富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

大学の一般教養科目のCoreは、経営学である。

2015年04月22日 | Weblog

大学では、専門科目群、一般教養科目群、外国語科目群の三分野でカリキュラムが構成されています。ここでは、一般教養科目のCore―の経営学をおくべきだと主張します。まず、経営学は、営利企業の最適化のためだけではなく、非営利組織の最適化をめざす学問です。医学部でも、薬学部でも、看護学部でも、理工学部でも、人文系学部でも、そして社会科学系の学部でも、アダム・スミスに懐胎した国民経済学から分岐した経営学がCore―となります。アダム・スミスは、「諸国民の富」の序文の冒頭で、国内総生産の概念を確立しています。生産諸力の改善により、野蛮から文明へ人類は進化するが、それは隣人愛のための社会の総福祉のファンドを増加させることだと説いています。ですから、その大前提として「道徳感情論」を一読する必要があります。もし読み終えていなくとも、「諸国民の富」の序文を10回くらい精読すると、頭の悪いひとは労働価値学説を主張している本だと、うまく誤解できます。そうでは、ありません。アダム・スミスは、富める国とは、病弱者・老衰者を救済できる社会ファンドを自然に生み出せる社会であると述べています。それは、国土の大きさや、土壌や、気候の条件に関係がないと述べています。分業が高度に、専門的に発達した国家が富める国の条件であると述べています。その分業は、市場の広さにより決定されるから、分業と市場とは、相関する関係にあると論じている訳です。その相関関係のなかで、労働に「技巧、熟練度、判断力」の3要素の高度化、それが富める国民国家へ進化する最大のポイントだと述べています。

さて、富山県の場合、「ものづくり」という製造業を主体とする経営文化が定着しています。それは、労働の「技巧、熟練度」は十分に機能しているといえます。しかしながら、市場のニーズに対する「判断力」を誤った企業は、歴史的にみると、赤字、レイオフ(希望退職を募る)をしている企業がでてきます。けっこう有力企業だと思われていた、Tセーコー、T精密も、マネジメントに失敗しています。富山県には、「ものづくり」信仰という文化はあっても、「顧客市場を至高とする」マネジメント学が未発達であることが分かります。その最大の責任は、戦前の旧制富山高等学校、高岡高商にあります。現在の富山大学でも、経済学部に経営学科が組み込まれています。富山大学を大改革するには、経済学部を解体し、人文学部を解体し、理工学を再編する発想の転換が必要ですね。

経営学を主柱におき、一般教育の柱にマネジメント教育をおきます。さらに、第1年次から、外国語科目群です。TOEICのスコア―で、到達点に達しない学生は進級できないようにします。外国語は、4年次から6年次まで、毎学年、専門論文が書けるまで鍛え上げます。第1年次は、情報統計科目群です。これも統計学を主体とする基本的な能力を問い直す必要があります。

しかし、経営学が人類福祉社会への道筋だと理解できなくて、企業の営利のみに奉仕する学問だと誤解している教員が大多数ならば、こうした改革は進みません。


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制約理論は、システムか、プログラムか?

2015年04月16日 | Weblog

ゴールドラット博士のTOCは、企業内での改善において、部分を孤立して最適化すると、逆に全体最適の妨げとなることを指摘したところに大きな意義がある。しかも、「全体最適」とは、粗利益の最大化というエネルギー効率のような数学モデルで説明する。それに個々人が気がつくように啓蒙する。部分最適が遅れている部門の能力が、全体の最適を妨げている制約となる要因は、われわれ個人個人にもある。例えば、ワードはともかく、エクセルで簡単な多変量解析、特に相関と回帰の概念が分かっていないと、それだけでゴールドラットの理論は、入口から理解できなくなる。なぜなら、全体最適(金額という数量単位で示される粗利益)、ゴールドラットはこれを目的変数とするからである。この目的変数の変化に関係すると思われる説明変数は、いくつかある。これを相関の考えで分析すると、原材料価格の変動と粗利益の変動との間に、いくらの相関係数があるのか、それが1.0に近い0.9であれば、原料調達価格の変動要素を最小におさえるプログラムをつくり、それをシステム化すれば問題は解決する。しかし、ゴールドラット博士の場合、制約条件となる説明変数に原料調達のような業務経費を持ってこない。粗利益=総販売金額-総業務費、という動かせない算式があり、総業務費を説明変数として、そのなかに制約条件をみつけ、それを改善しても、総業務費の圧縮には限界があり、総業務費用は、最終的には変動する数値ではなく、固定した数値、つまり定数になっていく。だからこそ、マネジメントで絶対にやってはならないのが、総業務費に占める労務費、すなわち人員の削減である。大部分の管理者は、それを職務としてとりくむ。しかし、こんな例外もある。

 フジフィルムは、理想的な形で銀塩フィルムの企業のコアを活かし、化学企業へと華麗な変身をとげ、コダックが歴史的な敗者となった。これは、理想的な人財マネジメントである。なぜ変身できたのか?

 粗利益と総販売金額との相関、つまりフイルムの売り上げが最好調のときに、銀塩フィルムがS字型カーブを描き市場から退場すると予測したからである。コダックという市場競争の相手が敵ではなく、自分たちの安定神話がそのまま制約条件となると気付いたからである。S字型カーブは、ゴールドラット博士の発見ではない。歴史学の統計情報である。鉄道の歴史が経験した成長の臨界点から一気に転落した経験を意味している。だから、新たな技術市場であるデジタルカメラの時代には、銀塩フィルムの市場規模は縮小する、と簡単に予測できたからである。市場の条件が大きく変化し、それが市場縮小が極大の制約条件になると、まだ誰も気づかない銀塩フィルムの絶頂期に危機を予測した。

 次の問題は、フジフィルムが写真という業界から、なぜ異業種への展開を求めたのか?そこに鍵がある。フィルム生産企業にも、経営資源となるCore人材の頭脳がある。マイケルポーターの競争戦略を基本に考え、デジタル・カメラ業界に転身する道を選択しないで、フィルムという媒体の知識、フイルムに塗布する薬剤の知識を「強み」として、飽和した市場という制約条件に振り回される企業から脱し、化学を経営資源とする企業体へと脱皮した。ここでは、システムが変更されたのか、それともプログラムが変更されたのか、それが問題である。粗雑に考えても、フイルム製造に強みをもつ企業が、カメラという最終需要の市場を失い、光学メーカに転じるのは、システム変更となる。その結果、フィルムの化学、塗布する薬剤にかんする大事な開発・改善のプログラムは不要になってしまう。

 そこで、そのプログラムにある開発手順を活かすために、というか、それができる人財を活かすため行動する。経営学の王道であるドラッカーの人材は経費ではなく資産であるとする基本理論が活かされている。ここで大事なのは、市場から見て不要になりかけているCore人材の頭脳プログラムを活かし、彼らの化学の知識を改め、化学製品の市場の分析を行い、持続発展可能な潜在市場として医薬品工業という道筋を選択したことである。そこには、一人一人のCore―人材の成長のプログラムがある。ゴールドラットは、個人の改善のシナリオに則さないと、大きなシステム転換には繋がらないと考える。ゴールドラットは、産業科学教育によるマネジメント人格を形成するための理論である。


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企業人と、家庭人との自己分裂は、TOC思考の応用で克服できる。

2015年04月14日 | Weblog

企業人であり、私人として家庭がある我々は、どこで人格を統合するのか、悩みがつきない。その分裂と対立のモヤモヤをめぐって、ゴールドラット博士は、改善のための思考法を採用するように示唆しています。1と2を読んだうえで、6を読むと、マネジメントの世界のモアモアも、私生活の世界のモヤモヤも、企業で生活の糧を得る、つまり働くという大前提があれば、「じぶん」を取り巻く問題群を整理し、何が問題なのかを複雑に悩み、考えるのではなく、最も大事な因果関係にそって、課題を整理し、解決できることが期待できます。まず、最初なのでゴールドラットのTOC制約理論をめぐる著作の一覧表を掲げます。

1.「ザ・ゴール」2001年、ダイヤモンド社、1600円。小説形式。 コミック版あり。1を読めば、2必ず読まれると良いでしょう。

2.「ザ・ゴール2思考プロセス」2002年、ダイヤモンド社、1600円。小説形式。1は、あくまでもTOC理論との出会い。2で始めて、ゴールドラット博士の貢献が、経営経営の課題の処方箋ではなく、問題解決のための思考法であると分かります。

3.「チェンジ・ザ・ルール」2002年、ダイヤモンド社、1600円。小説形式。コンピューターシステムを導入し、ERPを導入しても、企業内のルールがITの全体最適に対応していないと、利益の向上に全くつながらないといいます。ITは万能ではないが、ITを活かした全体最適をどう考え、いかに解決するのか?

4.「クリティカル・チェーン」2003年、ダイヤモンド社、1600円。小説形式。学生症候群のため、ギリギリまで追い詰められないと動き出さない。しかも、必要以上に見積もられるセーフティー(時間的余裕)のために、契約の納品期限を守れない企業が、どうかわっていくのか?

5.「ゴールドラット博士のコストに縛られるな!」2005年、ダイヤモンド社、1600円。 ゴールドラット理論を小説形式ではなく、コンパクトなマニュアル本にまとめている。小説形式の他の入門書を学びながら、平行して5を理解していくと良いでしょう。理屈から入りたい人は、5が入門書として最適です。

6.「ザ・チョイス」2008年、ダイヤモンド社、1600円。小説形式。マネジメントは仕事の世界、私の生活は別の世界、このように対立した2つの世界にまたがって生きていると思い込んでいる青年は多い。ゴールドラット博士の問題解決のための思考法を私生活の悩みや未解決問題にあてはめると、世界は分裂しないで、問題解決のために思考する人格として1つに統合される。父と、心理学を学ぶ娘のと対話、マネジメントと心理学との対話として読める。

7.「ザ・クリスタルボール」ダイヤモンド社、1600円。小説形式。

小売業の売り上げと在庫のジレンマを解決し、顧客の利便性と小売業の利益の最大化とをつなぐ問題解決のための思考法。コンビニやスパーでアルバイト経験があると、この本が最適の入門書となります。

 中村は、現象学という心理学的な世界を大事にするので、個人個人にとり最適の入門書は異なると感じています。全ての読書プログラムには、個人差がある。単一の最適プログラムはない。しかし、現象を物理世界に置き換えて整理すると、かなり簡素な、思考形式がとりだせる。暗黙知から、体系としての知の世界です。ゴールドラット博士は、儒学でいう格物、すなわち物理学者の眼で、マネーを事業に投下し、マネーを生み出すビジネスの最も合理的な体系をとりあげている。

無意味なコスト削減魔、無駄どり魔、営業ノルマ強制魔・・・バカな上司や経営者をゆっくり改善してあげませんか?


 

 


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「資本主義」という前提条件がそもそもの誤り

2015年04月13日 | Weblog

日本経済新聞系のコラムニストが、「資本主義に似合わない官製相場の増殖は市場をゆがめ、様々な形で経済混乱のリスクを高める」と評論している。そもそも「資本主義」という歴史段階を前提条件として考えるから、日本の経済議論が、右も左も狂ってしまう。有名な、アダム・スミスの著作には、どこにもCapitalism資本主義という言葉はない。イズムとは、何かの心情を最善とし、それを周辺に公言して推奨し、異なる論者に反撃する思想的な立場である。世界経済史を考えるとき、原始共産制社会⇒古代奴隷制社会⇒中世農奴制社会⇒近代資本制社会・・・そして社会主義革命を経て、共産制社会へという歴史発展段階の学説を唱えたのは、かのマルクスである。アダム・スミスの場合は、生産手段を法的に所有する階級の消長変化を歴史変化の説明変数には使用しない。スミスの目的変数は、GDPの増減率の変化にある。その説明変数として、市場のニーズに応じる分業の専業化と、高度化をGDPの増減率の変化を説明する主要因、すなわち目的変数の変化を説明する最も大きな説明変数とする。その分業の専業化と、高度化は、ワーカーの技巧、熟練、そしてジャッジメント(判断力)の進化・発展を主要因と考える。すなわち、市場と分業の相関関係により、福祉ファンド・ストックの少ない野蛮社会から高度文明社会へと進化していくと考えている。だから、スミスの理屈の立てからすると、生産手段を法的に所有する階級の消長変化は、歴史変化を説明するマルクス派は、従属変数を固定的な歴史ブロックと思い込む誤りがあるといえる。共産主義社会の実現が、現実的でないからというのは、マルクス派の間違いの表面を批判したに過ぎない。

市場と分業の相関に最も大きな説明変数をおくと、ある民族は、海で囲まれた島国であったり、海に面していたため、海上交通を手段とする市場規模の最大化に成功したから、市場のニーズに応じる分業の専業化と高度化に成功する。ある民族は、内陸の運河を利用し、外洋の航海路と結節していたので、市場のニーズに応じる分業の専業化と高度化に成功する。16世紀から18世紀は、清朝中国がGDP最大の市場国家であった。同時に、徳川日本は、日本海を西洋の地中海のように活用していた。磁器の技術では、中国や西欧を凌ぐレベルに達していた。それを一気に追い抜いたのが、ビクトリア女王時代のインターネットとよばれるモールス信号による電信通信網である。日本の場合、前田藩が国策として日本資本による国内電信網を推進し、日本陸軍が西南戦争に活用し成功したため、欧米資本との対抗を考え台湾や朝鮮半島への電信網の拡大に踏み込んだ。この電信は、銀行制度と結合し、銀行間の送金が電信為替で行われる時代に進化した。我々は、こういう時代状況をただに資本主義という言葉の雰囲気で説明され、そういうモノと了解しているだけである。人類は太古から互恵型経済原理をもっている。物々交換は同時の取引であるが、親子の物々交換は、時間的に離れた年月のなかで貸し借りが清算される。家、家族、大同族、大部族の経済原理である。そして、異なる部族社会から略奪するために武装する部族国家を生み出す。これが指令型経済原理である。このような社会では、市場経済原理は市場の自立性に従い、独立変数となりえない。その極端な例が、北朝鮮とキューバであった。では、日本の今はどうか?戦後日本は、民法で家族が互恵型経済原理として機能するのを破壊し、すべて裸の個人を基礎とする社会に解体された。その結果、国家は人口減少に悩まされ、全ての個人を社会保障により支える必要が生じた。そのような国民皆保険制度を支えるには、指令型経済原理である国家財政が市場型経済原理の働きを主要因とする関係をより一層深めた。同時に、西欧、とくに北欧の社会保障年金の世界市場における運用に準じ、グローバルな長期債券市場と指数が連動する10年先、20年先の受け取り利息を最大化する年金資金ファンドが世界史の主役となってきた。

冒頭に引用した日本経済新聞系のコラムニストが、「資本主義に似合わない官製相場の増殖」という事態の理解が、世界史の新段階から大きく立ち遅れ、「学力崩壊」していることがわかる。こういう馬鹿な論客でもSNSでは生き延びられる。ネット右翼も、ネット左翼も生き延びられる。グローバルな長期債券市場により、北欧も、日本も、弱い個人のための安全網が張り巡らされると、労働力人口数は神の見えざる手で見事に均衡ラインへ落ち着く。それは、社会保障による互恵型経済原理と、長期債券市場の安定のための指令型経済原理と、そして、公平な需給調整の場である市場経済原理との3つの経済原理が重なり合う3軸均衡型社会へと我々は知らず知らず知者に導かれている。この3軸均衡論は、中村哲夫は編み出した人類経済史学の基本的な理論である。3つの経済原理が重なり合う3軸均衡型社会ーーここが世界初のオリジナル理論である。



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安宅和人「イシューからはじめよ」は、企業で使える思考法

2015年04月11日 | Weblog

 企業で使える、というのは最大級の誉めことば。「イシュー」って何んだい?問題群の「肝」のことと翻案しておきたい。この本では、課題となる問題群の全てをあげて、根気よく、全部をしらみつぶしにデータを収集し、分析し、問題解決の領域に到達するのは、「犬の道」と呼ばれている。なんで、犬の道か?この本では、横道になるので説明は省かれている。ゴルフのコースでいう「ドッグ」レッグのイメージである。ゴールに対し、遠回りを強いるアプローチである。出発点からゴールが目で見て見通せないので、可視的な世界をたどり湾曲しながらゴールに近づくため、このように呼ばれる。回りくどい問題解決の方法をまとめて、「犬」にたとえてある。

 さて、Issueとは、2つ以上の集団で見解が分岐し、対立が根本に係わる未解決の課題である。ゴールドラットのクラウドという「対立図」の関係で、スッキリした解明が極めて大事な問題領域である。営業でいえば、広く浅く顧客層を開拓する広報宣伝に人員と予算を投入するべきか、それとも購買が確実に見込める客筋にピンポイントの交渉へもちこ作業に予算を投入するべきか、予算の配分だけでも議論は分かれる場面である。しかし、そこに時間概念を入れ、顧客の購買力の階層を明解にしておくと、最適の告知、広報の手段が明確になり、その告知、広報の目的も購買が確実に見込める見込み客の情報の収集という次のステップに繋がる手だてが含まれていないと意味がない。皆で動く前に、さしあたりAから始めようよ、とする「犬の道」を避けなさい、というのが本書の一番に言いたいところである。安宅和人さんは、東京大学大学院の理系の研究者から、マネジメントのコンサルタントの世界に進んだので、その思考法は、ゴールドラットと同様に、個々の患者の処方箋に意味があるのではなく、診断と処方をするメソッドそのものに意味がある。理系の思考力に意味がある。日本では、花王という企業の市場戦略は、京都大学の農学部の出身者により立案されている。理系では、解明しても意味のない研究課題があると、明快に避けるべき研究領域が自覚されている。これは、ゴールドラットのザ・ゴールの序文にも強調されている。理工系からマネジメントに転じるのが、正当な応用科学となる。

 僕の場合、文部科学省の科学研究費の補助金の申請書を書くのが夏休みから秋にかけての日課であったから、あえて「犬の道」を進んで、回り道をして予算請求額を大きく膨らませる無駄を10年間、演じたことがある。文部科学省の科学研究費の審査では、最終的に「次点」で落とされる。そうすると、同じ文部科学省の私学助成金で賄われる研究補助金で合格する率が高まる。もちろん、「イシュー」は押さえていたから、英文で国際学会で発表するペーパーはきちんと用意し、予算を使い切ることも忘れなかった。安宅さんは、経営コンサルタントだから、契約金額の見積額(納品金額)から実際の経費を差し引いた利益を最大化するために、「イシュー」に絞り込みクライアントから受け取る実質利益を最大化する世界に生きてこられた。そのため、ロジックの正統性、明快性、その見える化のために腕を磨かれた。僕の場合は、所属大学に機材や図書という資産を残すために、企画の段階で、ゴールに就き検討をつけ、あえて「犬の道」を選んだこともある。その方が、研究の補助要員の人件費を最大化できるからである。もっとも、50万円で1年でやりきる個人のCとか、奨励研究の場合は、肝となるところを解決し、答えを押さえ、発表に必要な道筋に絞り研究計画を立てたこともある。それは、直感で答えが見えることが大前提である。企業の場合、雇用を保証する必要のため、開発系では「犬の道」は避けられる。そのため、派遣社員を使う事例が多い。それを正社員化すると、雇用に相応しい業務を社内で偽装するために「犬の道」を選ばなくてはならないこともでてくる。直観が利かないため、総当たりをする作業の場合は、やむなく「犬の道」を歩むことになる。日本企業では、意外にも、「犬の道」の効用もあるらしい。しかし、日本人は勘が良いので、「イシュー」に取り組んでいるときの緊張感と集中力は、どのレベルの社員でもすぐに分かる。大した卒業論文もやらないで、大学を卒業した人には、安宅さんの本気度は理解できない。テクニカルな面を含め、課題の論理的な解決法と見える化された解法は、うまく説明し盡せている。10万部突破は嘘で無い。なお、電子版は止めた方がよい。図解が多いので、紙媒体の方を薦める。1800円+税=1944円。投資価値は十分ある。流行したら、Issueという単語知らないの?これで、終わりの世界に生きているんですよ、企業人は。

 

 


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「職場」を科学する探究心、それがマネジメント精神

2015年04月11日 | Weblog

若いころ、大学院で東洋史学の講座で学んだ時、東洋史学が日本社会の教育市場の一分業であるとは考えていなかった。斯波義信先生を直属の上司に迎えて、人文社会科学という大きな鎖の重要なひとつの環として、中国、アジアの科学的認識という世界の学問のなかでの、分業の連鎖を教えて戴いた。これは知の仕組みである。私的には、中国革命史を研究していたので、「行」という実践の世界への興味は捨てないで、2足のワラジを履いてきた。それが、かなり生きたのは孫文の「知行学説」である。かれは、知るは易く、行いは難し、とする主知主義を否定する。むしろ、行いは易く、知は難しとして、実践からの知への接近を大事にする。この孫文を研究すると、彼は中国の国力をマネジメントする科学的な探究と実践での検証との間の往復運動に生きていたと思えた。国家・民族・家族をマネジメントする源泉は、「礼記」の「大学編」にあるとする朱子学の伝統を継承している。・・・この話はさておく。

国立大学を去り、私立大学に奉職したとき、「職場」で得られる収入の源泉は、入試と授業料、それと国庫補助からなることを知った。初めて、自分の日常が「教育市場」の市場原理にさらされていることを知った。この時点で、ストレートに大学を経営するための学問を始めていたら、学者としては別の道に生きていた。だが、「日本の孫文学」という経営資源は、中国共産党にとり中台統合のための魅力ある政治資源であると知らされ、かなり悩んで、小平路線の中国に半生を投じた。それで、香港大学、広州の中山大学、上海の交通大学などのお世話になり、通算2年以上の在外研究の機会を得た。学者としては、孫文が妻の宋慶齢さんに遺産として残した蔵書目録を、原本照合して目録を編集した仕事がまともな業績である。そのとき、上海交通大学で8か月過ごした。ある日、交通大学に「知識資本の社会が来る」という意味の横断幕が掲げられ、教授は学内に企業を設けるというマネジメント学の創生の瞬間を体感した。上海の株式市場が発足し、僕のサポーターの陳忠副教授が株式市場と孫文との連関を論文に書いて贈呈してくれるなど、これからはマネジメントの学のレベルが、日本企業と中国企業との共同と競争の関係となる、と確信した。中国では、管理学と呼ばれた。そこで、改めて孔子が管理学の祖師であるとされ、「論語」ブームを経験した。確かに、中国共産党を含め、秦王朝以前の古代思想が中国管理学の基点は明解である。

「職場」でのワークを科学として探究する心、その思いに邪悪な考えを排除し、どこまで、それが貫けるのか、それはマネジメント学を企業を超えた普遍とする経営コンサルタントへの道である。他方、「職場」では、職制というものがあり、企業の意思決定の権限をもたないと、探究した結果を試す事すらできない。それで、権力闘争に明け暮れることになる。アメリカ経営学は、市場原理第一主義が明解である。ルールが簡潔である。株式市場での企業価値、つまり企業をまるごといくらで売れるのか、いくらで企業を買い取るのか、自己資本利益率による評価が原理的に支配している。日本の場合は、中世の寺社の専業ギルドにルーツを置く企業、江戸時代の藩の殖産興業にルーツを置く企業、明治維新の廃藩置県の結果として士族の金禄公債を元手とした企業がある。そういう歴史が複雑なために、企業の「歴史」は複雑で、創業家との関係など、アメリカ企業のように単純に記号化できない。それでも、アメリカ市場で勝ち抜いた方が社長に昇格する事例は多くなった。これは、派閥闘争よりも、ゲーム理論としてのマネジメント学の戦場であるアメリカという試合場での成績というメジャー体験は無意味ではないことを意味している。「職場」を科学すると、アメリカで戦える力をつける。今は、そこに尽きる。


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通読に4時間「ザ・キャッシュマシーン」はTOC派には価値ある文献

2015年04月10日 | Weblog

ゴールドラットの著作ではないので横においていたが、時間をつくり今朝から読み始めた。この本は、ゴールドラットの理論が、思考法であるという本質を実証してくれている。別人がゴールドラットの本を読んで、その思考法を理解し、自社の解決課題を順番に解決していく話である。かねて、ゴールドラットの世界は製造業の生産工程に適用できる理論であると思いこまれていたが、この本で、営業戦略にとり、市場から現金が舞い込むように、需要の市場拡大から、最終的に納品、設営、始動、引き渡し、最終決済までの流れを統合する統合手法をドキュメンタリー小説のような描写で描いている。著者は、リチャード・クラフォルツとアレックス・クラーマンである。翻訳は三本木亮さん。ダイヤモンド社から出され、10年になる。翻訳もよみやすい。

 営業も生産も、四半期ごと13週間を単位に社内制度が成り立ち、それが株式市場とリンクし、同時に、営業マンのノルマとボーナスがリンクしていた企業でのTOC理論の適応が基本である。期間の目標があると、期間の最初はスローにしか営業活動が動かないで、締め切りの期限に近づくと慌てはじめる。その結果、受注が一時の固まり、さまざまな支障が出ていた。

それ以上に、営業は芸術アートのような社交術をそなえた人物により、顧客企業のトップへのセールス技術に依存してきた過去のスタイルを主軸にするのではなく、最初はマーケット分析から、系統的なセールス、特に製品デモに制約条件を見つける。その後、相手企業での設営・始動に要するIT技術者たちの、1工程ごとの「予備日」という時間ヘッジを無くするには・・・というような課題・・・最終的には、全プロセスをプログラミンで管理できるシステムへと考えが進行する。こうした啓蒙書は、大学の1,2年次に読んでおかないと、企業の現場の進化と、新入社員の基礎力とのギャップは広がる。

 アメリカのビジネス本では、夜の接待営業がない。私生活の部分にビジネスが入り込むのは、ビジネス・ランチだけである。だから、互に家庭生活が脅かされることはない。

 この本では、家庭の幸福条件が最優先に描かれている。それでも、仕事は、アメリカでも家庭にも持ち込まれる。妻が効果的な議論に応じてくれる。困ったら、ゴールドラットの考えたクラウドの思考法が家庭に問題の、その問題の核心を明らかにしてくれる。とにかくハッピー、ハッピーエンドの小説である

 

 


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マネジメント学は、どこから学び始めるのか?

2015年04月10日 | Weblog

どの本を最初に読めば良いのか?それは、マネジメント学は、すぐれて総合人間科学という総合科学、応用科学なので、AからBへ、さらにCへという段取りの流れがない。どこからでも、アプローチすればよい。その時、お勧めなのが経験知である。私の場合、小学生の時代に珠算の塾に通っていた。その経験が中学のとき、商業簿記を習い、貸借対照表(BS)がマスターできた。高校生のとき、商社の使用済みのテレックスの穴の開いたテープを償却するアルバイトをして、一日おくれの日本経済新聞を読み、ラジオの株式市況を聞く環境に育った。それで、高校の現代社会の授業は、なんの苦労もなくやれた。その分、世界史の勉強がいい加減で、受験は日本史と政治経済を選んだ。そんな関係で、日本経済史には大変に興味があった。大学では、最初、日本史の志望だったが、日本近代史を知るには中国近代史を先に学んだ方がよいということで東洋史学を学んだ。日本と中国との近代化の比較を学ぶうちに、マルクス主義歴史学の間違いに日夜、気が付き、最終的にG.W.Skinner教授(当時スタンフォード大学教授)のアプローチを徹底的に学んだ。統計学が大事なこと、社会学の視点からのアプローチ、すべて新鮮であった。日本と中国との近代化の比較、さらに今後の日中関係は、あるいはここにアメリカ、台湾、香港、シンガポールを含めると、マネジメント学という大まかな共通記号が生み出す価値観が重要な切り口となるという理解に達した。

このように自分史を簡単に整理すると、自分がマネジメント学にいかにアクセスするか、それには教科書や段取りがなく、「面白そう」と思える切り口から入ればよいと思う。マネジメント学は、どこに居ても、思考の対象があるので、座学だけでなく、遊んでいても、楽しめる。例えば、コカコーラの自販機だけでも、1冊の本がかけるほどマネジメント学は、総合的な科学である。販売機は、製品在庫の最終端末、売れ残りの飲料はどう処理されるのか、古い自販機はどこかにリサイクルされて再販売されるのか、・・・全ての現象がマネジメントという眼鏡で透視すると、世界はとてつもなく面白い。要するに、面白いなあ、という気づきから始めたらよい。面白いというポイントは、たいてい自分の個人の過去の経験の歴史の糸から導かれる。それは、私が現象学という人間の認識行動の基本を学んだことで裏付けられる。切り口は、自分史にある。


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「己の欲せざる所は人に施す勿れ」は、営業の基本形

2015年04月07日 | Weblog

「論語」には、この言葉は2回でてくる。ひとつは、顔淵篇の第2章。仲弓が仁とは何と問うた時の、孔子の回答である。もうひとつは、子貢が終身かけて守るべき徳目を質問したとき、孔子は、やはり「恕」(思いやり)だな。「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と答える。なぜか?その理由は、顔淵篇の第2章にある。「他人から怨まれないようにする」この1点である。同業他社から、怨まれるのは常である。同業他社から尊敬され、憎まれれない、怨みを買わないためには価格競争や、価格に関わる取引条件で同業他社を差別化することは、まともな経営学者は、競争原理の用い方として誤りだと説いている。顧客企業の調達関係者は、できるだけ安く仕入れたい、それが業績や功労と思っているので、仕切り価格を下げることに腐心する。小人の営業の担当者と、小人の調達の担当者との間では、価格面での割引が常態化すると、逆に、同業団体でカルテルを組み、法律に反する価格同盟へと転じていく。経営学では、市場論はたくさんの事例研究があるが、営業にあたる人間像と業務スタイルの研究は、経験主義の世界に任され、定番のテキストが生まれにくい。しかも、1物には1物にしか適用できないロジスティクスがある。ロットの大小、納期の時間幅など、同じ価格でも、納入先の全体最適に寄与できるならば、Win-Winの関係が構築できる。反対に、取引先の企業が、管理の部署と、調達の部署と、生産の部署と、営業・販売の部署とが一連の業務の流れが悪い企業ならば、本当に意味でWin-Winの関係を構築し、相互の企業業績が向上しない。「論語」のこの言葉は消極的な表現である。恨みをかえば、後で、どこかで仕返しを受けることになる。それを避けなさい、という処世術でしかないようだ。でも、孔子は、そんな浅いことを高弟に指導している訳ではない。彼らは、仁の人になるために、格段の努力をし、「己の欲する所を人に施している」。にもかかわらず、なぜ注意を促したのか。どんな善行であれ、それを善として受け取らず、逆恨みする人間が他方に隠れているからである。そして、己が逆境にあるとき、怨み、妬み、嫉妬を抱く勢力から、自己の善行が立ちゆかなくなる仕返しがくる。それに打ち勝って、始めて善行の仁者となれる。逆境にあったとき、更なる苦境に陥らないためには、悪人にも道を譲る謙虚さが求められる。営業の職は、昔は「外交員」と言われた。自分の目の及ばない背中の側こそ、「外交」の盲点となる。背後で、悪意の人間の怨みを買わないよう、言行を整えるのは疲れる。まして、大企業となれば、人間関係に疲れる。それでも、Win-Winの関係が構築がなんとか構築できないかと努力する。「ザ・ゴール」1と2の主人公、アレックスは、人間関係の疲労を乗り越え、家庭と仕事のギクシャクを乗り越え、最後はCEOに選ばれる。成功談のモデル小説ではあるが、Win-Winの解決策を探すその姿勢を常にイメージとして浮かべておくにこしたことはない。


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「思い込み」が、自己限界の基:土木工学から環境工学に想う

2015年04月06日 | Weblog

人文科学・社会科学の世界では、自然科学のような客観的な議論が成立しないのは、使用される用語の定義が論じる人の語感の違いでずれるからでしょう。自然科学では、英語が国際標準の言語として使用される。なぜなら、そこには客観的な用語の事典が確立しているからである。こうした世界では、仮説の立案から実証実験、再検証という科学認識のスタンダードがある。儒学の世界が、西欧の自然科学に哲学的な基礎を与えたのは、知るべくして知られていない。西欧の科学は、ギリシャ哲学から始まるとしても、その東方起源は疑いえない。西欧は野蛮な太古の歴史が長い。西欧がルネサンスの時代を迎えるころ、朱子学はインド哲学の唯識論を消化し、各自の「思い込み」の源である潜在意識に忍び込む主観の歪みを浄化するために、「格物致知・正心誠意・修身斉家・治国平天下」の知と行との認識を深める哲学を樹立しました。これを更に徹底したのが、「格物致用」をふかめる清朝考証学の立場です。この科学哲学が「治国平天下」という用に結びついたのが、明治初期の「土木」工学の思想です。西欧のシビル・エンジニアリングの訳語として、「土木」の語が使われるようになったのです。その場合、「土」は土壌、「木」は樹木と思い込んだまま、古い土木工学から現代社会に受けが良い「環境工学」へ看板替えが盛んにおこなわれています。しかし、「土」も「木」も、古代中国の元素記号でした。「木、火、土、金、水」が、天理に従って循環運行しているという自然哲学の記号でした。だから、「火」の徳とか、「水」の徳とか、形而上の概念の科学現象として、つまり記号として理解されていたわけです。この自然哲学を「易」の陰陽と結合して、朱子学は「格物窮理」という自然哲学を確立しました。その結果、「宋代の磁器」が生まれました。同時に、火薬の原理も宋代から元代に確立しました。ところが、火薬を殺傷の兵器として洗練させる思想が、朱子学には有りませんでした。それは、孟子の王道を宣揚し、覇道を蔑視する思想のために、軍事科学を軽く見てしまったのです。漢民族が武器、兵器の研究に真剣に取り組みだしたのは、21世紀になってからです。日本の場合は、幕末の「強兵」思想が生まれ、「土木工学」と「軍事工学」とが一体化し、「格物致用」の哲学の具体化へと邁進することになります。極端に、最終需要を「軍事消費」においた<明治維新システム>は、1945年に破綻します。1945年からは、最終需要を「民間消費」においた市場経済システムに転換します。これが、戦後民主主義の「憲法第9条墨守」の社会システムとなります。その結果、「土木工学」は軍事優先を反省し、「シビル・エンジニアリング」に向け、民間市場の活性化にむけ、自動車優先の社会システムに邁進します。「憲法第9条墨守」の社会システムのもと、日本は経済力に応じ、戦勝国クラブである国連への献金が当然の義務だと理解してきましたが、ドイツはすでに戦勝国から免罪符を手に入れています。日本より少ない人口数で、東西のドイツに分断されながら、21世紀のグラーバル・スタンダードの一翼を担っています。そこには、朱子学⇒西欧科学⇒ドイツ哲学という歪みない体系があります。ところが、日本では、知識社会の混乱はまだ続きます。なぜなら、ドイツ語という言語体系が、近代市民のよる宗教改革という革命と整合しているからです。ですから、ドイツ人の間では、用いられる用語の定義が、言語の憲法として守られているからです。明治維新このかた、日本語の人文・社会の世界では、学術に使用される言語が各自の「思い込み」を是認する「心の自由放任を認め」、ロジックではなく、時代の雰囲気、暗黙の了解でなんとなく変化するという進化に慣れ切り、そこに社会が大衆化したために、国家枢要の理研に小保方現象がブロックされないで入り込むAO型入試の甘さが露呈しているわけです。日本語の規範化は、困難でしょう。人文・社会科学の世界でも、グローバル英語、国連英語を規範化せざるを得ないでしょうね。それにしても、誤訳の悩みは忘れたい。


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「おもてなし」研修には、?富山マネジメント・アカデミーの開講前夜

2015年04月04日 | Weblog

新入社員の研修の定番が、「おもてなし」というのは企業経営者の見識が疑われる。新幹線の車内販売で、普通の販売員の何倍もの売り上げをあげた方がカリスマ講師となり、講演会で話を聞いても、「なるほど、そうなのか?」で終わる。ひとつのコツは、方言をすこし織り交ぜるとか・・・。このような「おもてなし」講話は、実は20年くらい前からある。ドイツ車のBMBの売り上げを驚異的に伸ばした女性が、「おもてなし」の元祖である。それは、高級車を購入するエグゼクティブ・クラスの方との交際術に本質がある。この世界では、歩合制である。だから、車を売る前に、人柄を売りなさい、というわけである。こういう研修をやる企業は、販売マシーンとして、各自の能力を開花させるセールス・トーク術など、営業の展開を現場の営業力に全てを委ねる販売技術論へと新人社員を追い込んでいく。それは、ブラック企業ではないしても、「雲」企業である。すっきりしない経験主義、根性主義など、もやもや感の残る研修となる。

 他方、ゴールドラットの制約理論は、顧客とのWin-Winの関係を見出すために、手始めに「雲」を描く。「買って欲しい」が「顧客が耳を傾けてくれない」という対立をいかに顧客とのWin-Winの関係に高めるのか、その思考プロセスが、マネジメント全般の基礎となるポイントである。

 「語り掛け」と「笑顔」は、なぜ必要なのか?それは、営業課題に対する自分内部の「制約条件」に、自己の立ち振る舞いが規定されてくるからである。是非とも、顧客にAという商品やサービスに興味をもってもらいたいということが、自分の喜びとして語れるほど、Aという商品やサービスと「自分」との向き合いに隙間をなくすことである。と同時に、Aという商品やサービスに対し、顧客が抱く先入観を超えた顧客価値を提案できるかどうか、その提案力である。小奇麗な販売カリスマが、歩合制の仕組みでどれだけ売り上げを上げても、「おもてなし」という接客のテクニックでは、新人研修にはならない。「おもてなし」とは、禅宗の茶道が精神文化の基本であり、それと表裏をなす朱子学にも本源が隠れている。つまり、孔子の「仁」への思い、というわけだ。


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