筑波大学硬式野球部のブログ

筑波大学硬式野球部公式HP http://club.taiiku.tsukuba.ac.jp/baseball/

ラストシーズンに懸ける想い⑱(体育4・村上滉典/今治西、体育4・西浦謙太/八尾)

2023年09月01日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第18回は村上滉典(体育4・今治西)と西浦謙太(体育4・八尾)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

こんにちは

4年の村上滉典です。

 

 

日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援とご声援、誠にありがとうございます。

 

振り返ってみると、紆余曲折ありましたが、多くの方々の支えやご指導のおかげで人間的にも技術的にも成長させて頂いた4年間でした。

 

 

この4年間は、試行錯誤の繰り返しで大学1.2年生は失敗ばかりでした。

 

ここで間違っていたことは、自分自身の考えだけで技術練習をしていたこと。

 

それは、私の大切にしている「正しい努力をする」というところからかけ離れていました。

 

やはり大切なことは、野球の専門家や素人、体育系の教授など様々な人からアドバイスを頂き、それを選定して取り組むこと。また、自身の競技者としての強みを数値化・分析し、それを伸ばすことでした。

 

大学2年の時、1つ上の先輩の濱内さんと話していたことが鮮明に覚えています。「学生野球は時間が限られている、その中で結果を出さないと上にはいけない。どうやって努力するのか。目の前の1分、1秒を何に使うか」当時の私には、本当に刺さりました。

 

そこから後悔のない選択をするために、目の前の時間を野球に捧げてきました。

 

 

 

 

野球に打ち込むことができたのも両親の支えあってのことだと思います。

 

大学野球に限らずこれまでの野球人生でも様々な助言を貰い続けてきましたが、それは野球に真摯に向き合うことにつながり、野球に集中できる環境を常に与えてくれていました。このように野球に打ち込める環境がなければ今の私はないと思います。本当に感謝しています。

 

大学の4年間も野球第一として支え続けてくれました。

 

この恩はラストシーズンの結果や行動で示したいと思います。

 

 

 

 

ここで、私の4年間の経験を得て後輩に伝えたいことがあります。

 

それは、目標とするところまで、段階を追って根気強く取り組んでほしいということです。ピッチャーであれば、完成形に目をとられて1を10にするのではなくて、1を2に、2を3にする努力を重ねてください。そうすれば、きっと確かなる技術力が身につき、安定した投球ができるはずです。

 

私は確かな技術力は精神力もカバーできると思っています。

 

それを信じて、後輩たちには自分自身で信じられる技術力をつけて欲しいと思います。

 

 

 

最後に私自身の野球人生について振り返りたいと思います。私は、本当に「運」が良いです。

 

これまでの人生の中でも、恵まれた環境、指導者をはじめとする尊敬できる人との出会い、信頼できる仲間が常に周りにいたことで、野球というスポーツを続けてこられましたし、人生を変えることができたと思います。

 

また、兄の存在も非常に大きく、何をしてもそつなくこなし、野球に対して一生懸命ひたむきにプレーする姿は、私の野球人生のお手本でした。そんな常に追いつきたい・追い越したい存在が身近にいたからこそ、私は野球に対して人生をかける想いで本気で取り組むことができたと思います。

 

 

 

これまでは結果を出すことに執着があり、野球を好きという感情でできていませんでしたが、今となってはその感情にも変化が現れました。

 

結果よりも大切なものがある。

 

皆と目標・足並みを揃えて野球をすることでそれまでの過程に意味があることを実感しました。

 

大学野球に限らず、これまでの野球人生はそれほど濃密でかけがえのない時間だったと思います。そのため、私はこれまで全ての関わった人、出会い、環境に感謝し、残り少ない大学野球も尽力します。

 

「常に喜べ、絶えず祈れ、全てのことに感謝せよ」

 

野球をする上でこの言葉を大切にしてきました。

 

プレーで周りの応援してくださる全ての方に感動を、そして選手をあきらめてスタッフになってくれた人、サポートしてくれる院生の方々、支えてくれる人全ての人のために戦います。

体育専門学群4年 村上滉典

愛媛県立今治西高校

 

 

 

 

 

こんにちは。

筑波大学硬式野球部4年、主将の西浦謙太です。

 

 

「野球が好き」

自分が小学校1年生から大学4年の秋まで野球をしてきて、自分が野球に対して持った感想です。

 

 

父が高校野球で監督をしていたこともあり、生活の多くが野球を占めていて、野球チームに入るまでは、土日はよくお父さんの高校の練習試合について行ったり、夏休みも練習試合だけでなく、練習にもよくついて行ったりしていました。普通の子供ならうろうろしたり、砂遊びをしたりするのが普通だと思いますが、自分は椅子にじっと座り練習を見ていたそうです。練習試合でも、バックネット裏でずっと集中して試合を見ていたそうです。それに尽きることなく、帰りの車でもずっと野球の話をしていたそうです。まさに野球少年といったところでしょうか。

 

 

そんな幼少期を過ごし、小学校では北出戸モンスターズに入ってのびのびとやらせてもらいました。

 

ここで小野監督から教えてもらったことは自分の野球観を形成するうえで欠かせなかった方であり、この出会いがなければここまで野球をやれていなかったと思います。小野監督本当にありがとうございました。

 

 

そして高校まで野球を続け、大学進学する際に筑波大学を受験することに決めました。

 

その時勉強は本当に嫌いでしたが、野球のためにならと思うとそこまできつくはなかったです。そのくらい野球が好きで、野球のためなら何でもできると思っていました。

 

 

そして、大学に入ってからもその気持ちは変わりませんでした。

 

なんなら、野球に対する気持ちは強まってきたかもしれないです。「フォーー、あかん、野球おもろすぎる」っといったところでしょうか。(引用 筑波大学硬式野球部 ラストシーズンに懸ける想い 生島光貴)

 

 

このあたりで西尾が「野球うまくいってるからそう思うんやろ、俺の気持ちなんか理解できやんやん。」と4階の廊下で下を向きながらぶつぶつ言ってそうですが、うまくいくことばかりではなかったです。

 

スタメンで出ても2打席交代。オープン戦は打つけどリーグ戦で全く打たない。リーグ戦初のスタメンマスク、健志台球場で北爪とバッテリーを組んで桜美林大学にボコボコにされたこと。負けていたら、人生が変わっていた入れ替え戦。大学野球って難しいなと思うことは多くありました。

 

でも、野球嫌いとか、やめようかなって思うことは1度もなかったです。

 

 

 

ここでふと思ったのは、なぜここまで野球が好きなのか。

 

それは自分が身を置いた環境や、同級生にとても恵まれていたからです。

 

 

高校では筑波大学硬式野球部OBである長田監督やまじめな同級生に恵まれ好きな野球をのびのびやらせてもらえました。大学では自分をさらに野球好きにさせた濱内太陽さんにも出会うことができ、この人のおかげで野球がうまくなったと思います。

 

 

その中でも特に恵まれているなと感じたのは、筑波大学硬式野球部では学生スタッフがいることです。

 

学生スタッフとは、2年生の秋に選手としてリーグ戦に出る可能性を絶って、チームが強くなるために練習のサポートやチーム運営に携わる人たちのことです。

 

学生スタッフが表舞台に立つことはあまりないですが、筑波大学硬式野球部は学生スタッフがいてこその集団です。リーグ戦で試合ができるのは、手配してくれるマネージャーがいたからこそ。

 

リーグ戦の1本のヒットには、何千球と投げてくれたバッティングピッチャーの存在や、フォームを客観的に見られるように映像をとってくれるSSD、ウエイトの知識をくれるトレーナーなどの頑張りがあるからこそ。

 

1つのアウトにもピッチャーコーチのアドバイスや、投手トレーナーのおかげで怪我をせず投げられているからこそ。

 

学生スタッフがいるからここまで野球がうまくなれたし、この学生スタッフの頑張りを無駄にしたくないという思いから、日々野球に取り組めています。

 

本当にいつもありがとう。

 

 

また、院生コーチの牧野さんにはとても感謝しています。キャプテンとして力不足で目の届かないところや、自分たちが目の前のことで精一杯になっているときも、客観的にアドバイスをくれ、私生活等の言うのも面倒なことも根気強く言ってくれているおかげで、野球に集中することができています。

牧野さん本当にありがとうございます。下級生はアンチが多いですが4年生になればこの気持ちがわかると思います。

 

 

 

いよいよ秋リーグが始まります。

 

今まで野球を好きにさせてくれた人達に恩返しをするためにこの秋リーグ優勝したいです。

 

リーグ優勝をして、野球を大好きになりたいです。

 

リーグ優勝は2006年にしたのが最後で、17年間も優勝から遠ざかっています。選手、学生スタッフ、院生コーチ、東條さんの全員が一体となって、この秋リーグチャレンジしたいと思います。応援よろしくお願いします。

 

体育専門学群4年 西浦謙太

大阪府立八尾高校

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラストシーズンに懸ける想い⑰(体育4・小林絃/松本深志、体育4・森口尚哉/立川)

2023年08月30日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第17回は小林絃(体育4・松本深志)と森口尚哉(体育4・立川)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

ブログをお読みの皆さん、こんにちは。
筑波大学体育専門学群4年の小林絃です。

 

日頃より筑波大学硬式野球部への温かいご支援・ご声援のほど誠にありがとうございます。

 

 

僕は自分の話をするのが苦手なのでお酒の力を少し借りるために今では定期開催となった波戸飲みの後に書いています。変な文章、僕らしくない内容でもお酒のせいなのでご容赦ください。

 

まず、「ラストシーズンに懸ける想い」を綴る前に少し僕の性格について話したいと思います。

 

僕は画家の父とパイプオルガニストの母から産まれて来ました。その上、ドイツ出身で双子と出生話だけで就活の面接を盛り上げたことは1度や2度ではありません。

 

今思うと家にテレビが無かったり、車が無かったりと他にもツッコミを入れたくなるところはありましたが、それでも奇跡的に小中高は社交的で明るい好青年に育ちました。

 

 

ただ、大学に入って寮生活を始めたことで少しずつ化けの皮が剥がれていきました、、、
他人が気にならないところにこだわりがあったり、他人が気になるところに特に何の興味も無かったのです。そんな価値観の違う人が大勢いる中で、24時間生活をしなくてはいけない寮生活は2ヶ月ほどでだいぶ精神的にきついものとなっていました。加えて、ゴミ箱からゴミが溢れていたり、冷蔵庫の食べ物が勝手に食べられていたり、課題を毎回やらされたりとどうして綺麗にしないのか、どうして自分でやらないのかと常にストレスを感じていました。

 

そんな地獄の寮生活の中、自分の考え方や価値観を大きく変える言葉と出会います。

 

「過去と他人は変えられない。」

 

名言らしい名言ではありませんが、当時の僕には物凄くしっくりくる言葉でした。(※結果的にこの言葉の影響でとても苦しむことになりますが、、、)

 

 

これ以後、寮飯の1時間前に起きてごみ捨てと洗面台の掃除をし、余った時間で勉強をするようにしたら、今まで他人のせいにしていたことが自分の行動1つで解決し、生活の質まで向上しました。他人に期待することを辞め、全ての結果の責任を自分に置く習慣がついたことで、1つの結果に一喜一憂したり、感情的になることが減り、精神的にとても楽になりました。唯一の弊害としては他人への興味や関心がすこーし薄れてしまったことですかね、、、

 

 

このような過程を経て今の僕の性格に至ります。何故、ラストシーズンに懸ける想いで自分の性格の話を最初にしたかと言うと、僕のこの性格と投手ヘッドコーチという役職の相性が最悪だったからです。

 

 

投手コーチではアウト1つどころがストライク1つも取れません。今まで避けてた他人に期待して委ねることしか出来ないのです。スタッフミーティングが終わって最初に配属されたAの練習を見ながら心の底から向いてない。野球部を辞めようと思いました。

 

 

ただ、新人練の投手コーチの役割が早々に決まっていたので、割り振られた仕事だけこなしてその後辞めることにしました。当時の新入生(現2年生)には「目が死んでいる」、「サイコパス」と何度言われたかわかりません。確かに、生気は無かったことでしょう笑

 

 

それでも、新入生に罪はないと思い、僕の知識や技術を惜しみなく伝えました。時にはできる限り感情を見せて注意したり、真剣に大学野球について同期の大切さについて伝えたつもりです。人生を振り返ってもあれほど本気で人と向き合ったことはないと思います。

 

 

そして、そんな新人練や例に漏れず全く興味の無かった春リーグが終わり、全体のチームに混じった時に今までと違う感情が芽生えていることに気が付きました。

 

 

1年生が試合に出れば活躍して欲しい。失敗をすれば力になりたい。また、試合に送り出す際にはただ期待するのではなく、自信を持って送り出せるようになっていました。

 

 

この変化は選手達の頑張り、積み重ねてきたものを1番近くで見ていたからでは無いかと思います。

 

 

その後、ヘッドとなったBチームの選手達にも同じようなことを思うようになり、今では投手ヘッドコーチとして投手全員の活躍を心から願えるようになりました。

 

 

きれいごとに聞こえるでしょう。

恐らく、きれいごとです。

 

ただ、今まで知らなかった自分の一面を知ることができ、チームへの関わり方や投手コーチとしての取り組みに大きな変化が生まれたのは確かです。

 

上下関係なく投手陣として一丸となって欲しい、本音で語れる関係性を築いて欲しいという想いで企画したご飯会は「絆飯」と名付けました。その他にも、ブルペンステップや課題練など選手が活躍できるためにもっと個人にフォーカスした取り組みがしたくて始めたこともちらほら?上手くいかないことばっかりでしたが、、、

 

 

そんな大学野球、投手ヘッドコーチ生活も残り僅かとなってきました。早いですね。

 

 

4年生投手陣

こんな適当な人間を投手ヘッドコーチにしてくれてありがとう。1番近くで見てたからこそ、今年の投手陣には力があることをよくわかっています。自分のピッチングを堂々と披露してきてください。結果は必ず付いてきます。みんなの活躍が僕の1番の喜びです。

 

逸聖、耕平

4年間ありがとう。退寮を監督さんに直談判する時、唯一心残りだったのが、2人と生活出来なくなることでした。怪我して、エラーして見ていてハラハラな2人だけどそれでもひたむきに努力する姿にいつも力を貰っています。どのような形でリーグに関わるか分からないけど、それぞれの役割での活躍を心から応援してます。

 

お父さん、お母さん

自分のことを話すのが昔からあまり得意では無いので、ブログの存在を教えることはないと思いますが滅多にない機会なので言葉だけでも、、、
5歳から18年間、本当に野球漬けの毎日で負担も多かったと思います。それでも何も言わずに弁当を作ってくれること、庭1面にトスネットを張って練習に付き合ってくれたことなど、感謝をしてもしきれません。綾と同じように大学野球でも活躍して恩返しをしたかったけどダメでした。ごめんなさい。
グラウンドに立つことは無いけど、誇らしい選手達がリーグ戦で躍動してくれます。少しでも応援してもらえると嬉しいです。
まだまだ心配や面倒をかけると思いますが、社会人1年目から少しずつ恩返し出来るように頑張ります。帰省した際には一緒に美味しいお酒飲みましょう!

 

 

話が長くなって申し訳ございません。
ラストシーズンに懸ける想いですよね。

 

もちろん、

 

リーグ優勝・日本一

 

これしかありません。

 

俺らならできる。夏のOP戦を戦って本気で思えるようになりました。
選手、スタッフ、院生、監督、特任助教
全員の力を合わせて必ず成し遂げましょう!

 

 

体育専門学群4年     小林絃

長野県立松本深志高等学校

 

 

 

 

 

平素より弊部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

今年度、ヘッドコーチを務めさせていただいております。筑波大学硬式野球部4年、森口尚哉です。気持ち込めて書きます。読めるところまで読んでください。

 

 

「ラストシーズンにかける想い」

 

 

実は、一度執筆を終えていい感じにまとめてたつもりで提出しました。しかし、1回目の執筆から今日まで、同期の思いが込もったブログや日々刻々と近づくリーグに思いを馳せると、様々な心境の変化があり、気づけばもう一度パソコンを開いています。

 

 

 

ブログ依頼から2回目の執筆まで、書きたいことをいろいろと考えてきましたが、リーグ目下に迫った今、このブログを通してできるのは、お世話になった方々への感謝を伝えることと、部員に向けて、4年生そして自分の覚悟を感じてもらうことかなと思うので、余すことなく書き留めます。

 

 

まずは、覚悟云々の前にこの場で感謝を述べさせてください。

 

 

これまで約14年間野球を応援してくれた両親へ、まずはありがとう。

 

浪人してまで入った大学では思うようにいかないことも多く、かなり心配させた記憶があります。選手を退いてからはより一層心配をかけた気がします。

 

 

筑波に入るのを反対したお父さん、選手を辞めると言ったときは悲しそうな顔をさせてしまったお母さん、今は選手の時よりも自分を誇れているし、筑波で野球ができてよかったよ。

 

 

社会人になったら何倍にもして返すのでもう少し心配かけさせてください。

 

 

そしてこれまでの野球人生で出会った指導者の方々。野球人生においてもっとも誇れることは、指導者の方に恵まれたことだといっても過言ではないと思います。

 

本当にありがとうございました。

 

 

 

さて、ここからは「覚悟・想い」の方を、文章を作らず飾らず、思いのままに書いていきます。

 

 

だいぶまとまりがない文章になりそうですが、普段鬼軍曹と揶揄されている僕が、グラウンドでどんなことを考えているのか、気持ちだけ感じてください。

 

 

「ラストシーズンにかける想い」

 

 

優勝したい。それだけです。

 

 

春リーグ、戦わずして日体の優勝が決まった4月30日。選手ではないし自分はプレーしていない、できないのに、頭が真っ白になりました。あんな思いはもう2度としたくありません。

 

 

試合では、緊迫した場面で選手が思うようなプレーができなくても、ラインを越えれない自分は声をかけることしかできませんでした。軌道に乗れないチームや選手を見て、リーグ期間は幾度となく唇を噛みしめました。

 

 

せっかくリーグに出れたのに代打で縮こまってしまう選手も、食堂で元気がない3階フロア長も、もう見たくありません。

 

 

あの場所で思い通りにプレーができない選手が一人でも減るよう、接戦で勝ち切れるチームになるよう、春リーグが終わったその日から秋の優勝だけを信じて、1秒に全力を注いできました。

 

 

「Enjoy Baseball」

慶應義塾高校が甲子園優勝を達成し、この言葉が話題になっていますが、ただ楽しめばいいという簡単な話じゃないように感じています。ただ楽しむのではなく、たくさん練習して、いろんなことを我慢して、そしてあの緊張感の中で動じずに楽しめるチームが強いのだと思います。

 

 

練習を楽しめても、緊張感に負けて勝てないと面白くないです。

 

そのためにどんなプレッシャーにも屈しない練習を作ってきたつもりです。

 

特に3年生のみんなには6月期からいろんなことを求めてきたし、多くの重圧を背負わせてきたと思います。ごめん。でも、リーグに近くなるに連れて本当に頼もしく思っています。ありがとう。

 

 

春を終えて一皮も二皮も向けようと苦しんだみんななら大丈夫だと信じています。

 

140人一丸となって圧倒しよう。

 

 

最後に、ヘッドという肩書を取っ払って同期のみんなに感謝を伝える時間をください。

 

 

自分はスタッフミーティングから本気でチームに向き合えるようになりました。

あの二週間が今も自分の原動力です。

 

自分自身の選手への思いがありながらも、チームへの貢献を探して裏方に回ったスタッフのみんな。

涙を堪えながら、また、覚悟を持った目をしたみんなの決意表明とその光景は忘れることができません。

「スタッフがプロになれ」何度言われてきたことか。最後優勝して、日本一のスタッフ陣だったと言われよう。

そして、ミーティングを経て選手として今もなお前線で戦い続ける選手のみんな。みんなのプレッシャーは僕には計り知れません。選手とヘッドという関係から厳しいこともたくさん言ってきましたが、計り知れないプレッシャーの中で戦うみんなを心の底から尊敬しています。

 

怪我に苦しみながらチームへの貢献を考えてくれた人。賑やかしというポジションを見出した人。本当は自分が前線で戦いたいはずだろうと思うけど、役職がついている自分からすれば自ら道を開く皆はかっこいいです。

 

みんな真面目で自分の責任を全うするすごい奴ばかりなので、自分がヘッドとしてどれだけのことができているかはわかりません。

 

ただ、そんな皆が最後、優勝して笑っている姿を見るために、絶対に妥協しないし絶対に妥協させない。それが尊敬する皆の中でヘッド任せてもらっている僕の流儀であり覚悟です。

 

 

最後、チームを勝たせるのは4年生であってほしい。

 

今、下のチームにいる選手には散々厳しいことを言ってきたけど最後まで足掻いてほしい。

 

下級生時は下のチームで苦楽を共にしたみんなのこと、絶対に甘やかしませんが、最後まで待っています。

 

このブログの執筆を終えたら、またいつも通り憎まれ口のヘッドに戻りますが最後に一つ、皆の中で役割を与えてくれてありがとう。

 

 

 

「リーグ優勝」「日本一」

 

どんな景色だろう。その瞬間を想像しただけで泣けてきます。

 

 

後輩たち、後少し4年生に力を貸してほしい、

 

同期のみんな、4年間足掻いたみんなが泣きながら笑う姿を見せてくれ。

体育専門学群4年 森口尚哉

都立立川高校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラストシーズンに懸ける想い⑯(体育4・生島光貴/福岡県立福岡、体育4・成沢巧馬/東邦)

2023年08月29日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第16回は生島光貴(体育4・福岡県立福岡)と成沢巧馬(体育4・東邦)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

こんにちは。


筑波大学 4年生島光貴です。

 

平素から筑波大学硬式野球部への多大なるご支援、ご協力誠にありがとうございます。

 

普段、多くを口にしない私ですがこのブログを通してどのような大学生活を過ごしてきたのか、どのような気持ちで野球と向き合ってきたのか知って頂けると幸いです。

 

私の大学生活は西浦との出会いから始まりました。

 

引っ越しの作業を終え、部屋でくつろいでいるとピンポーンとインターフォンが鳴り、ドアを開けると物怖じしない太い眉の凛々しい青年がいました。

 

「八尾高校から参りました。西浦謙太です。よろしくお願いします。」

 

これが彼と交わした最初の言葉でした。

 

お互い寮飯生(アパートで生活をし、朝食と夕食は寮で食べることができる制度)ということもあり、同じアパートの隣の部屋だったのです。

 

この青年が私の野球人生に大きな影響を与えることを当時の私は知る由もありませんでした。

 

 

 


次の日から野球部での活動が始まりましたが、新型コロナウイルス感染拡大のためかなり制限された練習でした。そして、その日を最後に無期限の活動停止が告げられました。

 


急にやることがなくなり部屋でボーっとしていると「キャッチボールせーへん?」という西浦からの連絡がありました。

 

そこから、大貝、大高、西浦の4人で毎朝体を動かし、午後に課題をこなすという生活を送るようになりました(オンデマンド授業のため自分の好きな時間に受講することができた)。

 

また、この頃から夜は2人で素振りを行うようになりました。どちらかが「終わろう」というまで続き、長いときは1時間近くバットを振っていました。

 

 


そんなある日、昼寝でもしようとウトウトしていると隣の部屋から「フォーー、あかん、きつすぎる」といううめき声のような、叫び声のような声が聞こえてきました。一瞬にして眠気は吹っ飛び、隣の部屋をのぞきに行くと上裸でプランク(体幹トレーニング)をしている西浦の姿がありました。

 

まるで古代ギリシャ彫刻のように筋張った上半身を今でも忘れることができません。大きな事故やケガではなくよかったと安心し眠りにつこうとしたのですが、どうしても眠ることができませんでした。

 

気が付くと自分も上着を脱ぎ、トレーニングを始めていました。そこからは朝の運動、昼の体幹トレーニング、夜の素振りとハードな生活を送るようになりました。

 

 

 


そんな生活を一か月近く続け、充実と成長を感じていたある日の夜。いつものようにご飯を食べ終え、二人でアパートへ戻っていると西浦が「何のために筑波来たかわからへん、はよ野球したいわ。」と僕に訴えてきました。

 

この言葉を聞いたとき今の生活に満足していた自分を恥ずかしく思うと同時に自分はつくばで何を成し遂げたいのか、どうなりたいのか深く考えさせられました。

 

 

 

その後、西浦はリーグ戦メンバーに選ばれ、代打の切り札として結果を残していきました。

 

一緒に頑張ってきた仲間が活躍することはとても嬉しく、誇らしいことでした。が、その反面悔しさもありました。二年になっても結果を残すことができませんでした。グランドで躍動するAチームの選手を眺めながら鳥かごやハウスなど空いたスペースで練習に取り組んだことは今でも自分を奮い立たす経験となっています。

 

 

このように内容の濃い下級生時代を過ごし、三年からリーグ戦に出場しました。リーグ戦では野球の難しさと奥深さを感じました。こんなにも色々なプレッシャーが襲ってくるのか。心も体も削られていくそんな感覚がありました。

 

ですが、試合を重ねるごとに自分たちの野球を理解し、バラバラだったピースが一つ一つ当てはまっていく、チームとして成長していく、そんな貴重な経験をすることができました。

 

しかし、勝負所で勝ち切ることができず悔しい思いをしてきました。森口ヘッドを中心にどうしたら勝ち切れるのかキャンプやOP戦を通して突き詰めてきました。

 

そして今、新しい筑波の野球が完成しようとしています。

 

 

 

残すところあと秋のシーズンだけとなりました。

 

今の僕があるのも西浦の存在が大きかったと思います。彼の野球に対する取り組み方や向き合い方には常に刺激をもらっています。

 

「西浦に負けたくない」そんな気持ちが僕を突き動かしていたのだと思います。そんな良き友であり、良きライバルに出会えたことを本当に嬉しく思います。ありがとう。

 

 


また、多くの人の支えもありここまでやってくることができました。特に東條さんには目標に対して進むべき方向を明確に示していただきました。正しい努力をすることの大切さ、それを通して勝つことの喜び、上手くなることの楽しさを実感することができました。結果で恩返ししたいと思います。

 

 


同期のみんな


ここまで平坦な道のりではなかったと思います。上手くいかなかったり、悔しい思いをしたり色々な感情を抱えながらやってきたと思います。それでも続けてこれたのは野球が好きだったから、筑波という組織が好きだったから、かけがえのない仲間と出会えたからだと思います。こんな素晴らしいチームで、最高の仲間と本気で野球に取り組めるのも残りわずかです。今の自分の役割を全うしよう。

 

 

粘り強く、泥臭く、相手より少しだけ上回る、そんな筑波の野球を体現していこう。

 

リーグ優勝、日本一、そして、西浦を胴上げしよう。

 

体育専門学群4年 生島光貴

福岡県立福岡高校

 

 

 

 

筑波大学硬式野球部4年、副主将の成沢巧馬です。

 

日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援のほど、誠にありがとうございます。

 

 

小学校4年生の時に始めた野球も、大学ラストシーズンと共に引退します。

 

今まで当たり前の生活だった「野球をする」ということが、あと少しで終わってしまうと考えると、すごく不思議な気持ちになります。

 

僕にとっての野球は、小学校・中学校のクラブチームや、高校・大学の進路など、大きな選択をするときには必ず中心で考えるものでした。そんな野球を通して、良くも悪くも様々な感情を味わわせてもらいました。

 

今回どんなことを書くかすごく悩みましたが、野球人生における「感謝」というものをこのブログでは書いていこうと思います。

 

 

まずは小学校時代から振り返っていきます。

 

僕は、小学校4年生の時に、友達に誘われて日進デポ少年野球クラブで野球を始めました。この時野球を始めるきっかけを作ってくれた親友には、今でも本当に感謝しています。

 

この頃は、練習をすればするほど上達し、そのことが嬉しくて、毎日沢山練習していました。

 

そして、6年生の頃には中日ドラゴンズジュニアに選んでいただき、自分より速い球を投げる人や、遠くに飛ばす人がいることに驚き、さらに努力するモチベーションになりました。

 

 

また中学では、野球人生での大きなターニングポイントとなる出来事がありました。

 

それは豊田リトルシニアに入団し、「唯一やりたくない」と言っていたキャチャーというポジションに出会えたことです。

 

やりたくなかった理由は、硬式ボールが怖かったことと痛い思いをしたくなかったからです。しかし、キャッチャーというポジションで自分の可能性を見出だしてくださった豊田シニアの指導者の方々に、今となってはとても感謝しています。

 

 

そして高校は、「人生において一番輝いていた」と死ぬときにも言えるであろう、“甲子園優勝”という経験をしました。

 

この時の景色を見て、他のなにものにも代えがたい感情を抱いたのを覚えています。

 

そして、「努力は報われる」と初めて感じた瞬間でした。

 

高校時代の恩師である森田監督は、厳しさの中にも人間味のある方で、このブログでは表しきれないほど感謝の気持ちがあります。また、今でも連絡をくださり気にかけてくれる木下コーチ、お互いを高めあえたチームメイトとの出会いは、自分にとっての大きな財産だと思っています。

 

 

 

そんな中で、自分自身に期待して入学した大学では、思い描いていた野球生活とは程遠いものでした。

 

推薦で入学させていただき、自分の中ではリーグ戦で結果を出すことに対する責任というものは常に感じていました。しかし、自分の肩と肘は全く言うことをきいてくれなくなりました。怪我や手術の影響で、夜中に痛みで何度も起きてしまったり、リーグ戦が迫ると出たいという気持ちが強く、痛み止めの注射を打ってプレーをするという生活。

 

高校時代にあれほど最高だと思っていた野球が、こんなにも辛く苦しいものになるとは想像もしていませんでした。

 

しかし、苦しかったことが多かった分、人として大きくなれたのではないかと思っています。これも、なにものにも代えがたい経験でした。野球というスポーツに、本当に感謝です。

 

 

このように野球人生を振り返ると、多くの人に出会い、支えられ、本当に恵まれた環境で野球ができていたことを実感しています。

 

そして特に感謝を伝えたいのは、一番近くで支えてくれた家族です。

 

いろいろなことを犠牲にして僕の野球を支えてくれました。甲子園で優勝できたことで1つ恩返しができましたが、今度は「12年間の集大成」としての恩返しができるよう、ラストシーズンに挑みたいと思います。

 

 

最後にチームメイトへ

 

ここで多く語ることはあまりしたくないので一言だけ。

 

神宮で引退しよう。

 

体育専門学群4年 成沢巧馬

東邦高校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラストシーズンに懸ける想い⑮(社会4・三戸創世/札幌南)

2023年08月28日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第15回は三戸創世(社会4・札幌南)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援いただき誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部四年の三戸創世と申します。

簡単に自己紹介いたしますと、私は北海道旭川市で生まれ、3歳くらいの頃札幌に移り住み、19歳まで札幌市民として暮らしました。

高校三年生のとき現役で受けた筑波大学社会学類は合格最低点とまあまあな差をつけられて不合格。一年間塾や予備校に通わず浪人(俗に自宅浪人と呼んだりします)し、たまたまストーリーをほぼ覚えていた源氏物語が試験で出題されるなどの幸運を経て一年越しのリベンジを果たして合格します。

ラストシーズンに向けたブログ執筆というせっかく自分のことを語るよい機会が来たものですから、思う存分語ることにいたします。

普段敬体で文を書く機会があまりにもなく、まったく筆が進まずに締め切りに遅れてしまったため、本体のほうは常体で書くことにいたします。

少々冗長な文章かもしれませんが、最後までお読みいただけたら幸いです。

 

 

 

新型コロナウイルスの影響をモロに受けた私たち西浦世代は、入学してから二ヶ月あまり経った6月に顔を合わせることになった。私はそれまで人と話せていなかったこともあり、妙なテンションになっていた。

最初に一年生全員でランニングをしたが、そこで片っ端から人に話しかけていた。そんな私の犠牲者の一人である岸が北海道出身だとわかると、即座に「どこの高校なの」と聞いた。岸が高校名を言い終える前に私は「俺は札南」と被せ気味に言った。私の母校札幌南高校は道内でも有数の進学校である(私はというと常に最下位付近にいた。200点満点の数学のテストで3点を取ったこともある。)。単刀直入にいえば、私は非常に嫌なやつだった。今津には「お前デカくてバカそうだな。成績悪かったろ」と言った記憶がある。初対面である。本人は覚えていないかもしれないが。

そんな当時168cm80kgだった私は、その体型のおかげもあり、あんまりいじめられずにすんだ。たぶん変なマスコットキャラクターか何かだと思われたのだろう。みんな優しく接してくれた。

よい機会だから振り返ろうと思うが、私は中学生の頃入ったシニアでしっかりといじめられていた。小学生の頃全国ベスト4のチームの4番だったこと(全国大会一回戦ではあまりの強打ぶりに敬遠された)を鼻にかけ、同級生にも先輩にも横柄な態度で接していたら先輩からは無視されるようになった。まったく同じことを大学でも繰り返したが、今度は皆優しかったので命拾いした。

大学野球生活のはじまりはこんな風だった。

 

私にとって大きな転機は大学二年生の夏にあった。それも良いほうにではなく、悪いほうにである。ともかく、当時のことを思い出しながら書いてみることにする。

 

2021年の夏は、今と変わらず毎日とても暑かったことを覚えている。7月に入ってから、どうにも身体が重いというかだるい感覚が抜けなくなっていた。自分でも入浴や交代浴、軽めのランニングなどをして疲労を抜こうと試みるのだがまったく効果がない。そうしているうちに今度は朝の三時や四時に必ず目が一度覚めてしまうようになってきた。睡眠の質も悪く、翌日も午前中はほぼ頭が働いていないような感覚だった。このころになるとケアレスミスが増えてきた。ある時は「審判用具を忘れない」とメモを自分で書き、確認したはずなのに審判用具を忘れたことがある。この時ばかりは自分でも驚いたし、当時審判をする予定だった先輩は私のあまりの茫然自失ぶりに「次から気をつけてね...」と言うだけだった。

そんなある日、私の身体はある朝突然動かなくなってしまった。これは比喩表現でもなんでもなく、本当に動かないのである。信じられないかもしれないが、ベッドから起き上がれなくなってしまったのである。

休んでいると、心優しい先輩や同級生が心配する連絡をくれた。しかし私はその連絡さえも返すのが怖くなって、ラインを開くのをやめた。

普段はこの頃のことを思い返すことはない。辛くて記憶から消えているとかそういうことではなくて、特に振り返る気にもならないのだ。私は過去の経験が今の役に立っていると考えるタイプではなく、未来のために今があるという考え方だからかもしれない。だがせっかく自分を振り返る機会だから少し考えてみた。なぜそんなに追い詰められたのだろうと。コロナの状況もあったかもしれない。秋に控えるスタッフミーティングへのプレッシャーがあったかもしれない。だが何度考えても綺麗な答えは出なかった。それでいいのだと思う。今はいろいろなことを経験できてよかったな、くらいに感じている。

夏の間、私はずっと家にいて、時々夜になると散歩した。夜は相変わらず眠れず、人には会わず、ただ毎日を過ごしていた。

 

そんな折、今津が「少し散歩しようぜ」と私を誘ってくれた。

夜の公園で、二人の男がベンチに座ってジュースとチキンを手になにやら話していたら、ほとんどの人は何かを祝福しているのだと思うだろう。楽しげな会話を予測するかもしれない。しかしもう少し近づいてみると、一人の男の手がもう一方の男の背中に添えられていて、その背中が小刻みに震えていたとしたら、少し驚いてしまうかもしれない。

私がこの時何を話したのかはあまり覚えていない。覚えているのは、今津がなけなしのお金(今津は浪費癖がひどい)で近くのコンビニでチキンとジュースを買ってくれたこと。そして私はあまりうまく喋れなかったが、今津の励ましと暖かい手に安心して泣いてしまったことである。

とにかく今津は背中をさすり、私はただ泣いていた。

ちなみにこの公園は、就職活動の時の面接練習でも今津とよく使った。そのときには二人の男は声を張りあげ、互いに鋭い質問を浴びせていた。結局ここで面接練習したときには本番の面接に全て通った。そのせいか、今ではこの公園にあまり感傷的なイメージはない。

 

この当時のBチームヘッドコーチであった池田さんとも話した。これも「私が人に会いたくないから」、というわがままなリクエストで夜にしてもらった。忙しいのに時間をとっていただいたこと、本当に感謝しています。池田さんは私の話をとにかくずっと聞いてくださっていた。そのときの私の話はまとまりがなく、わかりづらいこともあったと思うが、池田さんはとにかく耳を傾けてくれた。

今津と池田さんと過ごした夜のことは今でも思い出し、感傷的になってしまう。

「普段はこの頃のことを思い返すことはない」と書いたが、この二つの夜のことはいつまでも覚えていると思う。本当に心を救ってくれた夜だった。ありがとうございます。

 

 

夏の2ヶ月ほどのブランクを経た上で、大学二年生秋のスタッフミーティングには死にそうになりながら参加した。正直言って、とても参加できる状況ではなかった。2時間ほどのミーティングが控えているというだけで、その日はプレッシャーで吐いていた。最初のほうはミーティングの会話をしっかり聞きとるだけですべての体力を使い果たしてしまうという有様であった。

それよりも決定的だったのは、私と同級生との間に絶対的な隔たりを感じたことだった。ある者はまっすぐな目で「選手を辞め、他の役割で貢献する」と宣言した。迷っている者も、周りの意見をよく聞き、自分の価値を吟味していた。

私にはそれが信じられなかった。自分がこのままでは不本意な形でバットを置くことになることへの忌避感と、なんとかしてそこから逃れられないかという気持ちしかなかったからである。

選手を続けたいと言った。しかしその理由はこんな形で終わりたくないから、という理由だけだった。「ここはお前の自分勝手な情を披露する場ではない。士気を下げるから出ていってくれないか」。あるチームメイトに言われた言葉だった。

 

私が休んだ2ヶ月で、同級生は着々とチームの中枢を担うための準備ができていた。決意が固まっていた。私はできていなかった。

ただ、ここで思いを隠さず言えたことは今振り返っても良かったことだ。選手を辞めるという結末は同じでも、今振り返って後悔があるものにはなっていない。それは批判されるのを覚悟で思いを言えたからだと思う。そしてこのとき面と向かって全力で批判してくれたチームメイトがいなければ、もし選手を続けていたとしても、自分にとっても周りにとっても不幸なことになっただろう。彼にはとても感謝している。

 

スタッフミーティングは完了し、私はSSDになることになったが、準備ができていないことを突きつけられただけのミーティングだった。

私は弱気になってしまい、復帰を先送りすることになる。

 

2021年の冬から2022年の夏まで私の姿を見た人はいただろうか。私はおそらく忘れ去られていた。文字通り幽霊部員である。この空白期間に私は左膝の膝蓋骨を骨折し、全身麻酔をかけられて手術をするとか、すごく太るとか、密着系のドキュメンタリー風テレビ番組に出演しかけるとか、精力的に活動していた。しかしここでは便宜上2022年の夏まで飛んでいただこう。

 

野球部に戻るという選択をしたのは約一年前の2022725日である。私は大学三年生になっていた。もはや幻のようになっていた私がグラウンドに現れると、誰しもが私を三度見くらいしていた。そして戸惑っていた。悪い気はまったくしなかった。セレブリティになったような気がして気分がよかった。

なぜ復帰できたか、ということを振り返ってみると、三人の存在が大きい。一人は復帰の直接のきっかけをくれた母であり、もう一人はなにかあるたびに連絡をくれていた今津。そして定期的に体調を気遣う電話をくれた当時のSSD、海野さんだった。

その年の夏は少々長めの帰省をしていた。当時の私は精神的にほぼどん詰まっていた。わかりにくい表現かもしれないが、これが最もしっくりくる表現なのだ。何かが胸にずっとつっかえていて、吐き出したくても吐き出せないような感覚。それがずっと続いていた。そのことについて母と話していた時、母がふいに「戻ってみたら色々なことがうまくいく気がする」と言った。すぐさまそれに反論した。いきなり戻るなんてできるわけない。色々な準備ができていない。だが、頭には母の言葉がずっと残っていた。あるとき実家の近くのよく馴染みのある坂道を自転車で漕ぎながら考えた。野球部に戻ることで、胸のつかえがとれるかもしれない。それは一種の願望であった。この違和感をずっと抱えて生きるよりも、いっそ一度戻ってみて、それでダメだったら思いきってやめてしまえばいい。そう決心した。

このとき幸運にも海野さんと定期的に連絡をとっており、今津とも日頃からメッセージのやりとりをしていたからこそ、自分の決心を人に伝えることができた。もしこの二人がいなかったら行動に移すことはできなかった。

森口HCにもメッセージを送ったが、森口HCは「復帰一発目即Bキャンプ」を提案してくれた。当時の私にとってそれはエベレストを無酸素単独登頂するようなものだったので、やんわりと理由をつけて断った。

乱れきった生活リズムから規則正しいアスリートの生活へ。ヒイヒイ言いながら慣れ、つくばの灼熱の太陽に焼かれているうちにあっという間に首都大学野球秋季リーグ戦に突入した。

 

秋季リーグはとにかく忙しいの一言であった。ずっと夜中までパソコンの画面に向き合っていたせいで視力はこのころ急激に低下した。一節目には私の配信映像の撮影ミスもあり、非常に叱られ、涙することもあった。しかしとにかく忙しかったので時間が矢のように過ぎていった。気づいたら四年生が引退していた。あの頼りになる寺崎さんも海野さんもいなくなり、来年からは自分たちでやっていかなければならないと身が引き締まる思いだった。

 

それからなんやかんやがあって今にいたる。就職活動と並行した春季リーグのSSD業務も、それなりに大変なことではあったが、なんとか乗り越えることができた。

 

少々長くなりすぎました。過去のことを振り返るのはもう十分だと思います。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

最後には、野球人生の締めくくりとして、周囲への思いを綴ろうと思います。

 

チームメイトへ。まずは目下の秋季リーグである。首都の秋季リーグは本当に恐ろしく、タフさが求められる試合ばかりだ。一点差ゲームは当たり前、サヨナラの連続。本当に厳しいゲームが続くと思う。ひとたび試合が始まれば、私はバックネット裏で偵察の仕事をしながら過呼吸になることくらいしかできない。みんなが優勝優勝と書くものだから、あえて目の前の試合しか見ないことにする。とにかく開幕戦すべてをぶつけよう。私は勝つイメージしかない。

 

札幌市中央区が誇る常勝軍団、緑丘ホーマーズの佐藤監督やお母さん方、そして当時のコーチの皆さん。

間違いなくこの時勝利の味を覚えてしまったためにここまで野球をやることになってしまいました。全道大会準優勝も全国大会ベスト4も全てが最高の経験でした。ありがとうございました。

 

シニアを辞めた私に野球をする機会を下さった中学時代の恩師、佐藤貴之先生。

今でもあの時のメンバーとは仲良くやっています。本当に充実した時間を過ごせました。あのメンバーなら、もっと勝てたなと思う時もあり、今でも悔しいです。ですが、とにかく楽しかったです。ありがとうございました。

 

私が筑波大学に進学するきっかけとなった高校時代の恩師の田畑先生。

大学野球は想像の100倍ほど大変でしたが、トップクラスへ挑戦してみてよかったと思います。高校時代さまざまなことを教えていただき、野球への追求をせずにはいられなくなって大学の四年間も野球を続ける選択をしました。今冷静に振り返れば身の程知らずの挑戦でしたが、あの時飛び込んでみてよかったと思います。

ありがとうございました。

いつも驚きと感動を与えてくれる札南野球部をこれからもずっと応援しています。

 

そして最後に両親へ。大学生活で壁にぶつかり、悩むたびに父さんと母さんの考え方や生き方を参考にしていました。本当に大きい存在だなと、一人暮らしをしてからやっと気づきました。ここまで育ててくれてありがとう。いつもやりたいことをやらせてくれて、二人の子供でよかったと心の底から思います。ありがとう。

 

野球に苦しめられたり、いい思いをしたり、そんなこれまでの人生でしたが、結局私は野球が大好きです。

社会・国際学群社会学類4年 三戸創世

北海道札幌南高等学校

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラストシーズンに懸ける想い⑭(体育4・山崎晴登/松山東、体育4・山田拓朗/川越東)

2023年08月27日 21時00分00秒 | 2023年 ラストシーズンにかける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。

 

 

第14回は山崎晴登(体育4・松山東)と山田拓朗(体育4・川越東)です。

 

 

是非ご覧ください!

 

 

 

 

筑波大学硬式野球部への応援、ありがとうございます。学生トレーナー4年の山崎晴登と申します。
世界で初めてアイブラックを付けてハッピースをしたことを誇りに思っています。

 

 

ラストシーズンに向けてブログを書かせていただくのですが、大学野球で何も残せなかった私の過去は振り返りません。
残された時間で、この野球部の未来に向けて何か残せるものがないか探してみます。

 


さて、皆さんは「変化」についてどのように考えていますでしょうか。
自分の変化について悩んでいる方がいましたら、少しでも励みになればいいなと思います。

 

 

このブログを読みながら、少しだけ体を動かしていただきたいです。
両手の人差し指を天井に向けてください。そして車のワイパーのように、両手の人差し指が常に同じ方向を向いたまま動かしてみてください。
しばらく動かしたら、その速度を一気にあげましょう。限界まで速く動かしてください。

 

 

動きに変化はありましたでしょうか。
恐らく多くの人が限界まで速く動かそうとした時、両手の人差し指がお互いを向き合うような動作に変わったと思います。

 

 

その変化に予兆はありましたか?
予兆もなく、突然動きが変わったと思います。
変化したきっかけは?
指を動かす速度を変えたことです。

 

 

このように変化というのは、なにかきっかけが与えられることで突然現れます。

 

 

トレーニングを必死にやっても体が大きくならない。バットをたくさん振っても打球が飛ぶようにならない。
このような悩みを持っている選手、多くいるのではないでしょうか。

 

 

練習やトレーニングを変えるということは皆さんよくやると思います。
食事を変えてみる、寝る時間を変えてみる、バットを変えてみる、構えを変えてみる。
このようなちょっとしたきっかけを与えてあげることでも、大きな変化が得られる可能性があります。

 

昨年書かせて頂いた「ホメオスタシスを打ち破る」というブログでは、成長の難しさを「壁」に例えました。
しかし私たちが超えるべき壁だと思っていたものは、実は風船のようなものだったのかもしれません。

 

 

壁であれば時間をかけて少しずつ超えなければなりませんが、もしも風船であるならば針を得ることをきっかけに簡単に打ち破ることができます。
きっかけさえあれば、私たちはすぐに変わることができるということです。

 

 

とは言ったものの、「きっかけ」を得ることがすごく難しいですよね。
針を使うという発想を持つこと、針を正しく使用すること、とても難しいことです。
針の使い方を間違えると怪我をしてしまうし、良い結果も得られません。練習やトレーニングも同じです。

 

 


この選手には針が必要だと見抜き、その正しい使い方を教えられるような4年生でありたかったです。

 

 

まだ少しだけ時間があるので、たった1人にでもきっかけを与えられるように頑張ります。

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

体育専門学群4年 山崎晴登
愛媛県立松山東高等学校

 

 

 

 

 

こんにちは。筑波大学硬式野球部4年の山田拓朗です。このブログを読んでくださりありがとうございます。

 

 

僕にブログの順番が回ってくるのは後半で、おそらくこれまでにみんなが素晴らしいブログを書いてくれていると思うので、僕はあえて余談から入ろうと思います。

 

 

うちのピッチャー陣は、練習でのアップ時やトレーニング時などに曲を流します。選曲はその年のトレーナーに任されているのですが、それぞれ個性が溢れていて僕はとても好きでした。

 

僕が1年生の頃のトレーナーである田上さんは、平成初期に流行った曲をよく流していました。

これまで今流行りの曲しか聴いていなかった僕にはとても新鮮で、それ以降平成初期の曲を好んで聴くようになりました。

その中でも特に僕が好きな曲は、「DIAMONDS/PRINCESS PRINCESS」と「Sunny Day Sunday/センチメンタル・バス」です。特にDIAMONDSを聴くと、猛暑の中悶絶しながらやってた体幹を鮮明に思い出します。

 

 

僕が3年生の頃のトレーナーである小川慶悟さんは、流行りの曲と少し懐かしい曲を組み合わせて流していました。

「ヘビーローテーション/AKB48」や「今宵の月のように/エレファントカシマシ」のように、久しぶりに聴くとテンションが上がる曲があったりして結構好きでした。

慶悟さん、引退したらまた焼肉連れて行ってください。

 

 

そして現在、同期であるトレーナーの高木は、流行りのアーティストの中でも絶妙な選曲をしていて、これも結構好きです。

「damn/藤井風」や、「絆の奇跡/MAN  WITH A  MISSION & milet」といったように、有名だけどド定番でも無い曲を流してくれます。

ちなみに、高木がトレーニング中に流していたことがきっかけで、藤井風さんの曲を聴くようになりました。あと少し、トレーニング時の選曲楽しみにしてます。

 

 

その中でも特に印象に残っているのが、僕が2年生の頃のトレーナー、森さんの選曲です。男子校魂が溢れる森さんを漢字一文字で表すとしたら、「漢」です。

そんな森さんがよく流していたのが、「BABY BABY/銀杏BOYZ」です。初めて聞いた時は暑苦しい曲だなぁと思ったのですが、時間が経つにつれて僕の大好きな曲になりました。

今でも、1人でトレーニングをするときに聴いてます。

 

 

そんなBABY BABYのなかで好きな歌詞があります。

 

サビにある「何もかもが輝いて 手を振って」という部分です。

 

この曲は恋心を歌ったものらしいのですが、僕の大学野球生活を振り返ってみても、この歌詞に当てはまるものがあると思いました。

 

 

入学と同時にコロナ禍がやってきて、オンライン上でしか会えない同期と切磋琢磨したこと。

 

筑波に来てからも満足に練習できず、みんなで近くの公園を巡ってキャッチボールしたこと。

 

先輩方のプレーをみて、「野球で食っていく」とは何かを思い知らされながらも、必死に食らいついたこと。

 

偶然に偶然が重なって取材を受けることになり、「半袖王子」という絶妙なニックネームをつけていただいたこと。

 

猛暑の中、吉本さんと一緒にプライオトレーニングに励んだ日々のこと。

 

リーグ戦、1点差の痺れる場面で出番を頂き、勝利の喜びを皆と分かち合えたこと。

 

怪我と不調で全てが上手くいかなくなり、グランドに行くことが嫌になったこと。

 

でもそんな時にも「一緒に頑張ろうぜ」と言ってくれる仲間がいたこと。

 

 

楽しいことや嬉しいこともあれば、しんどくて辛いこともありましたが、今となってはその全ての日々が、BABY BABYの歌詞のように輝いて手を振っているように感じます。

 

 

そしてきっと、これから始まる最後のリーグ戦もすぐに終わって、数年後には思い出になっていると思います。だからこそ、「いい思い出だったね」では終わりたくないです。絶対優勝しよう。

 

 

最後に、お世話になった方々への感謝を綴らせてください。

 

まず父さん、母さん。

小学校3年生の頃から今まで、何一つ不自由なく野球をやらせてくれてありがとう。手間も時間もたくさんかけてくれて、ありがとう。野球という夢を追いかけてきた14年間、とても幸せでした。

 

そして、ダメになりそうな時に「お前ならできる」と言って根気強くアドバイスを下さった河崎達成さん。本当にありがとうございました。達成さんに胸を張れるような活躍ができるように、ラストシーズン全力でやり抜きます。

 

そして、野球部のみんな。着るものや所作まで真似したくなるほどカッコよくて憧れの先輩方。僕のどんなくだらないギャグにも笑顔で返してくれる後輩たち。そして、個性の塊で、どんな時にも一緒にいた同期のみんな。今の自分があるのは全ての先輩、後輩、同期のおかげです。本当にありがとう。

 

野球に出会えてよかった。

 

体育専門学群4年 山田拓朗  

川越東高校

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする