Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

冒涜の罪とつまずきの罪について:冒涜は非常に重い罪、それは天主ご自身を、憎しみから攻撃すること。天主の罰はこの罪がどれほど重いかを示す。

2023年11月10日 | お説教・霊的講話

冒涜の罪についての説教

ドモルネ神父 2023年10月15日

はじめに

大いなる悲しみと聖なる怒りをもって、私たちは、上野の藝大アート・プラザに展示されている冒涜的ないわゆる芸術作品を目撃しています。その芸術作品は「キリスト・サンドバッグ」と題されています。それは、サンドバッグのように三脚から吊り下げられている大きな十字架像であり、この十字架像を殴りたい人々のためにボクシングのグローブが用意されています。私は今日、この胸が張り裂けそうな悲しい機会を利用して、冒涜の罪とつまずきの罪についてお話ししたいと思います。

冒涜の罪

冒涜とは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことです。冒涜は、心の中で天主を侮辱する場合には、内的に犯されるものであり、天主を傷つけるような言葉、文章、身振り、行動によって外部に現す場合には、外的に犯されるものです。冒涜する方法には、いくつかあります。

第一の冒涜の方法は、天主を傷つけることを述べることです。天主に関して、天主にふさわしくないことを述べたり、天主の完全性を否定したりすることです。最初の場合、たとえば、天主は私たちを忘れてしまうとか、天主は暴君であるとか、天主の掟に従うことは不可能である、などと述べることは冒涜です。二番目の場合、たとえば、天主が被造物や私たちを気にかけていないとか、天主がすべてを支配してはいないとか、天主は不正である、などと述べることは冒涜です。また、天主のみに属する完全性や誉れを被造物のものだとすることも冒涜です。たとえば、使徒行録には、ヘロデ・アグリッパ王が人々に向かって演説したとき、人々がこう叫んだと書かれています。「『これは天主の声だ。人間の言葉ではない』。しかし、天主に光栄を帰さなかったヘロデは、突如として主の天使にみまわれ、虫にかみ裂かれて息絶えた」(使徒行録12章22-23節)。悪魔崇拝者たちは、天主のみに属する科学と力をサタンのものだとすることで、天主を冒涜しているのです。

第二の冒涜の方法は、天主に関する事実であっても、そのことを、天主を軽蔑したり嘲笑したりしながら述べることです。たとえば、鞭打ちの時、兵士たちはイエズスに茨の冠をかぶせ、イエズスの前でひざまずいてこう言いました。「ユダヤ人の王よ、あいさつ申します」(マテオ27章29節)。イエズスがユダヤ人の王であることは事実ですが、兵士たちは嘲笑しながら言ったのです。それは冒涜でした。ローマ皇帝の背教者ユリアヌスは、イエズス・キリストおよび教会と戦いました。彼はもちろん失敗し、死ぬ間際に、私たちの主に向かって怒りながらこう言いました。「ガリラヤ人よ、おまえの勝ちだ!」。イエズスがガリラヤ人だったのは事実ですが、背教者ユリアヌスは侮蔑しながら言ったのです。それは冒涜でした。東京の藝大アート・プラザでは、十字架にかけられたイエズス・キリストがサンドバッグとして展示されています。これは、ある意味で事実です。主のご受難について、私たちの主イエズスご自身が、預言者イザヤを通してこう言われました。「私はそれに抵抗せず、退かなかった。打つ人に私の背中を、ひげを引き抜く人に私のほおをまかせ、ののしりとつばから、顔を隠さなかった。…私は顔を石のように固くした」(イザヤ50章5-7節)。しかし、藝大アート・プラザでは、ご受難のときの私たちの主の柔和と忍耐、主の私たちへの愛が、嘲笑されています。それは冒涜です。天主を侮蔑しながら、聖なるものを嘲ったり、軽蔑して語ったりすることも冒涜です。たとえば、童貞聖マリアの終生童貞の特権を嘲ることは冒涜です。

第三の冒涜の方法は、天主に邪悪なことを願うことです。たとえば、天主は存在しなかったとか、天主は死んだとか、天主は罪を罰しなかった、と願うことです。また、天主が軽蔑されるようななんらかのことが起こるように願うことも冒涜です。たとえば、人々が信仰を失うようにするために、一部のカトリック聖職者の罪ができる限り公になることを願うことです。

冒涜は非常に重い罪です。なぜなら、それは天主ご自身を、憎しみから攻撃することだからです。冒涜する者に対する天主の罰は、この罪がどれほど重いかを示しています。なぜなら天主は、不正な罰を与えることがおできにならないからです。レビ記の中で、天主はこう言われました。「主の名を冒涜する者は、死刑に当たる。民衆一同は、その者を石殺しにする」(レビ24章16節)。聖書の中で、センナケリブ王は天主をひどく冒涜しました。その罰として、彼の軍隊のほとんどは、天主から遣わされた天使によって殺され、センナケリブ自身も間もなく自分の息子たちによって殺されました。聖パウロはティモテオに対して、二人の男をサタンに渡したのは、「冒涜を言ってはならぬことを学ばせるため」(ティモテオ前書1章20節)だったと語っています。

冒涜の行為を前にしたとき、私たちはどうすればいいでしょうか。天主に償いを捧げるべきです。冒涜は、基本的に天主に対する憎しみの行いです。ですから、私たちは、天主に対して可能な限り最も完全な愛の行いをすることによって、冒涜の償いをするのです。そして、冒涜が公的なものである場合、私たちは公的な償い、つまり天主を愛する公的な行いを天主に捧げるべきなのです。たとえば、「イエス・キリスト・サンドバッグ」の場合、藝大アート・プラザのその十字架像の前で、公的にロザリオを祈ることはまったくふさわしいことです。

つまずきの罪

藝大アート・プラザでの冒涜は、単に冒涜であるだけでなく、つまずきでもあります。

つまずきとは、他人に罪を犯させるように追いやる言葉や行いのことです。たとえば、主日のミサにあずかるのを無視する人は、他人をつまずかせます。なぜなら、その人の事例が、他人に同じことをするように誘惑する原因になるからです。十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストをサンドバッグに変え、ボクシンググローブを使えるようにするという、このいわゆる芸術家は、それを見るすべての人をつまずかせます。すでに述べたように、この芸術家は自ら冒涜しており、また他人に同じことをするよう誘惑しているのです。

私たちがつまずきの罪を犯すのは、たとえ実際に他人が罪を犯さないとしても、私たちが進んで他人に直接的または間接的に罪を犯すよう誘惑するときです。たとえ誰も十字架につけられた私たちの主を殴るためにグローブを使わなかったとしても、このいわゆる芸術家は、重大なつまずきの罪を犯しています。実際、つまずきは、他人に犯させる罪が深刻であればあるほど、さらに深刻なものです。また、つまずきは、そのつまずきにさらされる人々の数が多ければ多いほど、さらに深刻なものです。私たちの主は、福音の中でこう言われました。「つまずきを起こすこの世に呪いあれ。…つまずかせる人に呪いあれ」(マテオ18章7節)。つまずきの罪は、兄弟愛の掟に反する罪です。隣人が天国に行くのを助ける代わりに、その人を地獄に追いやるのですから。

つまずきを与える状況を前にしたとき、私たちの義務はどんなものでしょうか。明らかなことですが、それを止めるために私たちは全力を尽くすべきです。そして、そのつまずきが重大であればあるほど、それを取り除くためにもっと努力すべきです。私たちが避けることはできても、実際には止めることができないつまずきもあります。例えば、すべてのコンビニエンスストアから性的な雑誌を撤去することです。しかし、私たちが何かをできる別のつまずきもあります。例えば、「キリスト・サンドバッグ」のつまずきを取り上げましょう。私たちができることは何でしょうか。アート・プラザの十字架像の前に行って、交代しながらロザリオを祈ること。その館長に手紙を出して、このような展示は恥であると伝えること。そのウェブサイトでこの展示に抗議すること。この冒涜の即時撤去を求める嘆願書を作成すること。この展示が即時撤去されない場合、キリスト教徒の弁護士はアート・プラザに対して法的措置を取る可能性を研究すべきであること。社会に何らかの影響力を持つ人々が館長に圧力をかけるべきであること、です。このつまずきが続く限り、このつまずきが撤去されるように、私たちは努力を続けなければなりません。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの主を本当に愛していながら、このような冒涜を前にして沈黙するなどということはあり得ません。ですから、私たち一人一人が、私たちの主イエズスと聖母に対して寛大に償いを捧げ、このつまずきができる限り早く撤去されるために、勇気をもって自分にできることを行いましょう。


聖母は厳密な意味において天使の元后:そのような権威と力をどこから得ておられるのか。

2023年11月09日 | お説教・霊的講話

童貞聖マリアの連祷の「天使の元后」についての説教

ドモルネ神父 2023年10月22日

はじめに

10月は、ロザリオの聖母と聖なる天使に奉献された月です。聖母と聖なる天使をたたえるために、今日は、連祷の中で聖母に捧げられている「天使の元后」という称号についてお話ししたいと思います。

1.天使

天使は、天主によって創造され、知性と意志を授けられていますが、私たちのような肉体は持っていません。天使は純粋な霊です。私たちの目は物理的な物体しか見えないようにできているため、天使を見ることはできません。では、私たちは、どのようにして天使が存在することを知るのでしょうか。第一に、論理的な推論によってです。宇宙にある物の中には、段階的な完全性があることが、私たちには分かります。石のような無生物の物質的な物があり、その上に、植物のような生きている物質的な存在があり、その上に、動物のような感覚のある物質的な存在があり、その上に、人間のような理性を持った物質的な存在があります。論理から言えば、これらの上に、私たちが天使と呼ぶ、物質的ではない、理性を持った存在がいることになります。第二に、私たちは、啓示によって、天使が存在することを知っています。預言者たちや私たちの主イエズス・キリストは、天使についてしばしば語っています。そして最後に、私たちは、天使が人間の人生に、何度も目に見える形で介入してきたことから、天使の存在を知るのです。

天使は本性によって、私たちよりもはるかに力ある存在です。天使の知性、意志の力、強さは、私たちのものをはるかに上回っています。そのため、本性によって、天使の中で最も弱い者でも、人間のうちで最も偉大な天才よりも偉大です。本性によって、天使は、童貞聖マリアよりも、偉大で力ある存在なのです。

2.厳密な意味における天使の元后なる聖母

しかし、聖母は、最も厳密な意味における元后です。このことが意味するのは、聖母は、その力と温和な権威をもって、すべての天使を支配しておられる、ということです。すべての天使は、最も偉大な天使でさえも、喜んで聖母のしもべとなっているのです。聖母は、そのような権威と力をどこから得ておられるのでしょうか。

第一に、それは、人となられた天主であるイエズス・キリストの御母であることから来るのです。私たちの主イエズス・キリストは、天主であるがゆえに、受胎の最初の瞬間から、本性によって宇宙の王なのです。聖母は、母としての絆によって、他のどの存在よりもイエズス・キリストと一致しておられます。それゆえ、聖母は、イエズス・キリストの王権を他の誰よりも分け与えられています。キリストによって、聖母は宇宙の元后、すべての天使の元后となられたのです。

第二に、聖母は、贖いのみわざに協力されたことにより、天使に対する力と権威を受けられました。イエズス・キリストは、ご受難によって、天使を含む宇宙に対する主権を獲得されました。聖パウロは、フィリッピ人への書簡の中で、こう見事に言っています。「イエズス・キリストは、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にある者も、地にある者も、地の下にある者も、みなひざをかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄を崇め、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。私たちの主イエズス・キリストは、他のどの存在よりも、童貞聖マリアをご自身の贖いのみわざの協力者とされました。その結果、主は、この贖いのみわざに由来する王権でも、聖母を協力者とされたのです。こうして、私たちの主への依存の下で、聖母は宇宙の元后、すべての天使の元后となられたのです。

3.広い意味での天使の元后なる聖母

童貞聖マリアは「天使の元后」と呼ばれますが、それは、聖母が、行いにおいて、すべての天使を凌駕しているからでもあります。聖パウロの教えによれば、天使には九つの階級があります。それは、天使、大天使、権天使、能天使、力天使、主天使、座天使、智天使、熾天使です。すべての天使が天主に仕えていますが、天主は天使の各階級に、特別な使命を委ねておられます。

熾天使は、天主への強い愛で際立っています。しかし、聖母は、その愛において熾天使を上回っておられます。なぜなら、熾天使はしもべが最高の主人を愛するように天主を愛しますが、聖母は天主の御母として天主を愛されるからです。

智天使は、神性についての深い知識で際立っています。しかし、童貞聖マリアは、智天使以上に、聖三位一体、ご托身、贖いの各神秘のうちに導かれました。

座天使は、天主のことをよく知り、天主の神聖な命令の理由を知っていることで際立っています。しかし、聖母は、その天主の母性を通して、座天使よりもはるかに天主と親密に生きておられます。

主天使は、天主の命令を執行するために、下位の天使に対して持つ権威で際立っています。しかし、童貞聖マリアは、主天使以上の権威を持っておられます。聖母は、人となられた天主であるイエズス・キリストに対する親としての権威を持っておられるのです。

力天使は、地上で奇跡を行う力で際立っています。しかし、聖母は、力天使よりもはるかに多くの奇跡をなさっています。なぜなら、聖母が世界中でなさった奇跡の数は数え切れないほどだからです。

能天使は、悪魔を抑える力で際立っています。しかし、聖母は、それよりはるかに多くのことをなさいます。聖母は、悪魔の指導者であるルチフェルの頭を踏み砕かれるのです。

権天使、大天使、天使は、国、場所、個人に特別な保護を与えることで際立っています。しかし、聖母は、その天使すべてよりも、はるかに多くのことをなさいます。聖母は、宇宙の元后であり、すべての人の母です。聖母は、すべての天使以上に、すべての場所とすべての人に配慮しておられるのです。

4.童貞聖マリアが元后であることの現れ

確かに、聖母がすべての天使に対する元后であることが最も美しく現れたのは、受胎告知の瞬間です。最高の尊厳を持つ天使の中の一位である天使ガブリエルは、最も謙虚で敬意を持った方法で、マリアにこう挨拶しました。「めでたし、聖寵充ち満てるマリア」。

聖ゲルトルートは、自分が聖母と天使についての幻視を見たと報告しています。彼女が見たものはこうです。「天主の御母からのしるしで、大勢の天使が四方から現れて、この栄光ある童貞に祈り求めるすべての人々を守っています」。

ローマのバチカンの近くに、サンタンジェロ城と呼ばれる有名な城があります。そう呼ばれる理由はこうです。大教皇聖グレゴリオの時代に、恐ろしい伝染病でローマの町の多くの人が亡くなっていました。教皇は、町の中を歩く行列を組織し、その際、教皇自身が童貞聖マリアの御像を担ぎました。行列の終わりに、群衆は城の上空に天使が現れ、剣を鞘に収めるのを見ました。すると、町はたちまち伝染病から解放されました。天の元后の御像を見て、また彼女の命令で、ローマの町を罰していた天使はそうするのをやめたのです。そのとき以来、この城は、「サンタンジェロ城」と呼ばれるようになりました。

1864年1月13日、ルイ=エドゥアール・セスタック神父は幻視を見ました。悪魔が地上に広がって、言いようのない大混乱を引き起こしているのを見たのです。同時に、彼は聖母の幻視を見ました。聖母は、悪魔がこの世に解き放たれていること、そして「天使の元后」としての聖母に祈り、地獄の勢力と戦って踏み砕くために、天の軍団を送ってくださるように願う時が来たことを告げられました。司祭はこう尋ねました。「いと優しき御母よ、私たちがお願いしなくても、天の軍団を送ってくださらないでしょうか」。聖母はこう答えられました。「いいえ。祈りは、恩寵を得るための、天主ご自身が定められた条件です」。司祭はこう言いました。「では、御母、祈り方を教えていただけませんか」。すると司祭は、聖母から「荘厳なる天の元后」という祈りを受けました。この祈りで、この説教を終えることにしたいと思います。

結論

荘厳なる天の元后、主権を持つ天使の支配者、蛇の頭を踏み砕く使命と力を初めに受け給うた御者よ、願わくは、御身の聖なる天使を遣わし給い、御身のご命令とお力のもとで、天使が悪霊を追い詰め、あらゆる場で悪霊と戦い、悪霊の大胆な攻撃に耐えて、悪霊をここより呪いの深淵へと追いやらんことを。
誰か天主の如くあらん? いつくしみ深く、優しき御母よ! 御身は永遠にわれらの愛、希望なり。
至聖なる御母よ、われらを守り、われらから残酷な敵を追い払わんがために、御身の天使を遣わし給え。
すべての聖なる天使と大天使よ、われらを助け、守り給え。アーメン。


ヴィガノ大司教「私たちがこの世の虚栄を拒絶するようアッシジの聖フランシスコに霊感を与えてもらおう」

2023年11月08日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「私たちがこの世の虚栄を拒絶するようアッシジの聖フランシスコに霊感を与えてもらおう」

Archbishop Viganò: Let St. Francis of Assisi inspire us to reject the vanity of earthly things

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

米東部夏時間2023年10月5日午後12時13分

(LifeSiteNews)―以下は、アッシジの聖フランシスコの祝日である2023年10月4日に公表されたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教です。

アッシジの聖フランシスコ

2023年10月4日

尊者教皇ピオ十二世は1939年6月18日、アッシジの聖フランシスコとシエナの聖カタリナをイタリアの守護聖人と宣言しました。その記念の訓話の中で、教皇は「ポヴェレッロ」【清貧の人、聖フランシスコの別名】を「聖人の中で最もイタリア的な人、イタリア人の中で最も聖なる人」と呼びました。そこで、この偉大な聖人についての短い黙想を皆さんと共有したいと思います。それは、彼の徳がどんなものかをもっとよく理解し、それを模範、モデルとするためです。

まず最初に、聖フランシスコが何者でなかったかを言わせてください。何千人もの司祭、修道士、修道女がその女々しいような平和主義的な(pacifist)モデルに酔っているにもかかわらず、彼はゼフィレッリ監督が生んだあの無政府主義的な思春期の若者ではありません【映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」】。聖フランシスコは、近代主義者たちが高く評価するような憂鬱で侮辱的な「甘美な感情」(Sweet Feeling)とは何の関係もありません。聖フランシスコは、大スルタンに会って、改宗させずに対話するあのエキュメニカルな修道士ではありません。また、左翼の知識人や路上司祭に愛される前衛的な(ante litteram:名前が付けられる前にあった存在)「フラワー・チャイルド」(flower child、1960年代に花を身に着けて平和を訴えたヒッピーの若者たち)でもなければ、聖エジディオ【共同体】の平和主義者の先駆者でもなければ、新旧の貧困主義(pauperism)に霊感を与える者でもありません。要するに、ペトロの玉座を占めた者が名前を選ぶに際して、その正確なモデル――偽りで、イデオロギー的に操作されたもの――を参考にしたとしても、彼は、「第二バチカン公会議の」聖人ではないのです。このように、一つの「イコン」――実に、私はこのことを、第二バチカン公会議の信奉者たちを喜ばせるために、それにかたどって聖人たちが描かれるべき「原型」と言いたい――があるのです。聖ピオ十世を第二バチカン公会議の先駆者と平気で呼ぶ人々がいたのならば、アッシジのポヴェレッロでさえ、この種のイデオロギー的化粧から逃れられなかったことは皆さんも十分に想像できるでしょう。

そのような姿ではなく、同時代の人々の年代記や証言からフランシスコのことが分かっているのですから、彼が現実にどのような人物だったかを見てみましょう。彼は若くして家出をした人であり、この世の財物がいかに聖性への妨げであるかを理解していました。また、ダンテが回想しているように、熾天使修道会【フランシスコ会】の会則にある福音的勧告を生きながら、「あの声高の叫びを発した方【キリスト】が、自らの祝福された血により縁(えにし)を結ばれた新婦」la sposa di colui ch’ad alte grida / disposò lei col sangue benedetto(神曲天国篇11歌32-22)である「淑女なる清貧 Donna Povertà」と結ばれることを選びました。ですから、フランシスコは貧しかったのです。聖なる貧しさとは、みじめでも卑しいものでもなく、御摂理の助けを信じるがゆえに、崇高で誇り高いものです。

彼はたゆまぬ福音の宣教者でした。1219年、彼は遠くカイロまで行き、アル=マリク・アル=カミルの宮廷に赴きました。その際、彼はカトリック信仰の真理を証明するために火の試練に立ち向かい、スルタンに対して、改宗して第五回十字軍に従事するキリスト教徒との戦いをやめるよう説得することを望みました。聖フランシスコは、典礼の礼儀と尊厳の推進者でした。聖フランシスコの著作には、祝されし秘跡への敬意と礼拝に関する多くの勧告が記されており、彼が貧しい教会に寄贈するための聖体容器や聖具の購入に努力を惜しまなかったことも知られています。修道会独自のある応誦は、彼を「Vir catholicus et totus apostolicus」(カトリック的かつ完全に使徒的な男)と呼び、次のように思い起こしています。「Ecclesiæ teneri Fidei Romanæ docuit, presbyterosque monuit præ cunctis revereri...」(彼はローマ教会の信仰を保持するよう教え、誰よりもまず司祭たちを敬うよう諭した)。いと高き御者の役務者に対する崇敬の念は、自分のことを司祭職にふさわしくないと考えて、司祭職を受けることを拒否させるほどでした。

銀行家が行う高利貸しや商人の投機から貧しい人々を救うために、「慈悲の山」【低金利で貸出をする】と「フルメンタリ・モンティ」(frumentari monti、穀倉の山=15世紀末に貧しい農民に播種に必要な小麦や大麦を分配するために設立された)を制定したのは、熾天使修道会【フランシスコ会】でした。福音に従った経済についての考え方は、今日、フランシスコ会の修道服を着た人々の無謀な投資とは、まったく違うものなのです。

要するに、フランシスコは、危機や戦争の時代に聖なる教会を改革するこれらの徳の英雄的模範だったのです。この理由で、ダンテは、聖フランシスコと聖ドミニコを、改革的使命と福音的清貧によって結びつけて私たちに示します。「一人は熱情において熾天使のごとく、他の一人は学識において地上における智天使の光輝かと思われた」 L’un fu tutto serafico in ardore; / l’altro per sapïenza in terra fue / di cherubica luce uno splendore(神曲天国篇11歌37-39)。一日の終わりにパン屋に余ったパンを乞い求めるため、袋を肩に担いで通りを行き交う物乞いの修道士たちを今でも覚えていて、無言でほほ笑んでいる人がいるかもしれません。その控えめで諭すような存在は、「姉妹なる清貧 Sorella Povertà」への愛の最後の痕跡でしたが、今や公会議の聖像破壊運動的な怒りによって消し去られてしまいました。今日、フランシスコ会は大胆な金融投機によって富を蓄え、浪費し、召命の本質と創立者の模範を否定しています。しかし、フランシスコ会の貧しさは、ぼろぼろのみじめさではありません。それはむしろ、物質的な財から離れて、自分の快適さのためではなく、貧しい人々と主のために使われるようにするものなのです。

では、聖フランシスコは「聖人の中で最もイタリア的な人、イタリア人の中で最も聖なる人」だったのでしょうか。私たちが、彼が聖人の中で最もイタリア的な人だったと言えるのは、彼の中に、最も貧しい人々や困窮した人々に対する穏やかな慈愛、聖霊の息吹の下で何世紀にもわたって非常に多くの修道会や修道団体が誕生してきた慈愛からつくり上げられた、私たち国民にふさわしい気質が示されていたからです。愛徳と天主への愛、堅固で汚れのない信仰、模範となる日々の証しからつくり上げられた人格です。フランシスコの中には、「キリストがその民であるあの[天上の]ローマ」 di quella Roma onde Cristo è romano(神曲煉獄篇32歌102)の永遠の真理に対する揺るぎない確信も見いだされ、それは、近代主義の位階階級が壊滅的な打撃を与えたにもかかわらず、今でも私たち国民の中に生き残っています。彼は、イタリア人の中で最も聖なる人でしたが、それは、彼の生涯が、主のご受難に肉体をも同化させる聖なる聖痕を受けるという段階まで、真の謙遜、聖なる清貧、天主への、そして天主においての完全な放棄の模範であり、モデルだったからです。彼はキリストの無限の慈愛のしるしを身に受けていたのであり、キリストの前では、地上のあらゆる善、あらゆる富、あらゆる快楽は消え去って消滅し、善と永遠の救いに向かう場合にのみ意味を持つのです。すると、貧困主義ではなく、自己のための貧しさであり、すべてはキリストのための貧しさなのです。信仰の真理を取引材料にするエキュメニズムではなく、遠くにいる霊魂の回心のための使徒的熱意です。平和主義ではなく、「in justitia et sanctitate veritatis」(正義と真実の聖徳において)(エフェゾ4章24節)、平和を追求することです。

今日の世は、キリストと彼の聖人たちに反抗して、アッシジのポヴェレッロ【貧者】を装った偶像を自作しています。他の偶像と同じように、偽の、そして嘘の模造品であり、そこでは、フランシスコの清貧の魂が取り去られ、清貧の最初の原因にして究極の目的である天主が奪われているのです。

私たちが天主のみわざに見いだす不変のものとは何でしょうか。自らを完全かつ単純に真実なものとして示す愛の無償性です。では、サタンのわざに見られる不変のものとは何でしょうか。自らを猥雑に偽り、欺くものとして現れる憎悪の代価です。サタンは、この世の富、権力、成功、同意、快楽など、自分のものではないものを私たちに差し出します。そしてサタンは私たちにそれらを売りつけ、自分のがらくたを私たちの不滅の霊魂という宝と引き換えにするのです。私たちの霊魂は、私たちに属するものではなく、私たちには審判の時のために清く聖なるものとして保つ義務があるのです。しかし、霊魂の目が感覚によって目隠しをされたり、罪や悪徳によって曇ったりしていない者にとっては非常に明白なこの現実も、自分が自由であると思い込んで、その代わりに、自分自身の奴隷、この世の奴隷、悪魔の奴隷となっている者には見過ごされるのです。

聖フランシスコの生涯から、この惑わされ、裏切られた世界でなお模倣されるべきものがあるとすれば、それは、天主の真理の光に照らされ、天主の超自然の愛に燃える、天主に完全に方向づけられた霊魂における成聖の恩寵の行いという奇跡です。地上のものの虚しさと、霊的なものの絶対的な優位性を理解する霊魂です。寛大な霊魂は、すでにすべてを持っているため、すべてを奪われることができ、真の命はキリストご自身であることを知っているため、キリストを宣べ伝えることに命を懸ける準備ができています。唯一の必要なものを発見したため、すでに余分なものを取り除いてしまい、奪われることを恐れない霊魂です。

この偉大なイタリアの聖人という模範に目を向けましょう。それは、私たちの共通のルーツを誇りをもって再発見し、そこから、私たちの愛する祖国のキリスト教文明を大きく繁栄させた福音の木を生まれ変わらせるためだけではありません。それはまた、天主に祝福され、ペトロの座の存在によって祝福されたこの土地の子である私たち自身の中に、純粋にカトリック的でローマ的な気質を再発見するためでもあります。この気質こそが、福音的清貧の実践、真の信仰の告白、そして慈愛の実践を通して、私たちがキリストの教会が生まれ変わるのを見ることを、過去においてすでに可能にしてきたのですから。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

October 4, MMXXIII
2023年10月4日

英語版 Archbishop Viganò: Let St. Francis of Assisi inspire us to reject the vanity of earthly things - LifeSite

イタリア語版 Mons. Viganò: San Francesco tradito da un mondo ribelle a Dio e ai suoi santi.


王たるキリスト:主は正真正銘の王です。主が王権を持っている 2つの理由とは?

2023年11月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月29日は王たるキリストの祝日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(4)私たちの罪、不完全さ、徳の進歩の少なさは、謙遜、天主のあわれみ深い愛に信頼する機会。落胆の理由ではない。

2023年11月07日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(4)

ドモルネ神父 2023年10月1日

はじめに

聖性を求めて努力するとき、落胆する人々がいます。なぜなら、しばしば同じ罪に戻ってしまったり、徳の実践で進歩しなかったりするためです。またある人々は、聖性に向かって進歩することには、特別なことを経験したり、行ったりすることが伴うと考えています。しかし、そのような人々は、自分の人生が非常に単調で平凡であることに気づき、そのため、自分が聖性で進歩していないと結論づけるのです。今日は、幼きイエズスの聖テレジアが、このような人々にどう答えているかをお話ししましょう。

1.罪に陥る

ある人々はこう考えます。「私はどんなに努力しても、毎日同じ罪に陥ってしまう。私は気が短く、隣人への愛徳が欠如し、嘘をつく…。本当に、聖性なんて私には不可能だ」と。そして、このような人々は、努力をやめ、霊的なぬるま湯状態に身を任せようと誘惑されるのです。こういう人々に、どう言ってあげればいいのでしょうか。

聖アルフォンソ・デ・リゴリはこう言っています。「われわれには、完全に同意していなくても、生来の弱さのせいで犯す罪がある。たとえば、祈りで気を散らし、無駄話をし、虚しい好奇心があり、見せびらかしたいという望みがあり、少し食べすぎたり飲みすぎたりし、情欲の衝動があっても十分に早く抑えないことなどである。われわれは、これらの罪をできる限り避けなければならないが、原罪によって傷ついたわれわれの本性の弱さを考えると、それらの罪を完全に避けることは不可能である」。

幼きイエズスの聖テレジアは、すべてにおいて天主をお喜ばせしようとする私たちの一般的な善意にもかかわらず、私たちが弱さから犯してしまうこれらの罪は、聖性への障害にはならないと言っています。これらの罪を、私たちが自分の弱さと小ささをもっと自覚する機会とし、私たちが天主のあわれみ深い愛にもっと大きな確信をもって天主に立ち返るならば、これらの罪は善き主を侮辱することにはなりません。小さな過ちを犯した子どもが、それを反省し、すぐに母親のところに行ってそれを告げるのを想像してください。この小さな過ちのせいで、母親の子どもへの愛が減ると思いますか。もちろん違います。善き主も同じです。イエズスの御言葉を思い出してください。「悪い人間であるあなたたちでさえ、子どもに良いものを与えることを知っている。ましてや天にましますあなたたちの父は、求める人に良いものを下さらぬわけはない」(マテオ7章11節)。

ある人々はこう言います。「私の罪は、いつもそのような弱さの罪とは限りません。時には、私の罪はわざと行う小罪であり、大罪でさえあります…私はどうすれば聖性に向かって進歩することができるでしょうか」と。聖テレジアは、このような罪であっても、私たちがそれをうまく活用すれば、私たちが聖性への道を行くのを止めることはない、と答えています。私たちは、どのようにすれば自分の罪をうまく活用することができるでしょうか。それは、罪を悔い改め、自分の弱さと小ささを認め、自分の罪から生じた苦しみを償いとして捧げ、さらに大きな信頼をもって天主のあわれみ深い愛に立ち返ることによってです。聖テレジアは自叙伝の中で、自分を非常に小さな鳥に例えています。この小鳥は、鷲のように太陽に向かって飛びたいと思いながら太陽を見続けていますが、時々気が散ってしまいます。彼女はこう書いています。「この不完全な小さな生きもの(小鳥)は、自分のしようとしていることから(つまり太陽を見ることから)いささか気を散らしてしまい、右や左に餌(えさ)をついばんだり、小さな虫を追い回したりしてしまいます……。また小さな水たまりに出会えば生えたての羽を濡らし、お気に入りの花を見つければ、心はそれでいっぱいになります……。とにかく、鷲のように高く飛ぶことはできないので、このかわいそうな小鳥は、地上のつまらない事柄に気を取られるのです。けれどもこのようにいろいろないたずらをした後、小鳥は片隅に隠れて自分の惨めさを嘆いて、悲しみから死んでしまうのではなく、最愛の太陽のほうに向いて、濡れた小さな羽を太陽の恵み深い光にさらします。そしてつばめのように悲しげに鳴き、優しい歌で自分の数々の不忠実をすっかり打ち明け、物語ります。そうすれば、義人を呼ぶためではなく罪人を呼ぶために来られた方(マテオ9章13節)の愛を、もっと完全に引きつけることができると、厚かましくも全面的に信じているからです……」(原稿B 第二部)。

イエズス会士で霊的生活の大家であるグル神父は、次のように書いています。「最も聖なる人々とは、罪を犯すのが最も少ない人々のことではなく、もっと勇気があり、もっと寛大さがあり、もっと愛があり、もっと大きな努力をする人のことである…決して落胆せず、たとえどんな過ちを犯そうとも、自分にこう言い聞かせよ。『一日に二十回倒れようが、百回倒れようが、私はその都度立ち上がって、自分の道を進むのだ』と。結局、目的地に着くならば、道の途中で倒れても、なにが問題だろうか?そのことで天主があなたを責めることはない」。

2.徳を実践する際にほとんど進歩しないこと

ある人々はこう言います。「私は徳を実践しようとあらゆる努力をしても、ほとんどの場合失敗してしまう。私は聖人になれない…」と。幼きイエズスの聖テレジアは、これに答えています。当時、彼女は修練女の副修練長でした。ある日、ある修練女が落胆していました。なぜなら、自分の行いを改め、徳を実践しようと努力しても、うまくいかなかったからです。聖テレジアは、彼女にこう言いました。「あなたは、自分の足でまっすぐに立つことができても、まだ歩くことができないでいる小さな子どものように、私には思えます。母親のいる二階に行きたいと熱心に願い、階段の最初の一段を登るために小さな足を上げようとし続けています。しかしできません。登ることができず、足は元のところに戻り続けます。そんな子どものようになりなさい。すべての徳を実践することによって、聖性の階段を登るために、小さな足を上げ続けなさい。しかし、何とか最初の一段だけでも登ることができるなどとは思わないで。天主があなたにお求めになるのは、あなたの善意だけです。階段の上から、天主は愛をもってあなたを見ておられます。やがて天主ご自身が、あなたの無益な努力の姿に心を動かされ、あなたのもとへ下りて来られ、あなたを腕に抱いて、永遠にご自分の国へと連れて行かれるでしょう。そこでは、あなたは、もう決して天主から離されることはありません」。

3.日々の単調さ

ある人はこう言います。「聖人たちはこの世に生きている間、特別なことをした。でも私は、人生で特別なことは何もしていない。私の人生はまったく平凡で単調だ。だから、私は聖人にはなれない…」。これに対して、聖テレジアはこう答えます。「聖性は、私たちの行いが偉大であるかどうかではなく、私たちの愛が真摯なものであるかどうかによるのです」。実際、天主は全能であり、何かのために、誰をも、特に私たち人間を必要とはされません。イエズスがオリーブ園で聖ペトロに言われたことを思い出してください。「私が父に頼めば、今すぐ十二軍にもあまる天使たちを送られることを知らないのか」(マテオ26章53節)。天主は、ご自身の天主の命と幸福にあずからせるために、私たちを創造されました。天主の命と幸福は、天主の三つのペルソナの間の完全な愛にあります。この愛の命に入るための功徳を得るために、私たちは地上で天主を愛することを学ばなければなりません。天主が大切にされる唯一のことは、私たちがあらゆることを行う際の愛です。私たちが皿を洗おうが、戦争で栄光ある勝利を収めようが、自分の庭を耕そうが、トヨタ社を経営しようが、東三国の保育園で教えようが、東京大学で教えようが、道路わきのごみを集めようが、総理大臣として日本を統治しようが…、天主の目には、これらの行い自体は何の重要性も持っていません。天主は、私たちの働きが栄光あるものであることも、成功したものであることさえも必要とされません。天主が重要視されるのは、私たちが働く際にどのような愛を持っているかということなのです。聖テレジアは、童貞聖マリアと聖ヨゼフの地上での生涯が、まったく平凡なものであったことを人々に思い出させていたものです。ですから死の前夜、彼女はこう言うことができたのです。「大切なのは愛だけです」。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖性はすべての人のためのものです。私たちの罪、不完全さ、徳の進歩の少なさのせいで落胆しないようにしましょう。これらのことをすべて、私たちを謙遜にし、天主のあわれみ深い愛に一層身を委ねるための機会としましょう。私たちの生活に特別なことを探すのではなく、天主をもっともっと愛したいという望みを、私たちがすべてのことを行う理由にしましょう。

今週の火曜日は、幼きイエズスの聖テレジアの祝日です。私たちの主イエズス・キリストと私たちの天の母である童貞聖マリアをもっともっと愛することができるように、聖テレジアに恩寵をお願いするのを忘れないでください。


幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(3)私たちを成長へと導く心構え:謙遜と天主の愛への信頼

2023年11月07日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(3)

ドモルネ神父 2023年9月24日

はじめに

今日は、前の2回の説教に引き続き、幼きイエズスの聖テレジアの聖性への道についての教え、一般に聖テレジアの「小さき道」として知られているものについて、もう一度お話ししたいと思います。1回目は、私たちに対する天主のあわれみ深い愛についてお話ししました。聖パウロはこう言っています。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」(エフェゾ2章4-5節)。2回目は、天主のあわれみ深い愛に対する私たちの信仰の結果、すなわち、天主を愛したいという望みについてお話しました。聖ヨハネはこう言っています。「だから、私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一書4章19節)。今日私は、天主を愛したいという望みが私たちを成長へと導く心構えについて話そうと思います。これらの心構えは、謙遜と天主の愛への信頼です。

1.謙遜

天主は、あわれみ深い愛で私たちを愛してくださいます。このことは、私たちに対する天主の愛は、私たちの小ささと弱さによって動かされている、という意味です。私たちが小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、天主のあわれみ深い愛を引き寄せるのです。このことに驚いてはなりません。なぜなら、人間同士でも、同じことが起きているからです。子どもは、小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、親から多くの注目と保護と愛を受けます。天主は聖書の中で、この現実についてこう述べておられます。「小さい者は誰でも、私のもとに来させよ」(箴言9章4節)。「あなたたちは胸に抱かれ、膝の上にのせてなでられる。母親がその子をなでるように、私もあなたたちを慰める」(イザヤ66章12-13節)。

ですから、天主の愛から恩恵を受けたいのならば、私たちは小さな者となり、自分の小ささを喜ばなければなりません。このことは、私たちが天主に完全に依存する弱い被造物、自分では何も持っていないみじめな被造物、自分では何もできない無力な被造物であることを喜ばなければならない、という意味です。私たちが霊的に小さければ小さいほど、天主のあわれみ深い愛を受ける権利は大きくなります。逆に、私たちが自分の力に頼って力強く自立したふりをすればするほど、天主のあわれみ深い愛を受ける権利は小さくなります。小さな子どもたちのことを考えてみましょう。小さな子どもは、その小ささのおかげで、母親の腕の中に横たわる特権を持っています。しかし、子どもが成長するにつれて、つまり小ささを失うにつれて、その特権は失われていきます。私たちも同じです。自分が小さいとかみじめだという感情から逃れることは、天主の愛から逃れることを意味するのです。

したがって、天主の愛から恩恵を受けるためには、私たちの努力が、自分の小ささを考えること、自分の小ささを素直に告白すること、自分の小ささを平和的に喜ぶことでなければなりません。なぜ、これが努力なのでしょうか。なぜなら、私たちは非常に高慢だからです。私たちは、自分自身の力によって、何らかの方法で強くなりたいのです。私たちは、天主のあわれみの対象にはなりたくないのです。原罪以来、ルチフェルの「non-serviam」、つまり「私は仕えない」という言葉が、私たちの霊魂の奥深くにこだましているのです。これこそが、聖ヨハネの言う「生活のおごり」(ヨハネ第一書2章16節)なのです。私たちが聖性のために努力しているときでさえ、ほとんど無意識のうちに、偉大な者になりたいという密かな望みを抱いています。高慢に根差したそのような望みは、私たちの霊魂に注がれる天主の愛を、直ちに枯渇させてしまうのです。

具体的に言えば、日常生活において、私たちは、自分の小ささによって、天主のあわれみ深い愛を、どのようにして引き出すことができるでしょうか。自分の無力さ、失敗、不完全さ、罪による自分の小ささを、私たちが目の当たりにするたびに、平安のうちに天主に立ち返り、信頼をもって天主に身を委ねることによってです。自分に腹を立てないでください、動揺しないでください、落胆しないでください。これらの態度はすべて、高慢に根差しています。このテーマで私たちの手本である、小さな子どもたちのことを考えてみましょう。自分の小ささが理由で何かを成し遂げられないとき、小さな子どもならどうするでしょうか。ただお父さんのところに駆けて行き、自分の代わりにそれをしてくれるよう、お父さんにお願いするのです。私たちも同じようにしましょう。自分の限界と弱さを静かに認めましょう。そして、信頼を持って、天の御父に助けを求めましょう。

同じように、私たちは、否定的な判断、軽蔑、不正、忘却、その他私たちを辱めるものの犠牲となるたびに、平安のうちに天主に立ち返り、天主の愛を信頼し、天主に身を委ねる必要があります。このような状況は、実際には、自分の小ささを深く自覚するのにとても役立ちます。ですから、他人に腹を立てたり、動揺したり、悲しみに打ちひしがれたりしないでください。ここでもう一度、私たちの手本である小さな子どもたちのことを考えてみましょう。小さな子どもたちが悲しみを抱いたときに何をするかを見たことがありますか。泣くことも、文句を言うことさえもせず、母親のところに行って腕の中に抱かれます。母親の愛に触れながら、母親の胸の上でしばらく休みます。次に、こうして慰めを受けてから、自分の活動に戻っていくのです。私たちは、試練に直面するたびに、天の御父に対して、このようにしなければならないのです。イエズスは、福音の中でこう言われなかったでしょうか。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11章28節)。

要するに、天主を愛したいという望みは、私たちが天主の愛でこれまで以上に満たされるようになるために、小さくなるように、ますます小さくなるように駆り立てるのです。

2.信頼

私たちが述べたことから、皆さんはすでにお分かりだと思いますが、自分の小ささの自覚を育むことは、天主のあわれみ深い愛への限りない信頼を育むことと常に密接に結びついているのです。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「聖性とは、心構えにあります。すなわち、天主の腕の中でへりくだって小さくなり、自分の弱さを自覚し、天主の父としてのやさしさを大胆に確信することにあります」。謙遜は、私たちを自分自身から遠ざけ、信頼は、私たちを天の御父の腕の中に投げ出させます。私たちは自分では無ですが、天主は無限の存在であり、私たちは弱いですが、天主は全能であり、私たちにはすべての完徳が欠如していますが、天主にはそのすべてがあります。そして天主は私たちを愛しておられます。私たちが天主に自分の霊魂に入っていただく限り、天主はその力と完徳をもって、私たちに自らを与えたいと望まれます。ですから、まさに私たちの弱さが、私たちを力ある者としているのです。これで、そしてこれだけで、たとえば殉教者たちが、ひどい拷問を受けたにもかかわらず、忠実であり続けることができた理由を説明することができます。

これまで説明してきたように、私たちの小ささを愛するという謙遜は、決して私たちを臆病にさせるものではありません。なぜなら、謙遜に伴うものは天主のあわれみ深い愛への信頼であり、この信頼があるからこそ、天主が私たちに求められるどのような使命であっても成し遂げることができるのですから。こういうわけで、聖パウロは、ローマ人にこう書き送ったのです。「誰がキリストの愛から私たちを離れさせ得よう。……死も、命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエズスにある天主の愛から、私たちを離せないのだと、私は確信する」(ローマ8章35-39節)。

聖テレジアは自叙伝の中で、謙遜と天主への信頼が、いかに最も困難な任務を成し遂げることを可能にするかを示す話を語っています。修道院では、修練女を修道生活で訓練し、霊的生活で指導する修練長の役割が非常に重要です。修道院の将来は、修練女たちの適切な養成によって、ですから修練長によって、大きく左右されます。修練長の役割を適切に果たすためには、多くの思慮深さ、識別力、愛徳が必要です。しかし、テレジアがまだ22歳であったとき、カルメル会の長上は彼女を副修練長に任命しました。それについて、聖テレジアは次のように書いています。「人々の至聖所の奥深く分け入るようになりましたとき、私はすぐに、これが自分の力に余る務めだとわかりました。そこで私は小さい子どものように、天主さまの腕の中に身を寄せ、私の顔をその髪の毛の中にうずめて言いました。『主よ、私はあなたの子どもたちを養うにはあまりに小さすぎます。もしも私を通して一人ひとりに適したものを与えようとなさるならば、どうぞ私の小さい手をいっぱいに満たしてください。そうすれば私はあなたのみ腕の中にとどまったまま、頭さえふり向けずに、私のところへ糧を求めに来るものにあなたの宝を与えましょう』。……事実、私の期待は決して裏切られませんでした。修練女たちを養う必要のあるたびに、天主さまは私の小さい手をいっぱいにしてくださいました」(原稿C 第二部)。

こうして聖テレジアは、謙遜と天主への信頼に満たされて、自らの小ささによって、非常に困難な任務を見事に果たすことができたのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、結論はいたって簡単です。私たちが天主を愛したいならば、幼きイエズスの聖テレジアが教えてくれたように、謙遜を実践し、天主のあわれみ深い愛に信頼を置きましょう。


幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」(2)天主の渇きと私たちの渇き:二つの渇きが出会うことで、私たちの聖性が生み出される

2023年11月06日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(2)

ドモルネ神父 2023年9月17日

はじめに

先週の主日に、私たちが持たなければならない信仰、私たちに対する天主のあわれみ深い愛への信仰についてお話ししました。聖パウロはエフェゾ人にこう語っています。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、キリストの恩寵によってあなたたちは救われた」(エフェゾ2章4-5節)。また、聖ヨハネはこう言っています。「私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪の贖いのために遣わされたこと、ここに愛がある」(ヨハネ第一書4章10節)。「私たちは、私たちに対して持っておられる天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一書4章16節)。天主のあわれみ深い愛への信仰を持つということは、天主が私たちを愛してくださるのは、私たちが小さく弱いからだということを理解することを意味します。

今日は、天主のあわれみ深い愛への信仰の効果、すなわち、天主を愛したいという望みについて考えてみましょう。「だから、私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一書4章19節)。

1.天主のあわれみ深い愛への答えである愛する望み

「私は天主に愛されている、限りなく愛されている、あわれみ深く愛されている、みじめな私、私のみじめさのゆえに」と、私たちが、深い信仰をもって心から自分に言い聞かせるとき、私たちの心に何が起こるでしょうか。私たちは、変容させていただくために、自分のありのままに、すべてのみじめさをもって、このあわれみ深い愛に身を委ねようと、心を動かされるのです。言い換えれば、天主のあわれみ深い愛に対する信仰は、私たちの心に、天主を愛したいという望みを起こさせるのです。

天主が、そのあわれみ深い愛を私たちに啓示されたのは、まさにこの目的のため、つまり、私たちの心に、天主を愛したいという望みを起こさせるためなのです。私たちがこの望みを持たない限り、天主は、ご自身を私たちに与えることはおできになりません。それはなぜでしょうか。なぜなら、天主は愛だからです。私たちが天主を愛さない限り、天主は、私たちを、ご自分の命にあずからせることはおできになりません。天主は、ご自身を私たちに与えたいという大いなる望みをお持ちであるため、愛されたいと渇いておられるのです。天主がまず私たちの心に起こされるのは、天主を愛したいという望みなのです。

福音のサマリアの女の話に、この真理の実例があります。私たちがこれまで述べてきたことに照らして、この話を読むと、次のようになります。イエズスは、サマリアの女に対して、「水を飲ませてください」(ヨハネ4章7節)と願われました。この言葉は、「あなたの愛をください」という意味です。サマリアの女は、「あなたはユダヤ人なのに、サマリアの女の私に飲ませてくれと言うのですか」と答えました。この言葉は、「いとも聖なる天主であるあなたが、罪人であり、弱くて、すべてが欠如している私に、愛を願われるのですか」という意味です。イエズスは、こう答えられました。「あなたが天主の賜物を知っていて、『飲ませてください』と言っている人が誰かを知ったら、自分の方からそうさせてくださいと頼んだに違いない。そして、あなたは生きる水を受けたことだろう」。この言葉は、「あなたに対する天主のあわれみ深い愛を知っていたなら、あなたは『あなたの愛をください!』と言っていただろう。そうすれば私は、私の愛をあなたの心に注ぎ込んでいただろう」という意味です。そこで、最後にサマリアの女は、熱心にこうお願いしました。「主よ、その水をください」。この言葉は、「あなたの愛をください!」という意味です。イエズスは、サマリアの女の心に、天主を愛したいという望みを起こさせ、この望みが起こると、イエズスは女を聖化されました。

そして、それは私たちも同じです。私たちに対する天主のあわれみ深い愛を信じ、謙遜と信頼をもって天主のもとに行き、こう言いましょう。「私にあなたを愛させてください! 私は小さくて、弱く、罪人であり、天主への愛とすべての徳が欠如しています。でも、私はあなたを愛したいのです。私にあなたを愛させてください!」。誰もが、例外なく、どんなに大いなる罪人であっても、天主を愛したいという望みを持つことができるのです。

2.聖性の原則である愛する望み

愛したいという望みは、聖性の始まりであり、聖性への手段であり、聖性そのものです。説明しましょう。

・愛したいという望みは、聖性の始まりです。実際、聖性とは、天主を完全に愛することにあります。「すべての心、すべての霊、すべての精神をあげて、主なる天主を愛せよ。…隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37節)。

・愛したいという望みは、聖性への手段です。幼きイエズスの聖テレジアは、ある日、お姉さんにこう言いました。「あなたは私に完徳への道を尋ねます。私が知っているのはただ一つのこと、愛です」。この愛したいという望みが天主を引き付けるのは、その望みが謙遜と信頼でできているからです。謙遜、それは私たちが自分の小ささと弱さを認めることだからです。信頼、それはあわれみ深い天主が、私たちの心に起こされた望みをかなえてくださることを、私たちが確信するからです。

愛したいという望みが聖性への手段であるのは、天主に対する私たちの愛を証明したいという衝動を、私たちの心に起こさせるからでもあります。私たちが、天主を愛したいという望みを自分の心に起こせば、この望みは私たちの自己中心性を取り除き、絶えず天主に心を向け、天主の愛のためにあらゆることを行うように促します。天主を愛したいという真摯な望みは、漠然とした効果のない感情ではなく、自分の愛を表現するための行動を起こす動機となります。この現実を表すために、聖テレジアは、「イエズスに花を投げる」という美しい表現を使っています。この表現の起源はこうです。聖テレジアのカルメル会修道院では、6月の夕方になると、修練者たちが庭でバラの花びらを集め、そのあと回廊の中央に置かれた大きな十字架のふもとに集まって、十字架上のイエズスに向かって花びらを投げるのです。この子どものように素朴なしぐさによって、修練者たちは私たちの主への愛を表現しました。

聖テレジアは自叙伝の中で、この習慣をほのめかしながら、イエズスを愛したいという望みをどのように表現するかについて、イエズスに語っています。「そうです。最愛の方よ、私の生涯はこのようにして燃え尽きるでしょう……。あなたに私の愛を明かすために、私は花びらを投げるよりほかありません。つまりどんなに小さな犠牲も、一つのまなざし、一つの言葉も逃さずに、もっとも小さいことまでも皆利用して、愛によって行うことです。……愛によって苦しみ、また楽しむことさえ愛によってしたい……。こうしてあなたの玉座の前に花びらを投げましょう。出会った花の一つでも、あなたのためにむしらずにはおきません。……そうして花びらを投げながら歌いましょう(これほどうれしい行いをしながら、泣くことなどできるでしょうか?)。たとえ茨の中に花を摘まなければならないときでも、私は歌いましょう……。茨の刺(とげ)が長くて、鋭ければ鋭いほど、私の歌はますます美しい調べになるでしょう。イエズスさま、私の花や歌があなたに何の役に立ちましょう? 私はよく知っています。この香る雨、このか弱い何の値打ちもない花びら、人々の心の中でもっとも小さい心が歌うこの愛の歌が、あなたの心を魅了することを……」。


・最後に、愛したいという望みは、聖性そのものです。なぜなら、私たちが天主を愛したいと望めば望むほど、天主は私たちに、さらにご自身を与えてくださいます。そして、天主が私たちにご自身をお与えになればなるほど、私たちの愛したいという望みは、さらに高まるのです。ですから、愛したいという望みは、最後には永遠の幸福にまで昇っていく渦の中に霊魂を引き込んでいくのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、満たさなければならない二つの渇きがあります。それは、天主の渇きと私たちの渇きです。一方には、ご自身を与え、それゆえに愛されたいという天主の渇きがあり、他方には、愛によって満たされたい、所有されたい、変容されたいという人間の愛への渇きがあります。一方には、サマリアの女に「私の水を飲みなさい」と言われたイエズスの渇きがあり、他方には、イエズスに「主よ、その水をください」と言ったサマリアの女の渇きがあります。一方には、十字架上で「私は渇いている!」、つまり「私は愛に渇いている」と言われたイエズスの渇きがあり、他方には、「主よ、あなたが御国に行かれるとき、私を思い出してください」(ルカ23章42節)と言った良き盗賊の渇きがあります。これらの二つの渇きが出会うことで、私たちの聖性が生み出されるのです。サマリアの女は聖化され、良き盗賊もそうでした。そして私たちも、彼らの模範に倣うなら、そうなるでしょう。誰でも聖人になることができるのです。なぜなら、誰でも天主を愛したいという望みを持つことができるのですから。


幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」(1) 天主のあわれみ深い愛を信じる:私を天にまで昇らせるエレベーター

2023年11月06日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(1)

ドモルネ神父 2023年9月10日

はじめに

教皇聖ピオ十世は、幼きイエズスの聖テレジアを、「現代の最も偉大な聖人」、すなわち、私たちの時代の最も偉大な聖人と呼びました。聖人たちは、私たちの聖性の模範です。天主が、幼きイエズスの聖テレジアを私たちの時代に立てられたのなら、それは特に私たちの時代に適した、したがって私たちに適した聖性の道を教えるためなのです。私たちは天国に行きたいと思っていますし、天主にお会いしたい思っていますし、天主の神聖な命にあずかりたいと思っています。そうするためには、私たち全員が例外なく、聖人にならなければなりません。次のように言う人がいるかもしれません。「難しすぎます! 私は弱いので、聖人たちのように苦行をする勇気はありません!」。あるいは、「私はどんなに努力しても、また小さな罪に陥ってしまいます。だから、聖人になるなんて、私には向いていません!」。あるいは、「私は心から天主を愛することができませんし、隣人を自分のように愛することもできません。だから、聖性なんて、私には向いていません!」。幼きイエズスの聖テレジアが私たちに示してくれたのは、そのような考えを持っている人が完全に間違っているということです。ですから、今日はそのことを、お話ししようと思います。

基本テキスト

まず、聖テレジアの自叙伝からの、長い引用をお読みいただきたいと思います。非常にやさしい言葉とイメージで、聖テレジアは基本となる教理的、霊的な深みのある考えを表現しています。

「私はいつも聖女になりたいと望んでいました。けれども聖人方と自分を比べると、まるで雲間に頂を隠す高い山と、通行人の足下に踏まれるつまらない砂の一粒ほどの相違があるのをいつも認めました。それでも、失望するどころか自分にこう言っていました。『天主さまが、実現できない望みを起こさせるはずはない。だから私は、小さくても、聖徳にあこがれてよいはずだ……。大きくなる……それはとてもできない。欠点だらけの自分をそのまま我慢しなければならない。でも、まっすぐでとても早く行ける小さな道、まったく新しい道を通って天国に行く方法を見つけたい。今は発明の時代で、階段を一段ずつ登らないで済む、お金持ちの家には便利なエレベーターがあるから。私もイエズスさまのところまで昇って行くエレベーターを見つけたい。完徳の険しい階段をよじ登るにはあまり小さすぎるから』と。

そこで、望みのまとであるエレベーターの手がかりになるものはないかと、聖書の中を探しました。そして永遠の知恵から出た次の句を見つけました。『小さい者ならだれでも私のもとに来なさい』(箴言9章4節)。それで、天主さま! 自分が探し求めていたものを見つけたと思って、おそばにまいりました。そしてあなたの招きに応えるごく小さい者に対して、あなたがどうなさるかを知りたいと思い、なお探し続けました。そして次の句を見つけたのです。『母親がその子を愛撫するように、私もあなたたちを慰め、あなたたちを胸に抱き、膝の上にのせて愛撫しよう』(イザヤ66章12−13節)。これほど優しく、これほど美しい言葉が私を喜ばせたことはこれまでにありませんでした。イエズスさま! 私を天にまで昇らせるエレベーター、それはあなたの腕なのです。ですから私は大きくなる必要はありません。かえって小さいままでいなければなりません」(手記C)

天主のあわれみ深い愛への信仰

このテキストのうち、今日は、私たちに対する天主の愛に注意を向けていただきたいと思います。「母親がその子を愛撫するように、私もあなたたちを慰め、あなたたちを胸に抱き、膝の上にのせて愛撫しよう」(イザヤ66章12-13節)。私たちの聖化の第一原則は、私たちに対する天主のあわれみ深い愛を固く信じることです。ここには、「愛」そして「あわれみ深い」という、考察すべき言葉が二つあります。

まず、「愛」という言葉です。天主は私たちを愛しておられるのであり、それは絶対に確実です。私たちが存在しているという事実そのものが、それを証明しています。なぜなら、天主は、私たちが幸せになることを必要としてはおられないからです。天主は、純粋な善意から私たちを創造され、私たちに善を行ってくださいました。次に天主は、啓示を通して、私たちにご自分の愛を明確に知らせてくださいました。この愛は、聖書のすべてのページで輝いています。この愛は、人となられた天主である私たちの主イエズス・キリストの生涯と教えで、特に明らかです。聖ヨハネは第一の書簡の中で、こう書いています。「天主は愛である。私たちに対する天主の愛は、ここに現れた。すなわち、天主のその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一書4章8-9節)。

天主は、私たちを愛しておられます。しかし、私たちが愛するということは、私たちが愛している人の善を望むことです。ですから、天主は、私たちの善を望んでおられるのです。しかし、絶対的な善は天主ご自身です。ですから、天主は、ご自身を私たちに伝えたいと望んでおられるのです。これこそが、私たちに対する天主の愛の効果です。天主は、ご自身を私たちに与えたいと望んでおられるのです。

「あわれみ深い」という言葉を見てみましょう。あわれみ深いということは、人の不幸に同情し、その人をできる限り助けることです。天主は、あわれみ深い愛で私たちを愛してくださいます。天主の愛は、私たちが不幸だという理由で、私たちに引き寄せられるのです。コップは、空っぽでなければ、水を満たすことができません。それと同じように、すべての完徳を豊かに持っておられる天主は、私たちが空っぽで、貧しく、みじめで、すべてを欠如している場合にのみ、ご自身を私たちに伝えることがおできになるのです。天主がその強さで私たちを満たしてくださるのは、私たちが弱いからです。天主がその知識で私たちを満たしてくださるのは、私たちが無知だからです。天主がその善で私たちを満たしてくださるのは、私たちが善を欠如しているからです。ですから、私たちの弱さと霊的な貧しさは、天主と聖性を所有するための障害物ではなく、そのための必要条件なのです。このため、聖パウロは「私は弱いときに強い」(コリント後書12章10節)と言っているのです。

私たちは決して、自分の小ささや弱さを理由にして、悲しんだり、がっかりしたりしてはなりません。そうすることは、高慢でないふりをした高慢にほかなりません。同様に、自分の弱さや小ささを、聖人になれない言い訳に使ってはなりません。そうすることは、怠惰でないふりをした怠惰にほかなりません。自分の弱さや小ささにがっかりするのではなく、それを愛し、それを喜ばなければなりません。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「善き主が私の小さき霊魂で喜ばれるのは、私が自分の小ささと貧しさを愛し、主のあわれみに限りない信頼を寄せているのをご覧になることです」。驚くべき一文ですが、深遠なる真理です! 私たちの聖性は、私たち自身が作り出した聖性ではなく、私たちの内におられる天主の聖性なのです。私たちの主イエズスは、すべての人にこう言われました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。ですから、すべての人が聖性に召されているのであり、聖性はすべての人に可能なものなのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの霊的生活、私たちの聖化の第一原則は、私たちの人生で何が起ころうとも、私たちに対する天主のあわれみ深い愛を固く信じることです。私たちの小ささ、弱さは、私たちを小さな子どもと似た者にしますが、それこそが、天主の愛、優しさ、母のような配慮を、私たちに引き寄せるのです。天主は聖書の中でこう言っておられます。「小さい者ならだれでも私のもとに来なさい」(箴言9章4節)。「母親がその子を愛撫するように、私もあなたたちを慰め、あなたたちを胸に抱き、膝の上にのせて愛撫しよう」(イザヤ66章12-13節)。私たちはこれにどう答えるべきでしょうか。聖ヨハネのように、こう答えましょう。「私たちは、私たちに対して持っておられる天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一書4章16節)。

次回は、私たちの聖化の第二原則、すなわち天主のあわれみ深い愛に対する信仰の効果についてお話しします。この効果、それは天主を愛したいという望みです。


教皇聖ピオ十世の回勅「イル・フェルモ・プロポジト」に基づくキリスト教文明と、カトリック・アクションの原則について

2023年11月06日 | お説教・霊的講話

カトリック・アクションについての説教

ドモルネ神父 2023年9月3日

はじめに

今日は、私たちの会の守護聖人である、教皇聖ピオ十世の祝日です。教皇聖ピオ十世が書いた回勅の一つに、1905年6月11日付の「イル・フェルモ・プロポジト」(Il Fermo Proposito)があります。教皇は、キリスト教文明と、カトリック・アクションを通じてその文明を拡大することについて述べています。カトリック・アクションとは、世界をキリスト教化するよう働くことを意味します。今日は、この回勅に基づき、キリスト教文明と、カトリック・アクションの原則についてお話しします。

世界の文明とはキリスト教文明

私たちの主イエズス・キリストは、人となられた御子なる天主です。イエズス・キリストが私たちの中に住まわれたのは、天主について、天主のみわざについて、私たちが存在する理由について、死んだ後に起こることについて、審判について、天国について、地獄について、私たちに教えるためです。イエズス・キリストが来られたのは、私たちに真理を教えるためだけでなく、真理に従って生きる能力、すなわち、私たちの父である天主を心から愛し、隣人を自分のように愛するという能力を、私たちに伝えるためです。こうして、私たちの主イエズス・キリストは、彼に耳を傾ける人々を完全な愛と平和へと導いてくださいます。言い換えれば、天主における、完全な永遠の幸福へと導いてくださるのです。

私たちの主イエズス・キリストは、世の終わりまでご自身のみわざを続けるためにローマ・カトリック教会を創立されました。個人と社会に対するカトリック教会の活動は、私たちの主ご自身の活動と同じです。カトリック教会は個人を聖化し、その結果として、人間社会を聖化します。実際、カトリック教会の活動のもとで、人は天主を愛し、隣人を愛することを学び、正義の徳、賢明の徳、剛毅の徳、節制の徳を実践することを学び、家庭的、職業的、世俗的な義務を、勇気をもって引き受けることを学ぶのです。

個人が良くなれば、社会も良くなります。それは単に論理的なことです。こうして、カトリック教会の活動のもとで、人間社会は霊的にも物質的にも完成するのです。人間社会の霊的、知的、芸術的、科学的、技術的な完成が、私たちが文明と呼んでいるものです。すると、キリスト教文明とは、カトリック教会の要求と指示のもとで、すなわち、私たちの主イエズス・キリストの要求と指示のもとで、人間社会が霊的、知的、芸術的、科学的、技術的に完成することなのです。

世界の文明はキリスト教文明です。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、イエズス・キリストとキリストの教会だけが、人類に人間的完成を達成する力を与えるからです。教皇聖ピオ十世の言葉にはこうあります。「世界の文明はキリスト教的です。文明が完全にキリスト教的であればあるほど、文明はさらに真のものであり、さらに永続的なものであり、さらに真の実りをもたらすものなのです。一方、文明がキリスト教の理想から遠ざかれば遠ざかるほど、社会秩序はさらに深刻な危機に瀕するのです」(4番)。世界の人々の歴史は、この現実を明確に示しています。

世界をキリスト教化するということは、すべての国民が同一のものとなり、それぞれの個性が失われるということでしょうか。そうではありません。このことは、カトリック教会を通じた天主の活動のしるしなのです。天主は、すべての国民を、それぞれの才能と特殊性をもって造られました。カトリック教会が、これらの才能や特殊性を破壊することがないのは確実です。教会は、異教の文明に存在する良い要素を維持し、完成させ、残虐性、犯罪性、不道徳性、混沌といった要素を排除し、それぞれの国民に対して自らの才能に従って自らを完成させる手段を与えるのです。ですから、例えば、フランスのキリスト教文明は、スペインや英国、ロシアのキリスト教文明とは異なります。もし徳川将軍家が、16世紀に日本で形成されつつあったキリスト教文明を残酷に押しつぶさなかったならば、江戸時代が私たちに残したものをはるかに凌ぐ、非常に興味深い日本のキリスト教文明が、今日存在していたことでしょう。

キリスト教文明に反対するもの

私たちの主イエズス・キリストが地上に来られたとき、イエズスとその教え、そして人類に対する甘美な活動に反対する人々がいました。それ以来、歴史を通じて、カトリック教会とその文明の活動に反対する人々が常に存在していました。彼らがこのようなことをするのは、なぜでしょうか。なぜなら、彼らは天主に対してふさわしい誉れや愛、従順を捧げようとはせず、その反対に、自分たちが自らの主人となり、快楽、富、権力、栄光を求める無秩序な情熱にふけろうとするからです。

今日、世俗主義とエキュメニズムは、キリスト教文明の拡大に反対するものの主な形態です。すべての宗教が平等であるとみなされるため、国家はすべての宗教に平等な公的権利を与えなければならない、ということが誤って教えられています。カトリックの宗教が他の宗教より優れているわけではなく、そのため、すべての国民に影響を拡大すると主張することはできない、ということが誤って教えられています。まさにここ日本で、このエキュメニズムを示す出来事がありました。1987年8月、京都の比叡山で、すべての宗教の代表者が集まって世界平和を祈り、すべての宗教を平等な立場に置きました。アリンゼ枢機卿がカトリック教会を代表しました。このような会議は、嘘と偽善にほかなりません。平和とは、秩序が平穏であることです。物事が良い秩序の状態にあるとき、私たちは平和と呼ばれる平穏さを享受します。イエズス・キリストを唯一無二の普遍的な贖い主だとして、イエズス・キリストにふさわしい誉れを捧げることによって、人が天主との間の秩序を守らない限り、人に平和は訪れません。聖書の中で、天主が預言者エレミアを通して言われたことに耳を傾けてください。このことは、偽りの宗教の代表者すべてに当てはまります。「預言者から司祭まで、みな嘘をつく。…彼らは言う。平和、平和。だが平和はない」(エレミア6章13-14節)。

世界におけるキリスト教文明の発展に反対するものがあっても、私たちはもちろん、落胆することはありません。それどころか、そのことは私たちの天主と隣人への愛を刺激し、私たちの社会に私たちの主イエズス・キリストの統治を拡大するために勇気を持って行動するよう、私たちを駆り立てるはずです。これが、カトリック・アクションなのです。

カトリック・アクションの原則

カトリック・アクションは、時と場所を問わず適用される、いくつかの原則の上に成立しています。

第一に、カトリック・アクションは、家庭や世俗社会に私たちの主イエズスをもたらすことを目的としていますから、私たち自身も、成聖の恩寵によって私たちの主イエズスと一致していなければなりません。私たちは、自分が持っていないものを他人に与えることはできません。ですから、私たちは良き霊的生活、つまり、私たちの主イエズスとの熱心な個人的かつ愛に満ちた関係を持たなければなりません。そのような良い霊的生活がなければ、私たちの活動には正しい意向が欠け、困難のときに私たちは落胆し、私たちの活動は必然的に効果のないものになるでしょう。

次に、私たちの周囲の人々が直面している問題や、その人々の霊的な問題が何かを見極め、彼らにカトリック的な答えを提供する必要があります。明らかなことですが、人々は自分たちが関心を持っている問題については、もっと進んで耳を傾けるでしょう。例えば、社会正義、現代世界で絶えない戦争、人口の高齢化、LGBT実践の合法化などの問題です。

次に、教皇聖ピオ十世はこう述べています。「カトリック信者は、何よりも平和と調和の精神を保たなければなりません」(14番)。カトリック信者の間に不和の種をまき、彼らの努力を無駄なものにしようとするのは、よく知られた悪魔の戦術であることを覚えておきましょう。

次に、私たちは、恐れもなく世間体(human respect)もなく、カトリックでない環境からの社会的圧力に抵抗して、どこにいても自分がカトリック信者であることを示し、カトリック信者として行動しなければなりません。それが家庭であっても、学校であっても、職場であっても、社会行事の場であってもです。

最後に、私たちは、道を誤らないように、常にカトリック教会の位階階級の指導のもとで働かなければなりません。

結論

親愛なる信者の皆さん、今日の書簡で聖パウロが述べていることを、もう一度読んでください。聖パウロは、カトリック・アクションで私たちを駆り立てるはずの精神を見事に要約しています。「…私たちの宣教は、誤りや、汚れや、偽りから出るのではない…私たちは、人間におもねるのではなく、天主に喜ばれようとして語っている…私たちは、物をむさぼる口実をもうけもしなかった…私たちは、あなたたちからも他の人からも、人間からは栄誉を求めなかった…乳母が子どもを育て養うように、私たちはあなたたちを愛し、天主の福音だけでなく喜んで命までも与えたいと思うほどであった」(テサロニケ前書2章3-8節)。

使徒の元后なる聖母が、私たちを祝福してくださいますように。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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