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扇流しの場面を題に得、鍛えた鉄地に焼手(やきて)の手法で川の流れのような鍛え肌を浮かび上がらせて薄肉彫で波を、ここに投げられた扇を金銀の布目象嵌で描き表わした鐔。扇は肥後の又七にも見られる破扇(やぶれおうぎ)。鉄色黒く光沢あり、文様化された要素が上品な構成美を示している。金十郎(きんじゅうろう)は江戸中期の京正阿弥派を代表する名工の一人で、京にて発展した着物などの文様を金工に採り入れていた。
南北朝時代、京都五山の第一位に位置付けられている天龍寺は、禅を背景とした宗教面のみならず幕府運営に重要な位置付けにあり、足利尊氏は度々ここを訪れていた。嵐山を背景とする保津峡、その下流の大堰川の清らかな流れと水瀬、ここに掛かる渡月橋などすべてが遊興の対象であり、尊氏が求めたそれは平安時代とは趣を異にし、いささか覇気の感じられるものであったろう。婆娑羅の言葉が残されているように、雅とは対極にある武骨な美が求められていた時代のことである。
尊氏が天龍寺に参詣したときのことであった。一行が渡月橋を渡っていたところ、従っていた童の一人が風に煽られたものであろう、手にしていた扇を橋の上で手放してしまった。声を上げる間もなく扇は風に運ばれ、蝶のようにひらひらと宙を舞い、時には風に乗るように落ちて水面に浮かび、水瀬を揺れながら優雅に流れ下っていった。
尊氏はもちろんのこと、従者たちはこの出来事をつぶさに見ており、感動の声を上げずにいられなかった。まさに自然が生み出した意図せぬ造形美を目の当たりにしたのである。しかし彼らはこの偶然を偶然として終わらせることはなかった。興趣を感じた尊氏の命により、従者は次々と大堰川めがけて橋下を流れる風に扇を投じたのである。
その後この扇流しは京人の風雅な遊びとして広まり、尊氏の天龍寺参詣の折には必ず披露され、さらにこれが文様化されて着物などの柄に採られるようになったのである。