明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(990)原発事故が明らかにしたウクライナの苦しみと世界の危機(ポーランドを訪れて-7)

2014年12月07日 01時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141206 23:30)

11月28日に発生したウクライナ・ザポリージャ原発3号機の事故は、放射能漏れに発展することなく収束し、同原子炉は現地時間の5日午後10時に再稼働した模様です。
しかし今回の事故はあらためてウクライナの抱えている苦しみ=構造的危機を世界に示すものではなかったかと思います。
残念ながら日本の中でも世界の中でもこうした観点から事故とその背景を分析しているものはありませんでしたが、重要な点ですのでここでまとめておきたいと思います。

これまで僕はポーランドでの国際会議から戻り、現地でウクライナの方たちと出会ったことなどにも刺激されて、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシの歴史を振り返る作業を重ねてきました。
その中で次第に見えてきたのが、現在のウクライナの政治的混乱の大きな規定要因となっているものが、チェルノブイリ原発事故だということでした。
被災地域の子どもの8割が病気を持っており、国家予算のかなりの額が疾病対策に使われているという現実、同時に事故処理にも毎年かなりの予算が必要であり、この国の体力を大きく奪ってきました。

政治的軍事的対立が激化する要因、それは世界のどこでも実はシンプルで、経済がうまく立ち行かず、生活が苦しくなり、人々の意識がザラザラして、やり場のない怒りを何かにぶつけたくなっていくことに大きく依存しています。
さらにウクライナの前に大きく立ちはだかってきたのが、チェルノブイリ事故の被曝影響をもみ消そうとする国際放射線防護委員会(ICRP)など、国際機関の存在でした。
ウクライナの医師たちの懸命の訴えに対し、常にこれらの機関が対立的に振る舞い、病に対する国際的援助の妨害をしてきたのでした。当然にもなされてしかるべき国連などを介した援助が阻害されてきたのです。

このためこの間、ウクライナの人々と連帯していくためにも、ICRPへの批判を強めなくてはならない、科学を装った放射線被曝過小評価のカラクリを暴かなくてはならないと、「ICRPの考察」の連載を行っているところですが、まさにその最中にこの事故が起こりました。
多くの人々がもっとも懸念する放射能の漏出については、英文情報などもかなり追いかけてみましたが、確かに今のところ危険な兆候は確認されていません。ヨーロッパのグリーンピースの独自測定でも問題は検出されていないので、その点ではひとまず安心をしていいのだと思います。
しかしほとんどこの点を論じている人士がいないのですが、例え今回の事故が無事に収束しようと、ウクライナの原発が極めて危険な状態におかれていることを今回の事態は私たちに伝えてもいます。

最も大きな危険性は同国が内戦的状況の中にあることです。このことには原発自身が軍事戦闘に巻き込まれるということももちろん大きくありますが、内戦そのものが電力供給状態を悪化させていること、そのことが原発の無理な稼働に結果しやすいということも大変な脅威です。
現在の戦闘は、ウクライナ政府軍と親ロシア派武装勢力の間で東部で行われていますが、親ロシア派が拠点とするドネツク州周辺には炭鉱が多く、これまで原子力とともにウクライナの電力事情を大きく支えてきた地域なのでした。
ところが戦闘の激化の中で150近くある生産拠点のうち稼働しているのは20ぐらいという厳しい状態になっており、そのためウクライナは全体として電力不足に陥っているのです。

このため今回のザポリージャ原発3号機の緊急停止でも、たちまち広範囲な地域に停電が発生し、ドネツク州に近い東部の大都市ハリコフでは一部の公共交通機関が止まる事態にまで発展しました。
すでにウクライナには極寒の冬が訪れていますが、石炭不足が当然にも暖房の熱源不足にも直結しており、こうした中での停電は生活にきわめて深刻なダメージを与えてしまいます。
今回、ザポリージャ原発3号機は28日のシャットダウンからわずか一週間で再稼働したわけですが、本当にきちんとした点検が行われたのか大きな疑問があります。

こうしたウクライナのエネルギー事情の悪化について朝日新聞が5日20時の記事で次のように報じています。
 「ウクライナのデムチェシン・エネルギー相は4日、11月末から各地で計画外の停電が続くことから国民、産業界に大規模な節電を呼びかけた。
 ピーク時の電力消費を15%削減することを目標に深夜の電気料金の値下げを表明、工場の夜間操業を促すという。」
 http://digital.asahi.com/articles/ASGD55GXWGD5UHBI01D.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGD55GXWGD5UHBI01D

原発事故によるハリコフでの一部公共交通機関のマヒもこの記事の中で伝えられたのですが、夜間電気料金の値下げの発表は実は原発への依存と大きくくっついています。
なぜかと言えば原発は一度稼働すると出力調整ができないので夜間の電力需要がない時でもどんどん発電してしまうやっかいなしろものだからです。電気は貯められないので、夜間の電力の使用先を求める宿命的構造を持っています。
今回の措置も、石炭の枯渇の中で、この夜間電力を活用するため工場の夜間操業を促しているのだと思われるのですが、それで工場が夜間に動けば動くだけ、ますますウクライナは原発を止めるわけにはいなかなくなります。

もちろん緊急停止などあってはならない。いやたとえトラブルがあってもできるだけ早く再稼働しなくてはならなくなってしまう。そうした状況自身がすでに原発の運転を危険な状態に落とし込めてしまうのです。
しかもウクライナの稼働中15基の原発のうち12基はすでに老朽化しており、運転期限終了を迎えようとしています。いやすでに幾つかが「運転延長オペレーション」のもとに運転期間の延長に入っています。
その際の審査も非常に杜撰になってしまう可能性が大いにあります。「背に腹は代えられない」とばかりに運転延長が強行されてしまいやすい構造にあるのです。

あるいはすべてが旧ソ連製の原子炉を使用しているウクライナの原発は、ロシアから核燃料を購入して成立していますが、この間、東芝傘下のアメリカ系企業ウェスチングハウス社の核燃料の使用を目指してきています。
実際に南ウクライナ原発3号機に2005年から2009年まで装填して稼働させるなどしてきましたが、その後に燃料棒の深刻な破損が見つかり、2012年に装着が禁止されました。もともとの企画が違うから無理があるのです。
ところがその後に起こった政変で成立した新政権が、新たにウェスティングハウス社との核燃料購入契約を結んでおり、これまた慎重な点検を無視したままの無理な核燃料の装填に向かっている可能性があります。

戦争はエネルギーを必要とする。同時に戦争は安全性や環境への配慮を後ろに押しのけてしまいます。「環境に優しく安全な戦闘機」など絶対に出てこないのもこのためです。
だから戦乱の中に置かれた原発そのもの、および原子力で発電することは極めて危険です。いやそもそも世界に400を超える原子炉があるこの状態で、私たち人類はもう戦争などしてはいけない状態に突入しているのです。
あらゆる意味で戦争に原発が巻き込まれたら、被害は地球規模におよんでしまいます。だからこそ私たちは歴史上、もっとも戦争を止めなければいけない時代、それでなければ大多数が共倒れし、傷ついてしまう時代に突入しているのです。

人類はこれまで核戦争に対してはこのことに気づき、なんとか第三次世界大戦を食い止めてきました。
その核戦争の危機とてまだ完全に去ったわけではありませんが、私たちは今、本当にスリーマイル、チェルノブイリ、福島につぐ大惨事を世界の連帯で食い止めなければならない時代に生きているし、そのことにもっと覚醒しなくてはいけないのです。
今回のウクライナ原発事故はそのことをこそ私たちに突きつけているように僕には思えてなりません。

そのためにはどうしたら良いのか。ものすごく遠回りに聞こえるかもしれませんが、歴史のねじを逆に巻いて、今の争いの火種を一つ一つ潰していくことが大切だと僕は思います。
ウクライナの戦乱の火種を消すのに必要なのはチェルノブイリ原発事故に戻ることです。そこで生じたものすごい健康被害がもみ消されてきた。ものすごい規模の人々が苦しみ悶えてきたのです。
今、そこに光を当てなければならない。そうしてウクライナの痛みを全世界でシェアしなくてはいけない。シェアして援助を届けなくてはいけない。そこに世界の資金を投入しなくてはいけない。

そうしてウクライナの痛みを癒すのです。癒すことで一つ一つ火種を消していく。そうすることで対立の収めどころをウクライナの人々が見つけられる条件を整えていく。その中でこそ、ウクライナおける第二のチェルノブイリ原発事故の発生が未然に防がれていくのです。
そのためにはICRPへの批判、あのひどい体系、酷い体系、人々に犠牲を強い続けてきた体系を解体しなくてはならないと思います。その作業は広島・長崎の被爆者の無念と結合することにもつながります。
なすべきことは放射線の危険性を世界の人々にもっと鮮烈に知らせることです。同時にその放射線を深刻に浴びてしまった人々こそ、私たちの時代がもっとも手厚くケアし、守り、癒さなくてはならないのだということを全世界に訴え抜かなくてはなりません。

「蟷螂之斧」であること、象に対決する一匹の蟻であることを重々自覚しつつ、僕は今、ウクライナの人々の痛みをシェアし、戦乱を鎮めるために、そうしてそのことから第二のチェルノブイリを避け、全世界の命を守るために、ICRP批判活動を続けようと思います。
どうかみなさん。一緒に起ちあがってください。一緒にウクライナに「平和であってください」と念を送り、ウクライナの人々に援助を送り、第二のチェルノブイリを止めるための何かをしてください。
またこうした活動をしている僕への援助もお願いします。ICRP批判のための諸研究にご支援ください。それやこれやの中で、ともに、世界を核事故の可能性から守っていきましょう。未来世代に少しでもきれいな地球を渡すためにともに奮闘しましょう。

*****

ウクライナの悲劇に関して書いた過去記事をご紹介しておきます。

明日に向けて(977)ウクライナの悲劇=被曝の現実を読み解く(ポーランドを訪れて-5)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/83669290d338e0f63d694c7e55bfbee2

明日に向けて(979)ウクライナの悲劇=被曝影響の隠蔽と第2世代の健康悪化・・(ポーランドを訪れて-6)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/4fe8468358e177a263eb02d2c943b422

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明日に向けて(989)広島・長崎での被曝影響の過小評価(ICRPの考察―4)

2014年12月05日 08時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141205 08:30)

ICRPの考察の4回目です。

これまでマンハッタン計画を引き継いだアメリカ原子力委員会や全米放射線防護委員会(NCRP)が、放射線の遺伝的影響への人々の不安をなんとか抑えることに腐心してきたこと、これにICRPが同調を深めてきたことを明らかにしてきました。
ところがビキニ環礁の核実験などを契機に全世界で高まった核兵器反対運動の中で、遺伝的影響だけでなくガンや白血病への不安もまた多くの人々が指摘するようになりました。
すでにICRPをはじめとした国際機関は、放射線の影響には「しきい値」がないこと、「安全な線量」などないことを認めていましたが、あくまで遺伝的影響に限ったことであり、ガンや白血病にはしきい値があるのかどうかが新たな争点になっていきました。

特にこの時期に問題となったのはストロンチウム90の影響でした。ストロンチウム90はカルシウムと化学的性質が似ているため、人体に入ると大部分が骨に蓄積してしまいます。そのため骨髄の中の造血機能が破壊され、がんや白血病をもたらします。
このストロンチウム90が相次いで大型の原水爆の実験が続けられた1950年代後半以降、例えばアメリカのミルクの中からもたびたび検出されるようになり、人々の不安を高めていったのです。
1962年に『沈黙の春』を出版したレーチェル・カーソンは、農薬や殺虫剤に含まれる化学物資の危険性を告発した人として有名ですが、実は彼女は化学物質とストロンチウムによる複合汚染をこそ問題としたのでした。彼女の書から引用します。

 「禍のもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでゆく。もはやもとへもどせない。汚染といえば放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし、万象そものの―生命の核そのものを変えようとしている。 
 核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれにまさる とも劣らぬ禍いをもたらすのだ。」(『沈黙の春』新潮文庫p14,15)

 「殺虫剤による水の汚染という問題は、総合的に考察しなければならない。つまり人間の環境全体の汚染と切りはなすことができない。水がよごれるのは、いろんなところから汚物が流れ込むからである。
 原子炉、研究所、病院からは放射能のある廃棄物が、核実験があると放射性降下物が、大小無数の都市からは下水が、工場からは化学薬品の廃棄物が流れこむ。
 それだけではない。新しい降下物―畑や庭、森や野原にまきちらされる化学薬品、おそろしい薬品がごちゃまぜに降りそそぐ―それは放射能の害にまさるとも劣らず、また放射能の効果を強める。」(『同』p53)

人々の放射線による遺伝的影響とガンや白血病などの「晩発性障害」への恐れに対して、ICRPや他の国際機関は遺伝的影響には「しきい値」が認められないものの、ガンや白血病には「しきい値」がるという主張を1958年後半ぐらいから強め始めました。
その際に論拠となるデータとして出されたのが、広島・長崎での原爆傷害調査委員会(ABCC)の被爆者調査結果でした。
この調査では放射線急性死には1シーベルトというしきい値があり、放射線障がいには250ミリシーベルトというしきい値があると結論づけられ、ICRPの主張の有力な論拠となっていったのですが、同調査には意図的に被害が過小評価されるさまざまな仕組みがありました。

まず急性死しきい値1シーベルトという結論は1945年9月初めまでの死者を対象としたもので10月から12月までの死者が除外されて作られたものでした。
また被爆者に起こった急性障害には「脱毛、皮膚出血斑(紫斑)、口内炎、歯茎からの出血、下痢、食欲不振、悪心、嘔吐、倦怠感、出血等」があり爆心地から5キロぐらいでもたくさん見られましたが、ABCCはこのうち「脱毛、紫斑、口内炎」のみを放射線急性障害であると断定したのでした。
なぜかと言えばこれらの症状は爆心地から半径2キロ以内に高い割合で発生していたからでした。このことでABCCは放射線急性障害が生じたのは半径2キロメートル以内としてしまったのです。この2キロメートルの地点の放射線量の推測値が250ミリシーベルトでした。

このことでABCCは爆心地から2キロ以遠にいた人々には急性障害が生じなかったことにしてしまい、これらの人々を「被爆者」と認めませんでした。
しかも2キロ以内にいた被爆者と比較対象する「放射線障害を受けていない人々」の群としてこの2キロより外にいた人々を選んだのです。実体は高線量の被曝をした人々と、より低線量の被曝をした人々とを比較対照したのでした。
実際にするべきだったのは、爆心地から遠く離れ、被曝の影響が考えられなかった人々を比較対象とすることでしたが、意図的に低線量被爆者が比較対象とされたことで、2キロ以内の地域の人々のさまざまな病の発症の「被曝を受けていない人」との差異が実態より非常に小さくカウントされることとなりました。

また一方で広島市の中で「非被爆者」に分類されてしまった半径2キロ以遠の人々の白血病の発生率が、全国平均とあまり変わらないことも大いに利用されました。
ここでは実は広島市が1930~34年の調査では、白血病の発生率が全国平均の実に半分だったということが意図的に無視されました。もともとが半分だったのですから、全国平均と同じになったということは発症率が2倍になったことを意味していたにもかかわらずです。
広島市は1971年以降、政令指定都市を目指して周辺地域を合併して拡大しました。するとその地域の白血病者が統計に入ることとなり、発生率が急増しました。合併したかつての広島市郊外に黒い雨=放射能の雨が降った地域が含まれていたからでした。被曝は半径2キロよりもずっと広範囲で起こっていたのでした。

またABCCの調査開始日が1950年10月1日以降とされたことも被害を小さく見せるからくりとなっていました。先にも述べたように放射線急性死亡は1945年9月初めまで、正確には原爆投下後40日までしかカウントされていませんでした。
その後12月までに亡くなった方が除外されてしまったことを先に述べましたが、その後も多くの被爆者が、重傷から回復することができず、苦しみ悶えた挙句に亡くなっていきました。ところがこの1950年10月1日以前に亡くなった方たちの被害もデータから除外されてしまったのでした。
そのためABCCのデータは、高線量を浴びて重篤な被曝をしながらも、なんとか生き延びた人々によるデータなのであって、放射線への感受性がより強く、より大きな被害を受けた人々がそこから消し去られていたのでした。

さらに調査対象者を広島、長崎両市に限定することでもたくさんの実際の被爆者が除外されました。なぜなら被爆直後は広島も長崎も焼け野原であり、多くの人々が市街に避難せざるをえなかったからでした。爆心地に近いほどそうでした。
こうした人々の中には元の住所に戻れない方たちもたくさんいましたがこれもまたデータから落とされてしまいました。
この点で重要なのは、こうした人々には仕事を求めて移住せざるを得なかったより若い人々が多かったことです。つまり放射線に対する感受性がよりたくさんの強い若い人々がデータ集積から外されたのです。

『放射線被曝の歴史』ではこれらを以下のようにまとめています。重要な点なので同書から引用します。(なお同書では被曝を被爆と記述している箇所が多くありますがそのままに引用します)

 「第一に、被曝後数年の間に放射線被爆の影響で高い死亡率を示した被爆者の存在がすべて除外された。
 第二に、爆心地近くで被爆し、その後長く市外に移住することを余儀なくされた高線量被爆者が除外されている。
 第三に、ABCCが調査対象とした直接被爆者は1950年の時点で把握されていた直接被爆者数28万3500人のおよそ4分の1ほどでしかなかった。しかも調査の重点は2キロメートル以内の被爆者におかれ、遠距離の低線量被爆者の大部分は調査の対象とすらされなかった。
 第四に、そのうえでABCCは高線量被爆者と低線量被爆者とを比較対照するという誤まった方法を採用して、放射線量の影響を調査したのであった。
 第五に、年齢構成の点においてもABCCが調査対象とした集団は、若年層の欠けた年齢的に片寄った集団であった。」(『同書』p106,107)

ICRPが今にいたるも放射線防護基準の根拠としている広島・長崎の被爆者データはこのように何重にも捻じ曲げられ、過小評価されたものでした。被爆者を二度三度と踏みつけるようなデータでした。
そしてそのデータが、チェルノブイリ原発事故の被災者に対しても、福島原発事故の被災者に対しても、被曝の影響をもみ消すものとして使われているのです。
私たちはこうした歴史をしっかりとつかんで、ICRPをはじめとした原子力推進派による被曝隠しや被爆者切り捨てと対決していかなくてはなりません。放射線に苦しめられ、今なお苦しんでいる多くの人々の痛みをシェアしつつ、ICRPの考察を続けます。

続く


 

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明日に向けて(988)ウクライナで原発事故発生、5日に復旧の見通し?

2014年12月04日 15時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141204 15:00)

ウクライナで原発事故が起こったことが報じられましたので分析を行いました。

事故を起こしたのはウクライナ南東部にあるザポリージャ原発3号機。11月28日に出力系統で回路がショートし原子炉が緊急停止しました。
ウクライナエネルギー相によると「ショートの原因は分かってないものの、原子炉には問題はなく、5日までに電源系統の緊急修理を終えて再稼働する見通し」だそうです。
今のところヨーロッパ各地の放射線モニタリングポストは通常値を示しており、大きな放射能漏れが起こっている兆候は確認されていません。

発表が行われたのは12月2日。同原発の停止により電力供給が不足し、苦情が寄せられたため公表したとのことです。
ザポリージャ原発は旧ソ連時代に稼働を開始したもので発電規模はヨーロッパ最大。世界では第5位。合計出力は600万キロワットですが、近年は核燃料が得にくくなっており、定格の発電は行えていません。
同国の原発による発電の半分を担い、発電全体の5分の1を担っています。事故を起こしたものを含めて全部で6基の原子炉があります。

今回の事故がこれ以上、拡大しないことを祈るのみですが、調べてみると構造的に幾つかの問題があることが見えてきました。
一つに稼働年数が長いことです。最初の5基は1985年から1989年まで毎年1基づつ連続して稼働を開始し、6号機のみソ連崩壊後のモラトリアム期間を経て1995年から稼働しました。
旧ソ連製の原発は設計上耐用年数30年とされているので2015年から毎年1基が運転期間を終えることになりますが、ウクライナでも運転延長が目指されておりそれをIAEAが後押ししています。より危険度の高い老朽化した原発の運転延長が次々となされようとしています。

またこの地域はウクライナ政府軍と親ロシア派の軍事衝突が繰り返されている同国の東部地域から200キロ余り、同じくロシアが占領し編入したクリミア半島からも同じぐらいしか離れておらず紛争に巻き込まれる可能性があります。
実際に今年の5月17日にも銃で武装したグループが同原発に押し寄せて侵入を試み、地元警察によって阻止されるという事態が起こりました。
武装グループは自らザポリージャ在住のネオナチグループと名乗り、親ロシア派から原発を守ることが目的で原発への襲撃を試みたのではないと主張し、警察によって釈放されましたが、同原発が戦闘に巻き込まれる可能性があることを強く示唆した事件でした。

Gunmen attempt to enter Ukraine’s largest nuclear power plant
http://rt.com/news/159640-ukraine-gunmen-nuclear-plant/

もちろんウクライナ政府側も、親ロシア勢力側も、原発が事故を起こした際に壊滅的な事態が発生することは認識していますから、意図的な攻撃を行うことは考えられませんが、戦闘規模が拡大し、かつ戦線が近づいた場合、原発が不測の事態に巻き込まれる可能性があります。
7月17日には同国上空を飛行していたマレーシア機が何者かによって撃墜され、東部のドネツク州に墜落しました。兵器の威力と能力が高度化している中で、今後もこうした突発的な事態が発生する可能性があります。
またこの撃墜は未だに犯行者が不明で、親ロシア派説、ウクライナ軍説、またマレーシアにプレッシャーをかけたかった西側の何者か説などさまざまな憶測が飛び交っていますが、そのことが疑心暗鬼を生んでさらに一触即発の緊張感を高めてしまっています。

またウクライナ政府にとっては、国民の支持を得続けるためにも、こうした戦闘状態がある中で電力供給を維持することが重要課題となるため、その分、原発の安全性への配慮が後退している可能性も強くあります。
今回も原子炉が11月27日に緊急停止していながら12月5日に再稼働させるのは、冬の到来の中での電力需要への対応を最優先したいためだと思われますが、電源系統のショートの原因すら発表されないなかでのわずか1週間での再稼働はそれ自身危険行為に他なりません。
にもかかわらず、緊急の再稼働が容認されるのも、この地域が東部の戦闘地域に隣接する地域であることと大きく関係しているのではないかと思われます。

さらにウクライナとロシアの対立は違った形でも原発の安全性を低下させています。
ウクライナの原発はすべてロシア製であるため、核燃料もロシアから購入しているわけですが、ロシアとの関係が悪化する中で安定供給ができなくなっています。そこに東芝傘下となったウェスチングハウス社が2005年から燃料供給への参画を開始しています。
具体的にはザポリージャ原発に次ぐ規模の南ウクライナ原発3号機で従来のロシア製核燃料棒とウェスチングハウス社製の核燃料棒を混合して使用する試みが行われ、当初は良好とされましたが、燃料棒交換時に破損が確認され、2012年に装着が停止されました。

しかしその後に大きな政変があり、ウクライナ新政府がロシアとの対立を深める中でウラン燃料の枯渇が深まったため、もう一度、新政権がウェスチングハウス社製の核燃料の使用へと舵を切ろうとしているのです。
ロシア側は重大な事故の発生の危険性があると忠告しています。ロシア政府の核問題での発言にも常に信ぴょう性が欠けてはいますが、それでも原子炉設計社と無関係の会社が作った核燃料がどこまで安全なのか確かに大きな懸念があります。
しかも戦争的な事態の中でですから、戦闘に勝ち抜くためにも安全性が犠牲にされ続ける可能性があります。

どうしたら良いのか。世界的規模で起こっている戦争的事態ですので、私たち市民が何ができるか、頭がくらくらしますが、やはりすべてのウクライナの人々を苦しめているチェルノブイリ原発事故を見据え、親政府側であろうが親ロシア派であろうが、被災者への世界からの支援を続けることが大事だと思います。
そのことで争いの火種を一つ一つ消していく。私たちができることは本当に小さな努力でしかないかもしれないけれども、いつの時代もそれが積もり積もって歴史が動いてきたことを考えて、被災者支援を続けることが大事だと思います。
いや今や私たちは支援というよりも、ともに同じ原発事故を抱えたものとして連帯し、戦争と核のない世の中をともに求めていく必要があると思います。

その点で僕が10月に参加させていただいたドイツIBB主催の国際会議は学ぶことが満載でした。すでに報告したようにこの会議で僕はトルコと日本の間の脱原発運動での結びつきについて発言しましたが、檀上から降りた僕に一番最初に歩み寄ってきて手を握ってくれたのはウクライナから招かれたリクビダートルの方でした。
いきなりロシア語?ウクライナ語?で話しかけられましたが「お前の言っていることは良かった。共感した。一緒にがんばろう」と言ってくださっているに違いないことだけは良く分かりました。
あの方はどこにお住まいなのだろう。ザポリージャ原発からはどれぐらいのところにいるのだろう。原発で事故があったと聞いて、今頃何を思っているだろうという思いがこみ上げてきます。

またこうしたつながりがあるからこそ、5月17日にネオナチグループが武装して同原発に押し入ろうとした時にはそのニュースをキャッチできなかった僕が、今回の事故の報道に強く刺激され、すぐに情報収集を行えたのも事実です。
もちろんトルコの方たちのこともとても心配になりました。事故が拡大したらまた黒海を越えて放射能がトルコに飛んでいく可能性がある。そうならないことを祈るばかりですが、祈るだけでなく、事故を防ぐためにできることを重ねたいと思います。
私たちは原発が世界の至る所にある現状では、どこであろうと大規模戦闘は原発にも危険性を及ぼす可能性があること。また戦争という特殊事情そのものが、原発の危険性をさらに大きくしてしまうことを考え、戦争の火種を無くす最大の努力を傾けていくべきです。

こうした観点を頭に入れつつ、今後、ウクライナをはじめ各国の原発へのウォッチも強化していきたいと思います。
同時に市民の側からできる原子力災害対策を進化させ、本の形にまとめて普及を図るとともに、英語化に挑戦し、世界の原発の周りの人々にも読んでいただけることを目指したいと思います。
もう二度と深刻な原発事故が起こらないように心の底から祈りつつ、同時に、地球のどこでも事故が起こる可能性があることを踏まえて対策を重ねていきましょう。

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明日に向けて(987)映画『小さき声のカノン』に込められた思い(鎌仲ひとみさんとの対談から)-2

2014年12月03日 08時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141203 08:00)

鎌仲さんとの対談の後篇をお送りします。

*****

映画『小さき声のカノン』に込められた思い-2
2014年11月24日 アースディしがにおいて
鎌仲ひとみ&守田敏也

守田 その話を聞くと思い出すことがあります。僕もあちこちで講演させていただいているのですけれども、岡山で話をしたときに、関東の方から逃げてきたばかりのお母さんが参加されていました。
 僕の講演が終わった後に、幾つかグループを作って、それぞれでお互いの話を聞ける場を作ってくれたのですが、その時にその逃げてきたお母さんが、とつとつと、さきほど鎌仲さんが言った通りに話をしてくれたのですね。
 地震があった時に何も知らなくて、小学校6年生の息子さんがいて、お母さんたちみんなで卒業式だけはやってくれという運動をやったのですね。
 体育館も崩れている状態の中でしたが、学校側も「それでは校庭を使ってだったら認めましょう」ということになって、3月15日に校庭で子どもたちが並んで卒業式をやってしまったわけなのです。(守田注 3月15日、その小学校がある地域を大量の放射能を含んだ雲が通過していった)
 ずっと子どもたちがそこに立っていて、しかも卒業式が終わってからもみんなこれでバラバラになるからお母さんたちも名残惜しくて、ずっと一日そこに立っていたということをそのお母さんが泣きながら話すのです。「私は子どもたちを被曝させてしまった」と言いながら。
 それ以上、そのお母さんはどう捉えるべきなのかはなかなか言えないのだけれども、それを聞いていた周りのお母さんたちが彼女の手をとって、その方たちも言葉ではどう表現していいのか分からないのだけれど顔を見合わせて「うん、うん」と言っていたシーンを思い出しました。
鎌仲 本当に人類史上、まれにみる大惨事が起きたわけですが、しかし「人類史上、まれにみる大惨事」とメディアは伝えてないのですよね。

守田 そうですよね。
鎌仲 だからもちろん、どうしたら良いか分からなくて、言葉も出なくて、泣きながらたたずむのはしょうがない。誰だってそうだ。だけれどそれから3年経つ中で、子どもたちを守る新しい取り組みに入っていくときが来たのです。その瞬間を私はこの映画の中で描きたかったのですよね。
 それまで待たなくてはいけないというか。見守って、「うーん」という感じで。やはり人間の中にある強さ、母なるもの、男性の中にもありもちろん女性の中にもあるそういう力が、小さき存在の命をどう守っていくと考えたときに出てくる。今、その段階に来たと思います。その力の出すべき方向を私はこの映画の中で示していると思います。

守田 その取材の場に行って、どうお母さんたちが力を出せるように関わりながら鎌仲さんは取材するのですか。というか、その場合の取材って僕も良く分かるけれど、すごくセンシティブで難しいですよね。
鎌仲 だいたいね、普段はこうやって取材しているんです。三歩下がって。(鎌仲さんは僕の席の三歩後ろに移動)だから前には出ない。でも今回はここら辺からひっぱったかも。(鎌仲さんは僕の横よりほんの少し前に立った)。
 普段は後ろにいて追い抜かないようにしているんですよ。その人がどうあるのかを尊重したいから。この取材の仕方は今回も貫いています。でも時々、関わるよね。関わらざるを得ないのですけれど、基本のスタンスはちょっと後ろから見守る感じです。
守田 やっぱり鎌仲さんが来たら、答えを欲しがるのではないですか?
鎌仲 みんな逃げるんだよね。答えを欲しがるというより、私がすごく答えにくいことを聞くので。私はストレートにいろいろな聞きにくいことを聞くわけですよね。向こうも答えにくくて、ちょっと「うん・・」となる時期ももちろんありました。
 でもだんだん、そういうことを乗り越えて、関係ができていったと思うのですね。

守田 やっぱりそういうシーンが詰まっているというか。
鎌仲 そうですねー。なんだろう。私は出来るだけ私の映画の中では人を泣かさない、感情的なもので絡めとらないということを心がけてきたのです。「泣いたって何も解決しないよ」という考えがあったのですけれども、今回は自分で観ても泣ける、泣ける(笑)。
守田 うーん。それはすごい。
鎌仲 そういう感情のカタルシスがあっても、やはり問題は大きく複雑に私たちの前に立ちはだかっていることには変わりがないので、そこに向かって泣いたり笑ったりしながら、長くやっていく問題だと思っているのですね。

守田 すごく共感します。僕も講演をしたり、いろいろとものを書くときに人の話や書いているものも見ますよね。そうするとすごく上から目線で断定調に「こうしなければダメ」とか、「こういうことをどうして知らないんだ」という話し方、書き方をする人がいるのだけれども、今までの世の中そのものがそのような感じで来たのではないか。
 少数の官僚であったり政治家であったり、偉そうな人の言うことに振り回される。そうではなくて自分自身が、難しいかもしれないけれども情報をつかんで自分で考えて判断できるようになっていくことが大切なのであって、僕はそのためには何が必要なのか、何が提供できるのかということを考えてきました。そう思うだけに映画が楽しみです。
鎌仲 私は原発問題というのは、男性にいろいろなことをお任せしすぎて起こったんじゃないかなあって思うのですね。
守田 そうです!
鎌仲 男性原理。つまり効率を追求するとか、経済性を追及するとか、その価値観の前には「命」という言葉を使うのも恥ずかしくなるような感じで、男たちがやってきたと思うのですよ。
 でも女は子どもを妊娠して生むわけではないですか。それなのに「そんな感情的になるなよ」とか「科学的な根拠もないのに放射能を怖がっているだけじゃないの?」とか冷たい理屈を言う男たちが未だに日本では多いのですよ。
 だから今、そういう男たちが政治とかいろいろなことを決める側にいて、女性たちが「お願いです。給食には安全な食材を使ってください」と嘆願、陳情にいくという構造そのものを変えて、女性も政治を引き受けるし、男性も子育てや地域の活動を引き受けることが必要なのです。だからこれは、単に原発のことだけではなく、男と女の非常に深い問題に関わっているなと映画を作って思いましたね。
 母なるもの、男性の中の女性性が、あまりにも日本の中では抑圧されすぎていると思います。
守田 本当にその通りだと思います。
鎌仲 あるいは夫婦の関係で、夫が妻のいうことに耳を傾けることがあまりにもないと、今回取材をして、凄く感じて、驚いたということもありますね。
 子どもを抱いて放射能のことを不安だと言う妻に「政府が安全だと言っているのにおまえは何をバカなことを言っているのだ」と。でもそんなことを言ってもらいたいのではないのですよね。子どもを抱えて凄い不安に包まれている自分をどうにかして欲しいとまずは言っているのに、すぐに数字の話とか原発の話を男はしちゃうわけでしょう。
 やはり子どもを本当に守りたいという夫婦の共同作業がなければ私は子どもは守れないと思うのです。その中で母なるもの、母的な力というものが今でてきているわけですが、こんなに混迷している安倍さんのアベコベ政治の日本の中で、そういうものと真っ向から対立したら潰されてしまう。
 そうではなくて、地を這うように、草の根が広がるように、女たちが今までとは違う意識を持って前に進んでいかなかったら子どもは守れない。原発も止められない。そう思います。

守田 僕は滋賀に来てもそう思うのですよね。滋賀というより信楽のお母さんたちに最初に呼んでもらって、その場の雰囲気がとても心地よいというか、「話して下さい」と言われて来ながらその場の雰囲気にすごく教えてもらうことがあったのですね。
 たぶんね、僕は三日月さん(注 滋賀県知事。鎌仲&守田トークの前に、お母さんたちを中心としたチームしがの方たちと対談した)もそうだと思う。あれは男としてすごく得だと思いますよ。
鎌仲 そうそう。あれは良かったね。ああいうのいいね!
守田 おそらく今の彼の日常は、灰色の背広を着た時間泥棒のような人たちに取り囲まれている毎日だと思うのだよね。(守田注、灰色の男たち=時間泥棒はミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる)だから今日は三日月さんはなんかホッとした顔をしていた。
鎌仲 そうよねー。ここにいる女の人たちにいじられるのがいいね。
守田 そうそう。
鎌仲 いじくられキャラ(笑)。

守田 そういうのがもっと広がっていくと僕は「男性解放」になると思います。男性自身がすごく自分も抑圧しているのです。男性の中にも鎌仲さんが言ってくれたように母性的なものもあれば、優しい気持ちもあるのに「そんな腰抜けでどうするんだ」と言われちゃってね。「理屈に強く数字に強くないとダメだ」と言われて、結構、それで男性は疲弊しているのですよね。
 それで家に帰って、人のことばかり言えないけれども、お連れ合いに愚痴を聞いてもらう。それではダメで、社会の中で自分が公的な活動をしている場で、そういう母性的なものが出せるようにならないと。
鎌仲 でも連れ合いに愚痴を聞いてもらえるのは良い方だよ。(笑)

守田 さて鎌仲さん。そろそろ最後になるのですが、この映画を僕はとにかく観て欲しいし、広げたいと思うのですけれども何をしたら良いでしょうか。
鎌仲 そうですね。この映画の卵のように産み落とされたシーンを先行的に今日だけ上映するものがありますので観ていただいて、本編は来年の3月に東京の劇場で公開したあとに全国で一斉に上映して、どの劇場でも上映していただきたいと思っていますし自主上映もやります。そのどこでも使える前売り券を販売しています。
 私たちはこの映画を3年かけて作ってきました。こういうテーマの映画を誰も作ってくれないのですが、いいものを作らないと広がらないので時間がかかりました。映画を広げるためには、子どもたちを保養に出すとかあるいは定期検診を受けるとか、今はまだまだ足りない制度を作っていくための運動と連携していきたいなと思っていますが、私たち実はもうぶっ倒れるほどにお金がないのです。
守田 前売り券を買っていただくことが凄く重要なそうですね。
鎌仲 そうなんです。
守田 これから宣伝をしなければならなくて、もの凄くお金がかかると聞きました。ですからみなさんにぜひ前売り券を買っていただきたいです。
鎌仲 ほっておいたらマスコミは私がこの映画で描いたようなテーマを取り上げようとしないのです。でも映画になった、それが劇場公開になる、地域で上映になったとなったら取り上げるようになる。現場にはいい記者たちもいるわけですよ。
 このテーマを広げるチャンスなんです。私はそのチャンスを生かすために何人かのスタッフを雇わなくてはいけないし、その人たちだって人間的な生活をしなくてはいけない。その上で朝から晩まで働いてもらわなくてはいけない。
 映画を作ったのはいいのですが、実は今月の12日にこの映画の製作資金すべての責任を負ってくれていた私と30年一緒に映画を作り続けてきたプロデューサーが亡くなってしまいました。
守田 悲しいですね。
鎌仲 私たちは父親のようなプロデューサーを亡くしてしまって、路頭に迷っているような状態です。でも自分たちでこの映画をやっていこうということで、相変わらず頑張っているのですけれども、ただ、チケットを買っていただかないと、先が・・・という感じなのです。
 いやそれでもやっていくでしょうね。例えチケットが売れなくても借金をして頑張っていこうとは思っていますが、良かったら買ってやってください。
 はい。終わりました。
守田 今日はどうもありがとうございました!

終わり

*****

チケットは以下から購入できます!

鎌仲ひとみHP
 http://shop.kamanaka.com/?mode=cate&cbid=1852150&csid=0&sort=n

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明日に向けて(986)映画『小さき声のカノン』に込められた思い(鎌仲ひとみさんとの対談から)-1

2014年12月03日 07時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141203 07:30)

もう一週間も経ってしまいましたが、11月24日にアースディしがに参加して、映画監督の鎌仲ひとみさんと対談させていただきました。
午前11時15分からの開始でしたがその前に卒原発を掲げて当選した三日月滋賀県知事と、選挙を担った「チームしが」の方たちとのイベントトークがありました。しがのかあちゃんたちを中心とするチームです。
あらかじめ用意してきた幾つかの質問がなされましたが、チームしがのみなさん。知事をいじる、いじる!三日月さんはことごとく頭をかきながら応答していましたが、参加者全員の笑顔がはじけて雰囲気がとても良い。なんでも柔らかく包んで、楽しい間にどこかに連れて行ってしまう?しがの「市民力」の強さを見る思いがしました。

このセッションに僕も最後の方で登壇させてもらい、兵庫県篠山市での例を交えながら、原子力災害対策を市民目線でしっかりとたてて欲しいと知事にお願いしました。鎌仲さんとのお話はこのセッションの後に始まったのですが、鎌仲さんの提案でこの続きから話をすることになりました。
原発が災害を起こした時、リアルにはどんなことが起こるのか、その中で避難するというのはどういうことなのか。前半はこの話で盛り上がりました。
その後、鎌仲さんの最新作『小さき声のカノン』に話題を移行。ここからは対談というより主に僕がインタビューをして鎌仲さんに映画の内容を教えていただく形になりました。

『小さき声のカノン』は福島原発事故による放射能汚染に直面し、オロオロと慌てふためきながらも、子どもたちを守るために歩み始めたお母さんたちの姿を描いた作品ですが、この日、鎌仲さんはどんな思いでどのように映画を撮ったのか、その時どう思ったのかをリアルに語ってくださいました。
僕もこれまで鎌仲さんから月1回送られてくる『カマレポ』を観て映画の輪郭をつかんでいるつもりでしたが、鎌仲さんが何にフォーカスしていったのか、今回の対談を通じて初めてはっきりとつかめると同時に、深く共感し、感動するものがありました。
この映画は絶対に広める必要がある。この映画を観てもらうことで、子どもたちを放射線から守る活動をレベルアップさせることができる。多くの方に、未来のためにぜひ観て、広めて、上映に関わって欲しいと思いました。

そんな思いを込めて、この日の鎌仲さんと僕のセッションの後半部分を文字起こしすることにしました。
記事と対談につけた「映画『小さき声のカノン』に込められた思い」というタイトルは僕が独断でつけたものです。
長いので2回に分けますが、どうかお読みになった上で、映画の前売りチケットを購入し、他の方にも勧めていただければと思います。

*****

映画『小さき声のカノン』に込められた思い-1
2014年11月24日 アースディしがにおいて
鎌仲ひとみ&守田敏也

守田 鎌仲さん。そろそろ映画の話をしましょうよ。
鎌仲 したいしたい。

守田 映画がとうとう完成したということですけれども、まずは「見どころ」を教えて下さい。
鎌仲 え? ここで言うの?(笑)それがねえ、難しいのですよ。難しいと言うか、「見どころ」いってもエンターテイメントではないじゃないですか。
 「観たことのない映画」と言われています。まだそんなに多くの人に観ていただいてなくて、試写会を3回ほどしただけなのですけれども。観た人たちはそう言っている。

守田 観たことがないというところが「見どころ」というわけですね(笑)
鎌仲 つまり震災について起きた事象、問題についての映画は、この大震災と原発事故以降、たくさん作られてきたのです。初めて映像作家たち、メディアの人たちが原発問題を捉えるようになった。
 私はそれをできるだけ見るようにしているのですけれども、私自身は問題の核心は被曝にあると思っていて、その被曝に真正面からどう取り組むのかがこの映画の難しいところだったのです。
 一番、人々が混乱させられているところでもあったので、そこに一本の光が薄暗い中にサーっと射し込むようなビジョンを示せる映画にしたいと、作り始めたころから思っていたのです。
 なぜなら例えば福島の人たちは、原発が爆発してその瞬間を報道する福島中央テレビに「原発から水蒸気のようなものが上がっています。水素爆発だ」と言われたのです。放射能が出たとは言われなかった。
 「放射能が出ました。原発が爆発しました。みなさん。この放射能から逃れるためにこうしてください。ああしてください」ということは一切なかったのです。それでみんなボーっとしていた。何も知らされなかったのです。
 翌日、本当に線量の高い土壌の上で子どもたちが遊んだり、そこに座ったり、ご飯食べたり、一緒に水を汲みにいったりしていたのですよ。危ないことを知らなくて。
 それでその後にだんだん事実が明らかになっていったときに、人々の心の中に複雑な感情が芽生えてきたと思うのですよ。お母さんたちがどう思ったのかと言うと「ああ、自分たちが子どもを被曝させてしまった」って。

守田 そうです。そうです。
鎌仲 「そうじゃない。あんたたちがやったんじゃないよ」って言っても、日本人は律義で責任感が強くてすぐに自分を責めちゃうので「自分たちに知らせなかったやつが悪い」とは思わないんですよ。
 すごく加害者側にとって便利なサイコロジーをもっている民族なんですよ、私たちは。自分たちの責任を感じてしまう。そのように躾けられているのですね。なのでお母さんたちは罪悪感を持ってしまう。
 でもその放射線値が高くなったところから逃げればいいのかと言ったら「大丈夫、大丈夫」って言われたのですよ。「放射能が来たけど大丈夫だから。そこにいていいから。何も問題がありません」と、事故の収束よりも素早く言われました。私はものすごくす早く情報操作がされたと思っています。
 その情報操作を乗り越えて、子どもたちの健康へのリスク、自分たちのもそうですけれども、それに気が付くことができるかどうかが最初の大きな課題だったのですね。
 それでその後に「ホラ、こんなに放射線値が高くなっている。それは危ないんだ」と言われた福島の人たちは「自分たちはバカにされている。自分たちの大事な故郷が汚染された、穢れたと言われた」と被害者として感じるようになってしまっていて、複雑な感情がぐるぐる渦巻くようになってしまった。
 その中で一番、問題だったのは「これはもうどうしようもない。こんなに大きな政府や東京電力が助けてくれないのだったら、自分たちは黙ってここで生きていくしかない」と思ったのではないかと言うことです。そう思った人は多かったと思うのです。
 「何もできない。だからもう考えない」という選択が蔓延しました。私はそれが最悪だと思っていて「そうではなくて出来ることがある。子どもたちを守りたい」という気持ちにどんぴしゃっとはまること、できることがあるということを示したかった。
 しかしそれは現実の中にないと示すことができないので、凄く長い時間がかかっちゃったのですね。

守田 どういう形で示したのですか?
鎌仲 チェルノブイリ原発事故は福島原発事故の25年前に起きている。25年間、ベラルーシやウクライナのお母さんたちは経験を積んだわけですよ。その経験の中で分かってきたことはたくさんある。
 それで守ることができる。子どもたちの身体の中にいったん入った放射能も出すことができる。今、そういうさまざまな実践をしてきた28年目になろうとしていて、福島は今、4年目なのですよね。
 だからその先輩お母さんたちに、ビギナーのお母さんたちはものすごくたくさんのことが学べると思うのですよ。その学べるところをこの映画の中に入れました。
 それを今までの「原発反対」という対立的な運動の形ではなく、私たちが暮らしの中でご飯を食べるように、息をするように、朝、「おはよう」って言うようにできる運動、そういう取り組みをこの映画の中で具体的に示したのです。あ、それが見どころだな。そういうわけなんですよ(笑)。
 今日はその本編をお見せするわけにはいかないのですけれども、400時間このテープを回して、結局、2時間をちょっと切ったのです。縮めていくプロセスの中で泣く泣くお気に入りのシーンを落としていったのですよね。
 そのシーンが良くないから落としたのではなく、やはり物語を編んでいかなければならないので、その中にどうしても入りにくかったものを素晴らしいシーンだとしても落とさざるをえなくて、それは映画を作っていく中ではどうしても起きることなのですけれども。
 今日はその最後の最後の方で落ちていったシーンをみなさんに観てもらって、本編は来年の3月に東京で劇場公開をしたあとに一斉に全国で上映していただこうと思っています。

守田 昨日も京都で一緒にトークさせていただいて、いろいろと聞かせていただいたのですけれども、印象的だったのは、鎌仲さんはこれまで月に一回『カマレポ』というのを配信して来られました。長く撮りためたものをみんなにずっと観てもらえないのは残念だということで、毎回10分から長くて15分のものでした。
 僕は楽しみに観ていたのですけれども、その中に僕が東北に行って知り合った方たちがたくさん出てくるのですよね。その方たちは頑張ってあちこちで先頭に立って、素晴らしい訴えをしてくれている人たちなのですよね。
 僕は最初はそういう人たちのシーンが集まって映画ができるのかと思っていたのですが、昨日聞いたらほとんどそのシーンは落としたというのですよね。それはどうしてなのでしょうか。

鎌仲 もう分かっている人は良いかなと思ったのです。うーん。なぜって誰も原発のことを、その恐ろしさを知らなかったわけでしょう?日本中のほとんどの人が。それを知っている人が「ああだこうだ」って言ったって、それを素直に聞けないということもあると思うのです。
 分かっている人に言われるというのは上から目線的でもあるし、そうではなくて私は本当に地に這いつくばって、日々、ご飯を作ったり、子どものいろんな細かいことを気にしながら子育てをしているお母さんたちの目線はそういうところにはないということに気が付いたのですよ。お母さんたちはもっと違うところを見ているのではないかなって。
 その目線を合わせるのに、原発のことをただ知らせるのではなく、お母さんがどういう風に子どもを愛しその子供を守っていくということを、これまでのご飯を作る、洗濯をする、掃除をする、子どもの宿題を見る、子どもを幼稚園に、学校に送りだす。その延長上にあるべきだという風に思ったんですよ。
 それはグレイな、グラデュエーションでいうと曖昧なところですよ。はっきりと腹をくくった人たちではないのですよね。途上にある人たちなので。だからカメラに映ることも非常に難しい。カメラに映ること事態が福島では恐ろしい。
 なのでそういう非常に微妙なところを撮影するのに凄く時間がかかりました。微妙なところにいるお母さんたちが試行錯誤をし、泣きながら、励まし合いながら、でも孤独にもなりながら、それでもやっぱり前に進んでいく姿を3年間、追っかけたので大変だったのですね。
 そこが「今までにない映画」ということだと思います。映画には「素晴らしい人を撮る、素晴らしい覚醒した人たちを撮って、その教えを請う」というものもありますが、今必要なのはそういうものではないと私は思うのですよ。
 やはり今を生きている葛藤とか格闘の中に何か見えてくるものを追うのがこのテーマではいいかなと実感したのです。そのため編集はものすごく苦しかったのですけれども、最終的にはその目線と合うことができたと思っています。

続く

*****

チケットは以下から購入できます!

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明日に向けて(985)原発推進と核実験頻発の中で緩められていった放射線防護(ICRPの考察―3)

2014年12月02日 22時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141202 22:00)

ICRPの考察を続けます。

前回は第二次世界大戦後の「放射線防護活動」が、核戦略を中心とするアメリカの全米放射線防護委員会(NCRP)などにリードされていたこと、広島・長崎の事実上のアメリカ軍による調査がベースにされていったことを書きました。これらの中心にはマンハッタン計画からそのままスライドしたアメリカ原子力委員会がありました。
これに対してICRPにはアメリカ以外の国が参加していたため、世界の核兵器反対の声におされつつ、リスク受忍論の受け入れには積極的ではありませんでした。
しかしこの条件が1950年代に大きく変わっていきました。一つはイギリス・フランスなどが遅れて核保有国となったこと。また各国で原子力発電が開始され、ICRPがリスク受忍論により傾斜して行ったことです。

もう一つは核実験がより頻繁に行われる中で、ビキニ環礁での周辺住民の深刻な被曝が起こり、日本でも第五福竜丸などが被曝するに及んで、放射線被曝の危険性への国際的な関心が高まったことも大きな背景としてありました。
この中で核戦争体制を維持し、さらに原発を広げていくことが目指されたため、新たな「科学的な粉飾」を施した「放射線防護学」が求められました。
これらを背景としつつ、ICRPは1950年代から60年代に、勧告を塗り替えるたびに大きな変貌を遂げて行きました。

原子力発電に世界で最初に踏み切ったのは旧ソ連でした。1954年のことです。原子力部門で断然他国を引き離していると思っていたアメリカは大きなショックを受けました。
それまでアメリカは、軍部などが原子力部門の私的所有を認めたがりませんでした。軍事機密を保持するとともに核開発に関わる「優秀な」人材を独占したいからでした。
しかしソ連ショック以降、アメリカは急速に国内体制を転換し、商業用の原発技術の開発を目指していきます。重視されたのは長期運転を可能にするシステム作りで、コストを削減するための安全面の配慮の後景化が始まりました。

同時にこの年の3月にビキニ環礁で広島原発の威力を1000倍も上回る「ブラボーショット」などの核実験が繰り返され、ロンゲラップ島などマーシャル諸島住民や周辺にいた漁船多数に深刻な被曝が起きました。
アメリカの調査でもロンゲラップ島などでは「流産・死産の激増、マーシャル諸島の平均よりも異常に高い死亡率、生存者の多くをおそった甲状腺異常、とりわけ10歳以下の子どもたちは大半が甲状腺異常にかかり、切除や転移がんを免れなかった」(『同書』p71)とされています。
日本でも第五福竜丸ら多数の漁船が被曝。「第五福竜丸の23人の乗組員は、外部からのガンマ線だけでもおよそ200レム(2シーベルト)あび、その一人、久保山愛吉さんが死亡」(『同書』p72)するなどしました。この時被曝した漁船は1000隻もいたのではないかと言われています。

これに対して杉並の母親たちによって原水爆実験禁止を求める署名運動がはじまり、瞬く間に全国に拡大して原水爆禁止署名運動全国協議会が誕生、短期間で2000万人もの署名が集まりました。
これを受けて翌1955年に原水爆禁止世界大会が初めて広島で行われました。それまで被爆者たちは、ABCCなどアメリカ軍の関与の下での調査の対象とされるばかりで厳しい監視下に置かれており、全国からの支援も行われていませんでしたが、ようやく独自の声が上がり始めました。
またアメリカ自身の内側でも、経費削減のためマーシャル諸島からネバダ砂漠に移して行われた核実験で被曝が多発し、ニューヨークの水道水で放射能汚染が確認されたことなどから核実験反対の声が上がり始めました。これらの運動はいずれの放射線被曝による遺伝的影響への不安をバックボーンとしていました。

放射線被曝がこのように大きな社会的問題になると、必ず学術界が第三者のような顔をして登場してくるのですが、その史上最初の例が、このときのアメリカの「原子放射線の生物学的影響に関する委員会」でした。通称をベアー(BEAR)委員会といいます。
委員会を財政的にバックアップしたのは、マンハッタン計画のときから原子力産業に参画してきたロックフェラー財団でした。元理事長のジョン・ダレスが国務長官となっていましたが、この財団がアメリカ政府や軍関係者が表立つことよりも学術界が矢面に立つ方が良いと判断し、多額の資金を投入しました。
このもとで放射線の遺伝的影響とともに、病理学的影響、気象学的影響、海洋と漁業への影響、農業と食糧供給への影響、核廃棄物の処理処分に関する委員会の計六委員会が設置され、それぞれの報告が行われていくようになりました。

BEAR委員会の報告は早くも1956年6月に発表されました。焦点はやはり遺伝学的影響についてでした。以下、同書より引用します。なお単位にレムとシーベルトが使われていますがシーベルトのみを記載します。
 「遺伝学見地からは、放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、医療、原子力発電、核実験のフォールアウト、核科学実験からの放射線被曝を減少させることは、世界のおけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむをえないと考える。」
 「遺伝的影響を倍加する線量は50から1500ミリシーベルトの間にあると考えられるが、動物実験によると300から800ミリシーベルトの間にありそうなので、
  合理的な線量として労働者の場合は30歳までに生殖器に500ミリシーベルト以下、40歳までにさらに500ミリシーベルト以下とするように、また公衆の場合は30歳までに生殖器に100ミリシーベルト以下とするように勧告する」(『同書』p79)

この報告は大きな位置を持っていました。それまでマンハッタン計画から生まれたアメリカ原子力委員会が公衆への許容線量の設定に抵抗していたためです。
BEARがこれに対し第三者の装いで登場し、原子力委員会に許容線量設定を認めさせ、労働者への被曝許容線量も従来の3分の1に下げることで、何よりも核実験反対の声を鎮めることが狙われました。
全米放射線防護委員会(NCRP)はさらにこれを加工し「職業人に対しては・・・3か月30ミリシーベルトの線量率を残した上で、50ミリシーベルト×(年齢-18歳)を生涯での集積線量として採用する」としました。
また「公衆に対しては医療被曝を含む人口放射線からの被曝量を、胎児から30歳までで~一人当たり50ミリシーベルトとする」との案をまとめました。(『同書』p81)

これがICRPに持ち込まれましたが、このころICRP参加各国が核武装や原子力発電への着手に踏み切っていたためBEAR報告を加工したNCRPの1956年勧告がそのまま適用され、ICRP1958年勧告が出されることとなりました。
このときICRPはリスク・ベネフィット論を受け入れ「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると、容認され正当化されてよい」と述べられ、放射線防護が緩和されていくようになりました。
 「1950年勧告では『可能な最低レベルまで(to the lowest possible level)』とされていたのが、1958年勧告では『実行可能な限り低く(as low as practicable:ALAP)』と緩められた」のでした。(『同書』p86)

アメリカはこの動きをさらに国際化していくことを目指していき、この時期に生まれた二つの国際組織への関与を深めて行きます。
その一つが「原子力の平和利用」の名の下の原子力発電の推進の中で1955年におこなわれた「原子力平和利用会議」を継承した「国際原子力機関(IAEA)」でした。
一方で核実験に対する批判の高まりの中で国連の中に生まれたのが「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCER)」でした。「科学」の名が冠されているものの、実際には参加国の代表によって構成されました。

UNSCERは拡大版ICRPとも言えるもので、アメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデン、フランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、ソ連、チェコスロヴァキアの15か国が参加しました。
ソ連や社会主義国、第三世界が参加したことに特徴があり、当初、核実験の降下物への評価が真っ二つに割れました。ソ連とチェコスロヴァキアは核実験反対を表明、これに対してアメリカ、イギリスが共同戦線を張りました。被爆国として参加した日本はアメリカに追従し、なんと核実験即時停止に反対しました。
こうしてUNSCER報告をめぐる争いはICRP陣営の勝利に終わり、その後、同委員会はICRPと共同歩調の道を歩んでいくことになりました。

こうして世界の「放射線防護」のための機関は、その実、核兵器と原子力発電の推進派に牛耳られるようになってしまいました。
この動きを一貫してリードしたのはアメリカ原子力委員会と全米放射線防護委員会(NCRP)でしたが、今はこのもとにICRP、IAEA、UNSCERがアメリカ核戦略よりの機関として存在しています。
アメリカはさらにこれらの国際機関を通じつつ、放射線の遺伝的影響の考察の徹底排除をもくろみ、放射線の危険性にしきい値がないという見解をなんとかくつがえすことを目指しました。

しかしこのアメリカの動きを大きく阻むものがありました。世界中でより一層、高まっていった核実験反対運動でした。アメリカはBAER委員会など科学的な粉飾を凝らした組織を登場させることで国際委員会を籠絡していったものの、世界の民衆の声を封じ込めることはできなかったのです。
この動きをみたソ連が1958年1月に一方的に核実験停止を宣言。追い込まれたアメリカのアイゼンハワー政権は翌1959年に核実験を一時停止すると声明しました。民衆の力が国際機関など跳ね除けて、核実験の停止をアメリカに約束させたのでした。
しかしこのためにアメリカは1958年に停止前の駆け込み実験を多数強行。その数は1950年代前半の数倍にものぼりました。このため1959年にはアメリカ全土での死の灰の降下が急増しました。各地でストロンチウム90の濃度が上がっていることが確認されました。

世界を覆うこの核実験反対の声に対しアメリカはさらにリスク・ベネフィット論を進化することで対応をはかり、NCRPに1959年勧告を出させました。以下、勧告の考え方を要約した点を本書から引用します。
 「核兵器・原子力開発から得られる利益を受けようとすると、その開発に伴うなんらかの放射線被曝による生物学的リスクを受け入れることが求められる。許容線量値を、その利益とリスクのバランスがとれるように定めることが必要である。
  社会的・経済的な利益と生物学的な放射線のリスクとのバランスをとることは、目下のところ限られた知識からは正確にはできないが、しかし欠陥は欠陥として認めるなら、現時点での最良の判断を下すことは可能である」(『同書』p116)

これらの総仕上げとして出されたのがICRP1965年勧告でした。勧告には「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである(as low as readily achievable:ALARA)」という文言が入りました。
ようするにアメリカの主導のもとにICRPは医学的、科学的に安全論を争っていてはもはや勝てないと判断し、「経済的および社会的な考慮」を持ち込むことで政治的に押し切る方向性に大きく舵を切ったのでした。
こうして世界の放射線学に、本来、放射線という科学的物質とはまったく関係のない政治・経済的要因が持ち込まれ、その上でいかなる放射線量を許容すべきなのかと言う考察が重ねられていくこととなったのでした。言い換えれば1964年にICRPは最後的に科学から遊離していったのでした。

続く

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明日に向けて(984)アメリカ軍が主導した被曝影響研究(ICRPの考察-2)

2014年12月01日 00時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141130 23:30)

『放射線被曝の歴史』を参考とした国際放射線防護委員会(ICRP)の考察の続きを書きたいと思います。

前回の最後に結成直後にICRPが出した「1950年勧告」では「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べていたことをご紹介しました。
アメリカ放射線防護委員会=NCRPが提唱する放射線被曝の「リスクを受忍せよ」という考えを受け入れなかったのですが、その理由にあるのは被曝による遺伝的影響への恐れでした。同書はこう指摘しています。
 「核兵器の開発と結びついた放射線に関する研究にたずさわった科学者たちが何よりも恐れ、対処すべき難題の第一のものと考えたのも、放射線被曝による人類の緩慢な死に対する人々の恐怖が広がることであった」(『同書』p50)

このため当時、核開発を独占的にリードしていたアメリカは、いかにこの恐怖を鎮めていくのかに最も力を注いでいくことになりました。
当時、アメリカが行っていた主要な研究は次の二つでした。一つは原爆投下後の広島・長崎で行った被爆者調査。もう一つはマンハッタン計画の下で放射線研究を担ってきたオークリッジ国立研究所での動物実験です。
このうち広島・長崎での調査は原爆を落とした加害者である米軍が、被害者である被爆者を占領状態で調査したものでした。このためこの調査がどのように行われたのかを振り返っていく必要があります。

アメリカの広島・長崎での遺伝的影響の調査の中心を担ったのは原爆傷害調査委員会(ABCC)でした。1946年11月26日にトルーマン大統領が全米科学アカデミー・学術会議に設置を指令し、翌年1月に設置されたとされる機関です。
あたかも学術的な団体であるかのようなカモフラージュがなされましたが、実態は戦後直後に原爆の人体への殺傷力を調査したアメリカ陸軍および海軍の各軍医総監が、原爆製造計画段階から密接な関係にあった全米科学アカデミー・学術会議に要請して作った組織でした。
目的は原爆の後障害、ないし放射線の晩発的影響や遺伝的影響の調査でした。なお「後障害」とは被ばく直後におきた「急性障害」がおさまってからも続いた被ばくの影響を指す言葉です。

ABCCは日本占領直後に米軍が組織した「日米合同調査団」の後を受けたものでした。「日米合同調査団」は広島・長崎に9月に入り、主に原爆の殺傷力の調査を行いました。
その頃、すでに最重症の被爆者の方達は亡くなっており、重症の方も半分が亡くなっていましたが、米軍の調査は大きく二つの狙いを持っていました。
一つには原爆の殺傷力を知ることで今後の核戦略の基礎データとすること。モスクワを攻撃するには何発の原爆が必要なのかなどを編み出すこと。同時に原爆を受けたときに兵士たちがどれだけ生き残り、反撃できるかを調べることでした。

ここで1991年に書かれた『放射線被曝の歴史』を一度離れて、その後に明らかになった事実からこの時期のことを掘り下げて行きたいと思います。
その際の最も有力な参考となるのは2010年夏にNHKが放送した『封印された原爆報告書』です。
放映されたのは、米軍が日本を占領する前に実は日本陸軍の調査隊が被災地に入って綿密な調査を行っていたことでした。驚愕の事実が幾つもありました。

僕はこの番組を2011年夏に再放送でみて深いショックを受け、何としてもこれを多くの方に伝えねばと録画を手に入れて文字起こししました。その記事をご紹介しておきます。
 明日に向けて(285)封印された原爆報告 20111007
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/ddac9fad8987f13e69ab7562da0a07f2

ネットに番組そのものがあがっていたのでそれもご紹介しておきます。  
 『封印された原爆報告書』
 http://www.dailymotion.com/video/xkca1f_%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_news

詳しくはこの記事をご覧になっていただきたいのですが、敗戦が決定的になるや陸軍は、中国大陸での731部隊による人体実験をはじめ、数々の戦争犯罪がアメリカに把握され、訴追されることを最も恐れました。
そのため書類の焼却や施設の破壊など、証拠隠滅を図りましたが、同時にアメリカの訴追を免れる有力な「カード」として、原爆の被害調査を行い、自ら英訳し、占領軍が到来するや否や差し出したのでした。
これを受け取ったアメリカ軍は大変、喜んだといいます。のどから手が出るほど欲しい情報だったからです。

例えば17000人の小学生の死亡記録があります。各小学校別に生徒数と死亡数を割り出し、それぞれが爆心地からどれほどの距離にあったのかを記したものです。
このもとに出来上がった爆心地からの距離と死亡数を記したグラフの曲線が「死亡曲線」と言われました。アメリカはこれで1発の原爆でどれほどの人間を殺せるかを知り、先に述べたようにソ連の各都市を攻めるのに何発の原爆が必要なのかを編み出していったのです。
アメリカ調査団の生き残りはNHKのインタビューに「革命的な報告だった」と語っていますが、兵士たちに特攻や「万歳突撃」をさせた軍部は、同胞の殺戮被害報告書をアメリカのために作って差し出したのです。なんとひどいことでしょうか。

「日米合同調査団」の名は、こうしてアメリカ軍のもとにすぐさま馳せ参じた陸軍調査団をアメリカ軍がすぐさま吸収して作られたもので、さらに日本側の協力を引き出すための方便としてつけられた名前でしかありませんでした。
事実、アメリカでの正式名称は「日本において原爆の効果を調査するための軍合同調査団」でした。合同とはあくまでもアメリカの陸軍、海軍、進駐軍などの合同を意味していたのです。
その意味でABCCによるその後の調査は、実質的にはアメリカ軍によるものであり、これに全面協力を申し入れた旧軍部をはじめとした日本政府の追従のもとに成り立っていました。

ABCCは遺伝的影響の調査としてはどのようなことを行ったのでしょうか。『放射線被曝の歴史』によると7万人の妊娠例を追跡調査し、遺伝的影響として次の5項目が調べられました。
(1)致死、突然変異による流産、(2)新生児死亡、(3)低体重児の増加、(4)異常や奇形の増加、(5)性比の増加(もし影響があるなら母親が被ばくした場合には男子数が減少し、父親が被ばくした場合には男子数が増加する)。
調査は1948年から1953年にかけて行われましたが(5)をのぞいては統計的に有意な事実は確認されず、その(5)も1954年から58年の再調査でやはり有意であるとは確認されませんでした。

しかし当のABCCの中でももともとこの調査では有意な値は出ないのではないかと疑問視されていたといいます。その理由として同書は次の点を指摘しています。
 「ABCCが追跡調査した妊娠例はおよそ7万例であったが、100レントゲン(守田注 1シーベルト)以上をあびたと推定される父親の数はおよそ1400人、母親の数もおよそ2500人にすぎず、圧倒的大部分が低い線量の被爆例であったからである」(『同書』p56)
低線量の場合はもっとたくさんの人数を調べないと結果が得られない。ようするに調査人口が少なかったのです。しかも実際にABCCが追跡できたのは7万人のうちの3分の1に過ぎませんでした。調査結果はこのため「遺伝的影響があるともないとも言えない」というものでしたがABCCは「遺伝的影響はなかった」と大々的に宣伝しました。

一方でオークリッジ国立研究所では動物実験が行われていました。マウスを使った実験で高線量で遺伝的影響が現れることが確認されるとともに、自然状態での突然変異の発生率の倍になる被曝線量=倍化線量が探られました。
得られた値は30~80レム(300~800ミリシーベルト)でした。このためアメリカの遺伝学者の多くは、80レム(800ミリシーベルト)を倍化線量の上限値と捉えるようになりました。
これらから人体における遺伝的影響は確認されないとされたものの、動物においては明確に倍化線量があることを踏まえた上で、では公衆の被曝量限度をどの値に設定するのかということが論議されていくようになりました。

この議論の舞台となったのがICRPでした。この頃までにアメリカはかつては被曝の危険性を訴える先鋒にたっていた遺伝学者のマラーを政府の側に抱きこんでしまっていました。さらにアメリカはICRPを構成する各国に「リスク受忍論」を受け入れさせようとしました。
具体的にはマラーによって、倍化線量実験の上限値800ミリシーベルトをもとに、「子どもを生める期間」の被曝量限度をその4分の1の200ミリシーベルトにするべきだと主張させました。
しかしイギリス代表はこれに反対し、30年間で3レム=30ミリシーベルトを主張しました。1年間では1ミリシーベルトになります。これをスウェーデンが高すぎると批判。結局、1952年の会議で折衷案として30年間に10レム=100ミリシーベルトという値が出されて合意が作られました。

こうした論争を反映して1954年のICRP勧告では、許容線量について次のように声明されることとなりました。
 「許容線量とは『自然のレベルよりも上のあらゆる放射線被曝は絶対的に安全とみなすことはできないが、無視しうるリスクをともなう』線量」だというのです。(『同書』p61)
放射線のリスクを受忍せよというアメリカの主張が完全には通りませんでしたが、「無視しうるリスク」という文言が入ることにより、ICRPはアメリカ寄りに立場を移行させ始めることとなりました。

続く

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明日に向けて(983)社会的共通資本としての絵本-市居みか展四日市へのお誘い(2)

2014年11月30日 00時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141130 00:30)

社会的共通資本としての絵本の続きをお送りします。

絵本に対する思いをさまざまな経験から深めつつも、しばし滋賀県に通わなくなっていた僕が市居みかさんと再会したのは、市居さんが絵を書き、玉崎洋子さんが文を書いて作った、1枚のチラシがきっかけです。
タイトルは「まずは知らなきゃね」。市居さん描く「あすのわぐま」が、原発について「本当はこうなんだよー」と猫ちゃんに説明しているものです。
何はともあれ以下をクリックしてみてください。A4二つ折り、見開きようのもので、1枚目の右側からスタートしています。
 http://asunowa.shiga-saku.net/e614436.html
 https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=1n4BN-8yTV5-BqPLEixco6GMXyRBn1Hz1NF8pdV_ibNfW20AATCj_rShSINd8&hl=en

僕がこのチラシを手にしたのは、2011年4月に行われた大阪での脱原発デモでのこと。カメラを持って撮影しながら歩道を歩いていた僕に小学生ぐらいの女の子が「はい!」とにこやかに手渡してくれたのでした。一読して、これは原発事故以降のベストチラシだと思った。
それでただちに持ち帰ってマスプリ。周りにじゃんじゃん配りだしたところ大好評でしたが、その頃になって良く読むと「イラスト市居みか」と書いてある。「あ、あの時の市居さんだ」と嬉しくなりました。
チラシのマスプリの許可を得なければと、連絡先の「あすのわ」に電話を入れて快諾を得ましたが、そのあすのわの方たちがのちに「びわこ123キャンプ」をはじめていきました。思えばこれが僕のしがの方たちとのつながりの糸口になりました。1枚のチラシ、素敵な絵の踊るチラシのもつ力でした。

そのころ、つまり2011年過程で、僕は被爆医師の肥田舜太郎さんと出会い、本当に深刻な放射能漏れの中にあって、私たちが前向きに生きてくために必要なのは、放射能の元を断つことと、一方で腹をくくり、免疫力を高める努力を傾けることだと教わりました。
免疫力を高めるためには健康生活をすることが大切ですが、同時に私たちが経験的に知っているのは、精神生活の豊かさもまた、免疫力の向上に大きく寄与するのだということです。だからことばの力、絵の力もまた、免疫力の向上に大きく寄与するのだと僕は思いました。
その意味で僕は「絵本は放射能に効く」と感じました。今でもあの2011年4月の大阪のデモのときに「あすのわぐま」と出会い、心がパッと明るくなった嬉しさ、楽しさを思い出します。そのために僕は折に触れて絵本に接することの喜びを伝えようとしてきました。

今はそれ以上の意味を感じています。というのは安倍首相は今、自分たちの政権の延命だけのために衆議院を解散するなど、正当性のないことばかり繰り返しています。
「アベノミクス解散だ」とか「増税延期を問う解散だ」とか言っていますがどう考えもおかしい。アベノミクスが間違っていて、人々の暮らしが苦しくなり、景気がどうしようもなく悪いから増税なんかできなくなったのであって誰も増税に賛成などしていないのです。
それだけではなくこの首相は本当に平気で嘘ばかりついてきました。福島原発があんなにひどい状態が続いているのに「完全にコントロールされている」と言ってみたり、集団的自衛権行使の強引な決定でこの国がアメリカに率いられて戦争に参加する可能性が高まっているのに「これは日本が戦争に巻き込まれないためのものだ」と言ってみたり。

今日、こうした安倍首相の横暴ぶりは日を追うてひどくなっています。
とくにマスコミや野党に「大義なき解散」との指摘を受ける中で、安倍首相はテレビのキャスターに「今、解散総選挙は必要なんですか?」と問われて「それも選挙で問うてください」と訳のわからない返答をしたり、「経済なんかぜんぜんよくなってない」という町の声が紹介されると「おかしいじゃないですか」と切れてどなったりしています。
そこには誠実さなどかけらもない。相変わらずうそばかりを連発し、少し突っ込まれただけで逆切れを繰り返していますが、私たちが見ておかなければならないのは、このような人物が首相を続けてきたこと、誰も安倍首相を諫めることができない中で、他ならぬ与党の議員たちの多くが想像力を失い、感性を麻痺させてしまっていることです。

なぜかと言えば、あれほど不誠実な嘘の連発や事実を無視した発言が続くにもかかわらず、誰も抗おうとせず、黙認することで嘘への加担を続けているからです。
批判でもしようものならすぐに政権から遠ざけられてしまうからと考えてどんどんイエスマン化してしまっている。国のため、社会のために首相のあやまりの前に立ちふさがる「愛国の志士」もまったく出てきません。それが「劣化」を指摘されている与党議員たちの姿です。
市井の人々に「暮らしが苦しい」と言われても察するイマジネーションを持たず、どう考えても危険な原発を避難計画もなしに動かそうとしていることにもまっとうな危機感を持てない。とにかく自分に都合の悪いことはすべて考えないようにしてしまっている。集団で人間的想像力にふたをしたままこの国をとんでもない方向に進ませつつあります。

ここでぜひ再度、松居さんの言葉を思い起こして欲しいと思います。
 「物語を聞ける力というのは、物語という目に見えない世界を、自分の心の中に見えるようにする、絵(イメージ)にする力です。一般に想像力(イマジネーション)といわれる力です。想像力が豊かであれば、人間は見えないものを見ることができます。絵本は、子どもたちの想像力に大きなかかわりがあります。」
 「子どもは、生まれたときから、豊かな想像力を持っているのではありません。それは直接、間接の体験を通して獲得されるものです。体験が豊かであればあるほど、想像力も豊かになるでしょう。絵本は、幼児にとって体験を豊かにする機会をあたえます。」(『絵本とは何か』p7、8)

こう話をつなげてみると今の政治家たちがどれほどこうした人間的なイマジネーション力を失っているかが見えてくると思います。
思いやりの心を著しく欠いており、だから周辺国と溝が深まるばかりだし、国内にもヘイトクライムを蔓延させています。それどころかヘイトクライム団体と関係の深い人物を多数閣僚に登用すらしている。
私たちはこのあまりにひどい状況に立ち向かっていかなければなりませんが、だからこそ、相手があまりにひどいからこそ、私たち自身の心の豊かさ、想像力の逞しさ、他者の痛みを思いやりシェアできるイマジネーションを、「灰色」の人々に立ち向かう中で失ってしまうことを避けなければならないと思うのです。

そのために今、絵本を読み、文学を読み、美しい絵画を楽しみ、さまざまな音楽に耳を傾けることで、私たちは常に私たちの中の美しいもの、柔らかいもの、優しいものを守り、育んでいく必要があります。絵本などが与えれくれる栄養をたくさん採って、心の健康を保つことが大事です。
そのためにもぜひ市居みか展に行かれてください。あるいは市居みかさんの絵本を手に取ってください。ふしはらのじこさんの絵本も読まれてください。松居直さんの著作に触れてみてください。
さらにぜひ宇沢弘文先生の書に、今、この時期だからこそ、接していただきたいと思います。その中で、社会的共通資本を守ろう!と叫び続けられた宇沢先生のご遺志をシェアしてくださると嬉しいです。僕自身も社会的共通資本を守るため、さらに奮闘を続けます!

*****

再度、市居みかさんの個展情報をお知らせしておきます。

11月28日から12月10日まで。四日市のメリーゴーランド本店にて開催中です。
12月7日午後2時からギャラリートークがあります。

 絵本作家 市居みかの日々あれこれ
 http://ichiipk.exblog.jp/23487278

なお今回の記事は2011年9月にはじめて滋賀県信楽市を訪れてお話するにあたって書いた以下のものをリライトして作りました。

 明日に向けて(271)ことばの力、絵の力、絵本の力 20110927
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/954c69322a4325aecc96c8f86eea952b

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明日に向けて(982)社会的共通資本としての絵本-市居みか展四日市へのお誘い(1)

2014年11月29日 18時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141129 18:30)

絵本作家でアースディしがも担われている市居みかさんの作品展「あのころ」が三重県四日市市のメリーゴーランドで始まりました。11月28日から12月10日までです。
10月に行われた京都展の続きです。僕はポーランドから帰国してぎりぎりの日程で行くことができましたが、本当にとても良かったです。

市居さんは今回の個展のことをこんな風に表現しています。

 子どもの頃にしか感じられなかった、あの感じ。
 わくわくするような、不思議なことが起こるような、ドキドキするような、あの感じ。。。
 思い出しながら、もう一度味わいたいと思います。

 絵本作家 市居みかの日々あれこれ
 http://ichiipk.exblog.jp/23487278

ドキドキしながらあの扉を開けて・・・そんな懐かしいあのきらめきの一瞬があなたの中に蘇ってきます。
お近くの方、また近郊の方もぜひお越しください。会場を記しておきます。12月7日午後2時から市居さんも在廊されるそうです。

 メリーゴーランド
 http://www.merry-go-round.co.jp/index.html

またこの時期に三重県松阪市嬉野図書館で市居さんの講演とワークショップもあります。
定員が親子30組だそうです。われと思われる方は早めにご連絡を。

 絵本作家 市居みかさん講演会ワークショップ
 http://www.library-matsusaka.jp/matsuri5.html

市居さんと出会ったのは僕が滋賀県に一瞬だけ起ちあがった「みんなの滋賀新聞」という新聞社に参加していて県内を走り回って取材していたときのことです。
滋賀県は図書館が素晴らしくいい。間違いなく日本で一番いい。それもダントツにいい。素晴らしいポリシーを持って作られてきています。とくに僕が惹かれたのは当時才津原哲弘さんが館長をされていた能登川図書館でした。何度も通ってお話を聞きました。
そのとき才津原さんに紹介されて参加したのが近江兄弟社小学校の「とりいしんぺい」先生の主催する大人を対象とした絵本を読む会で、その場に参加されていたのが市居さんでした。

絵本を読む会は能登川図書館と、近江八幡のとても素敵なカフェレストラン「茶楽」で交互に行われていました。参加するたびに驚きがありました。とうに忘れていた絵本の力を思い出しました。
たくさんのことを取材して、図書館や絵本に関する連載を企画していたのですが、残念ながら立ち上がったばかりのこの新聞社が一年で力尽きてダウン。
ものすごく溜め込んだ他の滋賀県ネタとともに、すべてがお蔵入りになってしまいました。

その後、恩師の故宇沢弘文先生が僕を同志社大学社会的共通資本研究センターにひろってくださり、僕の社会的共通資本に関する研究が始まりました。
宇沢先生が最晩年に最も力を注いだのは「社会的共通資本としての医療」でしたが、それとともに社会的共通資本の考え方を社会のさまざまなところに適用していくことも意欲的に考えておられました。
そんなときに僕の滋賀県での絵本に関する取材の話から「社会的共通資本としての絵本」という企画を同志社でやらないかということになりました。

このときに宇沢先生がぜひお呼びしようと推薦されたのが絵本の老舗、福音館書店の会長、松居直さんでした。松居さんは同志社のOBでもいらっしゃいました。
もうひとり、京都・堺町画廊の主宰者でもあり、僕の昔からの友人の絵本作家ふしはらのじこさんも来て下さいました。
お二人の話ともにとても素敵だったのですが、今回、「社会的共通資本としての絵本」というタイトルにからめてご紹介したいのは、松居さんのことです。

松居さんは、絵本の世界にいる方の中ではとても有名な方で、絵本道の達人です。
といってもご本人が絵本を書かれてきたのではありません。福音館書店を通じて数々の素晴らしい絵本を世に押し出し、また素晴らしい作家さんたちを育ててこれらたのです。
松居さんは、絵本や、こどもの本にまつわる成人向けの本を何冊も書かれています。『絵本をみる眼』『絵本とは何か』『子どもの本・ことばといのち』などです。とくに絵本やこどもの本を開いてみようという方にお勧めなのは『子どもの本・ことばといのち』です。

ここでは松居さんのお勧めの児童書がずらりと並んで紹介されています。その筆頭にあげられているのは『ハイジ』です。誰もがご存じのアニメーション『アルプスの少女ハイジ』の原作ですが、実は原作とアニメにはかなりの違いがあり、松居さんはそれを次のように紹介しています。
 「久しぶりに完訳で『ハイジ』を読み返したとき、ひとりの読者-それも大人の読者として、私は予想した以上に心をひかれました。これほどまっすぐに心に語りかけ、新鮮な思いに包まれた読書体験も稀でした。
 それに較べてアニメーションの「ハイジ」のなんと貧しいこと。原作者シュピーリが語り伝えたいと願ってあろう本質の問題は、みごとに消し去られているのです。」
 「いえ、その部分は映像化しえないのです。もちろん物語を”読む”というあの楽しさは味わえません。シュピーリが心をこめてことばにした自然の美しさも、人の心のゆたかさや深い悩みも、まるでメッキのように薄っぺらにしか表現されていません。」(『子どもの本・ことばといのち』p10)

僕はこの一説に衝撃を受け、すぐに「ハイジ」の原作を日本語訳して福音館書店が発刊したものを手に入れ、ゆっくりと、丹念に読みました。そして松居さんがおっしゃるように、この本が本当に深い広がりを持っていることを知りました。パウル・ハイの描いたさし絵にとても感銘しました。
実はこのさし絵は、松居さんが日本語訳を編集されたときに、スイスの著明な絵本編集者で、こどもの本のすぐれた研究者でもあったベッティーナ・ヒューリマンさんに相談を持ちかけ、パウル・ハイさんを紹介されて実現したものなのでした。
そのヒューリマンさんが『七つの屋根の下で - ある絵本作りの人生』というこれまた素晴らしい本を出されているのですが、その日本語訳をされたのが、宇沢先生のお連れ合いの宇沢浩子さんでした。

松居さんはさらにこう続けられています。
 「すでに『ハイジ』をお読みになったことがある方々も、改めて矢川澄子訳、パウル・ハイ画の完訳本『ハイジ』を、一行一行ゆっくりと、山に登るときのようなあゆみで読んでみてください。そして作者シュピーリの語ることばと思いに、より添ってみてください。」
 「さらには、登場人物たちの行為やことばだけでなく、アルプスの自然について語る、シュピーリのことばにこめられた、彼女の実体験とあこがれに思いをいたしてください。この作品の新の立役者は、スイス・アスプスの大自然だともいえるのではないかと、私はおもうからです。」(同p12)

松居さんが『ハイジ』の紹介を通じて伝えたかったことは何でしょうか。
ことばと絵が、人間の想像力をかきたてること、そこにこそ「子どもの本」や「絵本」の素晴らしさがあるということだと思います。だから実は優れた本は、大人をも深く感動させます。
正確には、ものごとに感動する私たちのかけがえのない人間的な力を引き出してくれるのです。ピュアに書かれたことばの力、絵の力、そして絵本の力がそこにあると僕には思えます。あらゆる書物の原点もまたそこにあるように思えます。

松居さん自身は、『絵本とは何か』という本の中でこう語っています。小さな子どもたちを集めて、お話を読み聞かせたとき、ついてこれる子と、そうでない子がいる。それはなぜかということを解き明かす中で語られている言葉です。
 「物語を聞ける力というのは、物語という目に見えない世界を、自分の心の中に見えるようにする、絵(イメージ)にする力です。一般に想像力(イマジネーション)といわれる力です。想像力が豊かであれば、人間は見えないものを見ることができます。絵本は、子どもたちの想像力に大きなかかわりがあります。」
 「子どもは、生まれたときから、豊かな想像力を持っているのではありません。それは直接、間接の体験を通して獲得されるものです。体験が豊かであればあるほど、想像力も豊かになるでしょう。絵本は、幼児にとって体験を豊かにする機会をあたえます。」(『絵本とは何か』p7、8)

宇沢先生がもっとも重要視されたのは、医療とともに「社会的共通資本としての教育」でした。
宇沢先生は子どもにはもともと自らを成長させていくインネイトな力が備わっており、その発展、開花を助け、支えていくものこそが教育なのだと考えられていました。その点、松居さんと少し捉え方のニュアンスに違いはあるものの、お二人は同じことを語られていたのだと思います。
子どもの感性をおおらかに伸ばしていくこと、想像力を発達させていくいこと、そのために良質な児童書が必要であり、良質な教育が必要なのです。その教育の場を国家官僚の恣意的支配や市場原理に任せてはならない。だからこそ教育も絵本も社会的共通資本なのです。

この日の同志社での企画も、松居さんが著書に書かれている児童書や絵本の力と意義について語ってくださり、宇沢先生も社会的共通資本としての教育について語ってくださいました。
もうひとりの参加者のふしはらのじこさんも、ちょうど松居さんの立ち上げられた福音館書店から『じんがくんいちばにいく』という素晴らしい絵本を出されており、その話などをしてくださいました。
素晴らしい企画になりました。なお『じんがくんいちばにいく』の紹介もアマゾンのサイトから載せておきます。アマゾンにはさまざまな問題がありますがレビューにはなかなか良いものもありますのでご参考にされてください。

 『じんがくんいちばにいく』
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4834018512%3ftag=osusumeehonsh-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=1CR2KCSDNRVJY76AMX82

続く

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明日に向けて(981)歪められてきた放射線防護(国際放射線防護委員会=ICRPの考察-1)

2014年11月28日 09時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141128 09:00)

ウクライナの悲劇を分析する中で、チェルノブイリ原発事故による人体への影響を告発するウクライナの医師たちの前に、常に幾つかの国際機関が立ち塞がってきたことを見てきました。
IAEA(国際原子力機関)、WHO(世界保健機関)、UNSCER(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)、ICRP(国際放射線防護委員会)などです。
これらの中で、最も古くから放射線の人体への影響の評価を行ってきたのはICRPです。そのためこの委員会の主張を分析し、放射線被曝の影響の過小評価論に対してしっかりとした批判を行っていく必要があります。

そのため今『ICRP2007年勧告』批判の作業に着手し、読み解きを行っていますが、その前にこの組織を概観しておくこと、設立から今日までの歴史過程をおさえ、多くの方に知っていただくことの重要性を痛感しました。
絶好の参考書としてあげられるのは『放射線被曝の歴史』(中川保雄著 明石書店)です。1991年に公刊されていますが、福島原発事故後の2011年10月に増補版が出されました。
今回はこの書の内容をみなさんに紹介したいと思います。

本書の問題意識は「1 放射線被害の歴史から未来への教訓を-序にかえて」によく表されています。
 「放射能の恐さや放射線被曝の危険性に関する公的なあるいは国際的な評価は、核兵器を開発し、それを使用し、その技術を原発に拡張した人びとと、それらに協力してきた人びとによって築き上げられてきたのである」(『同書』p11)
 「被害をどうみるかが問題とされる事柄を、加害した側が一方的に評価するようなことが、しかもそれが科学的とされるようなことがまかり通ってもよいのであろうか」(『同書』p11)
 「一般には通用しないようなやり方で、放射線被曝の危険性とそれによる被害を隠し、あるいはそれらをきわめて過小に評価することによって、原子力開発は進められてきたのである」(『同書』p12)

まったく同感です。僕自身も、この点について、物理学者矢ヶ崎克馬さんとの共著『内部被曝』(岩波ブックレット)の中でも明らかにしてきましたが、チェルノブイリ原発事故の被害により深く触れる中でこの点をもっと掘り下げねばという思いを新たにしました。
なんとも悔しいことでもあります。私たちの国はアメリカに原爆を落とされましたが、そのアメリカが日本を占領したのちに、広島・長崎に赴いて被爆者調査を排他的に行ったのでした。原爆のデータを独占するとともに、できるだけ被害を小さくみせるためにでした。
情けないことに、私たちの同胞を原爆投下後に二重三重に踏みつけるこの調査に、我が日本政府は全面的に協力したのでした。自らのアジアでの戦争犯罪を訴追されないことが強い動機となっていました。

原爆投下は完全なる戦争犯罪です。非戦闘員の無差別な大量虐殺だからです。いやそれだけではない。人々を戦争が終わった後も長い時間をかけて殺し、新たな世代にまで酷い影響を与えました。
ところが私たちの国は戦後、一度もこのアメリカの戦争犯罪を告発できずにきました。そればかりか70年間もの間、米軍基地のために土地を奪われ続けています。「鬼畜米英を倒せ」と叫んで国民を戦争に駆り立てたかつての政府の末裔の人々がアメリカにすり寄ってこの状態を続けてきたのです。
そのもとに、つまり政治的軍事的に歪められた「一般には通用しないようなやり方で」放射線被害の評価ががなされ、それが今、世界の放射線学のベースにされています。被爆者の痛みの上に、さらに世界の人々に放射線被曝を強要する体系が作りだされてきたのです。

ICRPはどのようにして今の放射線評価にいたったのでしょうか。この組織は1928年にアメリカで成立した組織が国際化した「国際X線およびラジウム防護委員会」を前身とし、1950年に結成されました。
もともとは20世紀になって発見され、商業的に使われるようになった放射線から、労働者を保護することを目的とした組織でした。
当初は放射線はある線量以下であれば生物に影響を及ぼすことはないと考え、安全な値を「耐容線量」と捉えて、1931年に最初の値を決定しました。

委員会はその後1940年に「耐容線量」を大幅に引き下げました。遺伝学者たちからの強い批判があったからでした。本書はこの点を次のように説明しています。
 「その批判は、マラーが1927年にショウジョウバエを用いた実験で放射線突然変異を発見したことに端を発し、1930年代を通じて遺伝学者の間に広がった。
 放射線被曝により遺伝的影響が発生すること、しかも被曝線量に比例することを、他のどの分野の科学者よりも早くかつ深刻に受けとめたのは遺伝学者たちであった」(『同書』p26)

しかし委員会は第二次世界大戦が激化するなかで活動が停滞します。同時にアメリカで原爆開発が進められ、1945年広島・長崎に原爆が投下されたことにより「放射線防護」の持つ意味が大きく変化しました。一部の限られた職種の問題ではなくなったのです。
マラーは放射線被曝の拡大に強い危機感を持ち、各地で放射線の危険性を訴える講演を行いました。そのマラーが1946年にノーベル生理学・医学賞を受賞したことで、放射線の人類におよぼす危険性についての社会的関心が広がっていきました。
核武装を強力に推し進めていたアメリカ政府は、マンハッタン計画=原爆製造の代表を加えて「アメリカX線およびラジウム防護委員会」を「全米放射線防護委員会(NCRP)」に改組しました。

このことで委員会の性格は大きく変わりました。被曝から労働者を保護するものから、核武装を推進する軍産複合体がマラーをはじめとする遺伝学者たちの放射線への危険性への批判から核戦略を防護するための機関になっていったのです。
アメリカはマンハッタン計画に参加していたイギリスやカナダと三国協議を進めてあらたな方向性への合意を取り付け、NCRPの主導のもとさらにフランス、スウェーデン、西ドイツを加えて「国際X線およびラジウム防護委員会」を「国際放射線防護委員会(ICRP)」に改組しました。
 「ICRPは、かつての科学者たちの組織から、それを隠れ蓑とする原子力開発推進者による国際的協調組織へと変質させられたのである」と同書は指摘しています。(『同書』p35)

全米放射線防護委員会(NCRP)はさらに「耐容線量」という考え方を大きく転換し「許容線量」という考え方を導入し、国際放射線防護委員会(ICRP)に追認させていきます。
放射線が遺伝的障害を生むというマラーら遺伝学者たちからの避けようのない批判を踏まえつつ、確かに放射線は危険なものでなにがしかのリスクを生むが、かといって放射線を用いる重要な業務を著しく困難にすることは不利益である。
このためリスクを十分に低くすること。とくに遺伝的影響については「突然変異の発生率が線量に比例してはいるが、遺伝的異常の自然発生率と比べてその発現が大きすぎないように被曝量を制御する」(『同書』p38)とされました。

この際の考え方で大きなポイントとなることは次のことです。同書から引用します。
 「放射線障害に対する感受性は、人によって大きく異なるが、誰が放射線に最も大きな感受性を有するかを前もって決めるわけにはいかないので、平均的な人間をもって考えることにする」(『同書』p37)
つまりNCRPもICRPも放射線に極端に弱い人々も存在していることを十分に認識しつつ「平均的人間」を防護の対象とすることで、これらの人々をあらかじめ切り捨ててしまったのです。

ICRPの考え方は現在もなお世界の放射線防護の基準となっています。放射線防護ではなく核戦略防護の考えなの方ですが、多くの人々がこの考え方が形成された経緯を知らずに適用しているので、実はここからの逸脱も頻繁に起こっています。
その最も重要なポイントは、年間被曝を1ミリシーベルト以下に抑えるという現在の放射線防護基準もまた「平均的人間」を前提していることが忘れられている点です。1ミリシーベルトとて誰にとっても安全値ではありませんが、より放射線に弱い人にはより打撃の強い値になっているにもかかわらずです。
また個人が放射線被曝によって被る打撃に対しても「低線量ではそのような症状はでない」となどと繰り返し語られていますが、あくまでも「平均的人間」についてICRPがそのように判断しているのであって、ある特定の個人がどうなるのかはICRPにとっては埒外だということも忘却されています。

許容線量について本書では次のようにまとめられています。
 「核兵器工場などの原子力・放射線施設の存在と運転の必要性を軍事的・政治的および経済的理由から認めたうえで、放射線をあびて働く原子力労働者をはじめとする放射線作業従事者、あるいは一般公衆に対して、
  それらの被曝を受忍させるために、政府などが法令等の規則で定めた放射線被曝の基準であり、狭くはそれらの線量限度を意味する」(『同書』p39)
 「放射線に最も弱く、したがって防護においては最も重要視しなければならない胎児や赤ん坊をはじめとする弱者を切り捨てる思想から誕生した。
  被害が生じることがわかっていても、その被害者を”平均以下”の人間として切り捨て、社会の発展のためにはその蛮行も許容されるべきであると、多数の「平均的人間」に思い込ませる。(『同書』p40)

この考え方をリードしたのはアメリカのNCRPでした。設立当初のICRPは一定の抵抗を示し「1950年勧告」では「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べています。
ICRPはもはや維持が不可能になった「耐容線量」という考えを「許容線量」という考えに変えることは受け入れたものの、NCRPの主張に込められた「リスクを受忍せよ」という考え方にしばし抵抗を続けたのでした。
 「ICRPに『可能なレベルまで』と言わせた最大の要因は、放射線による遺伝的影響の問題であった。遺伝的影響については、それが被曝線量に比例することが否定できないがゆえに、被曝量を可能な限り低くすべきであるとICRPは勧告せざるをえなかった」(『同書』p44)

当時のICRPの立場に大きな影響を与えたのは、広島・長崎の惨劇を目にして心を痛めた世界中の人々の声でした。
とくに1950年に朝鮮戦争がはじまり、アメリカのトルーマン大統領が原爆投下の可能性を示唆したことに対し、世界中で核兵器の禁止を求める「ストックホルム=アピール署名運動」が高揚し、全世界で5億人もの署名が集まりました。
世界の人々の声がNCRPによる「リスク受忍論」へのICRPの抵抗を後押ししていたのでした。「被曝を最低レベルにせよ」という文言は、広島・長崎の痛みをシェアしようとする世界の人々の願いがこもった言葉だったのです。

続く

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