守田です。(20110513 03:30)
大崎の夜の続きを書きます。
実はこの日、僕にとって特別な方が、会場に来られていました。大崎在住の
Sさんです。彼女は僕の友達の富家香さんの友だちです。富家さんと僕は
ピースウォーク京都での活動を共にしてきました。とくにアフガニスタンで
医療援助から井戸掘り、運河建設までおこなっているペシャワール会を支援
する活動をいろいろな形で共に担ってきた。
その富家さん。今年の3月19日に結婚式を予定していて、僕はお招きを受け、
もちろん参加を決めていました。しかも式は、国宝の奈良の薬師寺で行うという。
とても楽しみでした。ところがその直前の3月11日にあの災害が起こってしまった。
彼女も悩んだそうですが、僕も参加するかどうか悩みました。
原発のウォッチをひと時も休んではいけない気がしたのです。
そんなとき、同じく結婚式に招待されていて、4月3日の脱原発京都デモを呼び
かけた橋本さんが、僕にこんなことを言いました。「もし富ちゃん(富家さんの
こと)が、こんなときに結婚式なんてともうしわけなさそうな顔をしたら、「こんなとき
だからこそ、結婚式をやろうぜ」と言ってやるんだ!」と。笑いながらそう語る
橋本さんを僕はかっこいいと思った。それで僕も出席を決めました。
結婚式は予定通り、薬師寺で行われ、披露宴はバスで移動して菊水楼という
老舗で行われました。その披露宴の開始にあたって、富ちゃん、慣例を
破って、新婦からのあいさつを行った。そして彼女は開口一番、今日は
新婦側の列席者で出席してない人がいますと、ひとつだけある空席を
示しました。
「その席は私の友人で気仙沼に実家があります。私はユネスコの活動で
毎年、気仙沼でキャンプを行ってきました。それを一緒にやっていた友人が
今日、かけつけてくれることになっていたのに、来れなくなりました。いや
そもそも連絡が取れずにとても心配しました。数日前に元気な声がきけ
ましたが、これなくなったと聞きました。」
「東日本でたくさん被災されている方がいます。今日も、停電の続く関東方面
からも来て下さった方もいます。このような状況の中で結婚式を行うかどうか
私たちも悩みました。でも今、自分に何が出来るか考え、私たちはやっぱり
結婚式をやろうと思いました。それが私に今できること、することだと私は
思いました。」・・・彼女はそんな風に語りました。
そうして始まった披露宴もとても素敵でした、菊水楼の料理も、もてなしの
心が尽くされていてとてもおいしかった。富ちゃんと新たなパートナーの
細やかな心が伝わってきました。そして結婚式や料理を、心から楽しんで
いるうちに、なんだか僕はとても癒されていくのを感じました。原発
ウォッチでがちがちになっていた心が、ゆっくりとほぐれていった。
僕は彼女のためにと列席したのですが、自分のために良かったのでした。
それでこんなときに、結婚式をやってくれてありがとうと心の底から思いました。
そうなのです。僕が必死で原発のウォッチをしているのも、こういう幸せの
ためなのです。こういう幸せを守り、育み、みんなで育てていきたいからこそ
原発事故に取り組んでいるのです。
そんな僕の心の中の原点、いや多くの人の幸せの原点を思い起こさせて
くれる素敵な結婚式だったがゆえに、僕は残念ながら出席できなかった
富ちゃんの友人のことがとても気になりました。気仙沼の火災が忘れられない
だけに、余計に心配でした。それで何か彼女の分も、結婚式を祝い、そして
自分が楽しみ、喜びたいと思ったのでした。
それからわずか2カ月足らず。僕は今、気仙沼のそばに来ています。3月19日
の時点で、僕は気仙沼へのいかなるつても持っていなかった。アビスさんとも
出会っていなかった。ところが不思議なことに、翌日20日に、山水人の方たちが
京都で行った会合に僕は吸い寄せられるように参加して、祖牛さんと知り合った
のでした。そうして山水人MLへのお誘いを受けた。
やがて僕はこのMLへの投稿を始めると同時に他のみなさんのものを読むように
なり、その中で、アビスさんの気仙沼からの便りに目を魅かれるようになった
のです。僕が動かされたのは、一つにアビスさんの文体の独特の魅力である
ことは間違いないのですが、同時にそれが、富ちゃんの友だちにつながりの
ある気仙沼からの便りでもあるからでした。
そうして僕はアビスさんの便りを友人たちにまわして、支援を呼びかけはじめた。
多くの方たちがそれにこたえてくださった。そうする中で、アビスさんとも連絡を
重ねるようになった。忘れもしない、初めて電話で話をしたとき、僕はアビスさんに
「何か機会があったら、僕も気仙沼に行きたいと思っているんです」と語ったの
でした。そんな展望など何もないままに。
しかしそうこうしているうちに、車が出て来て、僕が乗り込んで、こうしてとうとう
東北まで来てしまった。そうして大崎でお話をすることになった。そうしたら富
ちゃんから、メールがきて、「友だちのSさんが参加するから」という。なんと
いう偶然の重なりでしょう。いやもうこれは一つの必然であったとしか思えない。
何かが僕を気仙沼に呼んだのではないか。何かが気仙沼に向かわせたのでは。
そうして昨夜、僕はSさんにお会いしました。僕は携帯で撮っていた富ちゃんの
結婚式の写真を彼女に見せました。こんなときが来るとは思わず、何気なしに
撮った写真でした。それで僕は彼女に結婚式の「匂い」を届けることができた
ように思います。それはこの東北の旅の副産物の一つです。・・・彼女は
富ちゃんの結婚式の写真を、とても楽しそうに見てくださいました。
さてそんな思いも込めたお話の場が終わり、会場を出ました。が、みなさん、
冷めやらず。話の輪が咲いています。そんなとき、デモと署名と・・・と質問して
くれた方が話しかけて来てくれました。彼の名はウビンデ・ユタカさん。お連れ
合いと2人、伊豆から気仙沼ボランティアに駆けつけ、その足で、大崎まで話を
聞きにきてくださったのです。ここにも気仙沼に引きひせられた人がいる。
彼もまた山水人MLの参加者です。凄い迫力の中にユーモアのある絵を描く現代
作家さんですが、伊豆の山奥にいて、なかなか情報が取れない状態にあるのだ
とか。そのためわざわざときおり山を降りて来て、山水人MLをチェックし、その
ときに「明日に向けて」も読んで参考にしてくださっているのだそうです。なんだか
とてもありがたい気がしました。
その後、2次会の場へと移動しました。そこにも10人以上が集まって下さり、いろ
いろな話が飛び交いました。中でも印象的だったのは、indeadでギターを弾いて
いたタックさんの言葉です。彼はタイコのリョウタさんが、僕に大崎の汚染の
状態を聞いたとき、同じことを聞きたいと思ったそうです。しかもできるだけ
率直に聞きたい。危険なら危険と言って欲しいと思ったのだとか。
そのタックさん、小さいお子さんが2人いて、原発事故に対して非常に強い
危機感を持ち、子どもたちにマスクをさせることからはじめ「過敏な」防護を施した
そうです。外でも遊ばせないようにしたという。でもだんだん子どもがマスクを
嫌がり、外で思い切り遊びたがることに対して、どうしていいか分からなくなった
とも。タックさん、とにかく自分は「過敏だったから」という。
僕は違うと言いました。その行為は凄く正しかった。タックさんは、お子さんたちに
素晴らしいプレゼントをした。いつかお子さんたちが、物心がついて、事態が
分かった時、お父さんは自分を守ろうとしてくれたことをしみじみと知ることに
なる。それは素晴らしいことだと、僕は力を込めて語りました。いや本当にそう
思った。
同時に、福島原発から140キロの大崎でも、事故のことを深く心配し、子ども
たちを何とか守ろうとした親たちが、こうしていたことを知り、何か胸が熱く
なるのを感じました。同時に、だからこそ、安全ばかりを語って、人々の
防護意識を壊そうとしてる政府のあり方に、再再度、腹が立ちました。感動と
怒りがないまぜになって僕を襲いました・・・。
さらに僕の横には、会場でも真剣に質問をしれたHさんが、座わってくれていて
帰り際に、その横にいたお連れ合いを紹介してくれました。実はお二人は
最近、結婚されたのだといいます。しかもこの事態の中でこそ、未来を考え、
結婚をしたのだといいます。僕は何か嬉しくなってしまいました。「こんなときに
結婚して下さってありがとう」と僕いいました。きっと誰かが癒されただろうからです。
そうしたらHさん、あとで電話をくれました。彼はサーファーでもあるのですが、
友人のサーファーたちが、海の日以降、宮城の海岸で海に入ろうと言いだしてるが
大丈夫かと言うのです。僕は安全とは言えないデータがいろいろ出ていると
お伝えしましたが、そうしたらHさん、ただ語ってもダメなので、しっかりとした
パンフレットを作るという。アドバイスを頼まれたので、もちろん、快諾しました。
こんな風に話がいろいろと盛り上がる中で、最後の方に、大崎でも脱原発デモを
してはどうかともちかけてみた。そうしたら講演会には参加しなかったけれども
興味深く話を聞いていた方が、自分は原発の危険性をこれまでも伝えてきた。
だから「知らなかったのですか?言ってたじゃないですか!」と自分は言いたいと
言う。
ところが彼はこれを地元の言葉でしゃべった。「しゃねがったのすかや。いってだ
すぺっちゃやあ!」・・・それいい!僕は思わず笑いながら叫んでしまった。「それ
教えてください」。そうしたらみんな笑いながら僕に発音指導をしてくれる。でも
僕はなかなかうまく発音できない。何度か繰り返し聞き取りをし、携帯電話を
使って文字におとしておいたのがカッコ内の言葉です。
「しゃねがったのすかや」。そうなんです。知らなかったのですか?「いってだす
ぺっちゃやあ」、言ってたじゃないですかと僕も言いたいし、言わなくてないけない
と思う。そしてそれを言うことで流れが変えられると思うのです。そしてどうせなら
それは固い「標準語」ではなくて、それぞれの地の言葉で語られるともっと
パワーが出るように思います。大崎なら「しゃねがったのすかや」でなくっちゃ!
とまあ昨夜は本当に熱い時間を過ごすことができました。新たに出会えた
すべてのみなさんに感謝です!
大崎の夜の続きを書きます。
実はこの日、僕にとって特別な方が、会場に来られていました。大崎在住の
Sさんです。彼女は僕の友達の富家香さんの友だちです。富家さんと僕は
ピースウォーク京都での活動を共にしてきました。とくにアフガニスタンで
医療援助から井戸掘り、運河建設までおこなっているペシャワール会を支援
する活動をいろいろな形で共に担ってきた。
その富家さん。今年の3月19日に結婚式を予定していて、僕はお招きを受け、
もちろん参加を決めていました。しかも式は、国宝の奈良の薬師寺で行うという。
とても楽しみでした。ところがその直前の3月11日にあの災害が起こってしまった。
彼女も悩んだそうですが、僕も参加するかどうか悩みました。
原発のウォッチをひと時も休んではいけない気がしたのです。
そんなとき、同じく結婚式に招待されていて、4月3日の脱原発京都デモを呼び
かけた橋本さんが、僕にこんなことを言いました。「もし富ちゃん(富家さんの
こと)が、こんなときに結婚式なんてともうしわけなさそうな顔をしたら、「こんなとき
だからこそ、結婚式をやろうぜ」と言ってやるんだ!」と。笑いながらそう語る
橋本さんを僕はかっこいいと思った。それで僕も出席を決めました。
結婚式は予定通り、薬師寺で行われ、披露宴はバスで移動して菊水楼という
老舗で行われました。その披露宴の開始にあたって、富ちゃん、慣例を
破って、新婦からのあいさつを行った。そして彼女は開口一番、今日は
新婦側の列席者で出席してない人がいますと、ひとつだけある空席を
示しました。
「その席は私の友人で気仙沼に実家があります。私はユネスコの活動で
毎年、気仙沼でキャンプを行ってきました。それを一緒にやっていた友人が
今日、かけつけてくれることになっていたのに、来れなくなりました。いや
そもそも連絡が取れずにとても心配しました。数日前に元気な声がきけ
ましたが、これなくなったと聞きました。」
「東日本でたくさん被災されている方がいます。今日も、停電の続く関東方面
からも来て下さった方もいます。このような状況の中で結婚式を行うかどうか
私たちも悩みました。でも今、自分に何が出来るか考え、私たちはやっぱり
結婚式をやろうと思いました。それが私に今できること、することだと私は
思いました。」・・・彼女はそんな風に語りました。
そうして始まった披露宴もとても素敵でした、菊水楼の料理も、もてなしの
心が尽くされていてとてもおいしかった。富ちゃんと新たなパートナーの
細やかな心が伝わってきました。そして結婚式や料理を、心から楽しんで
いるうちに、なんだか僕はとても癒されていくのを感じました。原発
ウォッチでがちがちになっていた心が、ゆっくりとほぐれていった。
僕は彼女のためにと列席したのですが、自分のために良かったのでした。
それでこんなときに、結婚式をやってくれてありがとうと心の底から思いました。
そうなのです。僕が必死で原発のウォッチをしているのも、こういう幸せの
ためなのです。こういう幸せを守り、育み、みんなで育てていきたいからこそ
原発事故に取り組んでいるのです。
そんな僕の心の中の原点、いや多くの人の幸せの原点を思い起こさせて
くれる素敵な結婚式だったがゆえに、僕は残念ながら出席できなかった
富ちゃんの友人のことがとても気になりました。気仙沼の火災が忘れられない
だけに、余計に心配でした。それで何か彼女の分も、結婚式を祝い、そして
自分が楽しみ、喜びたいと思ったのでした。
それからわずか2カ月足らず。僕は今、気仙沼のそばに来ています。3月19日
の時点で、僕は気仙沼へのいかなるつても持っていなかった。アビスさんとも
出会っていなかった。ところが不思議なことに、翌日20日に、山水人の方たちが
京都で行った会合に僕は吸い寄せられるように参加して、祖牛さんと知り合った
のでした。そうして山水人MLへのお誘いを受けた。
やがて僕はこのMLへの投稿を始めると同時に他のみなさんのものを読むように
なり、その中で、アビスさんの気仙沼からの便りに目を魅かれるようになった
のです。僕が動かされたのは、一つにアビスさんの文体の独特の魅力である
ことは間違いないのですが、同時にそれが、富ちゃんの友だちにつながりの
ある気仙沼からの便りでもあるからでした。
そうして僕はアビスさんの便りを友人たちにまわして、支援を呼びかけはじめた。
多くの方たちがそれにこたえてくださった。そうする中で、アビスさんとも連絡を
重ねるようになった。忘れもしない、初めて電話で話をしたとき、僕はアビスさんに
「何か機会があったら、僕も気仙沼に行きたいと思っているんです」と語ったの
でした。そんな展望など何もないままに。
しかしそうこうしているうちに、車が出て来て、僕が乗り込んで、こうしてとうとう
東北まで来てしまった。そうして大崎でお話をすることになった。そうしたら富
ちゃんから、メールがきて、「友だちのSさんが参加するから」という。なんと
いう偶然の重なりでしょう。いやもうこれは一つの必然であったとしか思えない。
何かが僕を気仙沼に呼んだのではないか。何かが気仙沼に向かわせたのでは。
そうして昨夜、僕はSさんにお会いしました。僕は携帯で撮っていた富ちゃんの
結婚式の写真を彼女に見せました。こんなときが来るとは思わず、何気なしに
撮った写真でした。それで僕は彼女に結婚式の「匂い」を届けることができた
ように思います。それはこの東北の旅の副産物の一つです。・・・彼女は
富ちゃんの結婚式の写真を、とても楽しそうに見てくださいました。
さてそんな思いも込めたお話の場が終わり、会場を出ました。が、みなさん、
冷めやらず。話の輪が咲いています。そんなとき、デモと署名と・・・と質問して
くれた方が話しかけて来てくれました。彼の名はウビンデ・ユタカさん。お連れ
合いと2人、伊豆から気仙沼ボランティアに駆けつけ、その足で、大崎まで話を
聞きにきてくださったのです。ここにも気仙沼に引きひせられた人がいる。
彼もまた山水人MLの参加者です。凄い迫力の中にユーモアのある絵を描く現代
作家さんですが、伊豆の山奥にいて、なかなか情報が取れない状態にあるのだ
とか。そのためわざわざときおり山を降りて来て、山水人MLをチェックし、その
ときに「明日に向けて」も読んで参考にしてくださっているのだそうです。なんだか
とてもありがたい気がしました。
その後、2次会の場へと移動しました。そこにも10人以上が集まって下さり、いろ
いろな話が飛び交いました。中でも印象的だったのは、indeadでギターを弾いて
いたタックさんの言葉です。彼はタイコのリョウタさんが、僕に大崎の汚染の
状態を聞いたとき、同じことを聞きたいと思ったそうです。しかもできるだけ
率直に聞きたい。危険なら危険と言って欲しいと思ったのだとか。
そのタックさん、小さいお子さんが2人いて、原発事故に対して非常に強い
危機感を持ち、子どもたちにマスクをさせることからはじめ「過敏な」防護を施した
そうです。外でも遊ばせないようにしたという。でもだんだん子どもがマスクを
嫌がり、外で思い切り遊びたがることに対して、どうしていいか分からなくなった
とも。タックさん、とにかく自分は「過敏だったから」という。
僕は違うと言いました。その行為は凄く正しかった。タックさんは、お子さんたちに
素晴らしいプレゼントをした。いつかお子さんたちが、物心がついて、事態が
分かった時、お父さんは自分を守ろうとしてくれたことをしみじみと知ることに
なる。それは素晴らしいことだと、僕は力を込めて語りました。いや本当にそう
思った。
同時に、福島原発から140キロの大崎でも、事故のことを深く心配し、子ども
たちを何とか守ろうとした親たちが、こうしていたことを知り、何か胸が熱く
なるのを感じました。同時に、だからこそ、安全ばかりを語って、人々の
防護意識を壊そうとしてる政府のあり方に、再再度、腹が立ちました。感動と
怒りがないまぜになって僕を襲いました・・・。
さらに僕の横には、会場でも真剣に質問をしれたHさんが、座わってくれていて
帰り際に、その横にいたお連れ合いを紹介してくれました。実はお二人は
最近、結婚されたのだといいます。しかもこの事態の中でこそ、未来を考え、
結婚をしたのだといいます。僕は何か嬉しくなってしまいました。「こんなときに
結婚して下さってありがとう」と僕いいました。きっと誰かが癒されただろうからです。
そうしたらHさん、あとで電話をくれました。彼はサーファーでもあるのですが、
友人のサーファーたちが、海の日以降、宮城の海岸で海に入ろうと言いだしてるが
大丈夫かと言うのです。僕は安全とは言えないデータがいろいろ出ていると
お伝えしましたが、そうしたらHさん、ただ語ってもダメなので、しっかりとした
パンフレットを作るという。アドバイスを頼まれたので、もちろん、快諾しました。
こんな風に話がいろいろと盛り上がる中で、最後の方に、大崎でも脱原発デモを
してはどうかともちかけてみた。そうしたら講演会には参加しなかったけれども
興味深く話を聞いていた方が、自分は原発の危険性をこれまでも伝えてきた。
だから「知らなかったのですか?言ってたじゃないですか!」と自分は言いたいと
言う。
ところが彼はこれを地元の言葉でしゃべった。「しゃねがったのすかや。いってだ
すぺっちゃやあ!」・・・それいい!僕は思わず笑いながら叫んでしまった。「それ
教えてください」。そうしたらみんな笑いながら僕に発音指導をしてくれる。でも
僕はなかなかうまく発音できない。何度か繰り返し聞き取りをし、携帯電話を
使って文字におとしておいたのがカッコ内の言葉です。
「しゃねがったのすかや」。そうなんです。知らなかったのですか?「いってだす
ぺっちゃやあ」、言ってたじゃないですかと僕も言いたいし、言わなくてないけない
と思う。そしてそれを言うことで流れが変えられると思うのです。そしてどうせなら
それは固い「標準語」ではなくて、それぞれの地の言葉で語られるともっと
パワーが出るように思います。大崎なら「しゃねがったのすかや」でなくっちゃ!
とまあ昨夜は本当に熱い時間を過ごすことができました。新たに出会えた
すべてのみなさんに感謝です!
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