富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「初任給」で判断するよりも、企業内での教育システムの方が大事。

2015年09月28日 | Weblog

OJT、オン・ザ・ジョブ・トレーニングといえば聞こえがいいが、職場で鍛えるという意味に過ぎない企業が多い。企業内での研修を怠る企業に、20歳台で嵌ると、生涯を失う。だから、経営のトップの「経営学」のクオリティを確かめることである。説明会などで、人事課の社員が応対してくれるが、企業のトップが社員研修に割いている育成の施策をきちんと質問するとよい。

若手社員を消耗品に考えているか、人材を企業の最大の資源と考え、大事にしているか、研修期間が短い企業、グレードに応じた資格取得など、大企業の場合は、定型化、儀式化しているが、経験的にコースが設定されている。

大学院の教育では、4年制大学の卒業後の第一年度で、自分の修士論文の骨格を自己発案できない院生は、修士課程を資格として修了させるだけの教育にとどめる。「大器」か、「小器」か、大卒1年目で、その「器」の大小が見極められることを知っておいた方がよい。中小企業の場合、トップとの接点があるから、どういう評価がされたか、見えやすい。大企業の場合、人材は記号化され、無理に数値化され、デジタル記号に整理される。そこから、初任の職場が決まる。

運命は、初任の職場、配属部署での適合性である。「初任給」が安いうえに、さらに、意味があるのか、無いのか分からない、トップの目が届かない柱の陰にある「配属部署」である。「部長」がその企業内の伸び筋ならば、運が良い。反対は、書くまでもない。

「部長」の絶対性が極端に確立している企業は、大企業でも、中小企業でも、「部長」の器の指揮が、マネジメント科学に適合しているかどうか、誰も科学検証していない。「前任者」の残した実績から、予算を増やし、成果を前年度を基準の何%増やせたかどうか、企業内の官僚として落ち度なく、職責を果たすだけのことは、マネジメント科学では、問題にならないレベルの「サービス労働者」に過ぎない。「部長」任せの企業と、トップの牽引力の強い企業とは、新人の伸びが違う。

市場、顧客、競争企業、競合商品などの「競争戦略のもとで、業界内でのシェア―率」を高めるだけに追われる。とても、ゴールドラット理論など勉強する暇がない。だから、企業の自己資本利益率の最大化よりも、経費削減の競争に人を駆り立てる。つまり、就活生は、大事なのは「社風」を短時間で見極めることである。伸びしろの少ない企業には、敗戦処理の暗い前途がまっている。就活生に厳しくいうと、類は類を呼ぶ、という方程式が当てはまる。経費削減のネタした思いつかない人は、やはり、同類の部長に仕える運命が待っているということだ。マネジメントの雑誌や塾で、経営者の人格が資本金の大きさよりも大事であり、自分を磨いてくれる人だと気づくことである。磨かれたくないひとは、経費節減しかできない部長にしか出会えない。

富山大学に赴任し、梅原隆章先生の配下で教えられたこと、歴史学は近未来学であり、総合科学である、この薫陶は今でも生きてている。よき師に巡り合うための修行の場と考えたら、初任給が問題ではなく、就職とは、よき師匠・プロ職業人との出会いだといえる。

 


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富山県は、国勢調査にインタネット回答率、全国2位。甲子園の本塁打数、全国最低。

2015年09月26日 | Weblog

インターネット利用による国勢調査の回答率で、富山県は全国2位となった。報道によると、<総務省は25日、紙の調査票による調査に先行して、9月10日から20日まで実施したオンラインでの国勢調査の実施状況について報告した。 期間中のインターネット回答数は1917万5769件で、前回の国勢調査の世帯数をもとに試算すると、インターネット回答率は36.9%(全国平均)。このうち、スマートフォンからの回答割合は12.8%。 都道府県別での回答率では、滋賀県の48.4%が最も高く、富山県の45.7%、岐阜県の45.4%、愛知県の45.1%、奈良県の45.0%など、17県で4割を超えた。一方、東京都は26.0%にとどまったほか、沖縄が22.7%と最も低かった。>

これが高校野球となると、春夏の甲子園での本塁打数では、富山県は全国最下位、清原1人が打った13本よりも少ないそうだ。あまりにひどいので、県知事が見かねて、県の費用で特別なコーチを採用し、指導したが、成果なく、1回戦での敗退が続いている。投手も育たないし、本塁打の打てる強打者も育っていない。

それでは、と、改めて富山県人に聞くと、IT能力と野球能力とどちらか一方を選べ、となると、野球を選ぶ人はほとんどいない。IT能力が伴わないと、とても恥ずかしいという気風がある。野球は、TVでみるものという参加型ではない、観客型の参加が選ばれる。生徒の間でも、野球部が尊敬される風潮もない。甲子園は、高校の3年間に一過性の遊戯であるという割り切りが強い。

では、富山の高校生の目的変数は何か?これは、優良企業への正社員としての入社である。高卒の正社員としての採用率は、全国第一位が続いている。甲子園で優勝という夢よりも、人生の最終設計図から逆算した「進路」指導に対し、高校教員も、3世代同居・近住の祖父母・父母の熱心である。IT情報処理の教育は、小学校から高校まで熱心に行われている。

 

 

 


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「マネジメント科学」を共通教養の核に、文学部・教員養成は私立大学へ

2015年09月25日 | Weblog

 まず、何のための国立大学改革なのか?それは、アメリカ企業、中国企業、ドイツ企業と協調しながら、究極、日本という新型国民国家が、地球上で生き延びるためである。そのためには、日本国の国家戦略を実現する手段として、大学の国際競争戦略において、トップの座を目指すことである。それは、最終需要が「軍事消費」となる防衛省の役割よりも、文部科学省の役割は大きい。まず、国立大学は4年生の学部を廃止し、大学院の修士を標準とする6年制に完全移行することである。研究課題にも、市場戦略があり、同時に、当面は予測できない基礎研究の分野でも、基礎研究のタネは存続するべきであろう。

 中国は、理工系大学院を基本、国家予算による中国科学院、中国工程院などの国家シンクタンクをコアに編成しており、その強みがいずれ顕在化してくるであろう。国際的な特許数で、日本の大学院は立ち遅れている。アメリカは、民間企業の研究所の役割が大きく、日本がそれを凌ぐには、民間企業の研究所と国立の大学院との一体運用で対抗するほかない。中国とは、国立と国立との競争、アメリカとは、国立+民間とのコラボで対応するのが最善である。

 現在、内閣の競争戦略は、中国の台頭を念頭に、それに対抗しうる戦略を大阪大学に見出している。これは、正解である。特に、民間企業の研究所と国立の大学院との一体運用では、大阪大学は医学、薬学、工学、理学から芸術文化まで、日本国内の先端を歩んでいる。大阪大学では、まず「旧制の文学部」「経済学部」は廃止して欲しい。共通教養として、医学部から理工系のもマネジメント科学を中核におく必要がある。特に、教養は自然科学、社会科学、人文科学と総合科目というような分類よりも、マネジメント科学として統合し、経営哲学・経営理念、人間科学から統計学(多変量解析)、会計学、プログラミングなど、アメリカのMBAに対抗しうる集団的な基礎知識が求めらている。「外国語学部」は、グローバル市場戦略の拠点となりうる。学生数が、全国最大の大阪大学が範を示してほしい。

 さて、日本の中国の大学に対する強みは、私立大学が充実していることである。しかし、アメリカには大きく差をつけられている。私立大学とは、アメリカの場合、宗教法人の経営が成功している。日本の場合、早稲田、慶応が非宗教なので忘れられるが、関西では同志社と関西学院は、キリスト教をコアとしてる。国家として、次世代の育成を全て、中国共産党が大学運営の根幹を握る中国の大学の思想教育の画一性は、大学の序列化を助長し、国立大学の底辺の劣化を生み出し、グローバルな競争戦略には弱い体制となる。日本の強みは、産業技術の革新性のコアを国立大学が実現するとともに、地球上の多様な文化の価値観との間に、民間学術交流・文化交流を主体とする「日本文化の外国への染み出し」を推進するのは、私立大学の大きな役割である。国家戦略として、私立大学には民間外交、民間ならでの情報収集の能力を促し、国家からの助成資金の費用対効果を生み出すべきである。

富山県の場合、国立大学の文系学部を思い切り縮小し、私立大学の国際化を真に促進しなければならない。私立大学は、グローバルな営業戦略、市場戦略を担う文化研究、外国研究の拠点として成長させるひつようがある。金沢の大学ができていない海外戦略に道筋がある。私立大学は、6年制に転換し、海外研修を2年、正課として卒業要件に含むべきである。アメリカ、中国との競争戦略に勝つためには、日本の競争戦略というお神輿を担ぐ人材の裾野を広げ、海外からの仲間の受け入れに、一段力を入れる必要がある。

 


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日本経済の今、なにが「制約条件」なのか

2015年09月22日 | Weblog

TMA講師代表の私見:

 「日本経済新聞」が、GDPの増減率と景気動態とは、一致しないのではないか?というお粗末な記事を流していた。それは、経済学の世界では常識である。前にもこのブログで触れたが、企業内のITのソフト分野での業務改善への投資の費用対効果がGDPの基礎データとしては、除外されているからである。経営の改善は、従来のDGPの産業連関諸表からは除外されている。だから、企業収益が歴史的に最高値を記録しつつあるのに、GDPの短期のデータでは「マイナス成長」というシグナルが出てくる。これは、経済学と経営科学との隙間である。

 したがって、景気動態を知るには、GDPの指標は参考値である。最も信頼されるデータは、日銀短観である。日銀の本店、支店が、企業のトップから当面の短期の収益動向と収益見通しが、Upするか、Downするか、を聞いて、単純だが「プラスの楽観派」から「マイナスの悲観派」の対比で判断する指数である。経済学的な客観指標ではなく、マネジメント動態からの指標が最も適格である。日銀の場合、地域別の偏差、企業規模偏差を数値化して、公表している。 だから、翌日に配達される紙媒体の「日本経済新聞」の記事を待たないで、日銀がHPに公表するデータ企業や個人は、すぐに入手できる。

 さて、日本経済の今、なにが「制約条件」なのか?それは、「日本経済新聞」の分析力の劣化である。大学の4年生なみの分析水準である。「国民経済計算」という雑誌を読み込めば、きちんとした記事が書ける。それを修士、博士の学位を得て、海外経験、中国も含め、そうした記者の資質が、世界の水準から離れていることにある。

 ラグビーのW杯で、南アフリカに勝利した試合をみれば、日本のラグビー協会の「勝つためのマネジメント」のすごさが、外国人の帰化、日本人ならではの良さ、グローバル市場で耐えうるチーム作り、ヘッド・コーチなど、日本人が「国際ラグビー」の水準及んでいなかった「制約条件」を20年かけて克服していることである。その母体には、日本の一流企業が構成するトップ・リーグがある。ラグビーは名門大学からスタートしたスポーツ・文化である。年齢や体力限界で、試合に出られなかったラガーマンの多くが、所属企業の内部で、マネジメントのグローバル化に対応できているからである。 ラグビーはWithout Chineseのグローバリズムである。しかも、非アメリカンで、ブリティッシュの文化である。このあたりが、今後、日本経済のマネジメントの基本線を示唆している。中国派の中村が、Without Chineseのグローバリズムの理性と兆戦の世界を褒めるのは、実は、国際通貨基金も、同じ文脈にあるからだ。 人種、言語に関係なく、日本経済を議論すれば、「日本経済新聞」が、経済世論を形成するうえで、特に、自国や隣国の経済分析が「制約条件」であることが分かる。GDP増減と景気動態とは、基本、範疇が違う話である。


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中国経済の構造変化と制度改革

2015年09月22日 | Weblog

TAM講師代表の研究成果:

 中国経済のリアルな動態を分析するには、企業が株式市場にたいする財務会計の情報を公開していない以上、定点観測のデータから総合的に判断するほかない。その場合、1990年代に通用した李克強指数のうち、鉄道輸送貨物量の変化は2015年の段階では通用しない。貨物輸送の主役は、沿海と長江を結ぶ基幹の輸送は船舶と道路交通へと主役変化している。こうしたインフラの構造変化を織り込むと、貨物輸送用の新車販売の伸び方が新たな指数として注目される。乗用車の新車販売台数がアメリカを抜いたこともあり、乗用車の販売変化と「景気動態」とは短絡的な指数として使われるが、大衆消費社会の構造基盤があるアメリカや日本の場合と経済構造と等質には論じられない。

 中国経済が内陸化すればするほど、輸送効率は悪くなる。小平路線では、中村の提唱してきたTフォーム(沿海と長江を結ぶ基幹の輸送)のトンキロ・コストの低い、高低差の低い輸送条件に依拠していた。習近平政権では、内陸に経済開発の力点を移動したために、長江の下流から上流へ、さらに水源のある高原へと、経済拠点が移動している。これまで、人民解放軍の工兵が道路、鉄道、橋梁などの工事を担い、陸軍の一般兵士を動員してきたが、30万人の削減により、軍事活動の一環から転じ、民用の市場企業として、奥地・内陸の社会インフラの再整備が行われる。軍隊の制度改革にともない、民用市場の構造変化が生じてくる。

 これまでは、天津から鄭州、西安から蘭州をへて新疆、さらに中央アジアというルート「陸路」と、Tフォーム(沿海と長江を結ぶ基幹の輸送)のより東南アジア、アメリカ、日本への海上ルートから取り残されてきた雲南、貴州、青海などチベット高原を取り巻く奥地の開発は、非効率のために避けられてきた。近い将来にわたり、どの省や自治区からも中央アジアルートと、海の交易ルートは利用できる物流条件を調える構想のもとで、インフラの構造変化が徐々に生じてきている。これをCフォームと定義しておく。天津から西安・蘭州、さらに青海からチベット、貴州、雲南、広西、広東と結ぶ物流ルートが今後の中国の低い成長率のもとで整備されることになる。

 国家の資本財が効率悪い内陸・高地に向かうと、経済成長率の鈍化は避けられない。これを補うのが、個人消費市場の高度化・高密度化である。制度的に労働賃金水準を高めに誘導した。その結果、毛沢東時代から小平時代には、極めて低く抑えられてきた第3次産業の国民経済に占める比率が、第2次産業を上回り、中華民族の本来的に得意とする商業文化が活性化してきた。明らかに、個人の日常の消費市場に変化が現れた。こうした商業部門が経済の主体を占めると、高い付加価値を生み出す製造業を主体とする国民総生産の指数が鈍化することになる。GDP増加率の鈍化は、第3次産業を主体とする産業構造変化によるものである。

 北京市が冬季五輪の誘致に成功し、華北、東北のウインター・スポーツのブームが到来すると想定されている。富山県に本社のあるゴールド・ウインさんは、北京に生産拠点を置き、中国でスキーがレジャー産業となる日を想定し、我慢強く、中国ビジネスの赤字に耐えてこられた。その先見性に敬意を表したい。

 習近平政権は、小平路線からの離脱を試みた胡錦濤政権の方向軸を直接に継承しており、Tフォームに加え、Cフォームに力点を移動させている。安定成長、底辺への重点投資、地味であるが、中国経済の構造改善と制度改革とがかみ合ってきている。Tフォームに立脚した経済が生んだ不動産バブル、ノンバンクのバブルは、構造変化の中での主役交代を意味している。

 

 


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ローカルなラジオ放送局がつなぐ地方創成の役割

2015年09月20日 | Weblog

TMA講師代表の私見:

 ラジオの魅力は、地方創成には捨てがたい。地方とは、地元局の地元味の情報圏であるといえそうだ。仕事で能登半島に行ったとき、石川県人ですが、気持ちは、富山県人です、という方にであった。北日本放送を毎日、聞いてると、富山人の仲間になってくるそうだ。その人の解説によると、電波は富山湾を越えてくるので、富山市からの放送の方が、山越に飛んでくる金沢市からの放送より、音質が良いそうだ。それに、金沢の放送は上品すぎて、能登の地場文化にはなじめないそうだ。

 ラジオは、実は、現場で働いてる人にとり、心に響く情報媒体だ。事務職だと、TV、インターネットの目視の情報媒体を利用できるが、プロの運転手さん、ハウスで農作業の人は、目で仕事しながら、耳で情報を摂取して、同時進行しているのです。

 ラジオには、方言をうまくとりこみ、方言が廃れない地方文化を再生している役割もある。地道な仕事に従事している人たちが、リアル・タイムで地方の情報を共有しているわけです。地域が地域として成立する要素として、ラジオ放送は隠れた主役だといえます。さらに、事故や災害の情報の提供にも有利です。

 ラジオの文化は、TVに押され縮小しましたが、もう一度、見直す必要がありそうです。その場合、メディア・ミックスという考え方が大事な方程式だと思われます。まず、取材の仕組みにおいて、新聞記者も活用し、また、小学校区の単位で「通信員」をボランティアでお願いし、SNSを利用したローカルな情報をにつき、新聞・TV・ラジオ・タウン誌が、その情報源を共有しながら、発信の仕方を分担していくスタイルが望ましいと思われます。

 地方の社会の中核に、情報発信と集約のための「情報の中央卸売り市場」が構築されると、人口減のもとでの地方社会の効率化にとても役立ちます。地方では、小規模な事業所による小市場圏が極めて大事です。

 地方創成とは、中央政府の各種の補助金の活用だと割り切ってしまうと、なにもかもが見えなくなります。補助金アサリでいいのでしょうか?補助金が切れたら衰退した事業は山ほどあります。 砺波平野と高岡市とが提携し、「情報の中央卸売り市場」を核に、新高岡駅を盛り上げていくと、金沢と富山との双方向に供給できる商品群は何かということが描けて参ります。21世紀の後半、金沢と富山は衰退します。中京・名古屋経済圏との最短距離、北陸の十字路である砺波平野が、北陸全体の中心地の役割を果たすロケーションにあります。50年先を見つめ、砺波平野と高岡市との一体提携により、「情報の中央卸売り市場」の構築に取り組まれると良いかと思われます。

 


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地方創成への史論:根幹家族の再構築

2015年09月19日 | Weblog

歴史家・中村の提言

日本において、自然家族が法制化されるのは、武家の文化においてである。経営組織としての村、そして、その村政を担う村仲間の株をもつ「家」制度は、信長・秀吉・家康に仕えた文官官僚の武家たちに創成された。この制度は、昭和初期には存続していた。しかし、国家総動員法を推進した国家社会主義官僚による総力戦のための、中央集権行政のもと、農村の隅々から「徴兵」により対外戦争に徴発したために、伝統的な「家」制度の瓦解が、内部から始まった。「家」を継ぐ男子を失ったために、婦人を戸主とする新制度がうまれた。アメリカ占領軍による破壊のまえに、国家社会主義の官僚による新家族制度、つまり、性別分業を廃し、家族の個々の成員を「家」制度の呪縛から解き放つ改革が、大正デモクラシーの影響をうけた進歩主義者の社会運動により推進されていた。大量の戦死者の犠牲の上に、徳川時代からの「家」制度の崩壊が、事実、物理的な事情で生じた。家督相続人の予定者を戦場で失ったためである。

個人の全ての運命は、国家の命運と一体化したため、その戦死者の家族への国家賠償という理由を得て、日本の国家による社会保障制度が始まった。そこへ、大正デモクラシーの影響をうけた進歩主義者の「貧民救済運動」も取り込まれ、第2次大戦中に、日本は江戸時代からの伝統的な家族の仕組みの瓦解がはじまった。それをさらに徹底したのが、農地改革である。不在地主だけでなく、在地の豪農が「地方社会」での指導的な役割をうしなった。これを伝統的な根幹家族制と定義しておきたい。

戦後、アメリカ占領軍の日本統治の中心にあった「民政部」は、戦前の日本社会を学術的に研究し、大正デモクラシーの影響をうけた進歩主義者の社会運動に大きな可能性を託した。それが、日本社会党である。国家社会主義の官僚の流れを汲み、急速に、民政の分野で日本社会党が勢力を拡大していった。官公労とよばれる公務員の社会主義運動、労働運動である。かれら個人は、地方の根幹家族の名家を取り込んでいったが、全体として社会保障は国家が責任を負うべきだとする形で、国家ー地方自治体ー個人というパイプに転換した。明治政府の場合、国家ー都道府県ー郡ー村ー名望家族(村仲間)と底辺では、江戸時代の地方社会の仕組みを活用していた。しかし、戦後日本は、あまりも多くの戦死者を生み出し、家族の中心にある家父長の家督権の崩壊の物理要因がうまれた。

富山の場合、保守色が残されたのは、高等女学校をでた婦人(嫁)が、家父長に代わり、嫁ぎ先の名望ある家族の伝統的な社会信頼を崩壊させないで、「婆ちゃん主導」で、戦後的な「根幹家族」を再構築したからである。しかし、根っこの高学歴崇拝が災いして、優秀な孫たちは、越中を旅立ち、世界に飛躍した。そのため、外国語能力に比例して、町や村から「根幹家族」の大都会への移住が進んだ。この流れが、地域社会において、中レベルの学歴者を中心とする「根幹家族」を主体とする現状に帰結する。

では、これからどうするのか?県政、市政、町・村の問題として、江戸時代から根幹をなす「家族」につき、大正デモクラシー式のエゴの塊である「個人史」ではなく、根幹家族の「家族史」を編纂し、図書館に収めていく作業を重ねることが大事である。丁寧に作業を住めると、富山県民の根幹家族による婚姻関係の輪は、100万人の横断的な拡大家族であることが証明されてくる。そこから、養子制度、里子制度を生かし、廃絶を防ぎ、江戸時代からの文化遺産を守るべき伝統的な根幹家族の再興が可能となってくる。東京では、皇后を生んだ正田家の家族はご健在であろうが、家屋は相続税のため都立の公園となった。この轍を参考にして、越中の名望の根幹をなす家族の伝統を再興する必要がある。県の大事な財産である内山家に遺構は、観光資源であるが、内山家の根幹家族として瓦解は、現在の人口減の根源を象徴している。保守主義が政治・政党の活動だけでなく、地域社会において、中レベルの学歴者を中心とする「根幹家族」を主体とする「新たな名望ある家族」の、文化的保守主義への意識化が必要である。

鹿熊家などの伝統家族の重視に加え、中レベルの学歴者を中心とする「根幹家族」を新たな富山の地域文化、特に祭礼の文化を支える支柱として、行政は意識的に育成しなくてはならない。個人主義よりも、家族主義、地域主義に導くことが、地域のリーダーに求められるものである。

 


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2017年4月採用の就活生の経済環境

2015年09月18日 | Weblog

あくまでも、中村の私見です。

現在、高校2年次、大学3年次、大学院修士1年次のかたは、2017年4月に就業することになる。来春の2016年4月に就業予定の就活は、学生側が比較的に楽な経済環境であった。それは、2015年から今年にかけての経済指標が、比較的に良好であったためである。それに団塊の世代の引退を補充する需要が重なり、学生は何社も内定を得ている。企業は、内定辞退を恐れている。こういう経験が、そのまま2017年4月に就業する就活生には、そのまま当てはまらない。

2015年の秋から、経済環境は、特に「世界市場の需要環境が沈静化する」からである。大きな「伸びしろ」を想定しないで、無駄な人材配置を縮小すれば、需要に十分に応えられる。いわゆる経済成長率が横ばいか、やや、弱含みとなると予想される。

その最大原因は、世界で第2位の中国の経済循環が、急成長からダウンすることで生まれる変化である。そこから、世界恐慌を予想する人はいない。何度も、紹介しているように、2016年9月にIMFで、SDR通貨バスケットに人民元を加えるか、否かの投票が行われる。80%近い加盟国の賛成がないと、否決される。だから、中国はIMFの関門をくぐるために、中国経済は国際協調に徹するほかない。

上にも、下にも急激な変化を避ける、それが北京の意思である。それは、世界の共同の利益でもある。さらに、良い条件はまだある。それは、アメリカ、中国の設備更新の需要である。

今年、採用に失敗した企業は、2017年に採用枠を残しているから、人気のうすい優良、中堅企業の採用意欲は残されている。


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就活の学生は、企業トップのマネジメント学の質を検証しよう。

2015年09月17日 | Weblog

TMA講師代表からのアドバイス:

安定企業、優良企業というレッテルを探している学生がいるが、君自身が自らを律するマネジメント学を身に着けていないかぎり、本当の優良企業は見抜けないし、その持続性も見抜けない。

SONYの全盛期が去ったのは、トップ・マネジメントの歪みである。電気系企業が押しなべて不振なのは、家電は作れば売れる時代が長く続き、マネジメント学を磨かなくとも、マネジャー権限で企業が維持できたからである。そのなかで、比較的に弱いとされた富士通が、ロジスティクス・マネジメントに目覚めて以来、堅実なマネジメント科学への道を歩みはじめた。日立系は、日立物流さんが、物流屋として世界一流のロジスティクス・マネジメント科学を身につけ、グループ全体にマネジメント意識に変化がみられることである。東芝とは、大きな差異が生まれた。だから、物流改革が完了していない企業は、就活の対象にはならない。物流の専門雑誌を見れば、意欲的な企業は見つかる。

週刊ダイヤモンド社が、銀行の頭取のマネジメント能力の全国ランクを公表しているが参考になる。富山県にとり残念なのは、ほくほくFG、つまり北陸銀行がワースト・トップに選ばれたことである。プロ・サッカーのカターレ・富山が、J3からも転落する。これもワースト・トップである。共通点は、マネジメント科学が数学を基本とする資金効率を最大化する理論体系であり、コンピューターによる計算科学が基礎となるという企業文化を構築していないことである。「優良な貸し出し先が開拓できないので、利益がだせない」と株主に説明するようでは、カターレ・富山と同格である。支店ごとに営業エリアを決めて、機械的に融資先をエリアで探しているだけでは、伸び筋は見つからない。物流のネット・ワークから情報を摂取すると、カネがどこでモノに代わり、そのモノがどこで変形し、製品の在庫となり、前工程から後工程に流れるのか、ロジスティクスの眼で追いかけると、取引のネット・ワークが見えてくる。こうした情報をバンカーで共有できないには、個人別の営業貢献度を給与、昇進の指標としているため、同じ銀行の別の銀行員とはライバル関係になる。外為の知識も、それがある銀行員は、他の銀行員に教えない。このような負の循環のうえにほくほくFG(北陸銀行)がワーストのトップに選ばれた。トップの個人資質がダメという意味以上に、地方社会の営業基盤をおく金融業として、マーケットのシグナルが読み切れていないし、総合力の知識がないと解決できないのに、支店長に競争させ、個人技に全てを委ねているからである。

富山大学も、医薬を除き、総合では国立大学のワースト・トップである。出口戦略のキャリアー・サポート科目が、卒業必修単位になっていない。学部教授会が、企業のロジックに背を向けているからである。

富山では、大学も、新聞も、銀行も、外形的には地方社会にレベルでは、全国上位にありながら、各年単位でマネジメント学の劣化がおきている。だから、むやみに地元企業の優良企業を探すのではなく、全国企業の北陸勤務の可能性を追求するべきだろう。富士フィルムに入社できないと、富山化学には配属されません。この意味がわかれば、皆さんは合格です。富山の経済を裏から支えているのは、日本の一流企業の下部組織が富山で機能しているからである。

 


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日本では、アメリカ経営科学はそのまま使えない。

2015年09月16日 | Weblog

TMA講師代表:経営科学の研究では、最先端のアメリカの研究は、ドラッカーを摂取してきた日本の企業文化とかなり離れた知的環境にある。大前提の違いは、アメリカには、プロのサッカー監督のように「優勝請負人」のような、職業人として独立した「マネジャー」が機能している。企業から年次契約で誘われて、経営管理の権限を発揮する。その際の業績の評価基準は、その企業の自己資本利益率をどれだけ高めたか?その一点である。

だから、経営管理者は、従業員は命令に従って使役することだけを考えている。しかし、全従業員がその企業の存立の社会的な使命を能動的に理解しているわけではない。多民族、多種族、多宗教のアメリカ社会では、価値観が多様である。だから、「数値目標」の達成度が全てである。では、このような社会文化背景のもとで、均質な一体感をもった企業文化を育てるのは容易でない。そこで、心理学による動機づけ、ゲーム理論を駆使し、価値観の共有化を図るなどの「マネジメント・テクノロジー」が発達する。その意味では、マネジメント科学は人文科学の領域を含んでいる。

日本企業では、すでに多国籍化が進んでおり、アメリカ経営科学の手法も取り入れられるようになってきた。それだけでなく、日本人からみれば外国人の「マネジャー」と契約し、経営管理権を委ねる大企業が増えてきた。グローバリズムのもとでの多様性への対応は、すでに日常化している。

他方、日本の企業の根幹をなすのは、優良な中堅企業である。ここでは、互いに顔の見える関係が、昔ながらに機能している。経営陣と労働者という壁で仕切られていない。こうした日本の企業文化にもとでは、その企業の自己資本利益率をどれだけ高めたか?というマネジメント科学を駆使することが先決である。

アメリカ経営科学は、不平等社会、個人の能力主義の社会による「人としての個」の壁にぶつかる。日本では、「人間関係の和」を根源価値とするから、企業の自己資本利益率を高めるため、アクセルを踏み込むよりも、自社というお神輿を担ぐリズムを合わせようとする。このように、日本の経営学が経営科学へと脱皮するには、日本人の心性や暗黙知に切り込んだ人文科学を取り込まねばならない。銀行振り込みで歩合による「報奨金」を配布する機械的なシステムよりも、お神輿を担ぐリズムを合わせようとする心性や暗黙知を掘り下げる必要がある。

なぜ、プロ野球の球団は、シーズン始めに必勝祈願のため神社に参拝するのか?外国人選手は、宗教が違えば、この参拝には参加しない。外国人は、パーツとして雇っているので、多様性を認めているが、実は、仲間のようで仲間でない関係である。日本人の心性と、グローバル時代のダイバシティ(多様性)との折り合いは、極めて重要である。近くて遠い中国人が、日本企業と雇用関係にある場合も、そうである。それでも、なおかつ、企業の自己資本利益率を高める、という基本の命題を横におく理由は見当たらない。なにが、それを妨げているのか、その「制約」を見つけることから始まる。

 


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マネジメント科学は、全社員が身に着ける企業文化

2015年09月15日 | Weblog

TMA講師代表から大学生の皆さんへ:

 大学生の皆さんは、就職先に「安定企業」と、時代の流行である「人気企業」を選ぶ。TMAとしては、マネジメント科学が全社員で企業文化として身についている企業を将来の安定性がある企業として推奨する。時代の人気企業は、10年単位で大きく変動する。プロ野球の人気球団で、オーナー企業が変わらないのは、読売巨人軍くらい。「不易流行」といって、変わらないで世に受け入れられ続ける企業である。新聞社ですら、日本独自の宅配システムの強みが、人口減少と、IT革命のために揺らいでいる。安定は、就職先の企業に求めるのではなく、大学生の皆さんが、企業文化を能動的に理解できる安定した能力があるかどうかが問われている。

 マネジメントを科学として運用するには、数学的な思考力が基本中の基本である。そこから、統計学の知識は、大学で身に着けたい。それを自分のノートパソコンの「エクセル」で駆使できるようにすることである。グローバルな世界市場では、統計による説明しか説得力はないし、逆に、誤った統計処理を見破らないと自己崩壊する。仮説を立てる、データを集める、統計処理をする、こうした大学教育が一番に徹底しているのは、医学部、薬学部、工学部である。それと、ほんの一部ではあるが、心理学、経営学である。SPSSなど、高度な多変量解析の訓練を受けておれば、まず、検証するべき仮説がどれだけ大事か、きちんと理解できる。

マネジメント科学は、製造業の生産工程では多用されるが、資金の最適な循環と、製造部門における部分最適とが整合しないため、世界ではトヨタ式生産に加え、ゴールドラット博士の理論が重視されている。ところが、日本では、ゴールドラット博士のマネジメント科学は、TOCと呼ばれるが、企業の根幹で企業文化となった事例は、非常に少ない。例えば、日立の工作機に装着する消耗品である工具の企業で大成功したと、日本のゴールドラット協会は宣伝しているが、実は、富山の不二越の工具の部門は、日立よりも先に、顧客供給システムの最適化に成功してる。ただ、不二越の全体では、一物一物流なので、物流からの企業改革で改善は完了している。

これに反し、日立系の企業は、資金の回転の効率、利益率の向上を妨げてる「制約要因」をグループ全体で見直す最先端の企業として、トヨタに次ぐ企業文化を構築してきている。対極の反面教師が、東芝、三菱である。 ゴールドラットの理論は、資金循環の物理学である。マネジメントを科学とするために、非常に難しい。啓蒙レベルであるが、営業の世界でも、ゴールドラットの小説形式の理論は参考になる。伝説的なセールスマンの成功体験よりも、チームとして、マーケティングから販売契約のための訪問営業までの体系化を学びとった企業もある。

 アメリカ、中国、アジアなど、国民の能力差が大きい国が家では、超エリートのマネジャーの役割が大きいが、日本では、企業の全体が文化として、マネジメント科学を身に着けることが可能になる。日本の大学生は、世界のなかで劣化している日本の大学で学んでいる。日本の企業は、世界と戦い、世界から学んでいる。この落差は、富山でも激しい。富山の企業は、県立高校の卒業生の方を大事にする。富山の大学生を戦力としてあてにしない。なぜなら、仮説を立てる、データを集める、統計処理をする、こうした大学教育が徹底されていないからだ。

富山マネジメント・アカデミーは、富山の大学教育の欠陥を補正するため、優良企業の支援を得て始めた経営学の科学化の塾である。

 

 


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大学の理系と文系とが分かれた「歴史原因」を探る(校正済)

2015年09月14日 | Weblog

TMA講師代表の「講義」:

日本では、大学制度を論ずるのに、理系と文系という2大体系で議論される。それは、大学という学制が行われた明治以来の伝統である。これは、関係者なら誰でも知っている。問題は、それが明治の初めに疑いもなく実行された「歴史原因」である。

そもそも「大学」というネーミングの由来すら知られていない。山川出版の「日本史広辞典」では、中国の古代の「大学」という学校制度と、明治以来の「近代大学制度」を挙げているだけである。大学教授が何百人かかって編纂しても、日本史の大学教員・関係者が、朱子の定めた四書の巻頭の「大学」書を完全に見落としている。「大学」という名詞のは、学校制度ではなく、孔子の儒学の根本理念を述べ、学問の目的とそ学問を深める順序を説いた『礼記』の「大学篇」に由来する。戦後の日本史の専門家は、儒学を知らなさすぎる。

『礼記』の「大学」篇が、特殊に学問を通じ徳を養う「入門書」であることに気がつぃたのが、北宋時代の程氏であり、それを完成させたのが南宋の朱熹である。朱子は、『礼記』の「大学篇」を独立した書物として扱い、儒学は「大学」「中庸」「論語」「孟子」の「四書」の習熟したうえで、「五経」に進むべきだとした。つまり、「大学」という学問の理念と許育プログラムが、大学という学制のまえに存在したのである。

宋代以後の儒学では、「大学」という学問に原理軸を定め、儒教がもつ宗教性を弱め、儒学という近代的な学理の体系に移行した。その時、宋時代になるまえの唐時代までの古典儒学に対し、宋学では、「大学」の3綱領の新解釈を行った。3綱領とは、「明徳を明らかにする」「民に親しむ」「至善に止む」というものである。「明徳」とは、「天下を平らかにする」という「大学」の8条目の第1条にある儒学の学習の究極目標とつながっている。「至善に止む」は、「中庸」の哲学を一言で言い表したものである。議論が分かれるのは、朱子を含め宋学では、「親民」を「新民」に読み替えるべきだとする学問的な主張である。孔子のテクストでは、「新」という一語は出てくる。「革む」「改む」という動詞群として出てくる。この改作に疑問をもったのが、日本の荻生徂徠たちの「古学派」であり、清朝の考証学者たちである。それは、さておく。

朱子の意図は、古代の儒学は帝王の取るべき道であると帝王と臣下との上下の関係であったのを、宋代以後の近世社会では、「民を新たにする」という庶民にも天下の一端の責めを担わさせ、それには読書人が「大学」のプログラムに即して、学問をして、日々に知識を新たにすることが「天下を平らかにする」根本道であることを明快にしたいというものである。この朱子学の理想は、イエズス会が深い理解を示し、朱子学を媒介にカトリックを儒教圏で布教させ、同時に、西欧の社会に「新民説」を翻訳普及させた。それで、西洋に「市民の大学」が生まれ、アメリカ移民社会にもハーバード大学などの名門校が生まれた。

日本では、徳川幕府が天下の原理として、朱子学を国教とし、幕府と諸藩が朱子学に徹することを定めた。こうして林羅山から江戸の朱子学がはじまる。ところが、朝鮮儒学の影響を受け、大学の8条目を「窮理」の体系と、「居敬」の体系とに2分するシステム思考法を採用したのである。「窮理」とは、現在の自然科学と同義語である。「居敬」とは、独愼という精神修養を伴う自己研鑽を主とする人倫の体系である。江戸時代には、「窮理」を重んじる「理学家」とよばれる系譜が生まれ、やがて明治にはエンジニアリングという工科大学へ修練する体系となった。他方、「居敬」の体系は、精神修養を基礎に「経世済民」学へと分かれた。これらは、広く「経学家」と呼ばれた。そこから、「文科大学」が生まれ、社会科学の体系へと転じた。

だから、日本の近代の「大学」制度は、江戸時代の「理学家」と「経学家」との社会分業を受け継いだ結果であり、「大学」という書物の大学8条目の原理軸である「格物致知」から天の理を極める「理学家」と、「居敬」の体系を高める「経世家」とに分かれたことに起因する。この2大体系は、日本の企業社会を貫き、技術開発系のマネジメントと、「経世家」のマネジメントとの大分裂とが、日本の社会の根本病理となっている。

この壁は、物理学で鍛えたゴールドラット博士の「制約理論」を含めた総合的なITを採用した統合マネジメント学でしか越えられない。

ドラッカーは、「経世学」の一部、「居敬」論の系譜にすぎない。「格物致知」の学であるゴールドラット博士を日本人が深く学ぶことが、江戸時代からの「格物」と「居敬」とに両極分裂したマネジメント学の克服へと繋がる。

そして、理系と文系という2分法を越えられない富山大学は、いまもって江戸時代の学問論の弱点をさらに劣化させていることになる。

 

 


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マネジメントの基本中の基本は危機管理

2015年09月12日 | Weblog

富山の安全神話に赤信号が灯りました。NHKニュースは、次のように伝えました。<江戸時代以降、明確な噴火の記録がない富山県の立山連峰の弥陀ヶ原で、17年前の平成10年以降に、ごく小規模な噴火が起きた可能性のあることが分かりました。弥陀ヶ原は気象庁の「常時観測火山」に加えられることが決まっており、専門家は今後も調査を続ける必要があると指摘しています。>

幕末に、立山は、火山噴火ではなく、火山性の大地震の震源になっています。それで、立山カルデラの大崩落による土石流が発生し、甚大な被害をもたらしました。それで、近い将来、富山には地震がない、という思い込みを捨て、ありうるという想定で、マネジメントを実行する経営計画が必要です。

まず、防災の意識を高める。個人は、寝室に家具を置かない、これは最低限の危機管理です。家具を置く場合は、倒壊を防ぐために壁に家具を固定する。これで、かなりの人命が助かります。企業では、無造作に高いところに機材を積み上げていたら、落下の危険があります。工場は、安全管理が徹底し、安全が文化となっています。反対に、事務所の方が不適切な機材管理となっています。

地震は、火災を誘発します。関東大震災、淡路阪神大震災でも、火事が地震被害よりも深い傷跡を残します。その場合、自衛の消防組織がないと、消防署は火事が多発しているので、到着が相当に遅れます。消防署も地震被害をうけ、道路がふさがっています。

マンションの管理組合は、自衛の消防組織を組織していません。

最悪の危機を想定し、そこからマネジメントを再構築することです。私が関係しているマンションの管理組合は、最低限の消防の訓練・講習・設備点検をしているので、めでたくマンション総合保険と地震保険に入れました。審査をうけ、合格しないと、損害保険にすら、保険会社から契約を辞退されます。

マネジメントは、リスク管理という一点から、平素に忘れがちな危機を遠ざける、それが基本です。保険も大事ですが、保険会社から見放されるような「管理業務に無知」では、被災から消滅へと一気に転落します。

なお、地震保険は、倒壊した建物のがれきを撤去し、更地にする費用を補うもので、再建の原資にはなりません。企業なら設備更新費の積み立てをしていますが、個人の家屋となると、そこまでマネジメントが及んでいません。


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在日の中国人の中国分析は、伊藤忠よりも的確だろうか?

2015年09月09日 | Weblog

ここへきて、在日の中国人による中国評論が、中国嫌いを暗黙知として、盛んに受け入れられている。日本語があまりにも流暢だと、中国人らしさが消える。それで、TV番組では、在日の中国人が喋る中国人風の日本語が好感をもたれる。これらの人は、日本人の仲間になれる。料理番組や、バラエティ番組ならば、問題が発生しない。

問題は、「日本経済新聞」クラス、富士通総合研究所などの総研のレベルでの、在日中国人、それも日本の大学に留学にきて、そこから一流の経済アナリストとして待遇されている人材が、祖国である中国、台湾、香港、そしてニューヨークなどにいる英語圏のアナリストと比較して優位かというと、そうではないのが、日本の企業さんの「不幸」である。

例えば、李克強指数を今の中国経済の分析には、もはや使えないことは、英語圏のアナリストは理解している。1990年代の国家統計局の公表するGDP計算は、結果が出るのが遅く、短期的、速報値で経済動態を把握するために、李克強は自分なりに電力消費量、鉄道貨物輸送量などの指数から判断する国務院の秘伝のツールを用いていたという逸話である。そこには在庫指数がない。なぜなら、生産過剰など眼中にない時代の経済指標であるからだ。

僕が学生時代には、東芝の電気モーターの在庫量の増減だけで、景気変動が予測できるという教授の話を聞いた。1950年から1960年までの期間では、それは決定力のある指数であった。その次に出てきたのが、工作機械の工業会が速報値でだす「工作機械受注統計」である。これは、生産にかかる前の営業で契約が成約した「在庫前」指標である。この指標は、今も重視されるが、IT革命が起こり、自動車産業が全体をけん引する度合いが高まり、工作機械は副次的な速報値として参考に使う程度になった。

ところが、今の中国でも、国民の消費市場の消費動態をしるうえで、伝統的な商業部門の統計では把握できない変化がおきている。インターネット通販の動態が、固定店舗による販売統計では把握できない。しかも、李克強指数は、既に第3次産業が主産業部門となり、製造業の比重が後退した中国の産業構造の変化には、対応していない。貿易よりも、内需と内需との連関の比重が大きくなると、通関統計や、国際収支からも景気動態はつかめない時代となった。

そこで、唯一、頼りになるのが、中央銀行が発行する「通貨」の供給量M2+CDの変化が決定的に重要だといえる。中国は、2014年の8月から景気変動に新たな変化が意識されはじめた。在庫が蓄積し、滞貨が生じたために異常がうまれた。それで、2014年の秋から新しい状況に応じた対応へと、経済政策が構造変化を追いかけ始めた。1949年以来、政府の国家の財政による公共投資が国民総生産の総量を決める主要因だった。そこから後退し、市場での取引の動態が、変動を引き起こす主役となってきた。現代中国で初めて、消費者の個人消費動態が、GDPの変化に影響を与える重要な素因になったのである。変化はすでに始まっていた。

富士通総合研究所の在日中国人の研究者の意図的な評論文が、「日本経済新聞」の「経済教室」欄に掲載された。その記事をヘッジファンドが利用し、中国発の株安を一気に「中国発世界同時不況」風潮へと導き、風評被害を拡大した。日経の「経済教室」欄で、李克強指数を2014,15年にあてはめ、風評被害を拡大した。在日中国人【新華僑】は、IT業界とFXなどのトレーダーと密着しているとみてよい。表向きは、日本社会へ恭順しているが、狙いは個人資産、富豪になるための人生観しかない。大陸人は、「官になり財をなす」、新華僑は、IT業界とトレーダーで財をなすことが人生のすべてだと思っている。

そして、彼らにいいように食い物にされているのが、日本の一流企業である。例外は、伊藤忠だけである。富士通総合研究所の在日中国人の「知識」がインチキで、中共中央への情報交換ができる「信頼」のパイプがあるのは、外国企業では2社、そのうち1社は東南アジア華僑資本であるから、伊藤忠の存在、特に中国大使を務めた丹羽氏の役割と、その影響は、今後の世界経済の動向に大きく影響する。社運を賭けて、有利子負債を背負い中国の国営企業へ資本参加を図った。富山県の中国市場へ関与している企業は、富山県庁が招聘した伊藤忠の中国市場の開拓者であるF氏のご指南を受けている。

ここが、石川と福井とも違う「富山の強味」である。F氏の招聘が、これだけの重みをもつとは、神戸のあるかたが富山にF氏を紹介した時点では想像していなかったそうだ。

 

 

 


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富山県の企業の人事戦略に、「後期高齢の若者」採用を勧める

2015年09月08日 | Weblog

TMA講師代表からの提案:「後期高齢者」というネーミングは嫌われているが、健康保険制度の制度なので、余計な批判はしない。ここでは、「後期高齢の若者」を話題にしたい。「後期高齢の若者」とは、27歳から32歳の6年幅のエイジ・グループである。孔子でも30歳という年齢には、意味を持たせている。

大学院の博士後期を修了すると、順調に27歳で満了する。この間、4年制の大学を卒業し、就活し、新卒採用された若者は、まだ「前期の若者」である。そこから、2年、3年とたつと、生涯、最初に入社した企業に不安を覚える。この段階で、富山の企業が「第二新卒」として採用しても、「落伍者」を間違って採用することになる。社会人として不適格なひとが、転職、転社を希望しているだけである。危ない人材市場である。

ホントに頼りになるのは、業務の水準が一流で、すでに主任、係長の候補者として認めら有れている人材である。例えば、今は野村證券で活躍しているが、父母の介護を考えて、富山に帰郷をしなくてはならない人材である。富山市は、市職員として、こうした人材を積極採用している。すると、パソコンの業務アプリでも、一流企業の隠れた技術を富山の企業に転写できるからである。東京都の職員で、富山の出身者を引きぬくことである。

だから、富山の企業は、ライン系は富山県立高校で採用し、土日は、私共のような富山マネジメント・アカデミー型の私塾で鍛えていく。それにたいし、スタッフ系やスペシャリスト系は、「後期高齢者」のために、30歳前後の一流企業経験者の採用が最適である。ネックは、勤続年数による退職金の不利である。それでも、30歳の採用で65歳までの雇用を続けると、勤続35年は保証できる。契約書による採用という採用方式もある。

富山の場合、営業・事務系は一皮むくと、富山商業、高岡商業の卒の文化が人材地層として見えてくる。それでは、グローバル化した現代企業の業務では間に合わない。英文メールをこなせるひとが多くない。

だから、富山の企業は、東芝のような現場一流、経営能力三流の「一流企業」から帰郷を勧めるのが最適である。新卒の市場で、東京の2流以下の大卒を郷里に戻しても、彼らには一流の業務能力を一流企業のノウハウを盗んできているわけではない。

父母の介護のためも親孝行したい立派な人材を、富山の一流企業、自治体、そして農協が、新卒採用の特権より下の不利な条件でやむなく転職よりも、積極的に取りに行く人事戦略がいる。プロのバスケット・ボールのマネジメントの成功と、カターレ富山の惨敗の差とは、中心者が一流の業務能力(マネジメント学』を一流からコピーできているか否かの違いである。

 


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