富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

中国共産党の多軸構造

2017年07月31日 | Weblog

中国共産党の研究:

習近平政権における習近平の役割が、毛沢東以来の「党主席」の超法規的な人治の復活に向かっていることは確かである。いわゆるチャイナセブンをキーワードとする分析は、習近平個人の一色に染まられていく。これをもって、独裁の体制だとか、権力の一元化を語ることは、たやすい。脳の構造が単純な分析が、大新聞でも平気で語られている。

実は、中国共産党は、建国以来、職務分掌が進んだ官僚国家である。例えば、河北省長と、党の河北省委員会書記とは、命令系統が違う。前者の行政職は、国務院総理である李克強の部下である。それに対し、党の書記は、中央書記処の総書記である習近平の部下である。党のカテゴリーと、国務院のカテゴリーとは、上下の関係がある。毛沢東時代は、周恩来という国務院総理が存在したため、実質的な権限は、行政職の命令系統で動き、党側は監査役のような機能であった。

習近平政権では、李克強は周恩来ほどの人望もなく、党の絶対主権に一元化される。しかし、中国法制史における「会典事例」という法律行政の伝統的な仕組みは、清朝から中華民国へ、さらに中華人民共和国に継承されてている。どんどん新しい法令や規則、新たな機構が作られても、大きな大テーマごとに「専門の法規テクノクラート」が存在する。だから、例えば、日本外交というファイルには、党の中央対外連絡部の「会典事例」は、政党・政客ごとに情報整理されているから、田中派の遺産をもつ小沢が異常に厚遇される。それに対し、国務院の外交部の「日本外交」というファイルは、条約、協定、共同宣言などの外交交渉の記録が「外交档案」として保管され、そこから古い事例を参照して、次の課題の整理が行われる。だから、日中の外交でも、環境行政の分野と刑事行政の分野では、比較的に整合した関係が続いている。

日中関係でも、何百という連立方程式があり、国務院外交部の「档案」として集約される。その上に、中国共産党という政党外交の「档案」がある。これが、農業、牧畜、林業から製造業、さらには国際機関、スポーツなど、党政の軸と行政の縦軸と、分野ごとの横軸がある。中国共産党は、24時間営業の世界的な政治総合商社である。1分たりとも休まない。だから、8900万人の巨大組織は、実は世界の多軸性にあわせた多軸構造をもっている。だから、外国からは、「会典事例」という法律行政の法治のテクニックに通じていないと、チャイナ分析は外れる。丁寧に、人民日報の記事を法規ファイルに整理するような隣国研究を日本では行っていない。東京の権威筋は、中国を脅威とみて居ないから、現代中国の法制の研究を手抜きしている。

 


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野党は、護憲墨守派と改憲提唱派と、ラベル分けして欲しい。

2017年07月31日 | Weblog

護憲墨守派は、中国、韓国、北朝鮮の国益と共存することで、軟弱な日本を好ましいとみる1930年代のコミンテルン史観の共有と、その人脈にの繋がる。これは、戦後レジーム(体制)なので、高齢化しているが知識社会の枢要を占めている。

問題は、労働組合の勢力は、企業内の組合なので、経営組織の共同認識が、改憲を新規に選ぶか、護憲墨守派に加担するか、この違いであろう。おそらく、民進党の党首選挙は、前原が改憲派、枝野が護憲派、前原が共産党に依存しない、枝野は容共派の護憲を択ぶだろう。労働組合では、官公労系は護憲派である。民間労組は、判断に苦しんでいる。

それは、日本の経営者の団体が、財界総理を失い、エース的なリーダ不在であるからだ。経営人の優柔不断は、ここにきて際立ち始めた。労組も、国民世論をリードする力がない。学界となると、国際的に通用しない学者の底割れが見え透いている。

当然、東京オリンピックを控え、新しい天皇即位を控え、国論を二分するような闘争となる政治課題を避ける方向へと、優柔不断を旨とする政治風土は超えられない。積極的な護憲論も、急進的な改憲論も、慎重にならざるをえない。底流では、雇用安定、賃金の微増、労働条件の改善が進んでいるので、危機突破型の政治の風向きではない。だかれ、せめて野党を2分して欲しい。護憲墨守派の共産党を核心とする野党連合と、改憲提唱派の野党連合と「レベル」を分けて欲しい。護憲アルコールを含まない野党が、大阪の地域政党に止まる理由はない。護憲アルコールを含むのが、公明党である。野党ラベルが、2つに分かれると、公明党内の護憲アルコール含有派は、改憲におれてこざるをえない。

枝野が勝つ、それが大勢である。前原は、京大でも法学部なんで、個人的には嫌いだが、枝野に負けて、そこで改憲野党の旗を立てたら、経営人は前原を支援し、民間労組は前原の党をつくるべきであろう。

 


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改憲の是非を賭けた総選挙に突入か?

2017年07月31日 | Weblog

TMA講師代表:国政は、指令型経済原理の基軸である。その揺れは、市場型経済原理に影響されながら、逆に、国政により景気動向が左右されることがある。現在、市場型経済原理は、安倍政治と関係なく、自律的に機能している。特に、日本国内で製造された製品が、安全で、高価格でも販路が拡大するという事実から、日本国内工場での製造拠点の再構築が行われている。そこで、人手不足が生じ、これをカバーするAI化が同時進行し、情報系のSEを中心に、また、物流の業界でも、賃金の相場が上昇してきた。建築・土木でも、同様に、機械化と人手不足の同時進行がおきている。おおむね日本経済は、雇用面から見ても好景気の状態が、2018年度にも期待できる様相である。

日本の国家としての危機は、北朝鮮からの軍事的な脅威、中国による海洋利権の拡張により、日本海、太平洋に大きな国益の危機が生じている。国土領海の保持のため、現行憲法の解釈改憲の幅は狭くなり、無理に無理を重ねるよりは、領海、領空、領土、海洋資源の防衛に関し、はっきりと国論を二分する「国民的討論」を必要としている。ところが、中国、韓国、北朝鮮の敵対的な隣国の利益と利益を共有できる勢力は、現行憲法を墨守しようとしている。そのため、安倍政治の私的裏面を攻撃し、護憲体制の保全へのヘッジ、それが2017年前半の政治日程を浪費してしまった。また、特定メディアを優遇し、国民的な改憲の冷静な討論の場を失った。最も望ましくない形で、改憲の是非を賭けた総選挙があるとすれば、秋に総選挙がある。護憲側からみたら、安倍政権が3分の2以上の改憲発議の権利を失う自殺と映るだろう。しかし、政権与党内部、公明党側には、安倍改憲には加担したくない理由がある。リスクを冒すよりも、国の予算から得られる「利権」分与の構造は壊したくない。総選挙があれば忙しくなる業界だけは、解散総選挙に期待する。しかし、この30年、優柔不断のリーダーのもとで暮らしてきた国民には、「面倒くさい」政治行事には気が乗らない。

野党の民進党が、改憲と護憲に分かれ、野党系、非与党系の優柔不断が整理され、護憲、改憲与党、改憲野党の3つの選択肢が出そろうのを待つというのも、歴史のシナリオとしては面白い。来年は、明治維新150年、新憲法は必ず必要であると、国民自身が自覚するには、北朝鮮のミサイル花火大会が、絶好の好材料である。中国も確実に、アメリカ軍を凌ぐ軍事力をつける。

 


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英語でTOYAMAを発信する時がきた。

2017年07月30日 | Weblog

東京大学でも、4年の学部卒では評価されない時代である。今の日本の大学は、大学院が駆動輪になっている。大学院大学である。富山大学では、評価できるのは、大学院博士後期課程の研究指導を認められている教授である。いわゆる博士学位発行機関である。

医学理工系では、英語圏の学術論文を載せる機関誌では、査読、審査がある。文系では、日本語圏の権威ある学会の機関誌で、査読、審査のある分野では、国内基準で認められる。この慣行と落差のため、TMAでは、文系は全て平等に、私立大学にするべき、と主張する。お陰様で、富山県立大学には、文系学部がないし、今後もない。県議会の与党筋が、TMAの主張根拠にご理解を得ているからだ。

ではなぜ、富山大学には、文系学部の存続が認められているのか。それは、日本海という環境のもと、対岸のロシア語、漢語、朝鮮語(ハングル)の教育機関を持続させるためであり、工芸都市である高岡の地場の徳性に応じた芸術文化のためである。だから、相対的に欧米系の研究は弱い。しかし、工芸都市という観点では、欧州の都市文化も無視できない。だから、私学では無理なフランス語、ドイツ語に特化した教育機関も必要である。また、環日本海からASEANの共通語は、アジア系の英語(アメリカ口語とは違う)の教育の必要がある。

その意味で、富山大学の人文学部は、不要な科目をそぎ落とし、国際文化学に特化する必要がある。先達としては、富山藩の広徳館がある。ここの教育、特に漢詩を読みこなせるのは、磯部教授。四書五経の考証学にも、日本有数の学者がいる。書物の集積では、中国学に関しては、和漢薬研究をふくめ新潟大学、金沢大学には優位な関係がある。ただし、大学院博士後期の水準の5講座を形成できなかった。これは、ヘルン文庫の活かし方に反対した小森教授(東大英文出)の不見識のためである。僕は、この小森教授と戦い、かつ。外国留学の可能性のない富山大学を去り、神戸の地で、私学の先頭になって教養部廃止、人間文化学部の創設に人生を賭けた。25年の奮闘を経て、神戸から富山へ帰還した。

ラフカディオ・ハーンの功績は、日本語文化圏と英語文化圏との国際比較文化学に基本がある。昨日、富山大学に寄付講座しているTOEIC800講座の懇親会で、社会人として受講されている方から、英作文の講座に発展させるべきだ、という正論を得た。そのとおりである。いかに英語で発信力を持つか?これが原点である。そのために、ヘルン文庫が富山にはあるのだ。国際日本学を外国人が学びにくることで、富山が国際化する。そうだ。英語による富山発信のサイトがいる。紙媒体の機関紙は、急がなくてもよい。PDF形式で、外国からダウンロードできるからだ。

 

 

 

 


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県下で最初からさけられている大学評価法

2017年07月29日 | Weblog

TMA講師代表の経験値

(1)入試のレベル判定の勝敗率

  受験生は、複数校を受験する。AとBとを両方愛かったとき、どちらを選んで入学したのか。これで、県内の大学が勝組になっていないことが分かる。また、同じ受験生が、例えば、明治大学が不合格で、富山大学が合格だとすると、富山大学を負け組と判定する。勝敗率が低い。

(2)卒業生の就職先の判定

  日本の中核企業は、東証第一部の企業であるとすると、そこに卒業生の何%を送りこめたか。いかに人材難でも、入りたい企業と、あまり入りたくない企業との差異はある。前者には、競争性が発生するので、不合格の判定は数量的な意味をもっている。入りたい企業に合格判定を戴くには、例えば、TOEIC800点がいる。県下では、1学年齢で、1名いるかどうか。文系にはいない。

(3)県内企業での就職試験での不合格率

  県内大学から県内企業への就職でも、優良企業は、はっきりと不合格の判定を出している。こうした不合格者でも入社できる企業は、あきらかに「Fランク」企業である。県内企業は、A,B,C,D,E,Fとランクがある。合格者と不合格者の比率を見れば、合格率が10%以下は、Aランク、20%以下はBランクとなる。技術系で、理工系の学生に不合格を出せる県内企業は、極めて水準が高い。

県内企業は、中学3年次に行われる高等学校の入試を評価軸に置いている。だがら、県内大学で、富山県内で国立大学の進学者の多い高校から、県内大学への進学者を分析する。中部高校から、国立富山大学への進学者がある学部と無い学部、そもそも入学者ゼロの県立大学、これだけでも論ずるに足りない。

要は、典型的な負け組の構造のなかで、良い種子のある学生の県外流出が起こっている。「J3以下」の構造である。その責任は誰にあるのか。恥部を隠して、大学評価など出来るはずがない。


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日本社会における「才女たち」の失権

2017年07月28日 | Weblog

いわゆる政界の「才女たち」が、このところ相継いで、失権している。名前を挙げて議論しない。単なる記号にして論じることができるからだ。「才女」の名声に惚れ込んで、重用したのは。まさしく婦人票、女性票を重視するためである。

この「才女たち」の扱いで、無失点なのは、公明党と共産党である。土台の婦人組織の基盤がしっかりしているからである。性別役割分担に関し、きちんとした理論的な伝統があるからだ。しかし、だからこそ、新規参加者が党内で影響力が発揮できないから、純粋性も保たれる。こういう思想哲学政党は、軸心となる鋼材である。回転軸としては、十年一日の同軸回転ができる。その役割は、左右の両陣営に力学的に必要だ。

他方、政権に届くには、広範な集票力のあるスター級の「才女たち」が求められる。いまのところ、日本で最初の宰相に一番に近いのは、小池百合子さんである。この小池効果が、他の「才女たち」の予選敗退を急速に告げている。

僕は昔、日本社会党の土井たか子さんを紹介されたことがある。大学生の時代だった。誰かの取り持ちで、屋台のおでん屋で飲んだこともある。彼女は、同志社大学の法学部の出身、日本国憲法という科目で、関西学院大学の非常勤講師を「定職」にしていた。僕は、神戸大学で厳格な学風で知られる東洋史学を専攻していたから、土井さんの学識の軽さに対し、私淑する気持ちは全くなかった。僕の「護憲嫌い」と「土井さん嫌い」とは、同義語である。無論、日本社会党に期待されながら、学問研究の面白さに価値を感じ、あの人たちとは袂を分かった。

大学院の教授の経験者として、「才女たち」の限界は、自分の限界に自分で気づくか否か、ここにある、と思われる。賢い才女は、引き際にも敏感である。賢くない才女は、才能の臨界点を知らないので、花火のように燃え尽きる。土井たか子さんは、宰相の道を避け、衆議院議長をもって幕を引いた。多少は、学問ができたからである。修士論文が書けたからである。小池さんは、国策の政客としては、筋金入りの右翼である。土井さんの選挙区からの巣立ちである。あの選挙区には、候補者以上の才女が固まっている。芦屋、西宮、宝塚である。

こうして、才女たちの悪口が書けるのは、75歳という年輪のお陰である。「女子、女子ねエ・・・」Wun・・・・


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妻たちの失敗

2017年07月28日 | Weblog

中国では、権力者の妻の資質は厳しく問われる。江沢民が、権力の座につき、長く影響力を及ぼしたのは、良妻の恩恵である。上海市の市長時代、公用車を使用せずに、公共交通のみを利用した。これは、江沢民の母の教えを守った良妻の賢さである。鄧小平は、ここを評価し、総書記に登用した。今、孫政才という有力な次世代の党官僚は、妻たちの腐敗に足をとられ失脚した。

「妻」への監督責任が厳しく検査されるのは、政治家が私益のワナに陥る最大のポイントであるからだ。中国が皇帝制度を廃棄したのは、皇后が、皇后の一族が権力操作を利益の根源とするためである。アメリカの場合、ファーストレディが大きな誤りを犯したとは聞かない。汚職につながる事件を聞かない。

要は、公人の妻は、私人である。この公私混同の弊害が、中国では、孔子の時代にもすでにある。この公私混同をめぐる倫理が、いつも問い直されるのは、そこに中国社会の大きな欠陥が存在することを意味している。中国の婦人の成熟度、教養の自律性は、必ずしも先進国ではない。家庭内での、妻の役割分担、特に家計の管理、贈答品への対処など、家政から公私の垣根が壊れる。

 

 

 


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遊学(総合科学)と遊戯(ゲーム)

2017年07月27日 | Weblog

遊学は、難しくいうと、総合科学である。異分野の世界を広く覗くことで、モノを総合的に判断する癖をつける。遊戯は、全ての条件を消去し、ゲームの枠組みに単純化し、勝敗を偶然から必然であると置き換える行動を導く。

遊学は、背中で感じる力を養う。遊戯は、行動のセンサーを磨く。「游」が語源である。水が高山から谷間、扇状地、平野、そして海へ、流れる。これを「游」という。これを全体として、循環として見るのが「遊学」である。「遊戯」は、これに手を加える。ダムを造り、貯水する。本流から分岐させる。最後は、運河までつくる。これが遊戯、ゲームである。

ここで、水をたとえに用いたが、孔子は、禹王の治水の功績(遊戯)を踏まえ、遊学していた。視野が狭いひとは、遊戯と遊学という、部分と全体の頭脳の切り替えができない。


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地域の名誉フラッグは、学校単位から市単位に

2017年07月26日 | Weblog

TMA講師代表:地方紙が、地域をみるとき、航空写真で小学校や、中学校を中核に鳥瞰する。しかし、義務教育の人口とそれを支える家庭の減少により、無理に地域フラッグを小学校区や、中学校区に求める時代は、維持が厳しくなる。より広域でまとまる時代に自然に移行している。その究極の単位を道州制に求めるには、時期が早すぎる。今は、県が最後の郷土の砦である。

ケーブルテレビで、高校野球の地方予選を拝見したが、仮に市の単位の選抜ならば、ゲーム水準はかなり上がる。現在では、体力は十分であるが、野球脳が遅れている生徒さんと、野球脳が優れていても、体力の養成が欠けている生徒さんが、それぞれの高校の名誉のために戦っている。学校単位というのは、軍国主義とともに成長してきた朝日新聞社の「野球道の哲学」である。基本は、軍国主義に規範がある。毎日新聞も、選抜制であるが、基本は学校単位である。義務教育の場合、学校単位は意味をもつ。

しかし、合併で地域の小中学校を統合した「平成の市政」にとり、「市の単位のエントリ」を認める選抜があればよい。「市選抜」から「県選抜」で、春選抜の高校野球は改革するべきであろう。富山選抜のメンバーでも、富山県選抜であれば、納得のゆく県民力のコンペとなる。個々の学校の努力の限界と消耗は激しい。

県立制度の高校でも、地域全体でみれば、小中高の12年間の一貫、保育を含めると18年間、魚津市なら市民一貫教育がなされている。平成の大合併による市政を地域の基層社会に育てるには、別の工夫がいる。このあたり、県庁幹部から転出した市長さんには、新たな創意がいる。それは、教育行政を総合行政がラッピングする仕掛けである。保育から大学進学・就職、さらには生涯学習を大学院修士まで、市政としてラッピングする視座である。県立であるが、市が支える工夫をしないと、魚津高校、氷見高校、砺波高校、じわりじわり弱体化する。市の首長が、市の高校教育、中学教育、小学校教育には遠慮があり、中学、小学、幼稚園、保育所は、市立が可能というのは、地域創成の妨げになっている。国立大学を含め、富山型の地域創成には、独自のサブシステムが必要である。富山大学の敷地内に、富山市立保育所があっても当然である。特に、杉谷地区には要るはずだ。もしあれば、なぜ、富山大学や、富山県立大学に付属高校がないのか?

長年、県教育界には、隠れたボスキャラが君臨している。その責任は、県知事ではない。それは、過去の話である。

 

 


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富山県産材の利活用の出口なき討論

2017年07月26日 | Weblog

きちんとした指導者から学ぶことが、求められる。調査の結果、アルスホームの原野省三さんが、知識、情報、感性、すべてに優れている。まず、顧客を加賀の経済成長の地域に求めている。これは、アリタの在田吉保社長も同じである。資源は富山というか、飛騨にある。市場は、加賀にある。福井は、苦戦という経験値がある。

こうした越中の最高人材は、富山大学経済学部の経営学科にお招きし、「経営学の現場」という講義を担当して戴いている。ごめんなさいね。富山県産材の利活用を議論する人たちの頭脳の収縮には、おつきあいいたしませんので。

頭脳は、脳梗塞により収縮する。県産材という、柱や板にした商品は、実は脳の梗塞した部位にあたる。閉塞された欠陥の塊、死んだ細胞の村ということになる。世界の国際林業学に全く背を向けている。国際林業学の本場は、カナダ・北米地域、北欧地域、それに中国の九三学社・林業大学である。標準語は、英語である。英語でホーム・ページを見るならば、そこに通貨の世界にあるIMFのような、全人類的なナレッジワーカーの世界が出来上がっている。日本の林業学は、官界・学会・政党・業界人・・・全て標準規格以下である。

唯一の例外が、住友林業という昔は富山になじみの深い企業、今は、住友林業には、富山人で目立った人材はいない。別に富山人でなくてもよい。もう、お寺の過去帳を探し、富山人の親戚探しを止めませんか。仮に、富山大学の教授陣から、加賀の出身者を除くと、どんなことになりますか。富山人の閉鎖性とは、国際標準規格から、特にナレッジワーカーのなかで起きている現象なのです。富山湾岸、港町の社会主義運動の名残りだけでなく、地元の富山人の国際化の遅れが、TOEFLの受験会場なし、という富山の現状を物語っているのです。どうか、北日本新聞社さん、TOEFLの受験会場に手を挙げて下さい。TOEICは、県立大学で受験できますが、県立大では、TOEIC受験指導はしていないので、TOEIC対応の日本中枢300社へ就職する道は、最初から閉ざされています。つまり、材木を論じるまえに、人材の育成から考えるべきです。その意味で、大師匠である原野省三さんから学びませんか。長老の人材育成法には、「論語」の深い理解が隠されています。ゴルフ三昧で大事な時期に脳梗塞になったHという大銀行の方とは、全く違います。学歴は、高岡高校卒のみ。


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「加越同舟」「呉越同祖」と行こうね。

2017年07月26日 | Weblog

加は、加賀。越は、越中。不勉強なので、越前、越中、越後の間に、加賀が割り込んでのは、近世に加賀が発達したためかと推察に止めておく。古代は、越前と越後の間の越中が、日本海側の中核地域であった。特に伏木港は、重要な港であった。明治期に確立した海図、税関の制度では、伏木は特別な港で、国際航路を支えていた。英語の海図で、FUSHIKIは検索できる。気象も、伏木の天候が検索される。まして、税関は、大阪税関の管轄下にある。伏木税関は、とても伝統のある官署である。明治期に大いに栄えた。

加賀が大きくなったのは、武士というナレッジワーカーが、金沢の城下に集められたからである。加賀の国力は、越中の統治によるものである。大正期から、富山にはコミンテルン史観が流布しはじめる。世界を資産階級と勤労階級に二分し、その二大階級の闘争により、歴史が進化するという歴史哲学である。いまや国家的にこの哲学を信奉しているのは、北朝鮮労働党だけである。中国、東欧、キューバもこれを棄てた。残されているのは、富山湾岸の港町を結ぶ越中社会主義運動である。旧制富山高校は、不幸にして、越中湾岸の港町をつなぐナレッジワーカーの社会福祉の活動と重なり、金沢の第四高等学校との、疑似的な階級闘争にのめり込んでいく。

その結果、「加越」は、別である。万葉集の国である越中、万葉集に出てこない加賀。古代史が持ち出され、本家の争いが生じる。近代、現代、双方の有識者が、歴史と文化の「加越戦争」と行うようになった。これに、「呉東呉西戦争」が加わる。高岡人と魚津人との肌合いの違いは、極めて厳しい。相互に皮膚感覚で、違和感を隠さない。これが、新聞の世界にも波及し、呉東が北日本新聞の縄張り、呉西が読売新聞と富山新聞の縄張りとなる。

2017年の石川県・富山県、「加越異舟」と「呉東呉西戦争」は、硬直的に出来上がった社会構造となった。これを解消するのが、地域創成であるのに、読者・視聴者の意識の固定化、硬直化をメディアが扇動している。「加越同舟」「呉越同祖」と行こうね!特に、改憲運動では、「加越同舟」「呉越同祖」が基本だ。呉東派の北日本新聞は、富山湾岸の港町を結ぶ越中社会主義運動であり、護憲運動の基盤である。この戦争は、憲法問題に集約される。


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北京がIMF本部となる可能性

2017年07月25日 | Weblog

報道によると、 国際通貨基金(IMF)のラガルド専務理事は24日、中国をはじめ新興国の成長トレンドが今後も継続し、IMFの議決権構造に反映されれば、今後10年で北京がIMF本部となる可能性があるとの考えを示した。世界開発センターでのイベントで述べた、という。

アメリカが、今後10年、世界経済にしめるボリュームで第一位の座を中国に明け渡し、IMFの本部は、北京に置かれるという予測は、経済指標を偏見なく分析すると出てくる合理的な可能性である。期待可能性ではない。それだけ、アメリカの経済の成長余地が狭いということである。

僕のこのブログでも、中国よりにシフトを変え、最近は、ラガルド専務理事のコメントよりも先に、習近平政権の成果を先行評価している。世界経済の指標で、誰も恣意的に操作できないのが、税関の輸出入の統計である。イギリスが制度として確立した税関統計の公平性、速報性は、世界経済を読み解く基本資料である。そこからは、中国大陸経済が単体でアメリカを凌ぐことになるのは、簡単に読み解くことができる。

中国は、時間を見方につけている。アメリカは、時間を制約条件としている。政治制度による国策の意思決定の速度差である。中国共産党の中央書記処の課題別の専門家のプロの眼が、そのまま総書記の意思決定に繋がる。経営組織として、時間を味方にしていると思う。

この判断は、次年度、TMAが企画する寄付講義に取り込んで、富山に企業の中国市場での経営戦略を検証したいと思う。アメリカは、アジアから後退する。日本の立ち位置は、より複雑化する。企業内でも、親アメリカ派、親中国派のベクトルの差異がでてくる。これは、簡単な解決の仕方がある。中国市場に特化した分社と、アメリカ市場に特化した分社との2元体制である。本社は、持ち株会社、総社として管理に専念する。これにすでに成功している企業が、富山はにある。


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政治評論のいくつかのパターン

2017年07月25日 | Weblog

経営評論は、基本、成功事例か、大失敗の事例か、この二つしかない。いわゆる他山の石である。しかし、そこには歪みが生じる。経営に関わる多元的な要因にたいし、多元的な複雑要因の一局面に焦点があたりすぎになる。ただ、評論の欠点は、読者である経営人により、他社の事例が一般化できるかどうか、判断者が基本、優れているから救われる。

ところが、政治評論となると、サイエンスとして成立しないことを大前提にしているから、言いたい放題の世界である。政治は、科学ではない。もともと、詭弁でも通用すれば正論となる世界だ。それを科学として、政治をサイエンスとする努力をした人物がいる。それは、中国の古代の管子である。

孔子は、管子から遅れて誕生する。管子は、富国強兵を自然調和させるように無理なく民衆を誘導する。だから、斉の国には、アジア最古の国家学(稷下の学)が生まれる。孔子もそこから多くを学んでいる。中国共産党の強みは、管子という古典的な政治学の鏡をもっているからである。孔子は、弟子たちに志を語らせたあと、詩歌・歌謡の音楽世界を楽しむことを喜びとする哲学を語る。管子が政治から逃れず、民衆が衣食たりて礼節を知るというサイエンスに殉じた。孔子は、管子の生前の業績には、ほとんど1歩も近寄れなかった。孔子は、成功事例の人ではない。だが、孔子は弟子を愛し、弟子に敬愛された。つまり、教育者の鏡だといってよい。だから、学派の祖師として、空前の原理者となれた。

孔子は、倹約質素であれ、利を見て義を思え、郷党として生きよ、この3点を重んじた。政治をサイエンスではなく、政治倫理に置き替え、個々人の行動指針に置き替えた。ここから人物論が、政治評論の基本となる。確かに、これも真理ではある。しかし、他方で、無為無策の楽生を社会に染み渡らせる老荘思想に比べると、管子も、孔子も面倒くさい。日本の場合も、中国の場合も、無為無策の楽生を望めば、日常がそうできる人々が多い。政治は面倒くさい、と感じるのが正常な人間感覚である。僕も、北朝鮮に代表されるコミンテルン史観がなければ、無為無策の楽生に生きたい。安倍首相も、そうであろう。孔子から言わせると、益友には恵まれていない。

 


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右肩下がりが新常態:安倍政権の硝煙が燃焼完了

2017年07月24日 | Weblog

TMA講師の責任議論;講師代表の中村の専門は、「総合科学」です。基本は、歴史科学・歴史哲学にあります。形而上学のパラダイム変遷が、歴史の時代ブロックとブロックの繋ぎ目に現れます。残念ですが、安倍政権は、「右肩上がりが常態」の時代幻想の最後の政権となりました。ほぼ、そのように断定しましょう。デフレ脱却とは、夢をもう一度という右肩上がりの成長戦略信仰のパラダイムを意味します。

メディア、国会答弁のまずさは、安倍人気の崩落の表面現象です。それ、安倍政権の衰退原因とみるのは、皮相なひとだけに通じる現象論です。日本の「デフレ構造」は、人口減少、特に労働力人口減と、そのリタイア―組が消滅するまでの「消費生活の縮小」に照応した自然な構造要因です。国家成長戦略にとり、福島原発などの原発負債は、デフレ構造の「右肩下がりが新常態」という歴史の反動現象のひとつです。

中国共産党は、英明にも、「新常態」への意識転換を図りました。ここから学ぶべきことは、極めて多いのです。高度成長の果実を貧困農村に国家公共投資としてつぎ込み、次の「新常態」のなかで更なる貧困化する農村・農民・農業危機の要因を取り除きました。一党支配ですから、相互に政策効果を打ち消すことがありません。EU、特にドイツ、フランスと中国共産党は、すでに「新常態」が基本であるという「総合科学」の分析結果を知っています。オバマ政権もそれを知っていました。だから、オバマケアーに全力を傾けました。

日本の大衆社会は、世界第一の嗅覚、触覚、歴史変動の感性をもっています。いまTV番組では、知識刺激型と娯楽性を交え、おバカさんをか抱え込む、愛すべきピエロとする「新常態」へ移行しています。日本TVは、敏感なセンサーをもっています。

成長率が鈍化し、場合によれば、マイナス成長に転じても、簡単に悲観しない「新常態」になれる必要があります。つまり、大雑把なパンであれば良いという、数量効果だけの生産高で喜ぶ時代から、総量は減少しても、質が大きく向上している喜びや快感が生まれてきています。ちょうど、江戸時代の町人文化のような感性の時代です。「右肩下がり」を楽しむ、だから安倍さんの力みが、皆を息苦しくなってきたのです。ごめんなさい、安倍さん、あんたやっぱり古いわ。たたく野党は、おバカキャラとして、娯楽鑑賞用に必要です。おバカな政治家女子のおかげで、愚妻はますます光る存在になります。

少量生産、多品種の品ぞろえ、納得できる価格帯、負担できる価格帯、きめ細かな質感が向上するのが嬉しい。これは右肩さがりのデフレでも実現できる安定社会ですね。

 

 


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日本民族は、すでに人口減少に結果合理性を見出してる

2017年07月23日 | Weblog

営利活動は、あるいみ誰でもできる。マネジメントは、学習力の塊がないとできない。教育界では、企業すなわち営利を目的とする世界、それは企業の従事するひとの自己責任の世界だとする理解が大勢を占めている。さらに悪いことに、学力の低い層は、経営幹部になる可能性がないから、マネジメント学の教育は不要であるという見解である。

ところが、学力の高低に関係なく、企業内では専門性の高い業務の分業と協業から成り立つから、どの部署でも、マネジメントのワークの連鎖の一つの輪を構成していることが、教育界のひとたちには殆ど分かっていない。管理する者は、マナジメントの責任者、管理されるものは、単なる定型の時間労働者という二分法が常識化している。このような思想にも関わらず、日本企業が比較優位の立てるのは、技術のおける産学協同の成果を多元的に利用できるエンジニア文化があるためだ。とはいえ、これだけでは、日本の電機産業が、具体的にはシャープ、松下電器、三洋電機、東芝などの一連の崩壊は説明できない。また、日産が外国人経営者の管理で立ち直った理由は説明できない。とはいえ、以上は全て過去形の話である。

今後、マネジメントは、人口頭脳とよばれるAIを扱う頭脳設計に集約されるので、プログラミングの知識がない文系人間は、新技術エンジニアと人口頭脳の設計者とその情報管理者に席を譲ることになる。ファクトリーでは、ロボットの作業を管理する電子回路が理解できる人がすでに主役となっている。理系のエンジニアは賢いから、年少時代からロボコンを推進してきた。プログラマーの育成にも、取り組んできた。また、日本企業のビジネス用語は、英語対応になるから英語教育の早期化を主張してきた。

県政、市政が、人口対策を基本におくと、地域再生は必ず失敗する。何が求められるのか。それは、生産性の革命につきる。富山県の場合、製薬業とその関連産業、アルミなどの金属加工業の県全体のロジスティックス・マネジメントをAIで設計し直すことである。

 

 


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