富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「どうなる日本企業」:税制が歪め、制約するマネジメント

2015年05月27日 | Weblog

TMAマネジメント学の教材

マンションの管理組合も、わずかな事業収入があるため、「みなし法人」として、突然、税務調査がはいる。慌てて、税理士事務所と契約。過去5年間にさかのぼり追徴、今後、年間で200万から250万円の税務関係支出。マンションのオーナー1戸につき、1万円の税負担である。こうして、非営利組織のマネジメントに関するドラッカーの本の原書をとりよせ、そろそろ法人化を皆さんに提案しようと思っていた矢先、屋上の携帯電話のアンテナ料金を管理組合が受領しているという事実をつかみ査察、こうして国の徴税政策により、外からの法人化が迫られた。

 おそらく、一般の企業も、法人登記すると、税務署に呼び出され、法人税務の講習会を受講させられる。講習会では、一通りの説明を聞かされる。決して、税理士の世話になれとは言わない。何でも、ご相談に応じますと、にこやかのいう。しかし、従業員の源泉徴収、役員の報酬の源泉徴収、消費税の処理となると、出来たばかりの企業では、マネジメントの戦略を考える前に、税務当局の規制と、税理士のアドバイスに適合させるのが「経営」だと思わされる。しかも、最大の「穴」は、税務上で課税額を算出する「貸借対照表」、「損益計算書」、「キャッシュフロー計算書」の3書表を作成するだけで、それだけで、専門家に外注し、かなりの人件費を注ぎこむことになる。

 どの企業も、マーケット・顧客に顔を向けたマネジメントの意欲は満点でも、裏方から「税務処理上、それは困る」というブレーキがかかり、反対に、税務署にうまく節税対策を提案してくる「非経営学人材」が、経営コンサルタントとなる。ゴールドラットの制約理論なんか取り入れても、税務署に出す書類と二重手間になるから、波風たてないで税務に適合した経営指標だけで経営すればよいとなる。これが、日本企業の実態である。

 そして、これが事業部制を敷く巨大企業では、事業部ごとに予算主義で黒字を演出するために、不思議な現象がおこる。その巨大企業の全ての外部収入とから、全ての事業支出を差し引くと完全な赤字なのに、各事業部門は黒字を予算書に応じ報告してくる。銀行から送り込まれた役員を更迭し、派閥で対立関係のある社長などの経営陣を更迭し、出世を早めるために、事業部制の予算主義は、格闘技の舞台となる。このあたりは、ゴールドラットの一連の論文がお勧めである。予算では黒字、実質は赤字の日本企業でも、過去の不動産、株券の売却益で、税務上の決算は小幅な赤字処理をして、経営者の首が繋がる。

 日本の企業にかかわる法制、税制の歪みが、日本の市場経済の経済原理の貫徹を妨げている。特に、マネジメント学による最大利益の可能性の追求を促し、企業全体の市場価値を時価で表示するような、そうした企業法制の立ち遅れが、まだまだ日本を蝕むことになるのではないか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方創生と「資格女」の時代

2015年05月24日 | Weblog

 これは、実話です。家内の血の繋がりのある「女子会」が、数日前にありました。家内は三姉妹、家内の娘が一人、そして、家内の姪が三姉妹、合計7人、合同で「母の日」に、親たちに感謝するため、有給休暇をとり、オシャレな料理旅館の昼食コース、温泉入浴。企画したのは、若い人たち。出立の時、玄関で見送りましたが、今年は全員参加。去年から、この行事は始まっています。無論、私は排除されています。

 どんなおしゃべりがあったのか、数日すると、家内の口からもれてきました。結局、一番みじめなのは、「資格なし女子」、「無駄な専業主婦」というところに落ち着いたようです。家内の三姉妹では、「資格なし女子」が2名。姪の三姉妹のうち、1名のみが「資格なし女子」。「資格女」は、安定した職業能力についている。子育てには、家内の三姉妹が協力して「バーちゃん役」を交互に演じている。彼女たちは、富山県の東部で、近住している。全員、1人1台の車を持ち、運転免許をもっている。居住地は、魚津市、上市町A、上市町B,富山市A、B、Cと、バラバラに6地点に近住している。近住といっても、車で30分の範囲内である。携帯電話、Eメール、Cメールで、日常的に情報交換。血族型の女子会である。

 ということで、3人目の子育てをしていた一番若い姪のうち、1名は製薬企業に継続雇用、それで、「無駄な専業主婦」の1人の将来が話題になったそうだ。結局、介護の資格を取り、その方面で、夫の母親の老後を、介護の専門職の立場からサポートする、同時に、実家の母の面倒も視野に入れる、という結論になったそうだ。無理強いではなく、彼女の口からでたプランであったらしい。

 この間、2人は、乳幼児を1歳児として入園させ、プロの保育士を信頼していた。女子会の終わりは、保育所へのお迎えの時間に間に合う時間帯までである。食事の準備、後片付けの憂いもなく、母を招待した娘たちの知恵は相当なものである。この辺りが、「富山女子力」といわれるものである。保育所も、お母さんが専業主婦でも、資格をとるための修行中であっても受け入れますよ、と。待機児童がゼロの富山のゆとりのお蔭である。

 ちなみに、資格女の資格は、和紙ちぎり絵講師(老人のボケ防止に役立つ、介護関係職)、薬剤師、美容師、マイクロソフトの技能検定合格者。彼女たちの生んだ20歳未満の未成年は、8人である。それに、社会人1名、大学院生が1名。合計7人が、合計9人を生み、育てたことになる。ポイントは、姉妹仲良く、分住し、しかも近住し、親族の女子会を積み重ね。しかも、お金の貸し借りには、けじめをつけているなどのルールはあるようだ。

 このようにみると、地域社会において、家内を筆頭に、ほぼ全員が保育所での養育と教育、しつけを経験しており、ほぼ均質な家庭と社会との棲み分け、身内と他人との距離の取り方を学んでいる力は、確実に地方を支える原動力である。彼女たちが、子供組として扱う8人も、この血族保育の網のなかで、楽しく学校生活を送っている。書き落としたが、人生の節目で、ハローワークや福祉の担当者のお世話や助言、助成制度は頼りになったそうだ。それに、世代ごとのまとめ役である長女―長女ー長女が結び目となっている。

 個人を孤立した個人としてバラバラに分解する人口理論からでは見えない世界である。家内の記憶によると、個人が自動車をもたない時代は、富山地方鉄道で結ばれる範囲で、親族が近住していたそうである。そして、それぞれの町や村の祭礼に従姉妹たちが招待されていたという。第一世代のこの記憶が、いま第三世代に引き継がれつつある。孤立家庭とを単位とする国勢調査でも見えない雇用と子育てのドラマをみると、無名の福祉系の公務員のケアーへの感謝と、教育系の公務員への感謝の度合いが、真の地方創生力となっているのが分かる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2重の意味での「不適切」会計処理

2015年05月22日 | Weblog

日本経済新聞<<東京商工リサーチの調べによると、14年度に不適切な会計処理を開示した企業は42社と前年度比1割増えた。08年度に同社が調査を開始して以来最多だった。業種別では製造業が15社で最も多く、運輸・情報通信業、サービス業が続く。製造業では「海外子会社の不正経理」が目立った。>>とある。これは、2重の意味での「不適切」会計処理を意味している。

1つは、現行の法制度のもとでの徴税にかかわる管理会計を基準とする脱法、違法、無法・・・不正を意味する。日本の法制度が及ばない海外における、日本企業の子会社は、日本国内での法的強制力の網の外にあるために、不適切処理がなされる。

もう1つは、マネジメント科学において、企業価値を即時に金額で表示できるゴールドラットのスループット会計が、国際標準の会計理論と整合していると考えると、日本の主力企業の会計基準は、日本国内法だけでなく、国際標準の会計理論からも離反し、マネジャの経営責任をあいまいにする処理が恒常的に行われていることを意味する。

こうした日本企業の株主軽視、節税主義は、日本国民の日本企業への信頼度を低下させる思考を生み出す。結果として、優秀な人材を非企業の分野に押し出すことで、企業人の教養文化の劣化を招くことになる。このような、違法ではないが、遵法とはいえない灰色の会計処理ができる幹部が、これまで「仕事ができる」という社内評価を得ているとすれば、海外投資からの利益を本国へ還流させることで、貿易収支の赤字を補てんしている国際収支の現況に照らせば、日本企業の一部は、グローバル化することで持続可能が保障されるが、同時に、グローバル化するなかで、国際資本市場における信頼性を失うことになる。現在、この危険性が日本企業の企業評価における暗雲となっている。

中国企業の場合には、国際資本市場での信頼性が全く弱いために、他者による評価で左右されないで、専ら中国共産党内の党内権力に維持・向上という「成果」を業績の評価軸とできるから、何でもありのグローバル化が可能である。日本企業は、ユダヤ系金融資本の文化であるゴールドラット理論への適応性からみて、AAA評価を得ているとは言い難い。今後の日本の経済成長を考えるうえで、海外に優秀な人材を投入する戦略を軸にしなければならない以上は、日本国の徴税当局の税法への適応、これを「リーガル会計」というなら、もう一つの「スループット会計」との双方向での適応が求められることになる。つまり、ダブル・スタンダードの税務会計とマネジメント・アカウンティングが求められているわけだ。

 日本国の税制が、会計的な「表示利益」にみに群がる法体系にありつづけると、中国共産党の党員がマネジメントする企業の海外戦略との競合の関係は、さらに厳しいところに追い込まれると思われる。

 特に、海外インフラ投資に関係した分野でおきている「不正経理」につき、日本経済新聞のいうようにバッサリと「不正経理」と断言するのか、それとも、マネジメント科学からみて、日系海外企業の制約条件が、日本国の税法にあるのか?それを考える必要がある。少し高度で、複雑な問題となると、誰もが沈黙する。そこに日本に今の困難がある。

それに比べ、中国企業の国際化には、海外の何十、何百の都市に暮らす2億5千万の華人という土壌がある。私服を肥やさない限り、経営者が無能を問われない。中国企業は、思いきっり、海外への展開が可能である。技術は2流でも、ローコストが武器になる。ただ、中国企業にも会計の不正処理はある。それは、有名な三角債権である。売掛金は資産勘定となるので、3社が互いに同額の売掛金を計上すると、資産勘定が膨らみ、資産-負債=利益+資本金で、計上される利益(赤字)がプラスに転じる。この逆が、買掛金を3社で互に持ち合う構造である。こうして、国営企業は国家財政に吸い上げられる余剰利益を薄くするわけである。国家の行政が企業から税や制度的な上納金を巻き上げる法の力と、それと対抗する企業の側の戦いは、日本や中国では、株主という第三者が弱いために、その企業の存続に必要なマネジメント・アカウンティングが育たない。それで、経営学はいきおい市場での競争優位や、経営者論、経営者哲学に傾く。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最重要:ゴールドラット博士の制約理論は、独創的な問題解決の哲学

2015年05月17日 | Weblog

このブログで、ゴールドラット博士の制約理論につき、岸良祐司さんの著作から見て、先行研究としてKJ法(川喜多二郎の創案)を受け継いだものと考え、そのような記事を書いた。今、僕の不明をお詫びしたい。それは、岸良祐司さんの著作にのみ当てはまることで、「ザ・ゴール」のオリジナル版に対する批判としては、僕が不明を詫びるべきだと思う、。

川喜多二郎氏の著作の注記より、下敷きとなった上山春平氏の『弁証法の系譜』第2版(未来社、1968年)の第5章「プラグマティズムと弁証法」を参照した。ゴールドラット理論も哲学・論理学の系譜でいえば、アメリカのプラグマティズムの潮流に属する。川喜多二郎氏は、自分のKJ法は、デューイ論理学とパース論理学に拠っていると述べている。それは、問題解決にあたり、デューイの「思いつき」(第187頁)と、パースの「知覚⇒思想⇒行動」に探究プロセスに依拠していることがわかる。

これに対し、ゴールドラットは、「思いつき」や「知覚」という第一段階を集団的に、カードに書き上げ、集団での認識と討論の方法を採用していない。データから問題解決の「制約」となっているプロセスを情報として摘出する。観察事実から「帰納法」する論理で、問題解決へのロジックを組み立てる。他方で、問題解決の目的変数として、「金銭の単位で表示される利益」つまりマネーの形の利益の最大化を妨げている説明変数、つまり「制約条件」がどこかにあるのだという、命題からの「演繹法」のロジックと組み合わせる。

川喜多二郎氏においては、演繹法と帰納法による命題の論証を用いている。川喜多二郎「チーム・ワーク」(光文社、1966年)第44頁の<「考える」ということ>と題した図に明記されている。しかし、そこでは、デューイの「思いつき」は、「問題提起」という普遍的な表現に置き換えられている。

ゴールドラットの場合は、経験のレベルで生じている「納期の遅れ」などの問題解決するべき目的思考の命題から入り、そこでは「思いつき」とか、「知覚」という、素人的な主観性が排除されている。つまり、物理学的なプログラムである。あえていえば、儒学、特に朱子学における格物窮理、さらには清朝考証学にいう窮理致用の論理プログラムと一致する。したがって、ゴールドラットの制約理論は、川喜多二郎氏が、問題解決のために集団の個人個人の「思いつき」「気づき」を重視したのに対し、ゴールドラット博士は、彼の理論を会得したリーダーのもとでのみ、問題解決が可能となるとする。

 言いかえれば、ゴールドラット協会の宣教師という指導者の育成が決め手となる問題解決法である。日本では、KJ法がビジネス文化の基礎にあるので、KJ法により、独創的な発見を期待するよりも、何が「制約」かを集団で探るためにKJ法を利用すれば、トヨタ生産方式⇒ゴールドラットと、修正KJ法⇒制約の発見⇒修正KJ法⇒解決法の発見というロジックの体系を導くことが可能になる。このように、目的科学であるマネジメント科学は、儒学、プラグマティズムの論理学を土台に置くことで、大学教育に適した「アカデミズム」の一翼として哲学基礎が与えられる。僕は、この瞬間に出会えたことを生涯の喜びとする。修正型KJ法が、日本社会のナレッジワーカーの共通文化となりうることを示している。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高岡市の地方創生の最大のネックは「歴史」

2015年05月17日 | Weblog

 昨日、高岡信金の常勤理事のSさんに、地方創生のための信金の役割について、TMA富山マネジメント・アカデミーで90分間の講義をして戴いた。なにもSさんと匿名にする必要はない。金融機関ならでの重要な課題の示唆をいただいた。それは、大地主のなごりである。高岡市域には、相当数の大地主があり、営業用の建物は、それら大地主からの借地権からなっている、という。戦後の農地解放で、米作に供する農地は、耕作者である小作人に分配されたが、明治以来の都市化のなかで生まれた商業施設などは、大地主が借地権収入を求め、土地を売らないで、レンタル収入に拠ったため、土地という資産が、流動性を失い、その都市の不動産市場に新規に供給される更地が少なくなり、ある種のプレミアム価格で高くとまったままとなる。また、借地権をベースとする住宅は、上物の建物が劣化しても、借地権を他者に転売できないために、ますます更地の不動産の価格は、売れなくとも高い水準に止まる。それでは、実勢に合わせ、地価が低下すると、一番に困るのは、高岡市役所である。固定資産税の収入が減少するからである。売りに出される土地が少ないという供給過小であるから、地価が下がらないという仕組みに、高岡市役所という代官屋敷の財政の一つの軸足が固定されている。ここに、ゴールドラット博士が示唆した「制約条件」が隠れている。

 では、借地料は大地主にとり収入源として十分かというと、そうではない。固定資産税という経費を払ったうえで、充分な余剰金が残るわけではない。昔は、余剰金が多くあったが、歴史的なインフレにより、借地権者の権利関係もからみ、身動きのとれない「大地主」制という、負の「歴史遺産」だけが絡んでいる。これに対し、富山市では、農地から宅地への転用、工場団地への転用など、「都市化」に対応した不動産の流動市場が比較的にうまく行っている。富山市長が不動産業界の出身であるから、不動産を見る目は肥えている。 高岡の地方創生を考える前に、高岡信金さんが土地に抵当権を設定する場合に、そこに借地権が設定されていると、権利関係が複雑で、「すいませんー」となるそうだ。これは、大銀行でも同じである。高岡が近世城下町として未成熟なまま、明治維新を迎え、城下町の周辺の農地に大地主制を残したまま、その地主制度が国家的に公認され、さらに、第2次大戦で、市街地が全焼した富山の町に比べ、空襲や戦災を免れ、復興需要で莫大な富が流れ込んだ高岡では、広域の市街化区域が「農地解放」の対象にならなかった。そのため、<大地主>制が生き残った。しかも、土地を売らないで、レンタル制により、市街化に上手く寄与してきたが、今度は、土地の借地権をもつた新規の参入者の営業そのものが衰退し、地価が高値どまりしながら、流通量が少ない状態で、不動産市場の価格が形成された。高岡の高値に比べ、相対的に安い地価の、射水市の周辺部に新興住宅地がうまれるという関係になった。高岡市は、古さを売り物として、「歴史文化」という陳列窓のまま、座して死す日を待つだけである。富山大学芸術文化学部も、高岡法科大学も鉄道の高岡駅から離れ、郊外型の大学にする必要はどこにもない。若者が中心街に集まりにくい町である。 都市計画を30年から50年かけて練り上げ実践してきた金沢市、昭和の1ケタに都市計画により蘇生した富山市、AとCに挟まれたB地点の高岡市には、AとCの都市的消費需要に応じる消費財の供給地としての利用法と、AとCにない、伝統工芸のクラフトに利点がある。それにしても、Sさんのお蔭で、「大地主制」、「農地解放」という歴史家の古いキーワードが、僕のなかで蘇った。同じような事情は、近世町の魚津市と、新興の黒部市との関係にもみられる。 「地方創生」のためには、区分所有法を活用した市街地の共同住宅・工房・商業施設・飲食店のミニ・ポリスの建設しか道は残されていない。そのため、借地権者の権利も認め、底地の地主の権利も認め、全てを「区分所有法」の持ち分比に還元する再開発組合の役割が決め手となる。まだ何とかなる、と思っているうちは、危機は止まらない。「歴史」は観光資源ではあるが、先祖代々の地主と、借地権者の関係をほぐさないと、再開発の絵は描けない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改定版:日本でゴールドラット理論の普及が妨げられている理由

2015年05月10日 | Weblog

ゴールドラットの「制約理論」では、生産工程のなかで、1日や1週間という時間単位で工程処理する、その工程ごとの産出量の最も弱い工程を「制約」という。AからEの工程があったとすれば、単位時間あたり産出が一番弱い工程が、Dであぅたとすると、そこに集中して改善しないと、D工程が工程全体のボトルネックとなって、全体最適を妨げる。だから、D工程に集中して改善しなさい、ということになる。この弱い環が、植物の成長にたいする肥料の組み合わせで習った気がする。また、岸良さんが紹介したクラウドなど、カードをならべ因果関係を全体構図にする方法は、すでにKJ法が先駆者である。

大学でゼミを担当した時、KJ法を使い集団で考える技が、多くの方の知恵,情報、分析を共有できる方法だと分かる。しかし、その場合、5教科7科目とか、8科目型の人間でないとKJ法が使いこなせない、と分かる。つまり、KJ法では、個人の頭のなかにあるモヤモヤ、モタモタは、カードに書き上げ、大きな台紙の上にならべ、因果関係を考えていくとき、京都大学のレベルだと、5分の1は先入見を棄て、自分でも気が付かない因果関係の発見を喜ぶ。しかし、5分の4は、暗誦したドグマを喜び、いくつかの定理にしがみつく。例えば、近代化は、農村から都市への人口移動という定理にしがみつく。僕は、中国に限り、17世紀より、都市圏から辺境の農村への過剰人口移動がおき、それが中国近代の非西欧型近代の制約条件と考えると、K大人文科学研究所で発表した。H教授は統計のエビデンスが理解できないために、僕の知識にはない、と拒絶した。

 京都大学で盛んに用いられた情報カードと、文化人類学で用いられたKJ法の学習歴があると、ゴールド・ラットの思考方法の実践の仕方は、KJ法の弱点を是正し、制約条件の解明と、制約条件の改善という、全体最適にむけた目的志向への単純化へと進めたものだと分かる。目的志向型のKJ法、それがゴールドラットの集団思考の方法である。 最近、西日本、太平洋側での企業業績や、自治体などの業績が好調で人口増加しているのは、ベースとしてKJ法により集団で、総合的に考える学術文化が関係している。ゴールドラットの理論を受け入れている深度も、京都大学という学問文化の風土が関係している。が、悪く言えば、それはKJ法のパクリである。このようにいうと、ゴールドラットの日本での理論の普及を妨げているのは、実は推進者自体が、5教科7科目とか、8科目型の人間でないから、その総合科学の学力が弱いために、アカデミズムでは、ゴールドラット派はまだまだ無視される傾向にある。

ゴールドラット派は、自らの理論の適応において、アカデミズムの列に入るには、まだ、充分に洗練されていないからである。自らが「制約条件」となっている。 目的変数は、何か。ゴールドラットでは、マネーを事業に投入し、投入したマネー量を上回るマナー量を引き出す最大効率化が目的変数である。つまり、ユダヤ人が、流民として、僅かな金銀財宝により利子収入で暮らしてきたが、それでは利子収入だけで暮らすユダヤ人を原理的に否定するキリスト教徒とは和解できないので、20世紀の中葉より、各種の産業へ投資する資産運用を考えた。その延長で、日本人が、経営コンサルタントとして、ゴールドを手に入れる為、ゴールドラット協会を誇示すると、ユダヤの世界観への、日本人の伝統的な嫌悪感と敵対することになる。

 日本の知識人は、すでに、江戸時代に、四書五経の思考法を手にいれている。集団で「格物・致知・正心・誠意」が「修身」であるという市民的な規範は、京都や大阪で生まれている。有名な吉田松陰の「松下村塾」もその実用版である。陽明学的な誤りがある。富山県では、「格物窮理」の立場から、藩校は明治2年、「変則英語学校」として出発した。朱子学の思想では、「格物」が制約条件である。目的変数は、「平天下」である。日本のアカデミズムが、まだまだゴールドラットを受容する儀式はまだ済んでいない。僕は、朱子学の「格物」から「平天下」の大きな体系のなかで、実業の科学「格物・致知・正心・誠意」の立場から、日本のゴールドラット派の長所と短所が良く見える。ゴールドラット博士が、トヨタ生産方式の大野さんに敬意を表するだけでなく、日本のゴールドハット派(皮肉も込めています)は、せめてもは、川喜多教授のKJ法に敬意を表するための、アカデミズムの洗礼儀式は必要です。ここは特に、岸良祐司さんに、言いたいところだ。岸良祐司さんの業績は、書店の立ち読みには適している。が、大学で集中講義をお願いする勇気は、僕には無い。彼の児童教育論は、彼の夫妻関係の最適化には良いかも知れないが、心理学の学界では、研究発表の水準にはない。ゴールドラット理論は、アカデミズムの先人の業績を継承している。その系譜を整理しないと、保守的な、また、保守的であるべきアカデミズムの壁は越えにくい。ロジックは厳密に冷たく突き放し、ハートは優しく、ゴールドラット派に味方します。ゴールドハット派には、味方しません。孔子は言いました。「利を見て、義を思え」と。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多変量解析の入門書はどれが良いのか?

2015年05月07日 | Weblog

ビジネス統計学の入門書

「統計学は最強の学問である」(西内啓、ダイヤモンド社)の2冊を読み終える面倒を考えるなら、末吉正成・美喜著「エクセルビジネス統計」翔泳社、2380円を推薦したい。まず、エクセルで例題を解きながら、多変量解析を実地に即した課題で学ぶ。その上で、その数学的な裏付けを西内さんの第2作である「実践編」で学ぶ。もちろん、その前に中学1年でならうY=aX+bの方程式のグラフを忘れた方は、即、退場である。それと、最小二乗法という説明があるので、正の数も、負の数も、二乗したら正の数として扱うことができることだけは思い出してください。マネジメントとは、総合学力です。しかし、必須の学として欠かせなものと、そうでないものとの線引きはあります。美術館に行って、感性を磨くことが大事だ、これは市場との関係で求められる感性であるが、必須ではなく、教養主義の蛇足にすぎる。美術を学ぶまえに、統計学に親しむべし、と思う。

ある大学の講義に、企業経営者を招いたら、講義中に推薦図書として、西内啓さんの「統計学は最強の学問である」を挙げられた。では、あなたは統計学をどのように勉強されたのですか?という学生からに質問には、何も答えるすべがなかった。学生に初歩から階段を示し、その学生に適した学習法を伴わないのに、急にしたり顔をされた。その大学の講師に推薦した僕は、その学生のアフター・ケアーのために、その後の6か月を費やした。

企業では内部議論のなかで、統計分析が一番に説得力がある。だが、自分は多変量解析ができない経営企画室長だったと、正直に告白して欲しかった。だから、理工系の人間から、秘かに酒飲みとして軽蔑されていたんだ。これが、旧七帝大系卒の60歳代の、現場での基礎学力の程度なんだ。今は、センタ―テスト世代に移行したから、こんな経営企画室長はいない。

さて、大事なのは、因果関係である。いくつか考えられる原因のうち、目的という結果に一番影響する原因はなにか、二番目に結果に影響する原因はなにか、このロジックを学ぶことが大事だ。統計分析という道具になじめば、第三者に説得力あるロジックで説明できる。

推薦図書は、エクセルのどのバージョンにも適応している。高度な統計処理のソフトはあるが、それで計算すると、馬鹿な上司は、魔法使いのように思えるらしい。自分も多少知っているエクセルで計算すると、優位性が俄然、光ってくる。解析ツールは、エクセルの初期設定のままでは、出てこない。最初にアドインしないと、基本統計量、回帰などの便利なツールは出現しない。エクセルが出来るのは、単純計算だけではない。大事なのは、ロジックを鍛えることなんだ。その下地がないと、ゴールドラットは理解できない。まして、応用はできない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マネジャなのに、マネジメントしない管理者(ドラッカー研究ノート)

2015年05月03日 | Weblog

 ドラッカーのManagementを原書で読むと、爽快な気分になる。下の引用は、スキャナーで原書を読み取り、ワード画面に転写、英文の下に、自分なりの訳文を挿入したり、ノートを書きこむ作業の一場面です。日本語訳を読んでいると、頭に残りにくい。パソコン画面に「英辞郎」を呼び出しておくと、訳語の選択が容易である。

この文は、結論の章の真ん中にある一節。マネジメント・ブームを批判し、マネジメントは技法ではないのだ、という主張のあとに、それでは、企業や、病院や、大学を経営するのではなく、その社会的な存在意義、社会的な役割を意識しさえすれば良いとする管理者を「間抜けか、悪党なのか、その両方なのである。」とドラッカーは言い切る。これは、痛快である。

And the manager who believes that social consciousness is a substitute for managing his business—or his hospital or his university—so that it produces the results for the sake of which it exists, is either a fool or a knave or both.

 そのうえに、企業であれ、病院であれ、大学であれ、社会的な役割意識が、それをマネジメントすることに取って代わるものだ、それが社会的存在意義を達成する結果を生み出すのだ、と信じているマネジャーたちは、間抜けか、悪党なのか、その両方なのである。 

そして、The Need for Legitimacy  正統性を確立する必要 という節に移る。マネジメントが「正義」として社会から認知されねばならない、という義務を強調する。マネジメントする組織には、社会的な使命があり、それを果たすことが、社会から「正義」だと認知されることで、マネジメントの正統性が確立するわけである。ドラッカーさんは、哲学しすぎなんです。でも、柄の悪い会計学、実は節税対策まで、マネジメント学のなかに含むならば、大学という社会でマネジメントがアカデミズムの中心には、成りえないから、ドラッカーさんは、哲学者の顔になろうとするのです。なぜなら、 アカデミズムの中心に、マネジメント学が来るように、人文社会科学を再構成しないと、人類の未来は進化しないという強烈な歴史哲学がそこにあるからです。私のアカデミズム信仰は、異常かも知れません、が、資本の所有者が主人公の社会から働く人々が主人公に変えるには、マネジメント学のアカデミズムの殿堂入りを主張したい。その意味でアカデミズムによる正義の正統化は、大きな意味があると思われる。

 But a leadership group needs not only to function.

It needs not only to perform.

It also has to have legitimacy.

It has to be accepted by the community as "right." 

しかし、ドラッカー学は、マネジメント学の哲学化を推し進めた弊害の面も意識されるべきであろう。原作は、1973年の作である。上に引用した結論部、とくにキーワードのLegitimacyは、2008年に刊行されたRevised Editionでは、完全に削除されている。したがって、ドラッカーのマナジメント学は、1973年版の初版によるのではなく、2008年版であるRevised Editionにより議論するべし、ということになろう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴールドラット経営理論のツボ

2015年05月01日 | Weblog

 日本では、財務三表が経営状態の分析に使われる。まず、貸借対照表。ついで、損益計算書、さらにキャッシュフロー計算書。今でも、銀行の融資審査は、これらをもとに行われる。ゴールドラットは、貸借対照表を基準とする後付のデータが招く、経営者の作為を排除する。どこに問題があるかと言えば、資産の部の在庫の評価にある。それを仮想のキャッシュで表現するため、在庫をそのまま市場で売却できる価格と乖離するからである。恣意的でなく、悪意でもない。ある日の時点で、その企業全体を市場で売却するとなると、その企業の実勢に市場価格を査定すれば、貸借対照表に記載された在庫のかなりの部分は、在庫資産として表示された金額を下回る。それだけでなく、資産(在庫を含む)ー負債=資本金+利益の公式に当てはめると、在庫を高めに見積もると、見かけの利益が発生する。反対に、在庫を実際に質量ともに減らすと、資産が縮小するから、負債を引くと、利益として表示される金額が縮小する。すると、決算期が近づくと、製品在庫を倉庫に積み上げると、計算上の利益が生産できる。これは、誰でも知る貸借対照表のワナである。

 ゴールドラットは、損益計算書を基準に、ビジネスを自己分析するように仕向ける。総販売額ー総業務費=利益という第一公式を重視する。総業務費は、実は、革命的に圧縮できない固定経費の性格をもっている。全ての企業で人件費を圧縮すれば、勤労者所得が減り、国内市場環境を破壊する作用がおきる。だから、ゴールドラットは、日本企業の人件費圧縮、コスト主義を批判している。

 企業の利益を最大化するには、なによりも総販売額の最大化するマネジメントがポイントとなる。市場ニーズに対し、いいかえると顧客価値の創造により、総販売額を革命的に増加させることができないか、それに経営者が株主、従業員に対する責任を負っているという。だから、よほどの自信と責任感のある経営者でないと、ゴールドラットの理論は、経営者の胸算用に取り込まれることはない。皆さんは、これをゴールドラットのリトマス試験紙と呼んでおいたら便利だ。「ザ・ゴール」を読んで、ホコリまみれにしたか、「ザ・ゴール2」からはじめ、最終、10冊ほどの日本語訳を読まなかったか、その差異は、この第一公式がコロンブスの卵であることに気づくか、否かの差異である。

 日本の大部分の経営者は、屋内の作業者には、原価計算、コスト主義に縛りつけ、営業マンには売り上げの総額の数値目標だけを基準に競争させてきた。そして、大事なのは、利益を低く表示するために、製品在庫、仕掛け在庫、原料在庫を決算期に向けて圧縮し、利益に課税される法人税を「節税」することに腐心する。

 その結果、法人税は赤字企業に課税されないから、日本では、赤字なのに30年も50年も経営が持続している企業が存続できる。赤字決算にすれば、納税準備預金として積み立ている金額や、すにで納めた納税額が還付される。こうした税制の穴が、マネジメント学とマネジメントの緊張関係を失わせる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする