富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

もう200年、民族主義の国民国家の時代が続く

2016年06月28日 | Weblog

TMA講師代表:個人研究  

前提・ スコットランドの連合王国離脱、スコットランドとして新たにEU加盟がありうる状況を踏まえて

課題・ 経営学は私企業のための学問だと思われているが、そうではない。国家の指令型経済原理、企業の市場型経済原理、地方自治体の互恵型経済原理の3種の経済原理の均衡調整の磁場に発生する「新しい公共」を生み出す使命がある。

原因・ EUは、この「新しい公共」という理想主義を西ヨーロッパから東ヨーロッパまで広げた。それは、狭い民族主義の枠を超えたヨーロッパ市民社会運動である。しかし、そこに修正マルクス主義者たちの「理想主義」により、時代の先取りが早すぎる傾向があった。シリア難民問題は、イスラム圏の問題である。EUは、そのための「新しい公共」の広場の形成を急ぎすぎた。

大前提・こうして、イスラム教と修正マルクス主義への深いりを消去すると、日本国が協調できる世界は、基本は、アメリカである。

原理軸・問題を基礎教養の領域に絞り込むと、古典的には、アダム・スミス、M.J.ケインズというイギリスの思考の伝統は、国民国家としての内向きの利益共同体を国際協調のなかで、国民総生産という社会保障のファンドの増殖を基本とする学問である。この基本の枠を承認できる知的サークルが、今後、日本国が協調していける世界である。その場合、アメリカの軍事力に依存する不自然な環境は、今後、200年かけても、専守防衛の伝統国家に改める方向で改善しなくてはならない。民族主義による国民国家として、まず自国民のための互恵型経を完成させなくてはならない。

環境軸:中国は、今、日本国民のために、反面教師を演じてくれている。日本の領土、領海をぎりぎりまで脅かしている。このおかげで、日本国民の凝集力は、以前より強くなっている。同時に、青年の反中国感情は高まっている。中国からすれば、日本の青年の反中国感情の高まりは、中国の国益にマイナスとは考えていないといえる。逆に、中国は、大国主義のもと、福建人の海における海軍力の強化に血道を挙げる方向に舵をきった。こうして東アジアでは、中心的な存在である中国が、麻雀でいう「清一色」の極限、「九連宝灯」を理想とする大国主義を旗印とした以上は、日本は、近くの国と軍事緊張を強め、遠い国との連携を強くしなければならない。

その意味で、日本国における国際戦略は、日本という域内での互恵型経済原理を強め、人口数の縮小に応じ、個人あたりに国民総生産の拡大という少数化、高度化を特色とする「ビジネス」を基本とするマネジメント国家の道が正しい。その意味では、大筋では、安倍政権の方向軸は間違ってはいない。伝統的な日本主義への回帰は、むしろ自然な姿である。若者たちの保守政権の支持も、自然な勢いである。


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習近平政権との距離の取り方:接近も危険、敵対も危険

2016年06月21日 | Weblog

TMA講師代表:専門研究

1.習近平政権のもとでは、中共中央と中央党学校の排他性が強められ、全国政治協商会議は再び名目的な組織になりました。

2.「人民日報」で検索すると、習近平の事項は52万1099項目、「国務院総理李克強」の事項は5万9718事項と10倍の差異があります。なお、「人民日報」を李克強という姓名で検索すると、わずか9項目です。それは、ほとんど「人民日報」の日本語版に登場する李克強の「親日」性を示したページです。また、「孫中山」という言葉は、全くヒットしません。

3.北京大学、精華大学の長老教授が国務院に対して、つまり胡錦濤グループに対して持っていた影響力がそがれています。

4.最近、浙江省の省政府の幹部予定者の人事では、全てが中央党学校か、省の党学校の修了を最終学歴としています。これは、「党姓」運動と申しまして、共産党員の姓は「党」でなければならない、という人事方針です。ですから、一般大学の学閥が敵視されています。

5.したがって、中山大学の日本校友会の動きは、習近平政権に敵対する行為なので、深入りは絶対に禁物です。

K様へ:「孫中山」を媒介した対外工作は、香港・マカオの共和国の特区編入、海峡両岸工作には有効でした。現在は、習近平政権が中央党学校の学閥による精華大学、北京大学、南方では中山大学などに対し、「姓党」運動による習近平への忠誠を制度、規約面で強化する動きがありますから、孫中山は2016年の中国には「習近平政権への非忠誠」を表し、反習の動きと解釈されてしまいます。この流れが、来年の党大会までの基調とするならば、個人崇拝なき個人独裁へ向かい、究極は極めて厳しい統制へと向かうことが予想されます。

このブログの読者様へ、習近平政権の政権中枢の「知恵」は、学歴的に、有名大学の卒業生を優遇した過去の総書記のやり方を改め、無名の専門学校の卒業生など非エリートの学力層の党員に、大きな出世の機会を与えました。そういう層が、省や北京の党学校で鍛えなおされ「習近平総書記」に忠誠を誓う形に人事登用の流れが変化いたしました。これは、静かな階級闘争といえます。有名大学の学閥連合である共産主義青年団の出身者の支配を倒すために、党学校という中共中央が中共中央の専属し、忠誠を誓う形の「純正化」により、習近平政権の基盤は内向きに整備されています。

北京大学ー東京大学というパイプは、習近平政権では敵対勢力といえます。従って、あらゆる面で、日中の断絶は全面的に進行しております。毛沢東・周恩来の時代よりも、はるかに厳しい日中関係に変化しています。中国はユーロと結び、反日を国家戦略としています。日本はアメリカと結び、対中警戒感を高める時期に来ております。アメリカは再び一人勝ちの様相を呈しました。


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而今而後をどう読むのか?(校正済)

2016年06月16日 | Weblog

TMA講師代表:個人研究  富山新聞文化センターにおいて、富山藩の藩校、広徳館の校正版の「論語集注」を読んでいる。「泰伯篇」の第3章に、「而今而後」という言葉が出てくる。これをめぐる読解を考えてみよう。

1.「今よりして後(のち)」と訓読するのが、宇野哲人『論語新釈」(講談社学術文庫)。つまり、最初の「而」の文字は、読まない、という理解である。

2.「而今而後」(じこんじご)と熟語として読むのが、宮崎市定「現代語訳論語」(岩波現代文庫)。

これを比較すると、まずは、宇野哲人の訓読が正解である。

理由は、中国の学者が、「従今往后」(今より以後)と注釈しているからである(金良年「論語訳注」上海古籍出版社)。

「従今以後」と現代中国語に訳するのが、楊伯峻「論語訳注」である。日本の学者も、中国の学者の現代中国語訳を参照するべきである。

さて、問題にされるのは、土田健次郎「論語集注」(平凡社東洋文庫)である。宇野哲人の訓読を採用せず、「而今而後」を熟語としてそのままに音読している。これは、「論語集注」の日本における先行研究である宇野哲人の訳業を無視することになる。

これは、どちらが誤りかという問題ではなく、どちらが訓読の原則に忠実なのか?どちらが、初学者により懇切かという問題である。学術者は、真に究めると、実は初学者に最も分かりやすい説明ができるのだ。

この点、広徳館の杏立は、清朝考証学者である王引之の「経伝釈詞」を典拠として、最初の「而」を「乃ち」と同義語として訓じ、「すなわち今而後」と読んでいる。当時の最新の学問の成果を取り込もうとする努力のあとをみることができる。正解は、「すなわち今よりして後(のち)」と訓読するのが、初学者に最も親切である。2番目の「而」は、連動式のA⇒Bの接続を意味する。このように、「而」のような虚辞、あるいは助辞の読みが漢語の文法と整合しないと、無理な訓読となる、なお、「而今而後」は、熟語とはいえなくもないが、「而今」と「而後」との連接の関係の説明が棚上げにされる。それには、漢語の五結合のロジックからの解明がいる。「主述」「述補」「修飾・被修飾」「同格」「対比」の五つの結合関係のうち、「同格」として分析できたら、「而今」と「而後」とは熟語として結合できる。しかし、王引之は、最初の「而」は前文を受けて「乃ち」と同義語とする。だから、「今而後」の3文字が熟語だと読み解く。

ここまで考えてみて、西田太一郎編「角川新字源」の「助字解説」を調べる。「而來」「而後」は、以来、以後と同じとある。だから、杏立の学問は、やはり冴えていたのである。「自今」と「而後」の「而」は、同じ文字であるが、文の流れのなかで、前の文をうける最初の「而」と、「今」と「後」を連動式に繋ぐ「而」とは、全く異なる文法的な働きというわけです。


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東京都の舛添要一知事の「問題」が問題;東京が荒廃、地方が健全。

2016年06月11日 | Weblog

TMA講師代表:個人研究 東京が荒廃、地方が健全。

東京都民とか、東京都政には全く関係ない。富山県に住んでいると、東京都は<野獣の博物館>に見えてくる。そもそも、江戸時代からの東京都民は少ない。しかも、関東大震災で「江戸の律儀」は消失した。明治維新このかた、地方からの成りあがり、互いに、その野獣性を叩くのに、別の野獣を登場させる。

とくにひどいのが、妻たちの野獣性である。そうした荒廃した精神の土壌では、野獣しか育まない。

最近、富山大学の経済学部の教授会では、集体学習として「発達障害」の問題をとりあげたそうだ。教育界では、標準的な規格型が好まれ、画一主義が定番として常識化されてきた。今日、あのイチローですら、「発達障害」の表れだとされる。一芸に秀でる人には、コミュニケーション能力が欠けているらしい。その原因は、幼児期にあるらしい。そういえば、幼稚園を中退した僕も、「発達障害」の典型である。むろん、一芸もないわけではない。

では、舛添さんは、極端な「発達障害」ではない。コミュニケーション能力が欠けてはいない。あえて言えば、フランス語、フランス文化の「学習障害」かもしれない。

富山では、仏典や論語を基礎的な教養とする方がおおい。フランス文化の「学習障害」は少ない。そのフランス崇拝の障害とは、極端な個人主義の相互の容認である。利己主義の塊である。東京都の妻たちの野獣性は、それ以下の次元の問題であるまも知れない。

今、都の東京の人々の精神が荒廃し、地方の人が健全である。日本人の顔は、地方にある。疑似であるエセのフランス文化崇拝は、現代の東京の姿、真の日本文化は、きちんと地方の郷里に生きている。

海彦の四方、岩瀬という海岸部の伝統的な町、海彦の八尾町、山田村という山につながる町村、これら全部をつなぐ富山市は、世界的な最先端の地方都市として巨人の姿を現しはじめた。


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人工知能とインターネット活用

2016年06月11日 | Weblog

TMA講師代表:個人研究:初期の情報革命はすでに終わった。

世界史は、大きく変動する「転換期」へ突入した。IT革命の進化が、最終的な段階へと進化してきたためである。

ITが人間のツールであった時代から、大多数の人間が、人工知能により管理される時代へと様変わりすることが確実になってきた。人工知能は、コピーにより移植できるから、人工知能で管理された高速道路に入れば、自動車は完全な自動運転システムにより走行することになる。燃料も水素エネルギーとなり、動力源としては、石油には依存しないようになる。

世界経済の歴史は、ある意味、通貨の歴史であった。それが、インターネットの仮想通貨となり、年に4回ほど、現実の「中央銀行券」通貨で精算するようになる。有力な銀行は、、インターネットの仮想通貨により、銀行独自のマネーを異業種間の相互決済に使用することで、「脱中央銀行」化が可能となる。

つまり、通貨は指令型経済原理により、法的に管理され、中央銀行による一元化が可能であった世界から、大きく変化することになる。「仮想通貨」の誕生により、メガバンクは、過去の手形交換、手形割引の制度にかわる決済システムの開発に成功するであろう。その中核の技術が、人工知能であり、インタネットである。すると、通貨の世界において、もういちど市場型経済原理への回帰が出てくる可能性がある。

こうした変化は、ドラッカーが想定した「ポスト・キャピタリスト・ソサエティ」における職業的な経営管理者である膨大なナレッジ・ワーカーの育成に成功した民族国家を軸に世界秩序が生まれることを意味している。地球上でこの命題に対するリーダーとなれるのは、ヨーロッパ社会ではない。中東のイスラム世界でもない。

アメリカの先端企業と、そのパートナーになれる日本の先端企業の一部である。

 


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地球的な規模のストック・マネーの動態:悲観と楽観(校正済)

2016年06月07日 | Weblog

TMA講師代表:個人研究 周囲のかたに、貴方は楽観主義者だ、と笑われる。悲観的な条件を並べ、将来に暗黒図を描くのは、ある種の罪悪である。人々から、「希望という切符」を奪い取ることになるからだ。だから、基本は楽観主義を崩さない。しかし、悲観主義は、数量分析を厳密に進めるときに、楽観主義からくる合理的な期待可能性を上方へ押し上げるよりも、これよりは悪くならない、という最低線を見つけるときに役立つ。データは、悲観的に解釈することで、変動幅の下限がみつかる。これが、自己信念である。思いは楽観、観るは悲観だとバランスがとれる。

例えば、今後の人口動態のなかで、長距離の輸送のためのドライバーの確保、この限定された資格職の従事者は、バスであれ、トラックであれ、人材を確保する困難が確実に予想される。つまり、日本の経済成長にとり、自動車輸送産業の将来は、楽観主義で見るよりも、悲観主義で分析した方がよい。その結果、自動車の輸送力の可能性を無限におくよりも、有限、つまり制約限界があるシステムであるという理解が生まれる。日本の場合、生産労働人口の就業動態からみて、ドライバーの確保に制約条件があると言われる。これは、悲観主義の功である。そこに鉄道輸送の合理性が、改めて見直される。すでに、新幹線の開業時間の外で、深夜の高速バスの営業が辛うじてなりたつ時代にある。

悲観主義の罪は、株式市場の株価変動を異常な暴落へと意識的に導くところに現れる。短期的な暴利のために、悲観主義をことさらに強調する勢力である。配当利回り率が高まるのは、株価が基本的に低位にある状態である。しかし、取得した株価を極端に下回ると、所有者の資産勘定に含み損が生じる。なぜ、株価が重要かというと、世界の退職者の年金の運用が配当利益に多くを依存しているからだ。地球的な規模のストック・マネーが、合理的に期待可能な範囲で運用益を生み出される状態が継続しないと、国家、体制の違いに関係なく「高齢者」を社会的に扶養できない。

極端な事例を挙げる。北朝鮮だって、金王朝政権という老齢保険と一体化した「朝鮮労働党という特殊な年金財団」に社会持続のカギがある。その根底には、悲観的な分析というリアリズムに徹した情勢の読みがある。党と軍を離れたら、老後の安泰はないというリアリズムである。彼らのマネーは、地球的な規模のストック・マネーの動態と制度的に切り離されているから、極めて特殊であるが、世界の経済変動から隔離され、そのために特殊資産の安全な保全の方法である。産業的には、鉱山と工業力に依存できる軍産学の共同体である。世界市場からの孤立には、利がある。しかし、限界はある。

さて、日本の高齢者のためのストック・マネーの量は、世界の年金財団のなかでも群を抜いているそうだ。ところが、年金財団が株式市場による運用を制度的に禁止されてきた。社会主義信仰の歴史と企業性悪説という北朝鮮と同じ思想のために、日本の株式市場は、海外のヘッジ・ファンドに主導権を握られてきた。しかし、この数年、日本の年金財団の運用にとり、熟練度の高いトレーダー群が急速に養成されてきた。極端な悲観主義に暴落の利を求めるヘッジ・ファンドの暴走を短期的な局面で利用しながら、個々の企業の10年後の成長力を分析し、選別し、このところ控えめな楽観主義が基調となってきた。選別と調整には、現在、最適の中位の価格帯へと落ち着いている。

 海外のヘッジ・ファンドが流す極端な悲観主義の功と罪を舞台装置である照明設備として利用し、その照明の当たらない部分で、長期保有されるべき資産性の高い株式につき、低価格帯で年金ファンドへ組み込む作業もかなりの度合いで進展している。日本政府系の官庁エコノミストは、それなりに失敗から学んでいる。海外のヘッジ・ファンドこそ、自ら悲観主義のワナにかかり、日本株の低価格帯では売り抜けできないし、大量の売りに転ずれば、彼らの仕込みの原価が割れるというジレンマにある。産油国のオイル・マネーによる異常な海外ヘッジ・ファンドは、数日間という短期では利益を得たが、長期的には、彼らの遊牧民的な流動資産の運用方法では、地球的な規模のストック・マネーの主人公にはなれない。

 農業社会の伝統が長い日本経済には、500年、1000年単位の歴史資産ストックがある。日本政府は、この観光資源に目覚めた。江戸時代の資産ストックである観光資源が運用益を生み出す原資となってる。その意味では、控えめな楽観主義こそ健康な状態である。日本という国家が、世界で好かれることが観光による立国という形で、国家が外貨をえる公的な収益性を確保することになる。日本を知ってもらう、好きになってもらうために、高齢者が観光地で外国人に微笑むことが、「希望という切符」を活かすことにつながる。


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