筑波大学硬式野球部のブログ

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ラストシーズンに懸ける想い⑮(社会4・三戸創世/札幌南)

2023年08月28日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第15回は三戸創世(社会4・札幌南)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援いただき誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部四年の三戸創世と申します。

簡単に自己紹介いたしますと、私は北海道旭川市で生まれ、3歳くらいの頃札幌に移り住み、19歳まで札幌市民として暮らしました。

高校三年生のとき現役で受けた筑波大学社会学類は合格最低点とまあまあな差をつけられて不合格。一年間塾や予備校に通わず浪人(俗に自宅浪人と呼んだりします)し、たまたまストーリーをほぼ覚えていた源氏物語が試験で出題されるなどの幸運を経て一年越しのリベンジを果たして合格します。

ラストシーズンに向けたブログ執筆というせっかく自分のことを語るよい機会が来たものですから、思う存分語ることにいたします。

普段敬体で文を書く機会があまりにもなく、まったく筆が進まずに締め切りに遅れてしまったため、本体のほうは常体で書くことにいたします。

少々冗長な文章かもしれませんが、最後までお読みいただけたら幸いです。

 

 

 

新型コロナウイルスの影響をモロに受けた私たち西浦世代は、入学してから二ヶ月あまり経った6月に顔を合わせることになった。私はそれまで人と話せていなかったこともあり、妙なテンションになっていた。

最初に一年生全員でランニングをしたが、そこで片っ端から人に話しかけていた。そんな私の犠牲者の一人である岸が北海道出身だとわかると、即座に「どこの高校なの」と聞いた。岸が高校名を言い終える前に私は「俺は札南」と被せ気味に言った。私の母校札幌南高校は道内でも有数の進学校である(私はというと常に最下位付近にいた。200点満点の数学のテストで3点を取ったこともある。)。単刀直入にいえば、私は非常に嫌なやつだった。今津には「お前デカくてバカそうだな。成績悪かったろ」と言った記憶がある。初対面である。本人は覚えていないかもしれないが。

そんな当時168cm80kgだった私は、その体型のおかげもあり、あんまりいじめられずにすんだ。たぶん変なマスコットキャラクターか何かだと思われたのだろう。みんな優しく接してくれた。

よい機会だから振り返ろうと思うが、私は中学生の頃入ったシニアでしっかりといじめられていた。小学生の頃全国ベスト4のチームの4番だったこと(全国大会一回戦ではあまりの強打ぶりに敬遠された)を鼻にかけ、同級生にも先輩にも横柄な態度で接していたら先輩からは無視されるようになった。まったく同じことを大学でも繰り返したが、今度は皆優しかったので命拾いした。

大学野球生活のはじまりはこんな風だった。

 

私にとって大きな転機は大学二年生の夏にあった。それも良いほうにではなく、悪いほうにである。ともかく、当時のことを思い出しながら書いてみることにする。

 

2021年の夏は、今と変わらず毎日とても暑かったことを覚えている。7月に入ってから、どうにも身体が重いというかだるい感覚が抜けなくなっていた。自分でも入浴や交代浴、軽めのランニングなどをして疲労を抜こうと試みるのだがまったく効果がない。そうしているうちに今度は朝の三時や四時に必ず目が一度覚めてしまうようになってきた。睡眠の質も悪く、翌日も午前中はほぼ頭が働いていないような感覚だった。このころになるとケアレスミスが増えてきた。ある時は「審判用具を忘れない」とメモを自分で書き、確認したはずなのに審判用具を忘れたことがある。この時ばかりは自分でも驚いたし、当時審判をする予定だった先輩は私のあまりの茫然自失ぶりに「次から気をつけてね...」と言うだけだった。

そんなある日、私の身体はある朝突然動かなくなってしまった。これは比喩表現でもなんでもなく、本当に動かないのである。信じられないかもしれないが、ベッドから起き上がれなくなってしまったのである。

休んでいると、心優しい先輩や同級生が心配する連絡をくれた。しかし私はその連絡さえも返すのが怖くなって、ラインを開くのをやめた。

普段はこの頃のことを思い返すことはない。辛くて記憶から消えているとかそういうことではなくて、特に振り返る気にもならないのだ。私は過去の経験が今の役に立っていると考えるタイプではなく、未来のために今があるという考え方だからかもしれない。だがせっかく自分を振り返る機会だから少し考えてみた。なぜそんなに追い詰められたのだろうと。コロナの状況もあったかもしれない。秋に控えるスタッフミーティングへのプレッシャーがあったかもしれない。だが何度考えても綺麗な答えは出なかった。それでいいのだと思う。今はいろいろなことを経験できてよかったな、くらいに感じている。

夏の間、私はずっと家にいて、時々夜になると散歩した。夜は相変わらず眠れず、人には会わず、ただ毎日を過ごしていた。

 

そんな折、今津が「少し散歩しようぜ」と私を誘ってくれた。

夜の公園で、二人の男がベンチに座ってジュースとチキンを手になにやら話していたら、ほとんどの人は何かを祝福しているのだと思うだろう。楽しげな会話を予測するかもしれない。しかしもう少し近づいてみると、一人の男の手がもう一方の男の背中に添えられていて、その背中が小刻みに震えていたとしたら、少し驚いてしまうかもしれない。

私がこの時何を話したのかはあまり覚えていない。覚えているのは、今津がなけなしのお金(今津は浪費癖がひどい)で近くのコンビニでチキンとジュースを買ってくれたこと。そして私はあまりうまく喋れなかったが、今津の励ましと暖かい手に安心して泣いてしまったことである。

とにかく今津は背中をさすり、私はただ泣いていた。

ちなみにこの公園は、就職活動の時の面接練習でも今津とよく使った。そのときには二人の男は声を張りあげ、互いに鋭い質問を浴びせていた。結局ここで面接練習したときには本番の面接に全て通った。そのせいか、今ではこの公園にあまり感傷的なイメージはない。

 

この当時のBチームヘッドコーチであった池田さんとも話した。これも「私が人に会いたくないから」、というわがままなリクエストで夜にしてもらった。忙しいのに時間をとっていただいたこと、本当に感謝しています。池田さんは私の話をとにかくずっと聞いてくださっていた。そのときの私の話はまとまりがなく、わかりづらいこともあったと思うが、池田さんはとにかく耳を傾けてくれた。

今津と池田さんと過ごした夜のことは今でも思い出し、感傷的になってしまう。

「普段はこの頃のことを思い返すことはない」と書いたが、この二つの夜のことはいつまでも覚えていると思う。本当に心を救ってくれた夜だった。ありがとうございます。

 

 

夏の2ヶ月ほどのブランクを経た上で、大学二年生秋のスタッフミーティングには死にそうになりながら参加した。正直言って、とても参加できる状況ではなかった。2時間ほどのミーティングが控えているというだけで、その日はプレッシャーで吐いていた。最初のほうはミーティングの会話をしっかり聞きとるだけですべての体力を使い果たしてしまうという有様であった。

それよりも決定的だったのは、私と同級生との間に絶対的な隔たりを感じたことだった。ある者はまっすぐな目で「選手を辞め、他の役割で貢献する」と宣言した。迷っている者も、周りの意見をよく聞き、自分の価値を吟味していた。

私にはそれが信じられなかった。自分がこのままでは不本意な形でバットを置くことになることへの忌避感と、なんとかしてそこから逃れられないかという気持ちしかなかったからである。

選手を続けたいと言った。しかしその理由はこんな形で終わりたくないから、という理由だけだった。「ここはお前の自分勝手な情を披露する場ではない。士気を下げるから出ていってくれないか」。あるチームメイトに言われた言葉だった。

 

私が休んだ2ヶ月で、同級生は着々とチームの中枢を担うための準備ができていた。決意が固まっていた。私はできていなかった。

ただ、ここで思いを隠さず言えたことは今振り返っても良かったことだ。選手を辞めるという結末は同じでも、今振り返って後悔があるものにはなっていない。それは批判されるのを覚悟で思いを言えたからだと思う。そしてこのとき面と向かって全力で批判してくれたチームメイトがいなければ、もし選手を続けていたとしても、自分にとっても周りにとっても不幸なことになっただろう。彼にはとても感謝している。

 

スタッフミーティングは完了し、私はSSDになることになったが、準備ができていないことを突きつけられただけのミーティングだった。

私は弱気になってしまい、復帰を先送りすることになる。

 

2021年の冬から2022年の夏まで私の姿を見た人はいただろうか。私はおそらく忘れ去られていた。文字通り幽霊部員である。この空白期間に私は左膝の膝蓋骨を骨折し、全身麻酔をかけられて手術をするとか、すごく太るとか、密着系のドキュメンタリー風テレビ番組に出演しかけるとか、精力的に活動していた。しかしここでは便宜上2022年の夏まで飛んでいただこう。

 

野球部に戻るという選択をしたのは約一年前の2022725日である。私は大学三年生になっていた。もはや幻のようになっていた私がグラウンドに現れると、誰しもが私を三度見くらいしていた。そして戸惑っていた。悪い気はまったくしなかった。セレブリティになったような気がして気分がよかった。

なぜ復帰できたか、ということを振り返ってみると、三人の存在が大きい。一人は復帰の直接のきっかけをくれた母であり、もう一人はなにかあるたびに連絡をくれていた今津。そして定期的に体調を気遣う電話をくれた当時のSSD、海野さんだった。

その年の夏は少々長めの帰省をしていた。当時の私は精神的にほぼどん詰まっていた。わかりにくい表現かもしれないが、これが最もしっくりくる表現なのだ。何かが胸にずっとつっかえていて、吐き出したくても吐き出せないような感覚。それがずっと続いていた。そのことについて母と話していた時、母がふいに「戻ってみたら色々なことがうまくいく気がする」と言った。すぐさまそれに反論した。いきなり戻るなんてできるわけない。色々な準備ができていない。だが、頭には母の言葉がずっと残っていた。あるとき実家の近くのよく馴染みのある坂道を自転車で漕ぎながら考えた。野球部に戻ることで、胸のつかえがとれるかもしれない。それは一種の願望であった。この違和感をずっと抱えて生きるよりも、いっそ一度戻ってみて、それでダメだったら思いきってやめてしまえばいい。そう決心した。

このとき幸運にも海野さんと定期的に連絡をとっており、今津とも日頃からメッセージのやりとりをしていたからこそ、自分の決心を人に伝えることができた。もしこの二人がいなかったら行動に移すことはできなかった。

森口HCにもメッセージを送ったが、森口HCは「復帰一発目即Bキャンプ」を提案してくれた。当時の私にとってそれはエベレストを無酸素単独登頂するようなものだったので、やんわりと理由をつけて断った。

乱れきった生活リズムから規則正しいアスリートの生活へ。ヒイヒイ言いながら慣れ、つくばの灼熱の太陽に焼かれているうちにあっという間に首都大学野球秋季リーグ戦に突入した。

 

秋季リーグはとにかく忙しいの一言であった。ずっと夜中までパソコンの画面に向き合っていたせいで視力はこのころ急激に低下した。一節目には私の配信映像の撮影ミスもあり、非常に叱られ、涙することもあった。しかしとにかく忙しかったので時間が矢のように過ぎていった。気づいたら四年生が引退していた。あの頼りになる寺崎さんも海野さんもいなくなり、来年からは自分たちでやっていかなければならないと身が引き締まる思いだった。

 

それからなんやかんやがあって今にいたる。就職活動と並行した春季リーグのSSD業務も、それなりに大変なことではあったが、なんとか乗り越えることができた。

 

少々長くなりすぎました。過去のことを振り返るのはもう十分だと思います。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

最後には、野球人生の締めくくりとして、周囲への思いを綴ろうと思います。

 

チームメイトへ。まずは目下の秋季リーグである。首都の秋季リーグは本当に恐ろしく、タフさが求められる試合ばかりだ。一点差ゲームは当たり前、サヨナラの連続。本当に厳しいゲームが続くと思う。ひとたび試合が始まれば、私はバックネット裏で偵察の仕事をしながら過呼吸になることくらいしかできない。みんなが優勝優勝と書くものだから、あえて目の前の試合しか見ないことにする。とにかく開幕戦すべてをぶつけよう。私は勝つイメージしかない。

 

札幌市中央区が誇る常勝軍団、緑丘ホーマーズの佐藤監督やお母さん方、そして当時のコーチの皆さん。

間違いなくこの時勝利の味を覚えてしまったためにここまで野球をやることになってしまいました。全道大会準優勝も全国大会ベスト4も全てが最高の経験でした。ありがとうございました。

 

シニアを辞めた私に野球をする機会を下さった中学時代の恩師、佐藤貴之先生。

今でもあの時のメンバーとは仲良くやっています。本当に充実した時間を過ごせました。あのメンバーなら、もっと勝てたなと思う時もあり、今でも悔しいです。ですが、とにかく楽しかったです。ありがとうございました。

 

私が筑波大学に進学するきっかけとなった高校時代の恩師の田畑先生。

大学野球は想像の100倍ほど大変でしたが、トップクラスへ挑戦してみてよかったと思います。高校時代さまざまなことを教えていただき、野球への追求をせずにはいられなくなって大学の四年間も野球を続ける選択をしました。今冷静に振り返れば身の程知らずの挑戦でしたが、あの時飛び込んでみてよかったと思います。

ありがとうございました。

いつも驚きと感動を与えてくれる札南野球部をこれからもずっと応援しています。

 

そして最後に両親へ。大学生活で壁にぶつかり、悩むたびに父さんと母さんの考え方や生き方を参考にしていました。本当に大きい存在だなと、一人暮らしをしてからやっと気づきました。ここまで育ててくれてありがとう。いつもやりたいことをやらせてくれて、二人の子供でよかったと心の底から思います。ありがとう。

 

野球に苦しめられたり、いい思いをしたり、そんなこれまでの人生でしたが、結局私は野球が大好きです。

社会・国際学群社会学類4年 三戸創世

北海道札幌南高等学校

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