富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「派遣切り」に同情する人道主義には疑問

2018年09月01日 | Weblog

改正労働者派遣法の施行から3年となる9月末を控え、派遣社員を雇い止めする「派遣切り」が増える懸念が高まっている。同じ人の同じ部署への派遣期間を業務に関わらず一律3年間に限る「3年ルール」の対象者が出始めるためだそうだ。「派遣切り」されるタイプには共通点がある。待遇の損得ばかりしか見えない。さらには、自己原因をきちんと見つめない。そこで、正義派の弁護士の顧客になり、弁護士から同情されると、そこで良いカモにされる。「3年ルール」があるのは、正社員への昇格に値するかを3年間で相互に評価しませんか、という意味である。こんなに恵まれた日本において、中学卒業でも役員待遇まで受けられる日本の企業社会になかで、尊敬される働き手になることは難しくない。中国ならば、アメリカならば、そもそもが「正社員」という枠すらなく、経営者までが年限契約のワーカーである。被雇用者は、すべて契約により決まる。みんなプロ野球の監督、コーチ、選手と同じである。なぜ、日本の「正社員」は、世界史でも特殊な身分なのか?それは、江戸時代の藩ごとの殖産興業の企業の経営における資本所有者である「藩」と、企業経営管理者である武士の「お役」に起因するからだ。「藩」に終身雇用され、「お役」として企業の管理を任されるからだ。つまり、日本の「正社員」には、企業管理者としての役員の候補と、その補佐役としての次職、副職が予定調和されて終身雇用されている。1960年ごろから、サービス労働者のうち熟練者を厚遇するため、「工員」という職称が廃止され、「会社員」に統合された。そのため、「会社員」には学歴不問のような幻想が広がり、「会社員の上層」から、「会社員」の名に値しない業務担当には、正社員を充当しないという派遣社員という形での尻尾切りが出来上がった。これを推進したのは、膨大な「正社員」の無言の圧力である。この選別は、現在、日本銀行による調査で、日本経済の根幹としては、存続を期待しない企業、その典型が神戸製鋼所を見せしめとして市場選別が行われている。北陸の有名企業でも、「非存続企業切り」が金融面でも選別が進行している。「派遣切り」は、採用担当者の判断ミス、人事の社員教育のミスとして、高度な政策判断として、「ダメ企業の正社員切り、経営管理者切り」と同時に進行している。これは、日本経済の競争力の保持による福祉社会への制度設計によるものである。「派遣切り」をする企業側も、切られる被雇用者側も、国際競争力の市場から切られているのである。ムダと成長なき人材の雇用も被雇用も、ベトナム人の優秀な人材に席を譲りなさい、というメッセージである。人道主義と、国粋主義の恩情とは、次元が違う。左翼系の弁護士も、日本でしか雇用されない人材である。


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中国共産党の最大の弱点は、唯物論=反宗教

2018年09月01日 | Weblog

中国における唯物論の歴史的な貢献は、呪術のような病気治癒の祈祷をおこなう道教の医療行為から民衆を解放したことである。その面では、唯物論は科学としての役割を果たした。ところが、科学が唯物論の画一的な信仰を「非科学」として裁く時代へと転じてきた。人間には、独り独り異なる心性の独自性がある。それを最初に見抜いたのが、インドの中観学派に属した唯識論である。しかし、宗教としてダメなのは、それを身体修行で純化できるとしたことである。それを批判したのが、朱子学である。孔子の知行学説のもと、社会的に知る知識知と社会的に行動する経験知とを統合し、「独慎」という個々人それぞれに即した社会人としての成長を促すプログラムを展開した。実は、中国的なマルクス主義は、この朱子学の形を変えたものである。ところが、中国の唯物論は日本語を経由して、李達から毛沢東へ受け渡され、それ以後の進化がない最弱の理論の穴である。日本では機械的な唯物論を克服し、遺伝子学、脳の科学を発達させ、物性の複雑な仕組みを読み解き始めた。複雑系の唯物論といってもよい。また、フランスからメルロ・ポンティの最先端の現象学哲学により、理念的に抽象された普遍の真理はなく、各人が各様に、自己の真理を真理という言葉の微妙な揺れで理解するようになった。今、中国共産党の思想担当の王滬寧という政治局常務委員に、さまざまな中傷・誹謗が生まれているが、それは、中共の唯物論の底割れを「習近平」という個人名で破綻を隠すレッテルが、知識界で通用するのか、どうかである。中国では、思想界で唯一の絶対者の存在を許さないのは、老荘の思想による思惟の自由を幸福と感じる百花が咲き誇る状況が希求されているからだ。それなのに習近平が唯一正しい真理の基準におくならば、その唯物論は唯物教という宗教へと反転し、他の宗教と相対化され、優位性が消えるからである。王滬寧という政治局常務委員が、習近平を持ち上げながらも、他方で、相対化する知識人としての自己習性との間で揺れている。任期中の失脚はないが、すでに失望はある。


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8月31日(金)のつぶやき

2018年09月01日 | Weblog

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