守田です(20180814 08:00 バルセロナ時間)
バルセロナのホテルからです。みなさま、いよいよ今回の旅の最終日を迎えました。一昨日の夜にナルボンヌから列車でバルセロナに移動し、一日を経て、今日、帰国の旅につきます。上海経由で明日15日の遅い時間に帰り着きます。
旅の報告の最後に、8月6日に今回のキャンプで行われたすべてのプレゼンのトップを飾ってお話させていだいた僕のスピーチの日本語原稿をお届けします。長いので2回に分けます。どうかお読みください。
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隠された原爆被害と核をめぐる日本の現状
私は日本の京都市在住のジャーナリストです。私の父は広島原爆のサバイバーの一人です。母は東京大空襲のサバイバーの一人です。そのため私は戦争と核兵器、核エネルギーが大嫌いです。そのため私は福島原発事故以降、人々を放射線から守るために奔走してきました。
1、広島・長崎原爆を振り返る
1945年8月6日、いまから73年前の朝8時15分、アメリカ軍が原子爆弾を広島に落としました。この攻撃で推定14万人の人々が1945年12月末までに殺されました。9日には長崎にも原爆が落とされました。やはり1945年末までに約7万4千人が殺されました。
被爆者はその後もさまざまな病で命を落としてきました。殺された総数はもっとずっと多いのです。しかもこの時、爆心地に最もたくさんいたのは子どもたちでした。死亡数と年齢を示したグラフには広島では13歳の子どもたちが最も殺されたことが分かります。
原爆はこの点だけからも無差別大量殺人であり戦争犯罪です。アメリカは謝罪すべきです。私はこのことを集まったみなさんと一緒に確認したい。アメリカの植民地政府である日本政府は一度も謝罪を要求していませんが、私は謝罪を求め続けます。
2、原爆投下は人体実験だった。戦争犯罪だ!
みなさん。なぜ原爆は2個落とされたのか、理由をご存じですか?答えはアメリカが二つのタイプの原爆を作ったからです。一つは濃縮ウランで作った原爆、広島に落とされました。もう一つはプルトニウムで作った原爆、長崎に落とされました。アメリカは二つの計画を同時に走らせました。どちらがより有効か試す必要があったのです。その結果、二つのタイプができたのでどうしても二つ、落としたかったのです。
さらに広島への8時15分という投下時間に重い意味があります。この時間は広島の人々の通勤時間で、この時、広島市近郊からも中心部に人が集まってきていました。
しかも移動中だったので広島市内で最も多くの人々が建物の外にいました。アメリカ軍は投下前にたくさんの偵察機を飛ばして写真を撮り、この時間を割り出したのです。できるだけたくさんの人々に放射線と熱線と爆風を浴びせかけるためです。投下が夜中だったら被害はもっとずっと少なかったでしょう。
このことを昨年、日本のNHKがドキュメントで初めて可視化しました。当日の55万7千人の行動データをCGで再現したのです。これをみなさんにお見せします。青い線が広島市の郊外からも中心部に集まってきていることが分かります。アメリカはこのように人々が一番多い時を狙って原爆を落としたのでした。
アメリカの原爆投下は明らかに人体実験でした。そもそも当時、日本軍の主力は壊滅状態で交戦能力もありませんでした。にもかかわらずアメリカは戦争をあえて続行し、原爆による人体実験を行ったのでした。
3、広島・長崎の被害報道をもみ消し、禁止したアメリカ
さて今日、みなさんとシェアしたい大きなポイントはさらにその次にあります。こうして行われた原爆投下による人体への影響、被曝による被害の実態がアメリカ軍によってかなり低く見積もられてきたという事実です。
原爆が投下され、15日に日本が降伏した後に、アメリカとイギリスの新聞記者が広島潜行ルポを行いました。『ニューヨーク・タイムズ』は「原子爆弾は、いまだに日に100人の割合で殺している」と、ロンドンの『デイリー・エクスプレス』は「広島では・・・人々は『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている」と書きました。1945年9月5日のことでした。
これに対してアメリカ軍はすぐにマンハッタン計画副責任者ファーレル准将に東京で記者会見させ、9月6日に「死すべき人は死んでしまい、九月上旬において、原爆で苦しんでいる者は皆無だ」と発表しました。実際には死者が続出していたのにです。
さらに1945年9月19日にはプレスコードによって原爆報道を全面的に禁止。すべての記者を追い出し「原爆被害の全資料を占領軍の管轄下におく」と声明しました。
アメリカが恐れたのは放射線被曝の大きな危険性が被爆地から世界に伝わることでした。そもそも被曝の危険性は1927年に生物学者のH・Jマラーが、ショウジョウバエに放射線を当てると遺伝子を傷つけ、次世代へ著しい影響が起きることを証明したことで知られていました。このため遺伝学者などから激しい批判が台頭し、ヨーロッパを中心に核兵器反対運動が起こりました。
アメリカは核兵器の精度をあげるための大気圏内核実験を繰り返していたため、科学者たちの声をおさえないと核戦略が維持できませんでした。そのため広島・長崎から報道陣を追い出し、厳重な支配下で都合のいい被曝被害調査を始めたのでした。
4、被曝影響を小さく見せるテクニック=内部被曝の無視
アメリカによる被曝被害隠しのテクニックはシンプルでした。被曝の影響を初期放射線(Initial radiation)だけに限ったのです。初期放射線とは原子爆弾が爆発した時に出た放射線のことで、主に中性子線とガンマ線です。身体の外からあたるので「外部被曝」と呼ばれます。アメリカは初期放射線の被害は爆心地から半径2キロ以内に限られていたと主張し、その外にいた人々の調査をあえてしませんでした。
しかし実際には人々は原爆が作りだした広範な死の灰によっても激しく被曝していました。原爆が作りだした原子雲は放射性物質の塊で、半径2キロ以内どころか、数十キロの地域の下に放射性物質を降らせました。人々はこれを身体の内側に取り込み、内部被曝をしましたが、アメリカはこの被害を一切、カウントしませんでした。
こうしてアメリカは内部被曝の影響をほとんど無視した「放射線防護学」を作りだしました。被爆者に対する嘘の調査を基礎データとしていました。今日、ICRPが出している勧告もこの虚構の上に作られています。
5、 内部被曝の影響を隠したままアメリカは核実験を繰り返した
アメリカは内部被曝隠しを行ったのは核戦略を守るためでした。アメリカは旧ソ連と核実験競争を繰り返したので放射線被曝の危険性を知られたくなかったのでした。
アメリカとソ連は戦後直後から大気圏内核実験を共に禁止した1963年までそれぞれ215回、219回も大気圏内核爆発を行い、たくさんの放射能を世界にばらまきました。イギリスもこの禁止条約に加わりましたが、それまで21回の大気圏内核実験を行いました。
フランスは1963年後も大気圏内核実験を続け、50回も放射能を世界に撒きました。中国も22回も大気圏内核実験を繰り返しました。
こうして作りだされた放射能の雲は日本、ヨーロッパやユーラシア大陸、アメリカ本土をも覆いました。放射能はあらゆる地域で命を被曝させました。
しかし残念ながら今日にいたるも世界中の多くの人々がこうした内部被曝の影響をほとんど無視した「放射線防護学」に騙されたままです。世界中が深刻な被曝をうけたことが隠され続けています。だから今日、私はこう言いたいのです。被爆者とは誰なのか。被爆2世3世とは誰か。それは私だけでなくここにいるみなさん全体なのだと。私たちはこれへの怒りを胸に核の灯を無くすために努力する必要があります。
続く
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