筑波大学硬式野球部のブログ

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#32 心を奮わせるマネージャー(黒堀耀平/体育4・国立)

2021年10月15日 13時13分49秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

こんにちは。マネージャーの黒堀です。

掛布にブログの執筆を依頼されて約半年が経ってしまいました。

滞納に滞納を重ねてしまい、大変申し訳ございません。

ラストシーズンが開幕し、リーグ戦も残すところあと2試合となってしまったので、何を書こうか
悩みましたが、野球部でのマネージャー生活とビジョンについて書かせていただければと思います。

 

自分は入学当初スポーツトレーナーになることを目標としていました。

最初から学生トレーナーとして活動したかったのですが、筑波のシステム的に
それが難しそうだったことと、浪人の時にできた友人の強い思いがあったことが理由で、
選手として入部することを決めました。

「筑波大学硬式野球部」という存在は高校の時の自分からすれば憧れの存在で、
筑波の服を着ている先輩やプレーしている選手を見てかっこいいなと思い、
筑波への進学を強く希望しました。

テレビで見ていた選手もいたので、レベルの高い環境で野球ができることを
とても楽しみにしていましたが、実際入部してみると落胆の方が大きかったかもしれません。

下級生として組織の居心地の悪さを感じ、野球は好きでも筑波でやる野球は好きになれませんでした。
そんな中、トレーナーになるために勉強は続けていましたが、次第に組織を広い視野で支えたい、
組織をより良いものにしていきたいと考えるようになりました。
それがマネージャーになると決心した理由です。

 

それでも、スタッフミーティングで自分はトレーナーとして活動することを勧められており、選手を続ける意思のあった人がトレーナーになったので、そこは自分のわがままを主張してしまったなと思います。

トレーナーとして活動するよりもマネージャーとして活動したいという自分の意思を尊重し、最後までマネージャーをやらせてくれた同期には心から感謝しております。

 

マネージャーをやると決めた当初はかなりの野望を抱いていました。

中川と近藤と3人でミーティングを行い、「初心・透明化」ということをスローガンに掲げ、
Bチームの大会を実施すること等様々なことを考えていましたが、考えていたことのうち半分も
達成することができず4年生のラストシーズンとなってしまったことは心残りです。

これまでのマネージャーとしての2年間を振り返ると、3年生から連盟マネージャーとなり、人見知りの
自分にとっては既にできあがっているコミュニティに溶け込むのには労力を要し、3年生であるにも
関わらず連盟のことをあまり知らないということに歯がゆさを幾度となく感じていました。

「もっとこうすればよい」と思うことがあってもそれを行動に移すことができず、上級生になって同期が
責任ある仕事を任されていく中、チームの役に立っているのか、ベンチに入ることもできない自分が
できることは何かということを模索する日々が続くこともありました。

 

マネージャーといってもやることはチームによって異なり、それぞれの掲げるマネージャー像というものが
ありますが、自分は自分が理想とするマネージャーとはどのような存在なのかということについて、
この2年間考えてきました。

 

ある就活の選考でこのようなことを問われました。

 

「コーチは勝つために技術的な指導をし、トレーナーはトレーニングを指導し、
 データ班はデータを提供するけど、マネージャーはチームの勝利のために何ができているの?」

 

これについて問われた時は苛立ちを覚えましたが、たしかに考えてみるとマネージャーはチームの勝利に
直接的に貢献できていることはなく、自分たちのやっていることはチームの勝利にとっては微々たるもの
かもしれません。

 

しかし、マネージャーという存在は微々たるものでいいと2年を経て考えるようになりました。

近藤蓮が学年ミーティングで「自分は黒子のバスケの黒子テツヤのように、幻の6人目になります」と
宣言していました。

このような存在こそがマネージャーのあるべき姿なのではないかと自分は思います。

マネージャーが目立っている時は、その手腕が素晴らしいものである時もありますが、
存在が浮き彫りになっている時はチームが上手く運営できていない時だと思います。

 

だからこそ、マネージャーは縁の下の力持ちとして、選手やスタッフが何不自由なく野球に向き合える
環境を作り、その環境をさらにより良いものとすることが責務であると思います。

 

マネージャーの仕事は言ってしまえば雑用かもしれません。

しかし、その仕事を、責任を持ってやることがチームを支えることになり、それに+αでチームを
より良くしようと行動できることがマネージャーにとって重要なこととなるのではないかと思います。

 

さて、自分たちの代は硬式野球部のビジョンを変えるという取り組みを行いましたが、
他の学年の選手はどのように感じているのでしょうか。

 

3年生以下のみんなからすれば、4年生がビジョンを変えたところで野球をやるということは
何ら変わらないことであり、そのようなことを言われてもよく分からない人もいると思います。

自分も下級生の時に野球部に帰属意識を持てと先輩に言われましたが、そのようなことを言われても
4年間しか在籍しない組織であり、かつ、150人以上の部員が所属する組織に対して帰属意識を持つことは
できないと感じていました。

当時の自分は、自分のことに精一杯でチームのことなど考える余裕はなく、
4年生や上級生の考えていることが理解できないと思うこともありました。

 

そしてそれは今も変わらない考えであり、構成員の入れ替わりが激しい学生スポーツにおいて、
組織の一体感を形成することは困難なことだと思います。

就活であれば、同じ業種の企業でもビジョンや企業理念、社風等を見て入社を判断しますが、硬式野球部に
入部するにあたってビジョンに共感したから入部したなどという人はおそらく誰一人いませんし、
「野球が好きで、高いレベルで勝負したいから」ということが大方の理由かと思います。

 

ですので、ビジョンがどれほど今の野球部に浸透しているかと問われると、
そこまで浸透はしていないかと思います。それはそれで選手が野球に向き合えていると思う反面、
チームにおける理念の浸透、方向性の一致の難しさを実感しております。

何はともあれ、これまで伝統として掲げられていた「勝ち続ける組織」というものに変化を起こしたことが
重要なことであり、変化を恐れないことの重要性を後輩のみんなには実感してほしいなと思います。

 

スタッフになっている人の中でも思いは様々で、怪我で選手を続けることが難しくなった人、
将来指導者になることを考えている人、裏方業務が好きな人など、それぞれ思いを持っていると思います。
様々な思いを抱えながらも、それぞれやるべきことがあり、組織を運営していく上で欠かせない存在です。

勝田さんが「奮わせるを支える」という大変秀逸なブログを書いていらっしゃいましたが
(個人的俺の話を聞いてくれブログ史上ナンバーワンです)、スタッフは選手をサポートしている立場
だからこそモチベーションの維持が難しく、自ら考えて目標を設定しなければいけない立場です。

 

ここで問題となるのが、スタッフの中にもリーダーが存在することであり、「ヘッドコーチ」という
立場には大きな責任が伴います。立場が人を変えるように、ヘッドコーチという立場になった人は
これまでの生き方が何であれ、チームをまとめる存在となります。

ここで重要なのは、リーダーではない他の人の存在なのではないかと自分は思います。
リーダーは誰に言われなくても、その役割が与えられている以上、進んで行動をします。それに対して
他のスタッフが寄り添い、リーダーも他のメンバーと協力する姿勢を見せ、ヘッドコーチだけではなく、
スタッフ全員でチームを支えていうという体制を整えることが重要なのではないかと最近感じます。

自分たちの学年がどうかと問われると、林に任せっきりにしてしまっている部分と、林が猪突猛進で
どこか違う世界線を生きていることがあったので、改善の余地が大いにありますが、スタッフ陣の思いの
共有と方向性の一致は、選手間のそれ以上に今後重要な課題であると思います。

 

話が少し逸れてしまいましたが、自分は筑波大学硬式野球部でのこれまでの活動を通して、
組織運営の難しさを実感しました。

何が正解なのか今も分かりませんし、あの時こうすればよかったと後悔することも多々あります。

しかし、その中でも重要だと思ったことは、組織に属している以上、責任が伴うということです。
組織が定めたルールややるべき仕事、役割分担等、組織を円滑に運営するためには一人一人が責任を持って
自分の役割を全うしなければいけません。

下級生はまず自分自身の行動に責任を持ち、
上級生は下級生が自分のことに集中できるような環境を作りチーム運営の中核を担うことが
それぞれの持つ責任だと思います。

 

最後に、改めて自分たちが掲げた「心を奮わせる存在」というビジョンについて考えると、

自分自身の心が奮わずして、相手の心を奮わすことができないことは間違いないかと思います。
この野球部は大所帯であり、多様性に富んでいることが良い点でもあり、悪い点でもあります。
組織としての方向性が一致しづらく、チーム間の格差も生まれやすい状態ですがそのような中でも
組織の一員としての自覚は持たなければいけません。

それぞれがチームのためにできること、自分自身の目標達成のためにできることを日々考え、
主体的に行動していくことで、チームはより良い方向へと進んでいくのではないかと思います。

 

明日、関東大会を懸けた大一番となります。

自分の拙いブログが重要な局面の前日に掲載されることとなり、申し訳ございません。

 

「あっけなく終わるわけにはいかない」というのが今の率直な思いです。

 

たくさんミーティングを行い、猛暑の日も極寒の日も厳しい練習を重ねここまできました。

勝利至上主義は嫌いですが、それでも野球をやる以上、勝利には貪欲でなければいけません。

チームが勝てるよう、最後の最後まで微力ながら心を奮わせるマネージャーになれるよう、
チームを支えていきたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

体育専門学群4年 黒堀耀平

東京都立国立高等学校

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#31 「田舎者の学び」 (上條仁雄/体育4・松本県ヶ丘)

2021年08月19日 15時56分58秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

初めまして。上條仁雄と申します。

はじめに少しだけ自己紹介をさせていただこうと思います。

私は田舎生まれ田舎育ちの人間です。どれぐらい田舎かといいますと最寄り駅まで7キロ弱、
通っていた高校まで15キロ(3年間自転車で通いました)、バスは一日3本という田舎ぶりです。

 

一方野球はと言いますと、
中学校の軟式野球部から特に強くもない公立高校へ進学し、高校で野球はやめるつもりでした。
野球がうまいわけでもなく、詳しいわけでもなく、上のレベルに興味があるわけでもありませんでした。

そのせいか全く野球に詳しくありません。
プロ野球を直に見たこともなければ、大学野球の秋の全国大会が神宮であることも知りませんでした。

そんな私がまあ色々ありまして(特に長くはなりませんが、今回は割愛します)、一年間の浪人を経て
筑波大学で野球をやろうと決意しました。

しかし、大学野球の練習というものは週3の自由参加だと思っていたので、最初に練習日程を見た時はビビりました笑


そんな大学野球をなめていた私が、入学式前日にいきなり集められ、配られた50音順の座席表がこちらです。

 

片岡心(報徳学園)

上條仁雄(松本県ヶ丘高校)

上中尾真季(敦賀気比)

 

まー驚きましたね。とんでもないところに入学してしまったと思いました。さらにこの二人は推薦入試で合格しており、
2月ごろから練習に入っていて仲が良かったので、私を挟んでしゃべりだしました。

内心早く帰りたいと思ったのを覚えています。

さて自己紹介はほどほどにしまして、本題に入ろうと思います。

何を書こうか悩みましたが、大学で最も学んだ「目的意識」について書こうと思います。

皆さんは全ての行動に目的を持っているでしょうか。

 

なぜ今野球をやっているのか

なぜ今このトレーニングをやっているのか

なぜ今ミーティングをしているのか

なぜ今ワンピースを読んでいるのか(就活の面接では人生の教科書と言いました笑)

 

これらの問いについて自信をもって答えることができるでしょうか。

私はもちろんできませんでした。

周りの人が目的を持ちながら練習しているのを横目に、ただ“こなす”練習をやっていました。

それがもたらした結果が、

「あれ、高校より下手になってる」という感覚です。

大学生活の中で様々な場面で目的意識について考えることになりますが、最も実感させられたのは野球でした。

実際、目的などについて考えるようになったのは選手をやめてからであり、練習をしていないスタッフに
なってからの方が、野球がうまくなった感覚があります。

それに引き換え多くの人は、練習やトレーニングに目的を見出し取り組んでいる人が多いというのが、
大学野球の印象でした。


 

大学の授業や野球部でのミーティングなど、結局何も得てないということが多くあったような気がします。
授業では単位を取ることではなく、その内容を活用できる方が重要であると思いますし、
ミーティングでは話した時間よりも何が決まったか、行動が変わったかの方がはるかに重要であると思います。
そのことが見えていないことがこれまで多かったと思います。

 

目的が変わると意識が変わります。
漠然と野球がうまくなりたい、チームを良くしたいというところのみでは、何をどう手を付ければよいか分かりません。
現状とゴールを考えたうえで、何をすべきかというところを意識できれば、目的の達成により近づけると思います。

 

最後に私が教訓にしている言葉を紹介させてください。

「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである」(by アインシュタイン)

 

何かを考える際には自分の中の“常識”からしか意見は生まれないと思います。その常識が狭いと、
限られた意見しか出てきません。最善の答えを出すために偏見のコレクションを増やしていきたいと思います。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。今後とも応援よろしくお願い致します。



体育専門学群4年 上條仁雄 

松本県ヶ丘高等学校

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#30 謝謝 (横田崇成/社工4・鎌倉学園)

2021年08月04日 15時18分15秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

こんにちは。

筑波大学硬式野球部4年の横田崇成です。

中国の諜報員、中国人留学生、韓国人留学生など様々な憶測がされていますが,、日本人かつ横浜生まれシティー坊やの
ヨコタタカナリと申します。

 

グラウンドでは崇成を音読みしてスウセイなんて呼ばれることもあり、中国人かもなんて思う1年生もいるかと思い
ますが改めて言わしてもらうと日本人です。

たまーーにソウセイなんて言われることもありますがそもそも「崇」は「ソウ」とは読みませんし、2年の三戸創世君が
いますのでお間違えないようお願いします。

 

ただ、インターン先で出会う中国人留学生と直ぐに仲良くなる傾向があるので、もしかしたら私は中国人なのか?と
思い、アイデンティティーについて深く考えることがあります。
ていう与太話は一旦横に置いておきましょう。

 

 

 

さてさて、心奮わせるエピソードを書こうと筆を進めてみるものの、なんとなく薄い。

 

心奮わせられるような文を!!となると妙に力が入ってよくわからん文章になってしまって八方塞がり。

 

なので一旦力を抜いて、炭火ぐらいの火力で書いていこうと思います。

 

ここからは最近大切にしていて、これからもこの考えを軸に人生過ごしたいなと思っていることを書きたいと思います。

 

「ありがとう」を声に出して伝える。たったこれだけです。とてもシンプルです。

 

もっと小難しいことなのかなと思った人にとっては拍子抜けだったかもしれません。

 

 

「ありがとう」には相手をリスペクトする心と、人を思いやる心、両方を育てる力があるんじゃないかなと
思っております。

 

「リスペクトがあるから、人を思いやる心があるから、ありがとうを伝えられる」ではなく、「ありがとうと伝える
ことでリスペクトや思いやる心を持てるようになるんじゃないか」っていう僕なりの考え方です。

 

 

そもそも「ありがとう」を伝えるには伝える対象を観察し、伝えようと思う状況を自分から作る必要があると思います。

ですから少し苦手、嫌だなと思う人に対してありがとうを伝えようするのが大事なんじゃないかなと思います。
自然とその人を観察するので、「あれ、あいつこんな一面もあったんだ」なんて新しい発見があってリスペクトを
持てるんじゃないかなと。

 

好きにならずとも、リスペクトを持つ。

 

少なくとも苦手、嫌、という負の感情で気持ちが繋がることは無くなるのではないかなと思います。

 

少し話を広げると、お互いがこんな関係で繋がることが出来たなら、150人として動く力はより大きく
そして強くなるのかなと思っています。

 

 

「ありがとう」はかしこまる必要はなくて「あざすあざす、ういー」などなどなんでもいいかと。
掛布君発祥で最近、死語になりつつある「ち〇ま〇」でも。気持ちが伝わればいいんじゃないかと思っています。

 

せっかく出会った150人ですから、好きにならずとも、リスペクトを持つ。そんな関係で繋がれたなら、
より最高な4年間を過ごせるんじゃないかと思います。


最後に、拙い文章でしたが最後まで読んで頂きありがとうございました。ロウリュ後の様に蒸し暑い筑波ですが熱中症対策万全の基、夏を乗り切って全員が最高の形で秋リーグを迎えられるよう頑張っていきましょう。

 

社会工学類4年 横田崇成

鎌倉学園高校   

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#29 「かっこよくありたい」(白石諒太/体育4・岩国)

2021年07月25日 14時28分40秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

皆さん、こんにちは。

筑波大学硬式野球部4年の白石諒汰と申します。

たぶん同級生の中で一番僕が黒いので、後輩や試合観戦に来られた方はそのように覚えていただけると
すぐ見つかると思います。

最後の夏が始まり、あと数ヶ月で自分の野球人生も終わってしまうと思うと少しさみしいですが、悔いの残らない
ように精一杯頑張りたいと思います。

さて本題なのですが、弊部のブログを僕も今まで見てきましたが面白い文章ばかりで、どう考えてもコメディに走っても
印象に残らないので真面目に書こうと思います。僕を知ってもらうために趣味について書こうと思います。



僕は「UVERworld」というロックバンドが好きです。

意外だと思うかもしれませんが、ガンガンうるさくて汗だくになって盛り上がるライブとか大好きです。それこそ
森健太(投手トレーナー)にオススメされた「銀杏BOYZ」とか好きになりました。いつか何万人の前でよだれと鼻水
垂らしても汚くないと思われるような大人になって「エンジェルベイビー」歌いたいと思います。

話を戻します。

「ダサい」という言葉をよく耳にすると思うのですが、試合でミスしたり、服に食べ物こぼしたり「ダサいなぁ」って
思う場面は僕にもたくさんあります。そりゃかっこつけたいし、何でも完璧にこなしたいと思いますもん。でも思いとは
裏腹によく失敗をしてしまいます。

ここで質問です。皆さんにとって「ダサい」って何ですか。逆に「かっこいい」って思うことは何ですか。

いろいろな要素があるとは思います。楽しいとか楽しくないとか、成功したとか失敗したとか。定義は皆それぞれに
あるので一概にこれと言うことはできません。

ただ僕はUVERworldの音楽に心から「かっこいい」と感じました。

ボーカルのTAKUYA∞は40歳のおじさんですが「魂が大事」とか「本当に守りたいものを守れよ」とか中二病みたいな
ことをライブのMCで言ってきます。ほんとにくそまじめに言うてきます。

ダサいなって思う人もいい歳こいたおっさんが何言うてんねんって思う人もいると思います。でもそれってとっても
よくないですか?何でもかんでも否定してくる大人もいるし、夢も希望もない大人も世の中にはいるかもしれませんが、
でも夢も希望もあって励ましてくれるおっさんはめちゃくちゃかっこいいんです。

ここで僕が伝えたかったことは「自分が思うかっこいい生き様をしようぜ」ってことです。
そうです。とてもくさいことを言いました。でもくさいことはかっこいいんです。

女の子にモテるとかそんなんじゃなくて、かっこいいと思うことをして生きていこうってことを、僕はUVERworldから
教えてもらったので伝えたいと思います。

「最低で最高なやつを目指していこう!」(Q,E,Dより)

ちなみに10年以上野球に打ち込んでるうちの野球部員はみんなかっこいいと僕は思っています。
みんなかっこいいぞーーーーー!!!

 

最後にこの文章を読んでくれてUVERworldに少しでも興味を持った人は僕か伊藤蓮に連絡をくれると嬉しいです。
CREWになりましょう。

拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

次回「地上最強の拳」

 

体育専門学群4年 白石諒太

山口県立岩国高校

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#28 充伝 (坂本充/体育4・四日市)

2021年07月22日 15時55分37秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

こんにちは。いつもご声援、ご支援ありがとうございます。筑波大学硬式野球部4年の坂本充です。

私のことを知らない人が多いと思いますので、今回は生い立ちを書きたいと思います。

拙い文章だとは思いますが、よろしければ覗いていってください。


私は1998年4月23日に三重県鈴鹿市の病院で生まれたそうです。
そこから四日市市にある一軒家に連れて行かれ、両親、姉、兄、祖母と一緒に生活していきます。

こんなに細かく話してしまうととても長くなってしまうので、幼稚園、小学、中学、高校で自分がどのような人物で
あったのかを「ウォーリーを探せ」をするように思い出して話していきます。

まず幼稚園時代では、授業中にお漏らしをして恥ずかしい思いをしたという記憶しかありません。そのせいで、
今でも人前に出るとお漏らししそうになってしまいます。これから考えると、したいことを言えない子どもだったと
考えられます。

小学時代になると、低学年の時は、よく兄に着いて年上の人と遊んでいた記憶があります。年上の人と遊ぶと可愛がって
もらえるので、とてもいい気分だったのを覚えています。とても甘えん坊であったと考えられます。高学年になると、
仲良くなった友達とほぼ毎日遊ぶぐらい、仲の良い人とはずっと一緒にいました。まるで恋人のようですね…。
ちなみに、小学校2年生の時から私の野球人生がスタートしました。大事なところでエラーをすることが多い、
緊張に弱いタイプで、何回も悔し泣きをした気がします。

中学時代では、部活で野球をやっても良かったのですが、兄と同じ道を歩いて行くのが自分の中では甘えであると
思ったので、辛いであろうクラブチームに行くことにしました。軽い反抗期が来ました。中学2年あたりから1人で
いる方が楽だなと思って、授業が終わるとすぐに帰ってたまに、友達に誘われて外周を走っていた記憶があります。
この時から、趣味は昼寝、めんどくさがりになっていったと思います。

高校時代は姉や兄に対抗心を持っていたのか、別の進学校の高校に通うことにしました。ここでは最初のテストで
学年最下位になり、絶望したのを覚えています。ここから自分は人よりやらなくてはできないということを学び、人の
真似をしていてもいけないから、自分のやり方を見つけて効率よく成長しなくてはいけないと考えるようになりました。

といっても現実はそう上手くはいきません、3年になってようやく学年の中の下ぐらいにいけました。中学までは
完璧主義でしたが、高校になって完璧は無理だから、ある程度できればいいといった余裕を持った考えをできるように
なったことが自分の中での成長だと思っています。

さらに、高校3年のときが人生の転機でした。自分の好きなように自由に生きているにも関わらず、色々な人といい関係を
築いているY君を見て、自分も彼のようになりたいと思いました。今までは、周りの目を気にして、マイナスな評価を
受けないようにしようと考えていましたが、嫌なことは嫌、やりたいことは、やりたいなどと自分の気持ちを少しずつ
言葉にしていくようにしました。

こうすることで、仲の良い友達も徐々に増え、生きるのが今までより楽しくなりました。高校時代では、自分の気持ちを
少しずつ言葉にするようになり、心にも余裕を持って生活できるように意識してきました。

今までは内気な性格で、なかなか自分を出していくことができていませんでしたが、高校の時から自分の気持ちを相手に
伝え始めるようになりました。今でも、まだまだ自分の気持ちなどを全て曝け出すことは難しいです。しかし、自分の
考えを伝え、多くの人と関わることで、相手からも多くのことを学べると思うので、少しずつでも自分を伝えていきたい
と思っています。

周りの目を気にすることが悪いことだとは思いません。しかし、周りの目を気にするあまり、自分の考えを言えない、
我慢しすぎてしまうということは、相手の意見を受け入れるだけで相互理解ができなくなってしまい、より良い関係を
築くことができなくなってしまうと私は思います。最初から全ての人にというのは難しいと思うので、近くにいる誰かに
今思っていることを言ってみるといいかもしれません。



私が変わったように、人は何かのきっかけで大きく変わると思います。性格であったり、身体能力、賢さなど
色々なことが1つのことで変わります。そういったきっかけに自分が気付けるかで人生は大きく変わると思います。
いつ、どこで、誰がきっかけになるかは分かりませんが、身の回りのことは繋がっていると思うので、
多角的な視点を持って物事を捉えてみてください。


最後に自分の野球への想いを書きたいと思います。
小2から大学4年まで野球をやってきて、大学ではリーグ戦にもベンチにも入れず、とても悔しい思いをしてきています。
このまま終わるわけにはいきません。最後まで自分にできることを考え、リーグ戦に出れるように努力していきたいと
思います。また、チームとして心を奮わせる存在になれるよう、できることをやっていきたいと思います。

読みにくく、何が言いたいか分かりにくかったとは思いますが、少しでも自分がどんな人か分かっていただけたら
嬉しいです。最後まで読んでいただきありがとうございました。



体育専門学群4年   坂本充

四日市高校

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#26『一瞬に生きる』 (尾上達哉/体育4・宮崎西)

2021年07月15日 22時07分59秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

平素より筑波大学硬式野球部への厚いご支援、ご声援誠にありがとうございます。

はじめまして。尾上達哉と申します。

今自分は母校である宮崎西高校で教育実習期間中です。本日、水泳の研究授業が終わりほっとしたところでこのブログを
書きはじめました。拙い文章でありますが最後まで読んでいただければ幸いです。

ちなみに、先程、先輩のけいすけさんから婚約指輪を買ったと電話がありました。ご結婚おめでとうございます。

ブログを書くにあたり、何を書こうかなんと3分にもわたり非常に悩みましたが、やはり僕にしか伝えられないのは
あの2年間だろう、と。笑

僕は2年間の浪人を経て筑波大学に入学しています。


高校時代の僕と言いますと、「勉強?なにそれおいしいの?」といった感じで、県内でも有数の進学校であるのにも
関わらず、野球するか、遊ぶか、寝ているかといった生活を送っていました。そんな生活を送っていれば当たり前の結果
ではありますが、お恥ずかしいことに高3の夏に受けた模試ではマークシートにも関わらず900点満点で300点も
取れませんでした。

そんな高校時代、学年最下位を取ったこともある僕が2年間で筑波大学に入学したメソッドを知りたい受験生の方は
筑波大学硬式野球部受験対策係までお問い合わせください!!

また、この大逆転劇が映画化、ドラマ化されたとすれば、今春の超話題作「ドラゴン桜」に匹敵する感動の受験物語と
なること間違いなし!!映画制作会社の皆様、ご連絡お待ちしております。

はい、冗談はさておき、、、

現役時代、古文の助動詞すら覚えてなかった自分が1浪目、自分で言うのもなんですが、割と必死に勉強して
筑波大学体育専門学群を受験しました。

落ちました。

1103点が合格最低点でした。僕の点数は1102点。

あと一点足りませんでした。

流石にこの時ばかりは、ウルトラスーパーポジティブ人間の僕でも落ち込みました。

「どこの一点だったんだろう」

「1浪目、妥協した時間がその一点につながったのではないか」

そんな反省をいかして、2浪目は「まだできることはないか、妥協していないか」と常に自問自答しながら、
一生に一度の成人式にも出席せず、必死に勉強し、筑波大学に合格しました。初めて、嬉し涙が出ました。


この浪人話を踏まえて、自分が皆さんにお伝えしたいこと、それは

「一瞬に生きる」

と言う言葉です。小久保裕紀さんの座右の銘としても有名です。

意味としては、一瞬一瞬を全力で生きて、悔いのないようにする、ということです。

とにかく、この1分、1秒を全力で生きて、目の前のことに全身全霊で取り組んでいれば、結果の良し悪しに関わらず、
後悔なんてあろうはずがない。僕も心からそう思います。


選手として大した結果が出せていない僕の大学野球ですが、「一瞬に生きる」ことができていたためか、
ここまで自分が選手として歩んできた道に後悔はありません。これは本心です。

今、Bチーム、Cチームでくすぶっている後輩には特にこの言葉を伝えたいです。

Aチームと比較して環境も決していいとはいえないし、チャンスも学年が上がるにつれ、限られてきます。

学年が上がるにつれ、いろんなことが見えてきたり、周りの同期が結果を出しはじめ、不安になったり、言い訳を
したくもなります。そんな時こそ、「まだできることはないか」と考えながら、目の前の一瞬一瞬を大切に練習に
取り組んで欲しいなと思います。

普段、不真面目な僕が大真面目なことを書き、なんかよくわかんない感じになってますが、要するに僕が今一番
伝えたいことは、地元宮崎に帰省したいということです。

まとまりのない文章でしたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。これからも筑波大学硬式野球部の応援よろしくお願いいたします。

 

それでは、

帰省しまs…

間違えました。

失礼致します。

 

体育専門学群4年 尾上達哉

宮崎西高等学校

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#25 「最終話で笑ったやつへ」 (辻広貴/体育4・甲府西)

2021年07月15日 18時39分07秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

皆さんこんにちは。筑波大学硬式野球部4年の辻広貴です。

教育実習という帰省を含んだ一大イベントが終わってしまい、少し気持ちが沈んでいる中ではありますが、
私なりに精一杯ブログを書けたらなと思います。時間を持て余している人は読んでいただければ幸いです。

 帰省の話題が出ましたので少しだけ大好きな地元である山梨県についてお話ししようと思います。

山梨県のいいところは何といっても自然豊かなところでしょう。これを言うと田舎なだけじゃんとよく言われますが、
それこそがよいところなのです。鳥もつ煮込みはおいしい。放蕩もおいしい。ぶどうに至っては皆に配り歩きたいくらい
おいしいです。(もったいないのでしませんが。)そして、なんといっても富士山があります。(富士山は静岡県のものだ
とかいうくだらない意見は受け付けておりません。)

 ほかにも大好きな武田信玄公や富士急ハイランドの話をしたいところではありますが、話が大きく逸れていって
しまう恐れがあるためやめておきます。ですがベンチでの声出しで「風林火山の火で行こう」というと言うことで、
毎回やり過ごしていることにだけはこの場を借りて感謝させていただきたいと思います。
武田信玄様ありがとうございます。

 

 前置きが長くなりましたが、皆さんは悩み事や辛い出来事があったとき、どのように自分を奮い立たせていますか。

ありきたりですが私は音楽を聴くことで自分を奮い立たせています。特に菅田将暉さんの「ロング・ホープ・フィリア」
という曲にはこれまで何回も支えられてきました。今回はその歌詞の一部を紹介したいと思います。

「最終話で笑ったやつへ トロフィーとしてのハッピーエンド 
 願わなきゃ傷つかなかった 望まなきゃ失望もしなかった
 それでも手を伸ばすからこその その傷跡を讃えたまえ」という歌詞です。

 

これまでの大学野球生活を振り返ってみて、選手としての自分の良い思い出と、苦しかった思い出を比較すれば、
圧倒的に苦しかった思い出の方が多いです。

なぜ自分は評価されないのか。評価される程の実力がないからなのか。
これについてはとても悩むところだとは思いますが、評価されないのを人のせいにするのは嫌で、ひたすら自分の実力を
伸ばし、チームに必要な存在になるしかないという想いで練習に励みました。

4年生の春リーグでようやくベンチ入りを果たし、ユニフォームをもらえた時は大学での3年間を認められた気がして、
純粋に嬉しかったです。ですが、登板機会はありませんでした。もちろんユニフォームをもらうためだけに筑波大学に
入学したわけでも、野球を続けてきたわけでもないので心は満たされませんでした。

選手としてプレーするからには自分が試合に出て勝ちたい。これはだれもが思うことだと思います。下級生のころ、
自分が出てない試合にチームが勝っても素直に喜べない自分がいました。4年生になり、チームのことを考えることが
増えて以前よりかはチームの勝利に純粋に喜べるようになりましたが、今でも心のどこかには自分が出て勝ちたいと
思っている自分がいます。

試合に出て勝つためにもっとできたことがあるのではないか、という後悔は今後一生消えることはないと思います。
選手を続けている以上、この後悔を少しでも減らせるよう大学野球生活の残り数か月を全力で頑張りたいと思います。

 ですが、今の私にはこの後悔以上にしたくない後悔があります。
それは、中学以降の野球人生が公式戦優勝経験なしで終わってしまうというものです。

勝利を目指して続けてきた野球で一度も優勝できずに終わってしまったら、人間的な成長という視点では意味があったな
と言えるかもしれませんが、一番シンプルに野球を続けてきた意味がなくなってしまうのではないかと少し思ってます。

4年生にとっては次の秋のリーグ戦が筑波大学硬式野球部の一員として戦える最後のチャンスです。
泣いても笑ってもラスト。どうせなら最終話で笑えるように、手を伸ばした意味があったなと思えるように、
一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。


これからも筑波大学硬式野球部へのご声援のほどよろしくお願い致します。
拙い文章ではありましたが、読んでいただきありがとうございました。

 

春リーグを不本意な順位で終えてしまった筑波大学硬式野球部。残された時間は残り僅か。
幾多の試練を乗り越えて悲願の優勝を果たすことができるのか!

 

次回「天に北斗輝くとき」

 

 

体育専門学群4年 辻広貴

山梨県立甲府西高等学校

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#32 『夢を描く』 ~言葉の力~ (松木令伊/体育4・今治西)

2021年07月15日 18時27分42秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

皆さんこんにちは。

筑波大学硬式野球部4年の松木令伊です。



現在、私は帰省中で故郷の愛媛にて、このブログを書かせて頂いています。(執筆中)

久しぶりの長期オフということで、心も身体もリフレッシュ!最高の帰省ライフを堪能しております。帰省大好きな
野球部員一同も、この幸せなひと時を満喫していることでしょう。

 

さて、恒例となってきたこの野球部ブログ。

依頼が来るまで、どんな事書こうかな?と色々考えてましたが、ここでは自分がこれまでの人生において
大切にしてきたこと、信念のようなもの、について書いていければなと思います。

できるだけ簡潔に書こうと思うので、ご興味がある方も、そうでない方もしばしお付き合い下さい。





『夢を描く』

 

これは私が最も大切にしているモットーの一つです。ちょっとカッコつけすぎて、こそばゆい感じしますが、
こうゆうクセェ感じも意外と好きなので、語らせて下さい。



Softbank創業者、孫正義さんの言葉にこのような名言があります。

自分が持った夢に自分の人生はおおむね比例する結果を生む。」

 

孫さん曰く、

夢はでっかい方が良い、

現実がこうだから夢ばかり見ていてもダメだと言っている人ほど、
現実の世界から抜け出せずに終わっていく場合が多い、

とおっしゃっております。

私はこのことを非常に大切にしてきて、幼いころから現在に至るまで、かなり夢見がちな少年だったと思います。

小さい頃から野球が好きで、甲子園に行くことを夢見て県内屈指の強豪校に何とか入学。これまでとは全く違った
環境に悪戦苦闘しながらも人間的に成長できた経験を得ました。また、大学選びの際には野球と学業を一番高いレベルで
実現することを夢見て、当時全く手の届く気がしなかった筑波大学を志望。周囲から猛反対を受けながらも
何とか合格を掴み取りました。

時に無謀な挑戦すぎて反対意見を受けることも多々ありましたが、常に自分の意思で決断してきたという自負が
あります。そして、これからも夢を常に描き続けていくつもりです。

 

もちろん実現できていない夢も多少ありますが、でもこの挑戦があったからこそ、今筑波大学という素晴らしい大学で、
素晴らしい仲間と野球ができているのだと痛感しています。







夢を描くことは大切。じゃあ、夢を描いて、どうすればいいの?
でっかい夢を創ったところで、どう実現していけばいいの? 
ということで、実際に私が密かに行っている、夢を実現するコツをお伝えしたいと思います。



 

「言葉にする」



これがコツです(笑)。かなり普通かもしれませんが、これほんとに効果があるんです。

 

私はこれまで誰にも見せていませんが、iPhoneのメモに自分の成し遂げたい夢を言葉にして、箇条書きに記しています。

 

こうすることで、自分の目指すべきモノ、コトが明確になり、そこに向かう為のアクションを起こしやすくなります。




日本には古くから、”言霊” ということばがあり、言葉には何か不思議な力が宿っていると信じられてきました。
ある言葉を自分が発言したり、文字に起こしたりすることで、それが本当にその通りになっていく。

少し非科学的に感じるかもしれませんが、言葉には確実に人の意識や、行動を変化させる力があり、それによって
自分の人生を大きく変えうる可能性を秘めていると思います。

 

私も実際に高校の頃から、このiPhoneの”夢メモ”を実践しており、書いた夢を数年後実現した時に、
いつもメモを見返してはその不思議なパワーに驚かされています。

ただ、もちろん思うのは、これまで支えてくれた周りの人たち、環境、親、など多くの人やコトに感謝をしつつ、
夢を描き続けて、自分の道を切り拓いていく、これが大切なのかなと感じています。




少し暑苦しいブログになってしまいましたが、これが私の大切にしていることです。

もし今、夢がないという人も、一度深く考えてみて下さい。いま夢が見つからなくても大丈夫です。

 

そういうひとも、まず色々なこと(これまでとは違うアクションが特に大切)にチャレンジしてみる。 
→やりたいことがきっと見つかる。 
→それを言葉にする。 
→努力する。 
→夢が現実へと変わる。 

このステップを踏んでいくと、より豊かな人生になるのかもしれません。




これを読んだ皆さんは、携帯のメモ機能を開いて自分の夢を一言で書いてみてください!そしたらそこに向けて
様々なことにチャレンジと努力をしてみてください。ほんとなんでもいいんです。どれが正解なのかなんて、
そのときはわかりません。正解とはあくまで結果論で、無駄なことは結局無駄じゃないと思います。
がむしゃらに突き進んでみて下さい。そして数年後気が付くと、夢が叶っていて、その時にもう一度、携帯に書いた
”夢メモ”を開いて見てください。言葉が持つ魔力に驚かされることでしょう。
(最後までクサい感じになってしまいました。申し訳ございません。)




最後にこのチームで成し遂げたい夢を書いておきます。

 

「リーグ優勝、日本一」

 

実現した時に、またこのブログを開こうと思います。





松木令伊

筑波大学 体育専門学群 4年

愛媛県立今治西高等学校出身

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#27 私はどこからきたのか、私は何者か、私はどこへ行くのか (野条大雅/体育4・佐倉)

2021年07月15日 18時23分56秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

「あの日の夢をいまもずっと追いかけ続けていたら、今頃僕はどこにいて、何をしていたんだろう」
(コブクロ.「蒼く優しく」より)


野球をやり始めた人はほとんどが思ったであろう、プロ野球選手になりたいと。自分もその1人であった。
小さい時から祖父とテレビで野球観戦をし、幼稚園に行く前にはおもちゃのボールとバットでバッティングをしていた。
野球が好きだった。

ただいつからか、野球選手になろうなんて思わなくなった。

なんでだったのか、野球を始めた頃から今までを振り返ってみたいと思う。



自分は小さい時から野球に触れることが多かった。それは先ほど書いたことでもあるが、祖父と一緒に野球を見ていた
など身近に野球があった。

小学校1年生の秋には八街マリーンズという少年野球チームに入っていた。「ピッチャーと4番になりたい」なんてことを
監督に言っていたような気がする。
始めたてのころは金属バットがとても重かったし、飛んでくるボールはめちゃくちゃ怖かった。
フライを捕る時に逃げて捕ってたらケツバットもされた。それなりに痛かったし、やりたくなくなったこともある。
それでも立ち向かったし、何よりできた後に褒められたのは嬉しかった。

4年生になるちょっと前から野球が嫌になり始めていた。

マリーンズの監督は勝負にこだわる方で、非常に厳しかった。高学年の試合に4年の頃上級生が少なかろうとそんな理由で
負けることなど許されなかった。だから勝つために相当な練習、試合を積み重ねてきた。野球をしたく無いと思うことが
ほとんどであったが、試合に勝てばもちろん嬉しかった。だけどそれは本当に一時的なものに過ぎなかった。

4年生の時で印象的だったのは低学年の方の大会である。
この時から高学年の試合に出ていたから、低学年の試合では負ける気がしなかった。だが、県大会であと一歩のところで
勝てず準優勝に終わった。

あともう少しのところで負けた。だからといって、何か自分が変わったとかそういうものはなかった。
全体練習がきつすぎて自分から何かやろうとか思わなかった。
この習慣(?)みたいなものはずっと続いている。

6年生になって、4年生の頃のように勝てるかといったらそうではなかった。自分たちの代は明らかに千葉県の野球の
レベルが高かった。自分にとって印象的だったのは、坂倉(現広島)・木澤(現ヤクルト)だった。坂倉は走攻守どれも
レベルが高く、同じ郡で戦うこともあったので非常に嫌な選手であった。木澤に関してはシンプルにボールが速いし、
加えて人よりも前のポイントでリリースするから全然バットにボールが当たらなかった。
県大会の最高戦績はベスト8だった。なかなかに練習を積み重ねてきたが、優勝することはできなかった。プロ野球選手になることや小学校2年の時に夢見たロッテJr.に選ばれることなんて無理だとわかった。

小学校で野球は辞めようと思った。体力をつけることとかなら陸上部にでも入ればできることだし、きつくて叱られてばかりの野球をなんで続けなければいけないんだろうって思ってた。


それなのに、中学でも野球を続けた。中学校の部活動ではなく、佐倉シニアで。自分が嫌だと思った方を選んでいた。
知っている方も多いと思うが、佐倉シニアは全国で見てもいわゆる強豪と呼ばれるチームである。自分の代でも
島がロッテにドラフトで選ばれた。何が佐倉シニアを強豪たらしめているのか。それは圧倒的な練習量である。1日中
練習するし、平日でも週3日はナイター練習があった。

めちゃくちゃバット振って、ノックを受けて、最後にダッシュを何十本もやった。試合の結果によって罰走みたいな
こともあった。やっぱり野球が嫌になった。いや、こんな鬼の練習をしてまで野球をやりたいと思わなくなった。
どうせ試合で怒られるくらいなら試合に出なければ良い。そんな風に思ってた。
それでも、自分が通っている中学と違う人と会えて友達の幅が広がったのは良いことだったしまた、鬼の練習をした
成果は出てきたというのもよかったと言えばよかった。

レギュラーになれなかったが、このおかげで自分の将来像が一つできた。選手をサポートする仕事である。
ランナーコーチという仕事もそうだが、休憩時間とかでマッサージをお願いされることもあった。自分にとっては
これが悪くなかった。少年野球の時は選手としてやるのが当たり前だった世界だった。それがシニアに入って、
サポートをすることが自分に向いているなと感じたし周りからもそれが認められたことが心地よかった。
筑波大のような体育・スポーツ系の学部を目指すようになったのもこの頃である。

高校は佐倉高校に進学した。巨人の長嶋終身名誉監督の出身校である。

高校に入ってから、勉強も野球も大変だった。外部模試で、学年でビリから2番目という成績も残した。
野球の方では佐倉シニアで野球をやっていたというプライドみたいなものが自分を駆り立てた。バッティングでの
存在感を見せることができ、1年生ながら背番号をもらうことができた。

夏の大会では、先輩の怪我もありスタメンで使っていただけた。その責任の大きさは計り知れなかった。まだ入部して
3ヶ月の自分が試合に出ることの重さがある中、自分は期待されていると感じながらプレーした。初戦では3打点上げる
ことができ、自分の存在感を見せつけることができた。この頃あたりから野球が楽しく感じていたかもしれない。

高校の時の目標は21世紀枠で甲子園に行くことだったが、それは叶わなかった。

高校野球引退後受験に向けて勉強したが、100点以上足らず浪人した。

浪人時代は体育進学センター(タイシン)に通った。毎日片道3時間の通学だったが単語の勉強などをすることができた
のでそれほど苦労しなかったし、なにせここでの生活が楽しかった。今マネージャーを務めている黒堀とはここで
出会っている。

浪人の生活で唯一大変だったことがある。減量だ。
当時、身長が168cmで体重が74kgあった。体組成をみてみると肥満と分類された。タイシンの先生に「お前は痩せろ」と
言われ、2ヶ月間かなり本気で減量した。毎日体重を計測し、食べるものに関しても何をどれくらい摂取したのか記録して
カロリーの収支計算もおこなった。食べる量に関しては相当減ったし、その中で運動量も増えたのでみるみる減量して
いった。結果として、2ヶ月で8kg減量した。

浪人の期間は先述したが楽しかった。何が楽しいと自分に感じさせてくれたのか。1番は実技の授業があったことだ。
これはただ単に勉強の鬱憤晴らしで実技があってその結果精神的に良かったとか、そういう話ではないと思う。
実技の授業を通じて、同じ浪人仲間との結束力が上がったからだと考えている。

人間というものはどうも1人では戦えないらしい。仲間の存在・支えがあってこそ何かに立ち向かえる。ある種の
心理的安全だ。支えがあることで人は何かを頑張れるみたいである。そしてこの心理的安全を生み出したのはほぼ間違い
なく実技の授業であろう。

1年間浪人して、筑波大学に入ることができた。頑張ったものが報われたという嬉しさ、食事管理を手伝ってくれた母、
安くない年間の授業料を払ってくれた父、勉強や実技を教えてくださった先生方には今でも感謝している。
その一方、ともに筑波を目指してきた仲間がみんな受かったわけではない。その悲しさもあった。


浪人してまで筑波に来たので、大学での経験は貴重なものになるようにしたかった。授業は科目問わずそれなりに
真面目に聞いた。体育・スポーツという一分野に対して様々な切り口があることが自分には面白かった。

また、2018年から始まったアスレチックデパートメント(AD)の活動への参加もした。今まで大学をはじめとする
学校スポーツが持っていなかったであろう視点でスポーツを考えることができることに面白さを感じたし、ADのモデルと
なっているアメリカの大学スポーツが日本の大学スポーツのとは全く違うということに驚きを感じた。
これはアメリカで実際に見て感じたことである。(最近、NCAAが学生アスリートのエンドースメントなどを認めることを発表したみたいで、今後のスポーツ市場がどのように変化するのかかなり気になっている。)


このような経験から、自分は将来大学スポーツに関わることができたらいいなと考えている。アメリカのように
スポーツでより多くの人を魅了したいし、そこから学生が勉強・スポーツに打ち込める環境を作っていきたい。


部活の方に関しては木のバットに慣れることができなかった。思うようにバットが出てこなくて、高校の時との差を
感じた。おまけに1年の10月に右の脛を骨折した。これがなかなかタチの悪い折れ方でちゃんと骨がくっつくのに
5ヶ月くらいかかった。初めの方は大学生活もしんどくなるほど何もできないような日々が続き、一度手術で入れた
ボルトを抜く手術もしたのでまともにやれたのは2年の8・9月あたりだった。

まあ、そこから選手として続けるのは無理だった。それなのに、なんでかなスタッフミーティングの時には、
はじめは選手を続けるなんて言ってた。対して、多くの人から選手は続けないほうがいいと言われた。それでもって
スタッフに回ることを決めたが、スタッフに回れば良かったわけではなかった。そんなに甘くなかった。

野球に向き合う姿勢というものは周りの人は見ているのである。自分に対する信頼・信用がなかったことを初めて
実感した。このときに初めて選手を辞めるどころか部活動をやめようと思った。本当はもっと早く考えるべきだった
のかもしれない。そうしたら違う世界も見れたかもしれない。けど、いまこうして野球部にいる。

自分が野球部にいる・いられるのは下のチームで選手・スタッフとして戦っている大友やいけみつ、松木などの励ましがあったからである。


選手以外の活動に関して、自分の中で印象に残っているのは昨年のライブ配信である。このライブ配信では、
ゼロの段階から作り始めた。方法も機材もどうしたらいいかわからない中多くのメンバーにサポートしてもらい
今までにない配信を見ていただくことができたと自負しているし、SNSを見てみるとお褒めの言葉もいただいた。
やってきた甲斐があったと実感した。この経験をいただいた川村先生はじめ、サポートしてくださったADの方々や、
部員には感謝しています。


あともう少しでこの文章は終わるので我慢してみてほしい。なんならここからの方が大事かもしれない。


先述したが、シニアの同期だった島はプロ野球を引退し大学生活を送っている。そんな彼とコロナが流行る前・島が
大学入学する前に一度飲みに行ったのだが、その際彼が言ってたのは「野球で大学に行かなくて良かった」である。
「大学は自由な時間がかなり多いのに、その時間を野球に大部分を注ぎ込まなくて良かった」と。

野球部のみんなはどう思うだろうか。このことはよく考えるべきだと思う。自分の大学生活を本当に野球部の活動に
費やすべきなのか。野球が好きで、続けていきたいならもちろん続けるべきだ。
自分は野球をやっていることが普通であり過ぎてその意味を考えることがなかった。だから今がある。

自分はスタッフミーティングを経てトレーナーとして活動するという選択をした。その責任はしっかり持っておきたい。
Cの選手を少しでも上のチームにあげ、そしてリーグ戦で戦う選手・チームを広報活動やライブ配信で多くの人に
見てもらう。これが今の自分にできることだ。

 

最後に、自分の好きなガンダム作品の一つである「ガンダムUC」より以下のセリフを残して締め括ろうと思う。
「人を想って流す涙は別だ。何があっても泣かないなんてやつを俺は信用しない。」

 

体育専門学群4年 野条大雅

千葉県立佐倉高等学校

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#24 「尊敬する人」 (坂口慶太 / 体育4・東筑)

2021年05月14日 19時04分22秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ


みなさんこんばんは。

最近天然の生牡蠣を食べて食中毒になった坂口です。めちゃくちゃきつくて死にたくなりました。
私は好きなものを我慢することが嫌いなので多少のリスクを背負ってでも今後も生牡蠣を食べ続けたいと思います。

 このブログでみんなに伝えたいことっていうのも特になく、何書こう、面白いことを書こう!と思ったけど、
いつも面白いことをいっても自分で面白いと思っても、面白くないことが多々あるのでやめておこうと思います。

高校から本を読めと言われ続けていたけど、1冊たりとも今まで読んだことがないので、本当に文章力ないです。
その文章力の中で小説っぽく上手く書こうと頑張るのでご理解よろしくお願いいたします。
 


さて、50人くらいがブログ書いている中、なるべく違った視点で書こうと思い、考えたタイトルが「尊敬する人」です。
みんなは尊敬する人はいるかな?自分は最近までいませんでした。

今まで学校で良い先生にはたくさん会ってきて、とてもタメになることを教えてくれる先生ばかりでしたが、
人生を変えてくれるほど、いわゆる恩師と呼べる人はいないし、基本自分の力でなんとかできていたと思っていました。
そのため、あんまり憧れる人とかもいませんでした。

小学4年生の頃、ヤフードーム(現PayPayドーム)で始球式に当選し、始球式をしたことがありました。
始球式後、取材を受け、尊敬する選手は誰ですか?と聞かれ、「特にいないです」と答えました。すると、記者が
「やっぱりイチローだよね?」と無理矢理首を縦に振らされ、次の日の新聞で「イチローのような選手を目指して
日々練習している」と記事にされました。大人の闇を見ました。


このようにとくに尊敬する人などがいない中、就職活動で尊敬する人は誰ですか?とよく聞かれるようになりました。
ちゃんと回答できるようにしないとまずいなと考え、ある夜の日真剣に考えました。

 

そして答えが出ました。結論から言うと、親父である。(就職活動において結論をまず言うことは非常に大事なので、
これから就活する人は覚えておきましょう。これが唯一みんなにこのブログを通して伝えれることです。
結論ファースト。)


僕の親父は、今50歳過ぎで甲子園のとなりのビルで単身赴任しています。特技は日本語を覚えたての中国人のモノマネを
することです。これ結構おもろいです。親父はけっこう誰にでも社交的でガツガツ行きます。
めっちゃバカやったりもします。

親父は、小学校のソフトボールチームのクリスマス会で、当時流行った矢島美容室のニホンノミカタを女装して
踊りました。当時の私は、親がそんなことするのはめちゃくちゃ嫌でした。次の日、それが嫌だったせいか、
全身にじんましんがでました。


 

 中学のチームの決起大会のあと、店の外でAKBの「会いたかった」を替え歌におどりをつけながらみんなを
めちゃくちゃ笑わせてました。これは、ど下ネタなのでここで言うのはやめておきます。

親父は高校、大学と僕の友達と何人もLINEを交換してやりとりしています。しかも意味のわからないやりとり。
よくInstagramのストーリーで息子である僕がメンションされて、親父とのLINEのやりとりが載せられます。
「慶太の親父やばすぎwww」と。いつも何やっとんねんと思います。



こんな風にめっちゃバカやったりする親父ですが、理不尽なことも多くありました。

小学校の低学年チームの監督を親父がやっており、キャプテンが僕でした。なにかあれば僕が殴られていました。
何もやってないのにまわりがやらかすと僕をどついてきました。態度にだすなと直ぐキレてきました。グラウンドで
お父さんと呼ぶと監督と呼べと、どついてきました。頭おかしいです。


山口県のおばあちゃんの家に年末行き、僕は親父と遊びたかったのに親父はパチンコに行こうとします。泣いて
呼び止める僕の手を振り解いてパチンコに行ったことが何回もありました。景品を持って帰れば許してもらえると
思っているのです。

 

家族で出かける時、出発の5分前くらいになると綺麗好きな親父はなぜか急に風呂掃除や網戸の掃除を始めます。
早くしろと母や姉がせかすと逆ギレし始め、家を綺麗にするためにやっている。どこにも連れて行かんぞ。と
運転できるのが自分しかいないことをいいことにキレてきます。これで何十回も出かけるのが中止になりそうに
なったり、行きの車の雰囲気が最悪になったことがありました。

このような親父の元で育った子どもは2パターンの生き方に分かれると思います。
こんな親父みたいになるもんかと勉強に明け暮れインキャの道を選ぶ。あるいは、親父のようになりたいと思うかです。

僕はその選択は後者でした。

色んなとこでバカやったりするけど、仕事の電話がかかってきたら、サラリーマンの顔になり、真面目に仕事の話をし、
仕事をこなす親父が僕にはかっこよく見えました。

 

色んなことが親父とはありましたが、なんでもでき、仕事もできる親父を尊敬しているんだなと、
尊敬する人は誰かを考えた夜に気付きました。

就職活動でも親父に色々と話を聞き、結局は唯一尊敬する親父と同じ商社に行こうと思いました。



最近は親父を越しつつあるけど、あと足りないものが年収です。
親父が退職するまでに年収を越したいと思うけど、これがなかなか高い壁だ。
これで私のブログは終わりです。




体育専門学群4年 坂口慶太

福岡県立東筑高校出身 

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