とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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ベトナム戦争終結30年

2005年04月30日 20時40分26秒 | マスメディア
今からちょうど30年前の1975年4月30日。南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)に南ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が侵攻してきて、長い戦乱の歴史にピリオドが打たれた。

ベトナム戦争は人類史上初めてテレビカメラや新聞といったマスメディアが直接戦地を取材し、現場の生々しい状況を伝えた戦争だったと言っていい。
アメリカは北ベトナム(現ベトナム政府)の執拗なゲリラ戦法に敗れたというよりも、この報道によって沸騰した世論によって敗北したといっても過言ではない。

戦争を取材したジャーナリストは数多い。
初期の、まだインドシナ紛争と言われていた頃に地雷を踏んで死亡したロバート・キャパが最も知られているが、日本人ジャーナリストも少なくない。
沢田教一、岡村昭彦といったカメラマンや産経新聞の近藤紘一、作家の開高鍵などが有名だ。
彼らの写した写真やレポートが日本だけでなく世界に大きな影響を与えたことは、今ではあまり知る人はいないようだ。

日本人にとってベトナム戦争は本来、とても重要な歴史なのである。
今日、多くの歴史学者が指摘するようにベトナム戦争は第二次世界大戦から継続した戦争であったという説が強くなってきている。
戦争当時、確かに米ソによる共産主義と自由主義のイデオロギーの代理戦争という側面もあったが、30年間経った現在から見ると、ベトナム戦争は明らかな独立戦争であったことが認められる。

日本人がフランスの親独ヴィシー政権と手をにぎり仏印を統治した1941年から45年まで、ベトナム人は日本人の強烈な力に圧せられながらも、アジアの手本として日本人を見つめていた。
そして日本人と同席すると、彼らは秘かに日本人と手を合わせ「同じ色、同じアジア、独立です」と言っていたのだ。
日本が敗戦してホーチミンが独立を宣言すると、荒廃した自国に再び富をもたらすためにフランス人が帰ってきた。
そして「独立ほど尊いものはない」と語ったホーチミンの言葉通り、彼らは独立を勝ち取るために30年にわたる闘争に突入していたのだった。

今日、たくさんのベトナム戦争終結30周年記念のテレビ番組が放送されるのだろうとてっきり思っていたら、NHK-BSの1番組を除き、まったく放送されることはなかった。
日本の報道機関というのはアジアといえば中国か南北朝鮮で、東南アジアや南アジアは関係ないと考えているようだ。そのために間違った知識や情報の不足から多くの誤解が生じ、国民に不利益が生じていることに気づかない。
たとえばベトナムには寿会という日本人会がある。かつて一兵士としてベトナム戦争に従軍した元帝国日本兵たちの会である。ベトナムには祖国を離れ、異国の独立のために闘った勇敢な日本人がいることを私たちは知らない。
また、ベトナム戦争後、多くの難民が現出したが、彼らを容易に我が国へ受け入れなかったことを非難する人たちがいた。これも情報がきっちりと伝わればなぜ日本政府が難民受け入れを拒んだか理解できる。難民のほとんどは華僑という中国人であったのだ。

今日、解放記念日の報道や新聞紙面、番組作りを見ていると、日本のジャーナリズムはなにが重要で、何がそうでないか、30年経っても理解できていないことを改めて知り、呆然とするのだった。