投げることが増え、3年秋のリーグ戦での登板未遂を経て、4年春になってようやくリーグ戦で登板をすることができました。

 

この時ベンチから、大貝の「てる攻めろ攻めろぉ!」という声が聞こえて強気でいけた結果、抑えることができたので大貝にはほんの少しですが感謝しています。

 

また、家族にも試合で投げている姿をみせることができ、大学まで野球を続けて良かったなと思えた瞬間でした。

 

しかしそれだけでほとんどチームに貢献出来ていないので、秋はもっともっと貢献できるように、どんな場面や役回りであったとしても、全力で腕を振りたいと思います。

 

せっかくの機会なので、家族へ向けても書こうと思います。

 

まずは大学まで野球を続けさせてくれて、本当に感謝しています。

高校を卒業するまで朝早くから弁当を作ってくれ、夜は汚れた練習着を洗ってくれて、当時は当たり前のようにも感じてしまっていましたが、1人暮らしを始めてその大変さがよく分かりました。

恩返しと言えるような活躍はあまり出来ていませんが、筑波で野球をやって本当に良かったと思っています。

最後、いい姿を見せれるように頑張るのであと少し応援してください。野球以外でも色々と心配をかけてますが、今後もかけることになりそうです、ごめんなさい。

 

 

最後に、

 

筑波で野球をするという選択をして良かったと何よりも思えるのは、一生付き合っていきたいと思える同期に出逢えたことです。

 

チームのため、立場によっては自分ではなく人のために真剣に考えて労力を費やしてくれる同期を本当に尊敬しています。

 

こんな適当な自分を支えてくれて、一緒になって考えてくれる(特にピッチャースタッフ)には本当に頭が上がりません。

 

自分は物事は何をするかより誰とするかが大事だと思っています。

 

この同期(勿論後輩も)とだからこそ、リーグ優勝をしたいと心の底から思います。

 

A.R.Eを果たし、みんなでビールかけして西尾のあれもみんなで処理しよう。

 

理工学群社会工学類4年  田之口輝毅

比叡山高校

 

 

 

 

 こんにちは。4年野手コーチの古市悠之亮です。

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援のほど誠にありがとうございます。

 

 ラストシーズンに懸ける想いということで、この秋リーグの目標と意気込みを述べようと思います。

 

目標はリーグ優勝・日本一を獲ること。

リーグ優勝・日本一を獲るために粉骨砕身の思いでチームに尽力する。

 

以上

________________________________________

 

 

 

 秋リーグに向けて想っていることは正直こんなところです。

 

しかし、今回このブログを書くにあたり、「2000字を目安に」とのことだったのでなんとか到達できるよう、生い立ち等を綴ろうと思いますので読んで頂けたら幸いです。

 

 私が生まれたのは愛知県刈谷市。

 

よく刈谷市に住んでいると勘違いされますが、住んでいるのは安城市です。

 

昔は「日本デンマーク」とよばれ農業が盛んだったそうです。家の周りは田んぼだらけ、そんな田舎で育ちました。

 

最近は「安城市ってどこ?」って聞かれたら、東海オンエアのゆめまるの出身地や新幹線が名古屋に着く前に通過する三河安城駅があるところと説明すると通じるのが少し嬉しいです。

 

 「野球がしたい」そう思い始めたのは小学1年生の頃。父がしていた野球に連れていってもらっていたのがきっかけでした。

 

2年生の頃に地域の少年野球チームに入り、3年生まではワイワイ楽しんで野球を行っていました。しかし、4年生の頃に指導者が変わり、練習などもきつくなっていきました。これまでを振り返ってみても4年から6年までの3年間が一番しんどかったです。それでも上手くなりたいと逃げることなく練習に行き続けた経験があったから今まで野球を続けてこられたのかもしれません。

 

 

 中学は少年野球チームの指導者の薦めで硬式野球のクラブチームに入りました。入団当初はそのチームが何度も全国大会に出場し、優勝したことのあるチームだとは知りませんでした。そこでたくさんの大会で優勝し、全国大会でも上位までいき、レベルの高いメンバーと一緒にプレーできたことは非常に大きな経験でした。

 

 実は中学野球引退後かなり太り、72.3キロだった体重が98キロになりました。

 

 高校は愛知県立刈谷高等学校(通称:刈高)に進学しました。愛知県の中でもそれなりの進学校であり、100年以上の歴史があります。

 

頭の良くない私は授業についていくのがやっとというレベルではなく、ついていけていませんでした。(特に英語と国語)なんとか赤点を回避するレベルでした。野球面では半年近く怪我に悩まされたことや色々あって2カ月近い奉仕活動期間など思うようにいかないことだらけでした。この3年間で野球をできることの喜びや周りの人への感謝等、多くのことを感じ、学び、精神的にも大きく成長できました。

 

一年の浪人を経て入学した筑波大学。

 

スタートはコロナで授業も部活もオンラインでのスタート。実際につくばでの生活をスタートしたのは7月からでした。練習もグラウンドが使えるのは数時間。オープン戦もなく、まったくもって野球をしている実感は湧いていませんでした。

 

一年の冬に怪我をしてしまったこともあり、思うようにプレーすることなく私の大学での選手生活は幕を閉じました。オープン戦での出場機会は1イニングの守備(捕手で7球程度)、紅白戦・天王台含めて立った打席は10にも満たないと思います。

 

それでも、2年の最後の天王台で優勝をかけた大事な試合でスタメンマスクをかぶり優勝できたこと、怪我でほとんど出場することができなかった私にもベストナインの投票で数票入って2位だったことなど楽しく終えることはできました。

 

この天王台を最後だと私の中で決めて臨んでいたこと、チームのため仲間のため、そして自分のために何ができるのかを考えた結果、スタッフミーティングでスタッフになることに対して悩む時間はほとんど必要としませんでした。

 

 野手コーチになってからはこれまでの野球の向き合い方とは異なり、マネジメントやサポートといった仕事でうまくいかずに苦労することもありましたが、チームが勝つことや仲間が活躍することが何よりも嬉しく、何にもかえがたいやりがいとなっています。

 

 余談ですが、選手を引退して思い立ったダイエット。86キロからスタートし、1カ月半で10キロ落として76キロに。そこから少し停滞しましたが、半年後には68キロまで落とすことができました。まさかそこまで落とせるとは思ってもいなかったのでびっくりでした。さすがにみんなに心配されました。

 

また、高校2年生の頃に身長が179cmになってから遠かった180cmの壁を大学4年生になってやっと突破できました。ずっと身長を聞かれた時に「179cm」と答え、「1cmくらい鯖を読めばいいじゃん」と言われても頑なに言わなかった謎の拘りも次からは自信を持って「180cm」と答えられます。←個人的にかなりうれしい出来事です。

 

それでは本題に戻します。

 

 

そんなこんなで迎えたラストシーズン

 

始めたのは小学2年生の時ですから、その時からもう15年も経つと考えるとよく続けてきたなと感じています。

 

 

人生で一番練習がしんどく、野球を辞めたいと感じた小学時代。

 

 

勝つことの嬉しさ、高いレベルを感じた中学時代。

 

 

思うようにいかず、色んな壁にぶつかった高校時代。

 

 

コロナで始まり、入学前に思い描いていた道とは異なる道を進んでいる大学時代。

 

 

学生時代のほとんどの時間を野球に費やし、多くの仲間とともに色々な経験をしてきました。そして多くの方の支えでここまで続けてくることができました。(感謝の気持ちは直接伝えていこうと思うのでここには書きません。)

 

そんな学生野球も、もう終わりだと思うとかなしいものですね...

 

 

 

「リーグ優勝・日本一」

そう想い続けて、この仲間と叶えた時の景色を想像してこの一年やってきました。

しんどいときもあったけど、本気で獲るんだと思いあえるみんなとだから乗り越えられたし、頑張れたのだと思います。

 

あと少し頑張ろう。自分のために。みんなのために。支えてくれる多くの方々のためにやりきる。

 

 

最高の仲間と最高の舞台で最高の結果を

~みんなと共に創り上げてきたこのチームで頂点へ~

 

 

大した内容ではなかったかもしれませんがここまで読んでくださりありがとうございました。

 

体育専門学群4年 古市悠之亮

愛知県立刈谷高等学校

 

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑫(日日4・比嘉悠乃/専修大松戸、体育4・轡水俊理/福岡県立福岡)

2023年08月25日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第12回は比嘉悠乃(日日4・専修大松戸)と轡水俊理(体育4・福岡県立福岡)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援ありがとうございます。
4年マネージャーの比嘉悠乃です。

 

4年生ではありますが、野球部にお世話になるようになったのは昨年4月からのまだまだ新参者です。


4年間頑張ってきた同級生が想いを綴る中、
そんな私がブログを書かせていただくなど大変恐れ多いのですが、マネージャー以外の人とはあまり話す機会がないので、少しでも想いが伝わればと思って書きたいと思います…

 

私は千葉県にある通称専松という学校で、中高6年間吹奏楽部でホルンを吹き、大学生になってからも今年2月までは、一般のマーチングバンドで活動をしていました。


マーチングという言葉に耳馴染みがない方はよろしければこちらの動画をご覧下さい…!

https://youtu.be/_P_fiJbOAtY

高校卒業後もマーチングを続けるか悩んでいた時、せっかく続けるならこのチームに入りたいというきっかけをくれたショーです。

 


野球部は、コロナ禍でも大学に行く機会ができた1年生の秋、大学生の時にしかできない経験を積んでみたいと思い入部しました。


しかし、長引くコロナ禍でなかなか思うように参加出来ず、2年次は部を離れる決断をしました。その後、大学3年生になる少し前、女子マネージャーがいなくなってしまう等のご縁が重なり、野球部でまたお世話になることになりました。

 

3年生の4月、改めて入部した初日から春のリーグ戦が始まりました。その時はルールも曖昧で、負けていたら当然残念で、勝っていたら嬉しい気持ちはありましたが、マーチングの練習で半分も球場で応援できていないこともあり、どこか他人事に思ってしまっていました。

 

しかし、毎日ひたむきに練習に励む選手、それを支えるスタッフ、それぞれの場所で頑張っている姿が本当にかっこよくて、心を動かされていきました。 


できることだけしてくれたら…と言われて入部したものの、リーグ戦やOP戦でお会いする他大学の女子マネージャーさんの姿と比べては、自分には何もできないことが悔しくて、大泣きしたこともありました。

 


その後、マネージャーをはじめとしたスタッフの先輩方や同級生がルールやアナウンスについて優しく教えて下さり、少しずつ分かること、出来ることが増えていきました。


そして気が付くと、マーチングの練習や大会で応援に行けない時は悔しくて、試合の様子が気になって仕方がないほどになっていました。

 

大学4年生になってからは、今しかできないことをしたいという想いで、楽器の活動はお休みし、野球部の活動に専念する日々を送っています。

 

枕崎キャンプや春のリーグ戦では、毎試合応援に行けるのがとても嬉しい一方で、ひしひしと伝わってくる緊張感や、筑波側のスタンドの温度が上がる瞬間に、涙がこぼれるほど一喜一憂できるようになりました。


マーチングのことを気にかけて応援してくれる方もいて、部員の皆さんからたくさんの元気をもらったからこそ頑張れたことがありました。


また、入部してからずっと女子部員1人なのは寂しいですが、先日の招待試合をはじめとした機会で、他大学の女子マネージャーさんとお話できたことも嬉しく思っています。

 

3年生という中途半端な時期からで、気を遣わせてしまう事ばかりだったと思います。


それでも、先生方をはじめとする指導者の方々、先輩方、同級生、後輩達(野球部歴は先輩ですが…)、そして拙い父母会の運営にお力添え下さる父母の方々、皆さん優しく受け入れて下さって、本当にありがとうございました。

いくつになっても、目の色変えてやりたいことがあること、そして一緒に頑張る仲間がいて、それを支えてくれる人がいること
誰かと一緒だから、あとちょっと頑張ろうができるって、とっても幸せな事だと思います。

 

野球部で過ごした時間は、そんな大切なことに気づかせてくれて、知らなかったことを知れて世界が広がった、私にとって大切な宝物です。

 

来月からの秋リーグ、入部してから4度目で、まだまだ慣れないこともあります。
それでも、微力ながら頑張る全部員にエールを贈るつもりで、自分にできることで精一杯尽力したいと思います。

 

 

最後に…
これまでずっとやりたいことを応援して支えてくれた家族や友人へ
マーチングも野球部も、やりたいことを詰め込みすぎて心配かけて本当にごめんなさい。
それでも全部やって良かったと思えているのは、弱音を吐いた時でも優しく受け止め、最後には背中を押してくれたおかげです。
感謝してもしきれません。
本当にありがとうございます。

 

私のぎこちないアナウンスも励ましてくれて、困っていたらすぐに助けてくれる、いつも一生懸命で優しい同級生、先輩後輩方がいる筑波大学の野球部だったから、マネージャーができました。


みなさん大好きです!

少しでも長く、近くで応援できますように…!

 

弊部に関わってくださっている皆様、今後とも、筑波大学硬式野球部への温かい応援をどうぞよろしくお願いいたします。

人文・文化学群日本語・日本文化学類4年 比嘉悠乃
専修大松戸高校

 

 

 

 

こんにちは。
筑波大学硬式野球部4年マネージャーの轡水俊理です。

 

平素から弊部へのご支援ご声援ありがとうございます。
リーグ開幕まで残すところあと少しとなり、自分を振り返る良い機会を頂いたので、自分なりに書き綴ろうと思います。

 

名前なんて読むと〜?
初対面の人に必ず言われる台詞です。

 

自己紹介の時に話に困らないので、この"ひすい"という名前をくれたご先祖さまには感謝しています。
この名字を絶やすことがないよう自分も頑張ります。

 


そんな私は3人兄弟の3男として生まれ、兄の影響で野球を始めました。

 

小学校では野球チームに入りたくなくて、ベッドの上で泣きながら入部届を破いたことは今でも鮮明に覚えています。

 

中学校も兄と同じ野球部に入り、高校も兄が通っていた福高に推薦で入学、大学は高校の先生の紹介もあり、筑波大に入学するという

 "自分の意思がない"  もしかしたらそんな人生を歩んできたかもしれません。

もちろん野球は好きで、やるからには勝ちにこだわりプレーしてきました。

 

そんな自分ですが、大学で初めて野球をやることに苦しみを感じました。

 

入学時から怪我でリハビリに費やした1年生の時期、イップスになりキャッチボールもできなくなった2年生の時期、正直「何のために筑波に来たんだろう」という気持ちで毎日を過ごしていました。

 

地元の人との縁も切れ… 
何か良いこと何かあったかな?

 

今振り返るとそんな下級生時代でした。

 

 

そして迎えた2年秋のスタッフミーティング

 

 

苦しい野球から離れられるという気持ちと、もしかしたら再起するかもしれない…と悩みましたが、

 

いろいろ考えた結果

 

"今までの自分とは違う自分になりたい"

 

そう思い、マネージャーへ転向しました。

 

マネージャーになって、頑固でマイペースで赤ちゃんのような幼い自分を少しは変えることができたのではないかと思います。

誰かのために、チームのために、自分にできることを探すそんな意識が芽生えた2年間でした。

 

もちろん私1人では何もできないので、同期のマネージャー含め多くの人に助けてもらいました。
みんなには、ほんとに"ありがとう"と"ごめんなさい"です。

 

また、マネージャーとして活動するなかで人と接することの楽しさを見つけることができました。
様々なご縁もあり、来年からは多くのお客様に幸せを届けるために精一杯働く予定です。

 


ほんとに自分でも自分の変わり様に驚いています。

 


選手の頃は、練習が終わると誰よりも先に帰っていた自分が、最後まで野球場に残る生活を送るとは思いもしませんでした。

 

見た目もガラッと変わりました。
1年生の時は痩せろと言われていた自分が今では心配されるくらいまで痩せました。(元気なので心配しないでください。)

 

そして常々、後輩マネージャーからは"独創独創"と言われていますが、実はこんなにチームのことを考えたことはないくらい筑波のことを考えています。

 

筑波大学硬式野球部には、チームの代表として試合に出る選手の他にも、試合で活躍するために毎日必死にもがいている人、誰かのために一生懸命サポートに徹する人、そんな "名脇役" が大勢いる集団だと思います。

 

私はそんな野球部の力になれるよう、残りの日々を過ごすつもりです。
2ヶ月後は神宮大会の準備で忙しくなっていてほしいものです。

 

最後に、自分に関わってくれたすべての人へ感謝の言葉を述べようと思います。

 


先生方、関係者の皆様へ

 

要領が悪く多大なご迷惑をおかけしたと思いますが、いつも温かいご指導をいただきありがとうございました。
お陰様で今の自分という存在があります。
本当にありがとうございました。

 


いつも遠くから見守ってくれた家族へ

 

今まで何不自由なく野球を続けさせてくれて本当にありがとう。
泣きながら始めた野球をまさか大学まで続けるとは自分でも思わんかったよ。
照れくさいけど、頻繁にかかってくる電話に実は救われることもありました…
今まで支えてくれてほんとにありがとう。

 


チームのみんなへ

博多弁でよく分からん存在の自分に対して、優しく程よく接してくれてありがとう!
欲を言うと、応援バスに乗ってスタンドで試合を見たいけんそこだけなんとか頼みます!
あと、引退したらピッチャー野球も参加したいです。(肩の準備はぼちぼちしときます)
それと、酒癖が悪くてほんとごめんなさい。
(ほとんど覚えてませんが…)

 


やっぱり最後に本音を言わせてもらいます。

連盟マネとして本部席からリーグ戦を見ていると、自分もあのマウンドに立ちたかったなぁ〜って思っちゃう時があります。

 

それでも、それ以上に心が奮える試合を繰り広げてくれる選手の姿を見て、鳥肌が立つあの感覚が忘れられません。

 

"筑波のマネージャーになれて良かった"
ほんとに"ありがとう"この一言につきます。

 

keep smiling!!

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

体育専門学群4年 轡水俊理
福岡県立福岡高等学校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑪(体育4・夏目慎也/時習館、体育4・西尾壮太/松阪)

2023年08月24日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第11回は夏目慎也(体育4・時習館)と西尾壮太(体育4・松阪)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

こんにちは。筑波大学硬式野球部4年の夏目慎也です。日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援のほどありがとうございます。

 

せっかく、このような機会をいただいたので、まずは私のバックグラウンドについて、軽く書こうと思います。ニューヨークメッツで活躍している千賀滉大選手の出身でもある、愛知県蒲郡市が私の地元です。とにかく過ごしやすくて、大高くんが、「次いつ行くよ」と満面の笑顔で度々、誘ってくるくらいに良い街です。

 

 

 

そんな蒲郡市で生まれ育った私は、仲の良いTくんに影響されて、形北ファイターズで野球人生をスタートさせました。その後、中学時代は形原中学校野球部と蒲郡BBCの二刀流で野球に打ち込み、時習館高校で硬式野球デビューをし、現在に至ります。

14年間、野球を続けているわけですが、当時を知る方々の中に、私がここまで長く野球をすると思っていた人はほとんどゼロに近い気がします。

 

 

そう感じるほどに、野球が上手くはありませんでした。他の種目の方が成績を残すことが出来たかもしれません。

 

それでも、ここまで続けてきた理由は、野球というスポーツが好きだということと、野球を通じて得られる経験が、常に刺激になっていることにあります。

 


私の過去について軽く振り返ったところで、本題に入ろうと思います。

 

ラストシーズンに懸ける想いということで、あれも書きたいこれも書きたい状態に陥る所でしたが、ぐっと堪えて2つに絞りました。私の優柔不断ぶりを知る両親は、ここで私が2つに絞る時にどれだけ悩んだか、容易に想像できると思います。

 

しかし、22歳になった今、優柔不断さは改善されてきているので、安心してください。ちなみに、1週間では足りませんでした…。
(全然改善されてないじゃないか!)

 


1つ目は大学野球をしてきた人間が陥った悩みとそこから学んだことについてです。

 

野球をしていて、どのような時に楽しいという気持ちが生まれますか?

 

例えば、ある人は、ヒットを打った時に。
またある人は、練習終わりに仲間としゃべってる時に。と、それは人それぞれです。

 

 

私は、この「楽しい」という気持ちがスポーツの源泉であると思っています。大学野球というステージまで野球を続けてくると、競争が激しくなってきたり、自分のやりたいことばかりさせてもらえなくなったりと、どんどん結果にフォーカスされるようになってきます。

 

 

そのため、「最近、肩身狭いんだよね」「野球が楽しくない」といった言葉を漏らす仲間が現れ、私自身も「なんで今、野球をしているんだろう」とひたすら考えたことがありました。

 

 

1~3年生にも、このようになった人、今まさに悩んでいる人がいるのではないでしょうか。私はこの状態を悪いとは思いません。むしろ、それだけ目の前のことに、野球に、真剣になっているからこそ生まれる悩みや不安なのだと、今になって思えるようになりました。

 

問題は、この悩みをどう乗り越えるかにあります。ここには、模範解答となるものは存在しないと思います。なぜなら、歩んできた野球人生は千差万別であり、楽しいと感じる基準も異なるからです。

 

 

しかし、答えのないまま文を終えてしまうと気持ち悪いので、そういう人はとりあえず、自分のこれまでの野球人生を振り返ってほしいと思います。その中で、自分が一番輝いていた瞬間や楽しかった瞬間を思い浮かべてください。野球を始めたきっかけまで遡ってみてもいいかもしれません。

 

 

そして、それを今と比較してください。誰でも考え付くようなシンプルな方法ですが、これが案外効果的です。

 

 

結果を追い求める中でも、自分が「楽しい」と思える瞬間を、現在の野球生活に少しでも多く見出すことが出来れば、見方や考え方に幅が生まれ、気持ちが楽になると思います。

 

 

社会人になる前に、このような物事の考え方が出来るようになったことは私にとって、大きな収穫です。ぜひ、後輩には「楽しい」という気持ちを忘れずに、野球に打ち込んでほしいと思います。

 

体育・スポーツ哲学研究室に所属しているので、哲学チックな内容になってしまいましたが、お許しください。

 


2つ目は、感謝です。

 

こう見えて私はものすごく涙もろいので、過去のことを思い出しながら書いているだけで涙が出そうになってきます。まずは、私の野球人生に関わってくださった方々へ。

 

この野球人生は、本当に様々な方の支えがあって、成り立っています。

 

たくさん道具を買ってもらいました。

 

たくさんケガをしましたが、その都度、対応とケアをしてもらいもらいました。

 

たくさん笑いあったり、時には泣きあったりしました。

 

この一瞬一瞬は私にとって、宝物であり、今後も大事にしたい思い出です。また機会があれば、お話ししたり、ご飯・飲みに行きましょう。

 


次に、家族のみんなへ。一人暮らしを始めて以降、家族のありがたみを毎日のように感じています。

 

 

家に帰ればご飯を用意してくれて、練習で泥だらけになったユニフォームを何も言わずきれいに洗ってくれて、文句言わずに送迎してくれて、応援を近くでずっとしてくれてetc…

 

書き始めたらキリがないくらい、感謝したいことは山ほどあります。のびのびと学生生活を過ごさせてもらいました。

 

家を離れ、成人になった以降も、変わらずに支え続けてくれてありがとう。もう少しだけ、僕のわがままに付き合ってください。次の帰省の時には、必ず大学野球やりきってきたよという顔を見せます。

 


最後に、野球部のみんなへ。

これは筑波の良いところでもあり、悪いところでもあるのですが、ここまでバックグラウンドが多様で、根がクソ真面目な集団は他にないと思います。

 

入学前は、なんとなくエリート集団かなと思っていたのに、いざ入ってみれば、とんでもない言動や行動をする人や、誰にも譲れない唯一のワールドを持っている人がいて、毎日が発見の連続でした。

 

 

同期ですら、今でもそうだったの!?という発見がある人がいるくらいです。そんな愉快な仲間たちと過ごす時間も少なくなってきました。

 

 

普段は恥ずかしくて言えることではないですが、みんなに出会えて本当に良かったと思っています。
ありがとう。

 

少しでも長く、みんなと野球がしたいです。そして、ラストは笑顔で、大学野球は「楽しかったな」で締めくくりたいです。

 


『共創』で次こそは、獲りましょう。

 

私の伝えたいことは以上になります。
1人でも多くの人に伝わってくれたら、嬉しいです。

 

 

拙い文章となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。


体育専門学群4年 夏目慎也
愛知県立時習館高等学校

 

 

 

 

こんばんは4年外野手の西尾壮太です。

 

小学1年生から始めた野球人生が終わりを迎えているかと思うと、エモいですね。
私は、センター試験の国語で89/200という衝撃的な点数を叩き出しているので、拙い文章になると思いますが、最後までお付き合いください。

 

まず、自分のことを振り返ってみたいと思います。

 

大学1年生の時は、右も左もわからないのでとにかく練習しました。

 

2年生になると徐々にAチームに呼ばれることも増えました。しかし、Aチームの練習について行くので必死でした。下手すぎて練習を外されたこともありましたし、先輩方から厳しい意見をたくさんもらいました。

 

そして、大学3年生になり、春先に左足の肉離れをしてしまって春リーグの開幕には間に合いませんでしたが、リーグ戦に途中から出場することができ、ヒットも打つことができました。
この時は本当に嬉しかったです。

 

その後、リーグ戦も終わり、これから秋に向けてレギュラー争いに勝って、スタメンで出てやると思って意気込んでいました。また、このタイミングで出場機会を求めて内野手から外野手に転向しました。

 

6月の紅白戦、一回裏、堀江くんが打った打球を飛び込んだ時に左肩を脱臼しました。

 

この時は、かなりの期間離脱してしまい、復帰できたのは帰省期間が明けてからだったと思います。

 

リハビリ期間もしんどかったですが、リハビリが明けてからが地獄でした。
好調だったバッティングは完全に見失っており、外野の守備は目を当てられませんでした。

 

この時期からBチーム生活が続きます。Bチームの試合でも全く結果を残せない日々が続きました。その間にも同級生や下級生が結果を残してどんどん活躍していきました。

 

自分だけが取り残されていくという感覚や結果が出ないことへの不安と焦りから練習量が増えていきます。オフ返上で練習もしました。その練習でオーバーワークになり、疲労は抜けないまま試合して、体は動かないので結果は出ません。それで、また不安と焦りで練習するという負のスパイラルにハマって行きます。

 

もちろん結果は残りません。出発機会も減って行く一方です。

 

その時、「こんなにやっても結果出ないし、自分より練習していないやつでも結果が出てるんやったら、俺がやってることって無駄なんじゃないか」という気持ちで心がいっぱいになりました。

 

そうするとバットを振ることすら怖くなり、「どうせ、練習しても結果出ないんやから、練習なんかやめてしまおう」

と思うようになり腐りかけていました。それでもなんとか踏ん張りながらやっていました。

 

4年の春はAチームからスタートしましたが全く結果を残せず春リーグの10日前にBチームになりました。さすが、この時は心が折れました。

 

この時くらいから結果が出ない不安と結果を出さなければいけないという焦りから夜寝れなくなりました。

 

薬を飲まないと寝れない日々でした。また、食欲も無くなり1週間で3キロくらい体重も落ちました。

 

それでも、4年生で選手として残っている責任から練習はしていました。でも、もう野球が楽しいとか、ヒットが嬉しいという感覚はありません。

 

そして、後が無い状態で挑んだ最後のトライアウトで全く結果を残せず、4年生の夏に配属されたチームはCチームでした。

 

この時は、悔しいとかの気持ちよりも「終わったー」って感じでした。

 

でも、この時に転機が訪れました。キャプテンの西浦から、「結果を出すことに執着しすぎて、野球楽しめてないのでは?」といった内容の動画が送られてきました。

 

完全に心が荒んでいたので、野球で結果を残せるやつの綺麗事だなとその瞬間は思っていました。(ほんまにごめん、西浦)

 

でも、数日たつともう少しで選手をやめるのだから、最後の一か月くらいは野球を楽しんでみようと思ってグランドに行っていました。

 

そうすると、不思議なことにヒットが出始めます。怪我人の補充で呼ばれたAチームの試合でヒットが打てました。その後も、今までが嘘のようにヒットが打てます。

そして、今Aチームにいることができています。不思議なことがあるものです。

 

上級生になってから「もう野球を辞めよう」と真剣に何度も思いました。
本当に苦しく、辛いことばかりでした。何回野球辞めたいと呟いたかわかりません。

 

それでも、辞めなかったのは仲間や周りの人達の支えと野球部のスーパー外部コーチの東條さんの言葉があったからです。

 

その言葉とは、

「Success isn’t linear」

日本語に訳すと

「成功は直線的ではない」

 

この言葉は、3年生の秋ごろに悩んでいた時に東條さんからいただいた動画の題名でした。

 

どんなに結果がでなくても、諦めそうになりながらこの言葉と周りのサポートがあったからこそ最後まで、野球を続けることができたんだと思います。

 

今まで、結果も出ていないのにたくさんの人にバッピをしてもらったり、ノックを打ってもらいました。(特に、塩田、れいじ、慎太郎ありがとう)

 

大地、逸聖、夏目たくさん守備を教えてくれてありがとう。

 

辛い時、苦しい時、話を聞いてくれたり、アドバイスをしてくれる仲間もいます。

 

川村先生、東條さん、つくばに挨拶行く行く詐欺をしている木村匠汰さんなど、これまで多く指導者に恵まれました。

 

両親もここまで野球を続けさせてくれてありがとう。一人暮らしをするようになって、自分にどれだけのお金と労力がかけられているのかが分かりました。この恩は絶対に返します。

 

そして、ラストシーズンにかける想いは、
今まで支えてくれた人達に恩返しをしたいということです。

 

それはリーグ優勝、日本一ということでしか出来ないと思います。この目標のため、このチームのため、支えてくれた人のため、最後の最後まで戦い抜きたいと思います。

 

最後に、私は今のチームが大好きです。一体感があって学年間の仲も良いが、時には厳しい意見を言いあえるのは信頼関係があるからだと思います。また、局の活動などで多くの部員が野球以外でもチームに貢献していると思います。

 

そんなすごい部員がいるこのチームだったらリーグ優勝、日本一を達成できると信じています。秋リーグは、みんなでリーグ戦優勝、日本一を掴み取りましょう!

 

体育専門学群4年 西尾壮太
三重県立松阪高校

 

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑩(体育4・寺澤神/鳥栖、体育4・中澤篤樹/県立相模原)

2023年08月23日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第10回は寺澤神(体育4・鳥栖)と中澤篤樹(体育4・県立相模原)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

平素より筑波大学硬式野球部のご支援、ご声援ありがとうございます。
4年投手の寺澤神です。

 


今年もついにラストシーズンブログの時期が来ました。去年はブログの執筆を先輩方にお願いし、集めて投稿する側だったのに、もうラストシーズンブログを書く側になってしまいました。時の流れがとても早く感じます。

 

筑波で過ごした日々はあっという間でした。この前入学したのに気がついたらたくさんの思い出を語れるようになってました。

 

それだけ筑波で過ごした日々が濃い時間だったのだと思います。

 

本当に筑波大学硬式野球部に入ってよかったです。

そんな筑波でのことを少し振り返ってみようと思います。

 

まず自分が筑波で野球をしようと思ったのは、高校3年の夏、甲子園まであと一歩届かなかず、野球を諦めきれずにいたところ、兄の友達の野球部の方に練習会に誘っていただき、そこで筑波の雰囲気に惹かれたからです。

 

そして学校の成績もひどく、先生方にも受かるはずがないと思われながらも猛勉強の末、合格することができました。

 

無事合格し、希望に満ち溢れてた矢先、コロナが流行して、思うように活動できませんでした。つくばに来たばかりの時、野球部のみんなと公園で野球の練習時間よりも長くサッカーをしていたのが懐かしいです。

 

活動が本格的に始まると投手陣の先輩方や同級生のレベルの高さを目の当たりにしました。

 

その時リーグで投げることがはるかに高い目標だと感じ、中々先が見えずにいました。

 

そんな時に自分に成長のきっかけをくださったのが波戸さんです。波戸さんの動作解析の実験に協力して、自分に足りない部分が何なのかを教えていただきました。波戸さんのご指導がなければここまで自分が成長することはできませんでした。本当に感謝しています。今後ともご指導よろしくお願いします。また飲みにも連れて行ってください。

 


そして3年生の春リーグの開幕戦西館さんと滉典が怪我をしていて、先発の魁が珍しく打たれて、普通だったら投げることのないポジション(頭ハプ)だった自分が運がいいことに登板機会が回ってきてリーグデビューを果たすことができました。その日は3回無失点と結果を残すことができました。

 

このチャンスをものにできていなかったら、今の自分はなかったでしょう。だから後輩たちには「チャンスは必ず来る。そのいつか来る数少ないチャンスをものにするために努力を続けろ」ということを伝えたいです。なんか自分ごときが偉そうにすみません。

 


そんな春リーグは4位に終わりました。次の秋リーグは2位で関東大会に出場しました。自分は関東大会で満塁のピンチで登板したもののワイルドピッチで相手に大きな1点を与えてしまいました。今でもあの1点がなければと何度も思い出しては悔やんでしまいます。

 


そして新チームとなり、4年の春リーグは3位で1試合の重みを感じたリーグでした。

 

そしていよいよ迎えるラストシーズン、自分は今のチームが大好きです。一体感があり最高のチームだと思います。ずっと悔しい思いをしてきたので、ラストシーズンはどうしても勝ちたいです。日本一のために自分ができることは投げるだけですが、不敗の神としてチームを勝利に導きたいと思います。


少し振り返ると言いながら長々と振り返ってしまいました。自分語りばかりになってしまいすみません。
最後にこの場を借りて指導者の方々、両親、部員のみんなにメッセージを残したいと思います。

 

指導者の方々へ
川村先生をはじめ今までご指導くださった皆様、丁寧なご指導、毎回新たな発見のあるアドバイスをありがとうございました。おかげさまで日々成長できて、楽しみながら野球をすることができました。

 


両親へ
小学校から今まで野球を続けさせてくれてありがとう。またいつも秘境佐賀県から応援に来てくれてありがとう。今まで野球を続けてきたのは、自分が活躍してお父さんとお母さんが喜んでくれる姿を見たかったからというのもあります。だからラストシーズンも応援に来て欲しいです。お父さんとお母さんが来てる試合は不思議と毎回抑えられます。秋リーグも応援よろしくお願いします。

 


部員のみんなへ
今のチームはそれぞれがいろんな立場で役割を全うし、チームに貢献していると思います。それが筑波の強みである一体感に繋がっていると思います。まさに今のチームのスローガンである「共創」です。(ちなみに余談ですが、「共創」を提案した本人です。)秋リーグは全員でリーグ優勝・日本一という新たな歴史を共に創りあげましょう!!

 

 

体育専門学群4年 寺澤神

佐賀県立鳥栖高校

 

 

 

 

「時間」
今、このブログを読んでいるあなたは大切にできていますか?私は大切にしていたつもりができていなかったこの大学生活だった気がします。

 

こんにちは!筑波大学硬式野球部で学生トレーナーを務めます、中澤篤樹と申します。平素より筑波大学硬式野球部への応援ありがとうございます。あまり表立った活動をしてきたわけではないので、私のことが全てわかるエピソードを紹介します。

 

 

2019年、神奈川県高校野球大会準々決勝、相手は名門横浜高校。先発投手に抜擢された私は、横浜スタジアムの大観衆の中、マウンドに上がりました。投球練習を7球投げ、いざ試合!すると、5球でツーランホームランを浴びてしまい、降板。試合はその後、神奈川県の高校野球史に残るものとなりましたが、私の中では、苦い経験となりました。

 

 

ということを野球部のみんなからいじり倒されるやつです。後輩のみんな、話を聞きたかったら是非どうぞ。(それと筑波の野球部で県相のスーパースター石毛大地と不仲説が頻出するのはなぁぜなぁぜ?)


冒頭の「時間」の話に戻りたいと思います。「時間」は有限とよく言われますが、実感できることは少ないと思います。私もその1人でした。大学生活を通じて、それは変わりました。私たちの学年は、コロナ禍の中で入学し、オンライン授業が大半を占めていました。

 

そのため、各自の時間が増え、現在よりも練習に費やせる時間が多かったと思います。しかし、その「時間」を大切にしようとする姿勢がなかったせいで、今私は実力不足で選手を続けていられないのだと思います。

 

「アツい」しか言わない2個上の投手トレーナー森健太さんには、よく「お前って練習はたくさんするけど、グランドにいる時間長すぎじゃね?俺だったらパッとやってすぐ帰るけどね。」と言われてきました。そのように、選手時代の私は、時間を有効活用できていなかったと思います。

 

 

大学2年の秋に、学生トレーナーに転身した時も「あ、もっとやっとけばよかったな。」とは思いませんでしたが、「もっと有効な練習時間の使い方があったんじゃないか。」と思いました。そんな時、メジャーリーグで活躍するダルビッシュ有投手のエピソードを目にしました。

 


このままじゃ一軍半とか二軍の選手になっちゃうと思って「何かを変えなきゃいけない」と思ったんです。それまでの人生が約20年だったんですけど、「この20年が一瞬だったから40歳まで一瞬じゃん」と思って。

 

これはあくまで僕の考え方なんですけど、
頭の中で「自分が40歳になってクビになって何も仕事がないっていう状態」になろうって思ったんですよ。それで自分の前に神様が現れて「1回だけチャンスを上げるから20歳の時に戻っていいよ」って言われたら、みんな過去に戻って絶対努力するじゃないですか。それで今「戻ってきた」っていうことにしようと思ったんです。

 

そしたら「やらなきゃヤバイ、やらないとまた同じことになる」ってなるじゃないですか。

 


このエピソードは、私の心に突き刺さりました。

 

このくらいの意識でないと、その道のプロにはなれないのだと。その日から、私はなるべく時間を大切にし、行動するように心がけています。

 

その点、同期の榊原慎太郎は、今に全てを懸けて生きているように思えて、率直にすごいなあと思います。そんな榊原だからこそ後輩がついてくるのだと思います。

 

 

また、「野球」という時間の使い方を教えてくれ、そこに全力を注げるようなサポートをしてくれた両親には感謝してもしきれません。基本的に放任主義で自分のやりたいようにやらせてくれたおかげで様々な経験ができたと思っています。ありがとう。

 

「時間はお金では買えない」
どんなにお金持ちでも、20歳には戻れません。喉から手が出るほど欲しいものを今私たちは持っています。その時間をどう使うかは、私たち次第です。後悔のないように、これからのリーグに向かっていきたいです。

 

掴み取ろう。
リーグ優勝、日本一。

 


体育専門学群4年 中澤篤樹

神奈川県立相模原高等学校

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑨(体育4・高木朋紘/長田、体育4・竹本光之介/兵庫)

2023年08月22日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第9回は高木朋紘(体育4・長田)と竹本光之介(体育4・兵庫)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

平素より弊部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

4年投手トレーナーの高木朋紘です。

 

既に野球をしていた兄と野球好きな祖父の影響で幼稚園の頃から野球と触れ合い、今日まで約17年間野球を続けてきました。
今回は、その17年間を振り返りながら、ラストシーズンに懸ける想いを書こうと思います。

 


僕にとって、この17年間は「伸び悩み」の野球人生だったと思います。


入学と同時に入部した「北須磨エンジェルス」は、"超"弱小チームでした。
かろうじで人数が揃い、初めて挑んだ試合は、0対18・3回コールド負け・全者連続三振。
次こそはと意気込んだ2試合目も、0対36・3回コールド負けでした。

 

こうして、ある意味鮮烈なデビューを飾りましたが、4年生の時に、「東須磨少年野球部」に転部し、これが僕の野球人生のターニングポイントとなります。

 

東須磨少年野球部の練習は、まさに「鬼」です。

 

30分の体幹トレーニングと30分間走から練習が始まり、地獄のように長いノックやいつ終わるか分からないランメニューなどを、時にはしばかれながら丸1日練習に取り組んでいました。

 

しかし、その鬼の練習が実を結び、小学校6年生の時には、オリックス・バファローズジュニアに選出されました。

 

この経験により、プロ野球選手という夢が確固たるものとなり、野球も勉強も誰にも負けないために何事にも人よりこだわって取り組むようになりました。

 

そして、野球も勉強も常に1番でありたいという思いを実現するために、高校は文武両道を掲げている長田高校に進学しました。

 


しかし、現実は甘くありません。

 


高校に入学して1年の夏からメンバー入りしたものの、秋頃から投げてはストライクが入らなくなり、打ってはバットにボールが当たらないようになってしまいました。


気づいたら、勉強も学校のテストで320人中318位になっていました。

 

しかし、これが本来の自分じゃない、自分はもっとできると自分に言い聞かせていました。
今の自分に納得できず、PPやタイヤ押しをひたすら繰り返していたら、部員に止められた覚えもあります。

 

オリックス・バファローズジュニアに選出され、投打に渡って活躍していたあの頃。
テストで1位をとっていたあの頃。
そんな過去の栄光にすがっているだけで、夢を実現させるためにやるべきことを明確にできていなかったように思います。

 

3年になってからはエースを担ってはいたものの、自分が描いていた成長曲線からどんどん離れていることを身に染みて実感しました。

 

そして、野球も勉強もできない自分に目を背け、わずかな可能性を信じて、筑波大学に進学しました。


しかし、やっぱり結果を残すことができません。


1年の秋頃からAチームに昇格しましたが、リーグ戦に出場することはありませんでした。

 

これが本来の自分じゃない、自分はもっとできるという思い込みもいつしか薄れ、プロ野球選手になるという夢も恥ずかしくて周りに言えなくなり、自分の内に秘めるようになっていました。
野球に対して燃え尽きたような、やりきったような感じがしました。


そして、僕は学生スタッフになることを決意しました。


野球で常に1番でありたいという自分のプライドを捨て、幼い頃から強く持ち続けた「プロ野球選手」という夢を諦めてまで、17年間続けてきた野球をなぜやめなかったのか。

 


それは、僕の野球人生が、「常に周りの環境や人に恵まれてきた」からだと思います。


僕が今、選手ではなく投手トレーナーとして頑張れているモチベーションの源泉も、自分ではなく筑波大学硬式野球部の部員にあります。
本人に伝えたことはありませんが、特に主将の西浦には大きな影響を受けました。

 

スタッフになり、周りに目を向ける機会が多くなったことで、チームが勝つためにこんなに努力をしている部員がいるということに改めて気づきました。


そして、今まではライバルだった仲間が、試合で活躍しては喜び、ミスしては悔しがり、本当に純粋な気持ちで仲間のプレーを応援できるようになりました。

 

他の選手だけでなくスタッフに対しても気を配り、行動してくれる仲間がいたからこそ、投手トレーナーの仕事を頑張ろうと思えます。


この仲間がリーグ戦で活躍するために最大限サポートしようと思えます。
そして、この仲間とリーグ優勝・日本一という最高の景色を共にしたいと思えます。


他にも、野球を通して多くの人との出逢いに恵まれました。


野球の技術や楽しさを厳しくも愛を持って指導して頂き、卒部して10年近くが経った今でも気にかけてくださる東須磨少年野球部指導者の徳さん、朝倉さん。

 

夢を実現させるために、何事も妥協しないことの大切さを教えて頂いた中学校の担任の先生である高山先生。

 

常に自分の目標として追いかけ続けた長田高校の先輩(現DeNA)の橋本達弥さん。

 

選手から学生スタッフになろうと思い始めた頃、親身になって話を聞いてくれ、応援してくれた地元の友達。

 

野球の時も、授業の時も、遊びの時も、顔が見飽きるくらい時間を共にした同期。

 

その他にも、習字教室で東須磨少年野球部に誘ってくれた塚田さんや、トレーナーとしての仕事を通して常に刺激を与えてくれた後輩など、挙げたらきりがないですが、野球人生を通して本当に多くの素敵な出逢いに恵まれました。

 


17年間、野球を続けてきてよかったと思える最大の理由です。

 


特に、両親には感謝の気持ちでいっぱいです。
野球をする上で、「やりきった」と思えずに引退するだろうと思っていたけど、野球を「やりきった」と心の底から思えるまで、この17年間野球を続けさせてくれてありがとう。
選手から投手トレーナーに立場は変わったけど、最後まで自分の立場を全うし、少しでも恩返しができるよう頑張ります。

 

そして、祖父は常に僕の1番の味方で居続けてくれました。
小さい頃から野球道具を買ってもらい、練習も一緒にし、結果が出ない時も「ともが1番のピッチャーや」と常に言ってくれました。
試合が終わる度に、家に電話をかけてくれ、良かったプレーを褒めてくれました。
当時は、また電話か、と思っていたこともあったけど、今思えばその言葉が、結果が出ず辛い時の大きな心の支えになっていました。

もうプレーで結果を残して恩返しをすることはできませんが、チームの一員としてかっこええ姿を少しでも見せられるように最後の数ヶ月頑張ります。

 


泣いても笑っても野球人生最後のラストシーズン。


今までの野球人生で、自分が選手として野球を楽しんだことはありません。
ただ、今スタッフとして選手の野球を支えていることには、非常に大きな楽しみを感じています。

 

中学の時、試合用帽子の裏に書いた「全国制覇」
高校の時、目標シートに書いた「甲子園優勝」
昔は、周りの目線を気にしながら恥ずかしげに書いた言葉も、今は胸を張って言えます。

 


「恵まれたこの同期と、リーグ優勝・日本一を達成し、最高の景色を共にしたい」と。

 


僕が出来ることは些細なことかもしれませんが、少しでもチームの勝利に貢献できるよう、邁進していきます。

そして、「野球をやってよかった」と思わせてくれた、全ての人に少しでも恩返しができるよう、ラストシーズン最後まで一生懸命頑張ります。

 


最後に。
このチームを引退する時には、輝かしい活躍をしたことも、挫折を味わったことも、学生スタッフとしてチームを支えたことも、全て自分の財産となり、「野球をやってよかった」と思えるようにしたいです。

体育専門学群4年 高木朋紘

兵庫県立長田高校

 

 

 

 

4年の竹本光之介です。

もう自分がこの文章を書く時期になったのかと、時の流れの速さに驚かされます。自分は本当に文章を書くのが苦手で、上手く伝えたいことを伝えられるか分かりませんが最後まで読んでいただけると幸いです。

 

まず初めに感謝を伝えたい先輩がいます。

 

尾上さんと傳谷さん。2人の先輩には本当にお世話になりました。

 

未だに、頑張ってるか?と電話をくれたり、ご飯に連れて行ってくれて相談を聞いてくれたり、自分が大学野球を最後までやりきれたのは2人の先輩がいたからと言っても過言ではありません。なかなか感謝の気持ちを伝えられる場面がないのでこの場をお借りしてお礼を言わせてください。本当にありがとうございました。

また、今後も自分のお世話をよろしくお願いします。笑

 

さて、筑波大学硬式野球部では、本当に多くのことを学びました。

 

増量のために栄養管理のLINEグループに入って、初日にケンタッキーを食べてはいけないとか、扁桃腺摘出の手術をわざわざ地元に帰ってやってはいけないとか、練習の最大のモチベーションは帰省であるとか。

 

というのは冗談で、目標に向かって本気で物事に取り組むことの大切さや、150人規模の団体の一員であるという責任感を持つことの大切さなどを学び、高校までの自分がいかに甘い考え方をしていたのか痛感しました。

 

そんな中で、私にとって最も大きな学びとなったことがあります。

 

それは「両親への感謝」です。

 

今となってはこのように思えますが、過去の自分はそうではありませんでした。特に中学時代の自分は反抗期が激しく、母親とは喧嘩の毎日で、さすがに女性に手を出すことはできず、抑えきれないイライラをぶつけた自分の部屋の扉には大きな穴が今でも空いています。(働き出したらちゃんと直しますすみません。)

 

あの時の自分を客観的に思い出してみると、本当に手に負えないクソガキだったなと思います。

 

しかし母親はそんな自分に対しても、野球をすることを全力で支えてくれました。

 

練習時の弁当を作ってくれたことやユニフォームの洗濯、練習試合をわざわざ見に来てくれたりもしました。

 

そんな母親を裏切るような発言や行動をしてしまった自分が本当に情けなかったなと思います。ごめんなさい。

 

父親も同じように、私の野球を全力で応援してくれました。私の父親はTHE関西の親父という感じで、普段から明るく話すのが好きな父親です。

 

そんな父親が私の前で涙を見せたことが2度あります。それは祖父が亡くなった時と、私の高校野球が負けて終わった時です。

 

この2つを並べて比べるのも表現として正しいのかわかりませんが、それくらい自分の野球に対して全力で応援してくれていたのかと思うと胸が熱くなります。

 

また、私が小学生の時に少年団のコーチをしてくれていたのですが、単身赴任で関東で働いていた時期も毎週末、神戸に帰ってきてくれて自分のために野球を教えてくれました。

 

現在関東に住む自分が、平日は朝から晩まで働いて、週末は神戸に帰るという生活を想像するだけで息が上がってしまいそうです。

 

そんな大変なことを父親は自分のためにやってくれていたのに、小学生だった自分はそれがいつしか当たり前になっていて、感謝の気持ちを忘れていたように思います。ごめんなさい。

 

このブログを書きながら過去のことを思い返していますが、私は両親に本当に迷惑ばかりかけているなと思います。反対に、両親は常に自分のことを全力でサポートしてくれました。

 

自分も将来子供ができて親になることがあれば両親のような親になりたいと心の底から思います。

 

今まで積み上げてしまった数えきれないほどのごめんなさいという謝罪の気持ちを、今後の人生でありがとうという感謝の気持ちで返していきたいと思います。

 

ありがとう、おかん、おとん。

最後になりますが後輩と同期に伝えたいことがあります。

 

まずは後輩に向けて。

それは両親の支えなしではまだまだ子供の自分たちには何もできないということです。

 

これは野球に限らずです。そんなことわかってるわとツッコまれそうですが、これは意外と忘れがちなように思います。

 

自分もそうだったのですが、どれだけ頑張っても結果が出ず、モチベーションが保てない時期が誰しも来ると思います。

 

そんな時は一度両親のために頑張ってみてはどうでしょうか。私自身も高校までは自分が結果を出すために、自分が達成感を得るために練習していました。

 

しかし、それだけでは大学野球を乗り切るのは難しいように思います。自分がリーグ戦に出て活躍することで誰かが喜んでくれるという想像をすれば、もう少し頑張ってみようという気持ちになれるかもしれません。

 

惜しくも私はリーグ戦にベンチ入りはできたものの、試合に出場するという目標を未だ達成できていませんが、下級生の頃にCチームからスタートした自分がAチームの試合で使ってもらえるまでに成長できたのは、先輩や同期の支えがあったのももちろんですが、この心の持ち方をしていたことも大きな要因だと思います。

 

また、リーグ戦のベンチに入れる人数には限りがあり、全員がリーグ戦出場の目標を達成できるわけではありません。

 

しかし、たくさんの理不尽や辛い練習を乗り越え、目標に向かって必死で取り組むというその過程自体に最大の価値があるのだと私は思います。

 

だから後輩のみんなが引退を迎えた時にどのような結果であれ、後悔がなく、やり切って良かったという清々しい気持ちでいられることを切に願っています。がんばれ!!

 

次に同期に向けて。

 

まず、Bヘッドの榊原に感謝の気持ちを伝えたいです。

 

スタッフミーティングを終えて、選手として残してくれた自分ですが、結果を残せないどころか、練習への取り組みも中途半端でした。そんな時に「中途半端なことするなら選手をやめろ」と言って、自分の行動の愚かさに気づかせてくれたことに本当に感謝しています。

 

あのまま選手を続けていたらAにも一切呼ばれないただのチームのお荷物になっていたと思います。本気で向き合ってくれてありがとう。

 

他にもみんなに伝えたいことはたくさんあります。俺はお前たち(特に今津西浦)にバカにされて笑われることにすごく腹が立ちます。普通にキレます。

 

けど、そんなみんなが本当に大好きです。これは本心です。

 

つくば駅に迎えに来てくれと言われても行かないのは嫌いだからじゃありません。めんどくさいだけです。

 

そんな大好きなみんなとリーグ優勝、日本一を達成できること以上に幸せなことはないと思います。最後の最後でみんなで笑って、うまい酒飲もうな!!

体育専門学群4年 竹本光之介

兵庫県立兵庫高校

 

 

 

 

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ラストシーズンに懸ける想い⑧(体育4・佐藤耕平/弥栄、教育4・鈴木康平/山形東)

2023年08月21日 20時30分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第8回は佐藤耕平(体育4・弥栄)と鈴木康平(教育4・山形東)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

こんにちは。
4年の佐藤耕平です。

日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援のほど誠にありがとうございます。

 

正直なところ、どんなことを書こうか迷っているのですが、今回は自分の性格について少し掘り下げていきたいと思います。

 

自分のイメージを部員に聞くと、「何を考えているかわからない」、「独特の世界観を持っている」といった印象を持っているという返答がよくあります。
あながち、間違ってないなと自分でも思っています。これは自分の性格が不器用だけど、こだわりが強いからだと思います。

 

1・2年生の頃はどうやったら上手くなるのかがわからず、質より量でボールが暗くて見えなくなるまで自主練していたのを覚えています。遅くまでノックを打ってくださったり、トスを上げていただいたりした当時の学生コーチの方々には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。あの時はありがとうございました。

 

そんなこんなで、2年生の終わりから3年生になるにかけて、自分の野球史上トップに近い挫折を経験をしました。この時は練習しても上手くなるイメージが見えない。

 

なんでこんな辛い思いをしてまで野球をやっているのか。

 

人生で今までにないくらい野球が精神的に辛い時期でした。しかしながら、この時期に野球と自分に向き合えたからこそ不器用なりに考えることの重要性について理解できました。

 

 

僕は全国大会の出たこともなければ、大学でレギュラーとして試合に出続けてこられた選手ではありません。

 

そんな僕であっても必要としてくれる人のために、ワンプレーを不器用に泥臭く一生懸命にやりぬくことが唯一自分にできることだと思います。一人では到達することのできない全国の舞台、またその先にある日本一という目標を今の筑波大学硬式野球部のメンバーで成し遂げたい。

 

本気でこの目標を持った同期が近くにいたからこそ、今でもこの目標を実現したいと思えています。記憶だけではなく、記録に残る結果をこの秋シーズンに創りましょう!

 

 

家族へ
5歳から現在まで野球を続けさせてくれてありがとうございます。
これまでの支えがなければ、大学まで野球を続けてくることはできませんでした。
最後のシーズンを1日でも長くグラウンドに立っていられるように、一生懸命頑張るので応援よろしくお願いします。

 

 

最後に、こんな自分と野球を共にやってきてくれてありがとう。

 

リーグ優勝して日本一まで駆け抜けよう!

 

拙い文章とはなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

体育専門学群4年 佐藤耕平

弥栄高校

 

 

 

 

 

 

 

 

みなさんこんにちは。筑波大学硬式野球部4年の鈴木康平と申します。

 

キャンプ移動中のバスで、隣の席がブログの編集者の一井君だったので書かなきゃいけないことを思い出しました。

 

普段皆さんにどう見られているかわかりませんが、それなりに熱いを思い持ってる気がするので表現できるように頑張ります。

 

「ラストシーズンにかける思い」というものがテーマだそうです。重たいですね。僕の野球人生でラストシーズンは小・中・高の3回あったかなと思います。試合の前日は素振りの最後の一本がなかなかしっくりこなくて終われなかったりなんかしてた記憶があります。

 

この度のラストシーズンは今までとはだいぶ様相が違うみたいです。どうやら野球人生的にラストシーズンみたいです。しかも選手ではなく、主務・マネージャーとして。

 

 

死ぬまで真剣に野球にかかわる人間なんてほんの一握りです。

 

解説の仕事が引っ張りだこなレジェンド野球選手か野球研究の第一人者川村卓先生くらいです。そのような方々の野球愛は本当に尊敬できます。

 

そうじゃない普通の人はみんなどこかで必ず引退することになると思います。

 

今まで一緒にプレーしてきた友達の中にも、中学で陸上部に入った友達、高校で応援団に入った友達、大学でお笑いサークルに入った友達、僕よりも少しだけ早く大学野球を引退した友達といろいろいました。ついに僕の番が回ってきたかという感じです。

 

 

 

初めて父とキャッチボールをしたのが3、4歳ぐらいだったそうですが、後ろに転がったボールを取りに行くのが嫌だったみたいですぐに飽きたそうです(この時もっと根性があればもっとマシな野球選手になれたかもしれないですね)。そんな野球との出会いを思えばよくこんなにも続けてこられたなと思います。もちろん、家族や先生、友達など非常に多くの人の助けがあったからだと思います。とても感謝してもしきれません。もう少しだけ応援していただけると嬉しいです。

 

 

 

ここまでが「ラストシーズン」についてです。ここから「かける思い」を書いていきたいと思います。

 

 

 

こんな感じで人より少しだけ長く続けてきた野球人生ですが、僕は野球を見るのも好きでしたがすることがなにより好きでした。バッティングも守備も走塁も好きでした。筑波大学で野球をしようと思ったのも、川村先生の本を読んだり練習を見学したりして、今までよりも高いレベルで野球をプレーしてみたいと思ったからです。

 

 

しかし今は野球というスポーツを見るでもするでもなく支える側にいます。

 

大学で野球をするまで考えてもみませんでした。今でも好き嫌いでいえば野球をする方が好きです。

 

それなのに僕がマネージャーをやっている理由は単純に言えば僕が下手だったからでした。

 

だからと言ってマネージャーが選手よりも価値が低いわけではありません。

 

選手が試合で活躍したりミスしたりするのと同じようにチームに責任を持っているからです。責任をもってチームに関わっているからこそ、勝ったらプレーしている人と同じようにうれしいし、負けたら悔しいです。好き嫌いを超えたからこそ得られる感動的なやつです。

 

 

また、マネージャーになったからこそ、僕の憧れだった筑波大学をみんなが憧れる筑波大学をにすることに少しでも貢献することができた気がします。

 

マネージャーを選んだ理由はもう一つあります。

 

私が入部した年はコロナが流行り始めた年で、最初はオープン戦どころか練習もできませんでした。僕が大学生活を通して出場した対外試合は4試合です。多分。9イニングあったかないかぐらいだと思います。スポーツをしている以上試合をやるのが一番楽しいと僕は思うので、後輩には少しでも多く試合をしてほしいと思ってマネージャーになりました。コロナが落ち着いたこともあって試合だけでなくキャンプなどもできるようになったことはチームにとっては価値のあることだったと信じています。

 

 

いろいろ書きましたが、この秋リーグの試合の結果(勝ち負けだけじゃなく、応援も局活動、そのほか様々な活動も含めた)こそ、自分のやってきたことの成果だと思います。それが少しでも良いものになること目指し、後悔のないよう一日一日を過ごすことがラストシーズンにかける思いです。

 

最後に、死ぬまで野球を真剣に続ける人はほとんどいないといいましたが、これからも草野球をしたり、プロ野球を見たり、子どもがやりたいといえば野球チームに連れて行ったりはあるかもしれません。そういう意味では誰しも死ぬまで野球に関わり続けると思います。

 

がむしゃらに白球を追うだけではなく支えるという経験を通して野球に対する愛的なものは深まったかもしれません。

 

僕の友達よりちょっと長く続けてきた野球ですが、このチームでどの大学生よりも長く野球を続けたいですね。

 

リーグ優勝、日本一絶対達成しましょう!!

 

人間学群教育学類4年 鈴木康平

山形県立山形東高校

 

 

 

 

 

 

 

 

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