習近平が、もうすぐ失脚するという観測が、SNSで一部の論客からささやかれている。大事なことは、中国共産党の党紀にふくまれる大きなトレンドである。つまり、中国共産党は、毛沢東とか、周恩来とか、リーダーの個人的なカリスマ性で統治する「人治主義」の政治と、法規を精密に制度化し、法規のうえの国家主席をもふくめ「法治主義」の政治と進む、これら二つの方向軸のなかで、波動している。時に、「人治主義」が台頭し、時に、「法治主義」が台頭する。党総書記の独裁制も、「法治」による制度化か、たまたまの幹部間の申し合わせ、内々の取り決めなのか、課題により決定権と決定過程が、独断か、合議か、委嘱か、複雑に分かれる。ごく最近は、経済、金融、財政については、国務院総理に委嘱する毛沢東時代の慣行に回帰している。そして、習近平を「聖人」としてあがめ、彼の形式統治により、彼の晩年の政治評価につき、個々の政策評価の是非の議論を超越させる「面従腹背」型に変形し、見かけ「人治」、実体は、各部門の長が「法治」する仕組みに移行してきた。習近平は、「法治」ロジックで、党員を監視する党内秘密警察を駆使し、党内派閥を相互に競う居合わせることで、どの派閥も、習近平の「人治」を認めさせる方向に向かっている。これを国務院からみれば、習近平の形式的な国家元首化となり、党組織からみれば、毛沢東に継ぐ、習近平の形式「人治」、聖人化を促すことになる。失政は、某の責任。成功は、習近平の指導の成果という形で、党の総書記が、全ての政策の提言から実施の可否には責任をおわない「人治」の機関となり、「副」職に立案から実施の成否を競わせる派閥超越型に変形してきたと分析するべきと思う。
富山市立図書館に「山田孝雄文庫」がある。文学博士 山田孝雄(よしお)は、日本語の文法学的な研究で重要な学的業績をあげられ、昭和10年代には、日本的精神、とりわけ日本の神道思想史にアカデミックな業績を残されている。ただし、そのような立場から、貴族院議員の任じられたことから、敗戦後、公職追放の処分をうけている。写真は、著書「神道思想史」の表紙、戦時中の粗悪な紙のため、補修してあるが、本文はまだ読める。国会図書館には、点字本もあり、インターネット利用で閲覧できる。
さて、日本神道は、外国、つまりチャイナの儒学の影響を引き算すると、純粋の「大和言葉」による「神道」の文献からの道筋は、とても「薄い」と指摘されている。山田孝雄博士は、漢学、シノロジーに詳しく、漢文を深く読みこなされているので、その指摘は虚偽ではない。問題は、「神道思想史」に付録とされる「敬神」において、「神」は天皇だけでなく、日露戦争で活躍した乃木将軍を含めておられるので、論旨に乱れがあると論難されてもしかたがない。ただ、「神」の崇拝することで、見返りと期待する非を諌め、個々人は世俗になかで穢れをみにつけるから、神前で「禊」(みそぎ)するところに「神道」の「敬神」行為の根本意義をみておられる。
さらに、天皇は「祭祀」者であるべきで、「政事」者であってはならない、という思想は、現憲法の象徴天皇制を構想し、敗戦後の日本のあり方に深い影響を政府機構に与えていることをしりうる。貴族院議員としての著作である。
マイケル・ポラニーは、マルクス主義から離脱し、かつ著名な物理化学者でありながら、「唯物思想」を脱却した哲学者である。もう半世紀以上も昔の著作であるが、個人としての思索が、心理学主義に取り込まれて、各人各様の孤立分散に雲散る知識社会への解体に警戒心をもちながら、新たな人類が共用でできる知識体系の再構築をめざす試みを秘めている。長尾史郎さんの訳は、部分的に書き写し、精密に再検討したが、素晴らしい。それでも、英文原著と対照してみると、原作の理解は深まる。
いきなり、下俗な話になるが、マスメディアも、新しいメディアも、大衆化という時代要請に溺れ、主観的な知識を語る自由に溺れている。マイケル・ポラニーは、自分の使う言葉の精選を基礎に、自分から考える個人のコトバの知識化の道筋を厳密に定義する。日本人100人に1人、その狭いが精選された知識水準の世界では、この原著も、訳本も、新古典といえるだろう。
中国共産主義のもとで、階級、階層などの家産による属性から、人民を分断した階級社会論は挫折した。個人は、階級や階層の属性から分類されてきた。1980年ころからは、都市と農村という経済地理の属性のもと、さらに性別の分類のもと、中国共産主義の思想価値を証明する「生産力主義」のもと、安価な知識労働と農民工という市場競争に個々人んが晒されてきた。そのため、個々人の尊厳を取り戻すために、心理学からの個性の理解をもとめる無言の抵抗が、中国共産主義を奉る支配階級に向けられている。
それに対し、日本では、規律化された工場型の生産労働のウエイトが低下し、多様な人々の自己実現の要求を充たす欲望充足が市場をけん引しているため、心理学主義による多様性が、社会通念として体制化されてきた。その波は、政治世界においても、中央集権型の官僚主義システムを敵とする「集権の解体」が、保守派でも、中道派でも、共産主義者の間でも、心理学主義による個人と個人との「相性」など、「人間関係の疎外と緊密」による国民国家の分断が、複雑多元な亀裂として出現した。例えば、皇室に対しても、A宮家をめぐる陰湿なSNS投稿など、多くの弊害が生まれてきた。おそらく、人間社会は極限の「共感構造の細分化」に進む兆しを見せている。近代の「国民国家」という括りつけの桶のタガが外れ、「共感構造」が中央集権型の官僚主義システムを「リセット」する動きとして、日本の民衆の動態は、個への分解へと進みつつある。ある意味、無政府主義の勝利でもある。ただし、極限の「孤」を賞賛する思想では、生活文系の社会システムまで崩壊させてしまう。どこかで、アダム・スミスのいう自然の「共感」の連鎖が求められてくる。これ以上、文字数の長い議論はできないが、日本の良識は、どこかで「集合論」による類型化から、「圏論」論という数理科学の思考により、所得階層という属性からも、心理学主義による「おひとり様」志向をも、すべて包摂できるプログラム志向が求められる。
そのそも、日本国では、4000万から6000万が、第1次産業、農業生産を基幹とする産業社会として安定均衡していた。明治時代から、しだいに工業化が進み、第3次産業が主体になり、現在は、第3次プラスの産業が収益が循環するけん引力となる社会へと移行してきた。その結果、首都圏への集中がおこり、さらに、首都圏の外延化のなかで、第1次産業を主とする収益の循環構造を支える基幹家族群と、その他の中、下の核家族群との分解がおこる。したがって、住民票をベースにして、人口を論ずるならば、他府県と県境を接する人口減だけがクローズアップされる。もし、基幹家族群と中下層に核家族群とに分けて、人口実体を階層別に区分して考えるなら、事態の意味の評価は分かれてくる。すなわち、基幹家族群でも、激しい人口減少が起きているのか、旧社会における小作農の中下層の核家族化、空き家、耕作放棄が顕著なのか、家族の属性というデータ解析が求められる。
基幹家族群が所有する耕地、宅地の土地面積と、中下層の核家族が所有する土地面積とを階層区分し、全ての階層で人口減が進行しているのか、減少の速度の違いも明らかにできる。つまり、新聞の公開されたデータは、社会科学としては、使いものになりにくい、議論の入り口だといえる。富裕な家族と、下層の核家族の、若い女性の首都圏への人口流失とは、意味が違う。
TMA講師代表:個人研究 富山新聞文化センターにおいて、富山藩の藩校、広徳館の校正版の「論語集注」を読んでいる。「泰伯篇」の第3章に、「而今而後」という言葉が出てくる。これをめぐる読解を考えてみよう。
1.「今よりして後(のち)」と訓読するのが、宇野哲人『論語新釈」(講談社学術文庫)。つまり、最初の「而」の文字は、読まない、という理解である。
2.「而今而後」(じこんじご)と熟語として読むのが、宮崎市定「現代語訳論語」(岩波現代文庫)。
これを比較すると、まずは、宇野哲人の訓読が正解である。
理由は、中国の学者が、「従今往后」(今より以後)と注釈しているからである(金良年「論語訳注」上海古籍出版社)。
「従今以後」と現代中国語に訳するのが、楊伯峻「論語訳注」である。日本の学者も、中国の学者の現代中国語訳を参照するべきである。
さて、問題にされるのは、土田健次郎「論語集注」(平凡社東洋文庫)である。宇野哲人の訓読を採用せず、「而今而後」を熟語としてそのままに音読している。これは、「論語集注」の日本における先行研究である宇野哲人の訳業を無視することになる。
これは、どちらが誤りかという問題ではなく、どちらが訓読の原則に忠実なのか?どちらが、初学者により懇切かという問題である。学術者は、真に究めると、実は初学者に最も分かりやすい説明ができるのだ。
この点、広徳館の杏立は、清朝考証学者である王引之の「経伝釈詞」を典拠として、最初の「而」を「乃ち」と同義語として訓じ、「すなわち今而後」と読んでいる。当時の最新の学問の成果を取り込もうとする努力のあとをみることができる。正解は、「すなわち今よりして後(のち)」と訓読するのが、初学者に最も親切である。2番目の「而」は、連動式のA⇒Bの接続を意味する。このように、「而」のような虚辞、あるいは助辞の読みが漢語の文法と整合しないと、無理な訓読となる、なお、「而今而後」は、熟語とはいえなくもないが、「而今」と「而後」との連接の関係の説明が棚上げにされる。それには、漢語の五結合のロジックからの解明がいる。漢語の文字と文字の、「主述」「述補」「修飾・被修飾」「同格」「動目」の五つの結合関係のうち、もし「同格」として分析できたら、「而今」と「而後」とは熟語として結合できる。しかし、王引之は、最初の「而」は前文を受けて「乃ち」と同義語とする。だから、「今而後」の3文字が熟語だと読み解く。あとの「而」を「自」と同義と解釈する。
ここまで考えてみて、西田太一郎編「角川新字源」の付録「助字解説」を調べる。「而來」「而後」は、以来、以後と同じとある。だから、杏立の学問は、やはり冴えていたのである。「自今」と「而後」の「而」は、同じ文字であるが、文の流れのなかで、前の文をうける最初の「而」と、「今」と「後」を連動式に繋ぐ「而」とは、全く異なる文法的な働きというわけですね。2024.11.25再構成
人文科学は、科学ではない。主観の正統を競う宗教の教義の変形にすぎない。人文科学の根底は、まさしく言語の科学化にある。ところが、現代言語学の開祖であるチョムスキーの生成文法の理解は、日本では、訳者も、解説者も、読者も、批評家も、追随者も、批判者も、すべて「心理学という新しい宗教」の主義から、脱色できていない。言語の本質は、交換の記号である。記号論理学として、科学の大道にのせなくてはならない。この原点をおさえておかないと、新しい交換の記号によりコミュニケーションを実現するデジタルのプログラミング言語、さらに生成AIといわれるコンピューターが発話者になる時代の要請にこたえることができない。
また、心理学も宗教性を脱色する過程で、脳科学と結合したが、ここでも言語の科学化、つまり数理の科学化というフィールドにでてきた。他方、数学も実用性と重んじるなら、コンピューターのプログラミングにおける記号論理学のさらなる発展が求められる。そこでは、集合論からカテゴリーセオリーをいかに組み込むのかという課題に遭遇している。
いまは、まずは、言語学の心理学主義を克服し、言語学を数理科学ベースに転換することが求められることを強調しておきたい。
DXつまり、デジタル・トランンスフォメションと、いわゆるオールドメディアが、敵対的な競合の関係にはまったのは、広告媒体として、大企業がオールドメディアに不信をいだき、視聴の状態がリアルタイムで、実数で証明できるSNS媒体の効果を認めたからである。テレビの視聴率、新聞の発行部数数が、広告主から完全な信頼を得ていないからである。次に、航空会社や新幹線など、SNSで予約するシステムが、すでに社内システムとなっている場合、事業体そのものがSNSのなかに組み込まれているからである。さらに、テレビ番組もSNSで、視聴者の嗜好性をくみ取り番組企画に組み入れ、さらに、再放送をSNSで流すことで、TV番組に見直しの便宜を提供している。大相撲を夜間に、取り組みを動画でみれるNHKの仕組みは、よく利用している。このように考えると、もっともSNSに背を向けているのは、読売新聞の論説を担当する編集長であることが分かる。世界で最高の良識ある言論人という自負に陶酔し、SNSにみられる大衆社会の心理動態が見えないから、SNSの玉石混交の情報のうち、疑似情報の非を咎めることに熱中している。オールドな新聞言論人は、彼らの教養も、すでに陳腐になっていることに気がつかない。他方、SNSの世界で、代表的な論客、青山繁春参議院議員、高橋洋一教授は、信奉者が多いが、僕の専門とする中国分析では、習近平失脚とか、中国経済崩壊などの虚報が多い。読売新聞の論説も、青山繁春チャンネルも、正しい分析と、誤った主観と、それぞれ厳しく分別している。つまり、情報には、資源もあるが、ゴミをある。学習歴の高い日本に一般大衆は、情報のゴミ箱から、資源と利用するべきものと、消去するものとを正しく分別できる能力がある。SNSは営利目的だ、と非難する権限は、営利企業の読売新聞社にはない。
大学は、新設された年度は、ご祝儀相場というか初年度は、入学希望者が集まる。そして、第二年度は、最低合格点の最低偏差値が受験界で推計値が公開され、かつ、初年度の入学者が、SNSで新設大学の内情を発信しはじめるから、ますます初年度の入学者よりレベルがさがる。少子化のお陰で、毎年、毎年、ワンランク上の大学しの進学が容易になる。福井県立大学の恐竜学部は、最初は18歳の嗜好にマッチするが、実際の就活がはじまると、「人手不足」の補充に苦しむ三流以下の企業の餌食となる。それが、新設大学、学部の宿命である。
ここでは、詳しく紹介しないが、2060年の富山県の総人口委が激減すると、2024年の現在から統計推論することは、その予測事態にもリスクがある。過剰な危機意識を扇動し、県立高校の総枠の削減とイメージをかぶせる衝撃爆弾の危険性がある。写真にYKKのファスナーを借りたが、人口減と県民総生産との相関係数に分析が全く抜けている。現在、YKKのファスナーの完成品は、ほとんど国内市場むけに国内では生産されていない。ファスナーの製造機械を黒部市で生産している。その機械は、海外に輸出されるが、買い方は、YKKの寺社の海外法人企業である。この点は特殊だが、海外法人から機械代金相当額は、輸出代金として富山県に還流し、富山兼の県民総生産額に反映されてくる。同じことは、不二越の油圧式ロボットでも説明できる。すなわち、生産労働人口が2024年まで減少したにもかくかわらず、県民総生産額は減少していないのである。つまり、生産労働人口の減少を克服する労働生産性が行われていることを意味する。その結果、勤労者の可処分所得も日本一である。さらに、退職した高齢者の貯蓄額も日本の最高水準にある。さて、ここからの人口減少は、この高齢者が人数はへるが、家族に残していく家産としての預金は、次世代に継承され、生産財を減価償却し、設備更新する費用となるので、住宅も自家用車も、その他、資本財が、劇的に減少しないので、次世代の継承人口が貧困化していくこと、さらに次の世代の継承人口を経済的な事情で激減させる要因にはならない。他方、継承される生業が、労働生産性が低く、肉体的な負担、長時間労働の場合、継承者が消滅する。たとえば、売薬の個人営業は衰退する。そこで、県民総生産を支える産業別に課題をまとめめ分析する「集合論」による色分けと、数学思考によるカテゴリーセオリーにより、どの産業が、省力と高収益を実現するのか、その未来への「矢」を精査する必要がある。しかし、現在の日本の総合研究所、日本総研、ニッセイ基礎研では、カテゴリーセオリーを駆使した生成AIのレベルに到達していない。ファスナーの片側の人口減だけをみて、県民総生産に内訳との相関関係をカテゴリーセオリーで理解する術をもたない。
台湾は、中華民国という国号をもつ。大陸の中国共産党の軍隊が、台湾を包囲し、占領しようとするのは、1949年の内戦、解放戦争の延長である。中国共産党の党の軍隊が、台湾を占領するなら、私党の軍政府が樹立されることになる。台湾の中華民国政府から、中国共産党軍の軍政に「平和的に移行する」道筋を否定し、暴力的に政権を奪うことを意味している。1949年の解放戦争には、土地制度改革、地主制度の廃止という、曲がりなりにも人民主権の正義の戦争という大義名分があったが、中華民国(台湾)を消滅させる正義は、どこに求めるのか。台湾の内部に、中国共産党の台湾統治を願望する民衆世論がない限り、人民解放戦争という論理は使えない。
これらの制裁には、ロシアの主要銀行の資産凍結、国際決済ネットワークSWIFTからの排除、ハイテク関連の輸出停止などが含まれます。これにより、ロシアの経済活動や国際金融取引に大きな影響が出ています。とはいえ、ロシア経済の最終的な破滅はありません。国際通貨基金をみずから脱退しないかぎりは。
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倭人を卑しむために、わざわざ倭の文字から人偏を削除したのだという。そもそも「漢」という王朝名が入ることが異例である。封泥の専門家は、「漢」という印の発行主体の名義をわざわざ刻印した官印は、これ以外にないそうだ。「奴国王印」とあるのが、普通の形式である。「漢委」というのは、「漢王朝が委ねた」という意味である。「委質」という人質を預かったうえで、権限を与えるという法律の専門用語である。どうか、日本史の専門家は、考え直して欲しいものだ。紐を通す蛇紐は、「詩経」の委蛇の句に由来する。このことも誰も、きちんと説明していない。どうするつもりですか?