富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

コンパクト都市論の限界と都鄙共同体論の可能性

2018年09月04日 | Weblog

中国では、さまざまな経緯、論争をへて、伝統社会の主旋律である都鄙共同体の底辺の原基共同体理論により、郷鎮【キョウチンと呼んでください。東京では、ゴウチンと読む専門家がいますから】という地方都市を核とするコンパクトな新都市論へと大勢が流れた。その結果、辺境の限界集落を廃止することになった。まだ、個々人が自動車を所有し、移動の手段としていないために、自転車をベースに郷鎮をコンパクトシティとして、公共交通を充実させる時代に入った。つまり、富山の森市長のコンパクトシティ理論は、モータリゼーションが未発達な中国の内陸部や西部の開発地、これからはチベット高原に及ぶ世界で非常に有効な理論であり、中国共産党により採用されている。これが、杭州大学の経済地理学の基礎研究として安定した軌道にのっている。山間部の水源地帯からの環境汚染を防ぐためでもある。高齢者は、郷鎮の公営住宅に移され、出稼ぎした子女と近住している。それでは、富山市の場合は、そうはならない。自動車とITの発達により、事業所が郊外にあるので、大長谷村地区では、八尾、婦中の事業所への通勤圏内の住民は、総曲輪を中心とした住環境を好まない。ここに田舎、つまり鄙の共同体の持続力が働いている。他方、都市の中心部では希薄になったが、奥田村、豊田村とか、四方とか、岩瀬など、富山には鄙の共同体の祭祀・祭礼が伝承されている。それが町内会であり、地区自治振興会である。高齢者が増えるに従い、鄙の共同体の記憶が持続的に発展し、広域のサポートにより、通勤圏の縁辺の範囲内で、昔の水利共同の組織をベースに地区という言葉で活性を保っている。このような都市のアーバンなサービス機能を享有しながら、ルーラルな排水路の管理のための鄙共同体が持続することが望まれる。というのは、治水は平野部の村落共同体からの上流への治水のための公共政策により生まれている。富山の内山邸を孤立した歴史遺産ではなく、牛ヶ首神社、牛ヶ首用水、さらには牛岳の分水嶺にいたる水利の地域エネルギーとして存在した。逆に、冨岩運河は、岩瀬からの水路の逆走を構想したものである。つまり、呉羽丘陵部の人には見えにくいが、富山市は世界でも有数の排水の治水管理が整備された都鄙共同体から成り立つのである。そのため、元の鄙共同体は、ほぼ富山市立図書館の分館が存在し、地域の記憶の消滅に抵抗しているのである。実は中央官僚が提唱したコンパクトシティ論は、中国のような中進国には強い効用をもたらす。それで、中央官僚は、富山市域が中進国のモデルだと錯覚し、富山で実証実験を行った。無論、実験は失敗である。予算の切れ目は、縁の切れ目である。富山では都鄙共同体論が正解、医療機関の分布からクリスタラー理論を適用したのが、今の富山大学学長の遠藤先生である。ドクターヘリを備える医療サービスの都鄙の階層性のシステム、市立図書館の分館の配置は、南ドイツの平野で生まれたクリスタラー理論を実証的に、しかも実際的に実現している。中央官僚にうち、次の有識者にヨイショして、「○○プラン」という特別な国家公務員の地方実験に付き合えばようだけだ。金の切れ目は縁の切れ目。幻想が予算を咥えて飛んでくる。コンパクトシティ論は、ヨイショするだけの賽銭を富山市神社に落としてくれた。彼らには、この回答編は読まれたくない。今後、中国で頑張ってください。

 


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富山では、定期制スーパー高校ができる

2018年09月04日 | Weblog

定期制の高校とは、予備校の夏季講習などの期間だけ開講されるものである。現在、この分野では、富山では負け組の予備校しかない。東大受験では、富山で営業している予備校では、間に合わない。東大に入学できても、東京大学大学院の入試には合格できない。つまり、世界の最先端の科学に触れるには、県下から科目別に50名枠の選抜されたスーパー高校生を育成しなくてはならない。すでに、それに近い教育が、探究科で行われているといわれるが、高校教育の指導者が「修士」の学位どまり、学会にでデビューできなかった「博士落ち」である。いまや、日本には博士がごろごろしている。たまに大学から出前講座にいくが、宅配ピザのようなもの。だから、まず、富山県立定期制先端科学探究高等学校をつくり、定期の期間の寄宿型の教育である。これは、イギリスの高等教育の一つの形式を示している。富山県では幸いなことに、県立高校の廃校予定の校がある。では、夏季講習などの期間外は使用しないのではない。土日は、大学生・大学院生とともに学ぶ。つまり、県下のうち富大と県大の地域協業型リサーチキャンパスを誘致する。ここで、スーパー高校生は、50年、100年先の科学の先読みを学ぶのである。そのとき、富山では、化学と生物との一体化した生命工学の領域を想定し、バイオケミカルに関し、スーパー高校生を育成しなくてはならない。とにかくまず、背伸びさせることだ。


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日本よ、もう少しの我慢:学力崩壊層の引退

2018年09月04日 | Weblog

今、日本では、大学の入学時の学力構造の違いから、大学教育の授業内容に超えられない段階差が生じているのを御存じだろうか?低学力層には、「社会不満」の異議申し立てには、民主社会としての根本価値があるというロジックをすりこみ、「正義」「不正義」の判別式が、「民主」つまり低学力層の学生が気に入らない対象=反民主への異議申し立てをする。このような大学教育が教室で行われていたから、日本には大学の名に値しない「学卒」が日本の非主流、非中核のソーシャル・ラインを形成してきた。これが、民主党政権の形で噴出した。それは、時の自由民主党も学力崩壊層が主体だったので、自己基準の民主と民主との戦いだった。しかし、この世代の最高の知性だと持ち上げられてきた山本義隆『近代日本一五〇年』岩波新書をよむと、ロジックが極めて粗暴である。それに対し、同世代で、東大理学部物理学科の教授の文章を読むと、日本の最先端の論理構造が見えてくる。あらゆる視点やデータを根底から批判し、総合科学の土俵において、日本の最高の知性を感じることができる。正確に言えば、東大大学院理学研究科の水準なら、世界から留学生が集まるのが分かる。なぜ、民主党系の野党や、自民党内の野党が、急速に支持基盤を弱めているのは、1950年代からの「社会不満」の異議申しを基礎とした大学教育を受けた世代が、国際的な学問のイノベーションの方向から大きく外れてきたからである。新聞メディアも、その影響を受け、「社会不満」の異議申しを職業とする弁護士たちが得意とする「ハラッシュメント」論を武器とする流れに引き付けられている。しかし、新知識層は、山本義隆を不勉強とし、東大大学院の量子の世界が語るものに受信機の周波数を合わせている。日本は、今や40歳前後のITバリバリ世代の力で、アメリカ、ドイツの自動車産業を斜陽においこみ、日中連合の力で電気自動車の世紀、つまりコンピュータ積載からコンピューター通信により、個人車の所有から協同利用車の利用へと、車を個人が所有するの煩雑さからの解放をめざして、新たな大世紀が始まったのである。中国も大きく変わり、日本と連携すれば、欧米と東亜との相互協力という可能性が生まれてきた。


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9月3日(月)のつぶやき

2018年09月04日 | Weblog

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