13日(日).昨日午前,当マンションの理事会がありました.管理費長期滞納者に対する訴訟の件,大規模修繕計画に基づく管理費値上げの件と重大な議題が目白押しなのに,出席者は10人中5人です いつも思うのですが,何なんでしょうかこの有り様は
1度も顔を見たことのない役員もいます.権利ばかり主張して義務を果たさないのはこういう人たちです
本人に何か起こっても助ける気持ちは起きませんね
ということで,わが家に来てから338日目を迎え,おねーちゃんに毛づくろいしてもらって大量の毛が抜けたモコタロです
今は毛が抜ける時期なんだよ 毛づくろいはくすぐったいんだよね
こんなに毛が抜けたけど まだ片側だけなんだよね
閑話休題
昨夕,サントリーホールで東京交響楽団の第633回定期演奏会を聴きました プログラムはマーラー「交響曲第3番ニ短調」です.指揮は音楽監督ジョナサン・ノット,メゾ・ソプラノは藤村実穂子,児童合唱は東京少年少女合唱隊,女声合唱は東響コーラスです
開演前に,女声コーラス陣がP席に三々五々座って行きます.そしてオケのメンバーが指定の席に着きます ノットの指揮の時は,左奥にコントラバス,前に第1ヴァイオリン,右にチェロ,ヴィオラ,第2ヴァイオリンという対向配置をとります.しかし,児童合唱はいったいどこ? P席には80数名しかコーラスがいないので,そこにスタンバイすることができるはずです.しかし,いません
指揮台の前にはいつものように譜面台はありません.ノットは100分にも及ぶ第3番でも暗譜で指揮をします
マーラーの第3交響曲は1895年~96年に作曲されました.ということは今から125年前の曲ということになります 作曲当時,マーラーはこの曲を2部構成とし,各楽章に標題を付けていました
全曲のタイトルは「夏の朝の夢」で,第1部は「序奏:牧神(パン)の目覚める」で,第1楽章「夏が行進してくる(バッカスの行進)」です
第2部は第2楽章~第6楽章で,第2楽章は「野の花たちがわたしに語ること」,第3楽章は「森の動物たちがわたしに語ること」,第4楽章が「人間がわたしに語ること」,第5楽章が「天使がわたしに語ること」,第6楽章が「愛がわたしに語ること」となっています
マーラーは,最終的にはこれらの標題を削除しましたが,プログラムの中でノットが語っているように,マーラーは「これまでの常識を超えた極めて大胆で斬新な自作を少しでもよく聴衆に理解してほしかった.初演の際,なによりもまず作品に耳を傾けてほしかった.そのための最も単純な方法として言葉を頼りにした
」のでしょう.しかし,標題があると,聴衆がそれに囚われて自由に聴くことができなくなってしまう,として削除したのでしょう.しかし,実際にこの曲を聴く際には,この標題を頭に入れて聴くとここの曲に対する理解が深まるような気がします
第1楽章の冒頭は8本のホルンが「バッカスの行進」を力強く演奏します その後はトロンボーンが大活躍します.このトロンボーンがべら棒に上手いのです
クラリネットやオーボエが総奏で吹く時はマーラーの指示に従って,楽器の先を持ち上げて吹き,音が会場に直接的に届くようにします
第1楽章だけで30分以上もかかります.モーツアルトの後期交響曲なら1曲がまるまる収まってしまいます 第1楽章が終わったところでチューニングが入ります.と同時に,遅刻者を各席に迎え入れます
第2楽章はオーボエとクラリネットが「野の花たちがわたしに語ること」をやさしく奏でます この楽章が終わると,ソリストの藤村実穂子が入場し指揮者の左にスタンバイします
そして,第3楽章「森の動物たちがわたしに語ること」に入りますが,この楽章は極めてアイロニカルな曲想です.自虐的と言っても良いかもしれません.後半には舞台裏でポスト・ホルンが長大なソロを奏でますが,2階のパイプオルガンの右側の扉が開けられていて,扉の向こう側でモニターに映された指揮者を見ながらトランペット奏者がポスト・ホルン(郵便ラッパ)を演奏しているのです
続く第4楽章は「人間がわたしに語ること」です.ここでアルトが歌うのは,ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節です.「おお人間よ!」と藤村の歌声を聴いたら,やっぱり凄いな,と思いました そんなに力んでいる訳でもないのに底から湧きあがってくるような深みのある歌声です
バイロイト音楽祭でワーグナーを歌っていたというのも頷けます
第5楽章の「天使たちがわたしに語ること」に入ると,自席からは後方の,2階右サイドの方向から鐘の音とともに児童合唱が聴こえてきました そうか,2階にいたのか
あえて女声合唱と離して,向かい合う配置にして立体感を持たせたわけです
そして,間を置くことなく第6楽章「愛がわたしに語ること」に移ります マーラーは「アダージョ(第6楽章)はすべてが平安と存在感のうちに解決される」と語ったと言われていますが,この楽章は天国的な静けさと美しさに満ちています
ノットはプログラムの中でマーラーの交響曲第3番について,
「この交響曲はリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』に似ている.すなわちアンチ・キリスト教交響曲.両者とも神はいないというところから出発している」
と語っています.さらに,
「マーラーは,この交響曲の中で,自分自身がそれ(ニーチェの「永劫回帰思想」)を信じたかったと思う でも,信じ切ることは出来なかった.その確信の揺れが,そのまま取り入れられて,あらゆる可能性を含んだ素晴らしい交響曲が出来上がった
」
と語っています.つまりノットによれば,マーラーは,神を無条件に信じる立場になかったが,ニーチェのように「神は死んだ」という境地にまで達することは出来なかった.その間の中途半端な立場で心の揺れを感じながら矛盾した音楽を作曲していったということでしょうか
第6楽章のアダージョに絞って考えてみると,私はブルックナーのアダージョとマーラーのアダージョの違いに興味を持ちます ブルックナーは「神のために」音楽を書きました.彼にとって神がすべてでした
しかし,マーラーはどうだったか.彼は37歳の時に,結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリック教に改宗しています.そしてその年にウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に就任しています.マーラーは自分の人生が良くなるのであれば,宗教を変えることなど何でもなかったのだと思います.その意味では,マーラーのアダージョはあくまでも神とは無縁の純粋な音楽なのだと思います
さて,第6楽章が静かに終わり,最後の音が消えると,まだノットのタクトが下りていないのに,フライングの拍手とブラボーが掛かりました どうして我慢が出来ないのでしょうか
第一に指揮者とオケに対して失礼千万な行為で,第二に余韻に浸りたい聴衆に対して無礼な行為です
最近のコンサートにおけるフライングの実態を振り返ってみると,共通した現象として,フライングをする犯人は1階席ではなく,2階席か3階席にいるということです
必ず上の方からブラボーや拍手が聞こえてきます.自己チューの行為は本当にやめてほしいと思います.はっきり言って,その行為はクラシック音楽界では犯罪です
カーテン・コールには2階にいた児童合唱団も1階のステージに降り,オケの面々,ソリストの藤村実穂子,女声合唱,合唱指揮者,ポスト・ホルン奏者とともに大きな拍手とブラボーを浴びていました 私はマーラーの交響曲が大好きで,中でも第3番が一番好きです.その意味では,フライング事件を除けば,今回のコンサートは最高でした