平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
第2回は、大高正寛(体育4・星稜)と小野坂尚起(体育4・高松西)です。
是非ご覧ください。
皆さんこんにちは。
筑波大学硬式野球部4年 大高正寛です。
平素から筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援をいただき大変感謝しております。
昨年のブログで生い立ちを述べてしまったので、少し違う観点からこれまでの人生を振り返りたいと思います。拙い文章で恐縮ですが、ぜひご拝読ください。
大学野球ラストシーズンと共に14年間の野球人生にも一区切りつけることにしました。
私が野球をしていて好きな時は、試合に勝つこと、ヒットを打てた場面が挙げられるのですが、その次に来るのは、素振りをしている時間です。
野球を始めた頃は、素振りをするのが大嫌いでした。なぜ素振りをしないといけないのかわからないし、振りすぎると手のひらがボロボロになって痛い思いをするし、いいこと全くないやん。と思っていました。
考え方が変わったのは中学二年生の時です。
中学一年生の秋から、4番を任されていたのですが、春と夏の全国大会へ勝ち進むことができませんでした。
当時、体重管理表に素振りの回数を記入していたのですが、たくさん振って200回程度だったので、それを正直に書き、コーチに提出したところ、お叱りの文章が返ってきました。簡潔には「チームの4番を任されている奴がそんな素振りの回数じゃ勝てるはずがない。過去の先輩方は、毎日1000回、1500回振って大事な場面で一本出してくれていたぞ」と。
全国大会へ行けなかったこと、自身も大事な場面で一本打てなかったことが悔しくて、一度騙されたと思って、1000回素振りを行ってみました。それまでは200回振れば満足していたので、200回を越えたぐらいで疲れと、手のひらの痛みとで辞めようかなとも思いましたが、その後は無我夢中でバットを振り続けました。
終わった時は、とてつもない達成感とやればできるやんという少しばかりの自信と、1000回という数字がすごく身近に感じられるようになりました。どれだけ無理だと思うことでもそれは自分の可能性に蓋をしているだけで、自分の考え方の外に出てみれば、見える世界もまた変わってくるのだと改めて感じることができたのは私の人生の大きな転機だったと思います。
大体2時間前後あれば1000回振れるので、やりたくなった方はぜひ!
高校に入学してからも挫折の毎日を送りました。
努力では太刀打ちできないような先輩方や同期に出会い、レベルの高さ、自分の未熟さを痛感しました。自分が憧れていたチームはこうでないと!と少しワクワク感があったのは覚えているかもしれません。
ただ毎日不安でした。野球を行っていて初めて自分には居場所がないんだと、このまま何もしなければ腐って終わってしまうと、練習をしなければ周りに置いていかれる気しかしなかったので、とにかく毎日練習が終われば室内で打ち込みをして、家に帰ってもバットを振って、必死でした。そしてバッティングについて、惜しみなく教えてくれる仲間がいたからこそ、打撃技術も考え方も成長できたと思っています。
最後の最後で甲子園で準優勝できた経験は、一生の財産です。
大学でも野球を続けることができ、素振りも継続して行っている中で素振り仲間もできました。その人と夜な夜な誰もいない場所でバットを振っていたのですが、最近は一緒にできていないので、もしこのブログをみてくれていたらまた一緒にしたいなと思っています。そして昨年の秋ついに手首に限界がきました。人生初めての骨折がバットの振りすぎという診断で、ましてや手首のとても小さい骨になるとは想像もつきませんでした。ですが、初めて自分の身体が限界を教えてくれたのかなとも思いました。
野球の少し嫌いなところは、どれだけ努力してもそれが結果となって返ってくる保証はないということ。それでも素振りをしている時間が好きなのは、毎日自分を見つめ直すことができ、自分と対話できているからです。
良かった日も悪かった日も自分と会話して、何が良かったか悪かったかを見つめ直して、また次の日にフラットな気持ちで迎えることができる。
そしてもう一つは、自分はこれだけやってきたんだという自信が湧いてくること。毎回試合で打席に入るのは不安しかないですが、そんな不安を払拭してくれているのは、自分の中ではそれまでの過程が自信をくれていました。これまでで何回バットを振ったのか想像がつきませんが、野球というスポーツに熱中することができて、辛く苦しい毎日でしたが、とても充実していました。
野球を続けてきた中で一番感謝を伝えたいのは家族です。小学生の時に、野球をしたい!クラブチームに入りたい!と言って野球に打ち込めるようになってから家族には、野球中心の生活をさせてしまい、本当に迷惑ばかりかけてしまったと思います。
大学に入り、初めて実家を離れて生活してみて、家族の支えがどれほど大きいものか身を持って実感することができました。
これまで支えてくれて本当にありがとう。
野球を続けさせてくれてありがとう。
そして、14年間で先輩、同期、後輩関わらずチームメイトだった皆さん、指導者の皆様方にも感謝の気持ちでいっぱいです。
皆さんの支えがなければここまで野球を続けることができませんでした。野球の技術的な部分を始め、人間的にも大きく成長することができたのは、野球を通じて出会えた皆さんのおかげだと思っています。
恵まれた仲間と本気で語って、本気で夢を追いかけることができ、最高に楽しかったです!
本当にありがとうございました。
ラストシーズンに懸ける想いですが、リーグ優勝という経験したことのない新しい景色をみたい。そして、もう一度全国大会の決勝の景色を、日本一の景色をみたい!というのが一番の想いです。
こうしてもう一度リーグ優勝、日本一をかけて全力で勝負ができることに感謝して最後のリーグ戦に臨んでいきます。
私は小学校、中学校、高校とラストシーズンにはとにかく強かったので、この大学野球でもラストシーズンに強い男の活躍をぜひ楽しみにしてほしいと思います!
神宮に行って、一番長い秋を過ごしましょう!
体育専門学群4年 大高正寛
星稜高校
こんばんは。
筑波大学硬式野球部4年、ヘッドトレーナーをしています小野坂尚起と申します。
今は訳あって自宅で待機しています。チームがええ感じの中、この文章を書いています。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただければ幸いです。
私は香川県で生まれ育ちました。
初対面の人に出身地のことを言うと、「うどんの?」と言われます。ちょっと仲良くなってきたら「うどんしかない?」に変わります。何と言われようがうどんは美味しいし、地元は良いところです。
「うどん処しんせい」といううどん屋さんがおすすめです。最近は野球部に香川出身の人が増えて、すごく嬉しいです。
私は小学4年生のときに野球を始めました。
自分が入ったのが遅かったこともあり、ライトとレフトしかポジションの空きがありませんでした。右も左も分からないまま選んだ気がします。
ただチームは強かったので、試合にはずっと勝って、四国大会は3回くらい優勝していました。
この頃の口癖は「大丈夫」だったそうです。この前の夏帰省のとき、祖母に言われました。
「大丈夫」が口癖の小学生は想像できません。
その後も中学・高校と伸び伸びと野球をしていました。
高校のとき、開脚でどうしても胸を地面につけたかった私は友達3人に乗ってもらった結果、両脚を同時に肉離れしたりもしました。しかし、このおかげで奇跡的に自分が何をすべきかの選択肢が狭まり、体重を増やした結果、今があると思います。
この頃はとにかく目の前のことに夢中でした。
いろんな縁があり、筑波大学に合格しました。
その頃の私は何か決断をすることが自分の可能性を狭めるのではないかと考えていたので、もし受かったら野球部に入ろうと考えていました。
入学後、いろんな人に出会いました。
特に怪我はなかったものの、選手としては全く結果が出ず、2年の冬からはトレーナーになりました。
トレーナーになってからは、チームに所属している実感が強くなり、野球部のことが好きになった気がします。
練習後にチームメイトの練習に付き合ったり、ずっとバッピしたり、食事を見たり、夜まで走った後にコンビニに行ったり、と何事も断らなかった結果、いろんなことをしましたが、悪い気は全くなかったです。
むしろ、勝ったときの喜びがさらに増えた気がします。
そんな私のラストシーズンにかける想いは、
「優勝したい」です。
このチームでリーグ優勝・日本一を達成したいと強く思います。
チャンスで誰かが打ったとき、ピンチで守りきったとき、試合に勝ったとき、どれも心が奮えているのを実感します。その度に元気を貰い、頑張ろうという気持ちになります。
このいい経験ができるのもあと3ヶ月です。
私の好きな言葉の中に「而今」という言葉があります。
「このいま」という意味です。
このいまの中に時間があり、一瞬一瞬の積み重ねの先に未来があります。
「一行三昧」という言葉も好きです。
真っ直ぐな心を持ってひとつのことに全力を尽くすという意味です。
このチームにはいろんな人がいて、それぞれがいろんな想いを持っています。
1人1人にとっての一瞬だったり、想いだったりは違うかもしれません。
だからこそ、目の前の一瞬を積み重ねてみんなで共に優勝しよう!!
拙い文章にも関わらず、最後までありがとうございました。
秋リーグも温かいご声援をよろしくお願いいたします。
体育専門学群4年 小野坂尚起
香川県立高松西高校