Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「サタン!退け。主なる天主のみを礼拝して、主にだけ仕えなければならない。」「全世界を儲けても自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つだろうか。」

2023年08月09日 | お説教・霊的講話

2023年2月26日四旬節第一主日 東京での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は四旬節第一主日です。

【大小斎】
お知らせがあります。来たる今週の水・金・土は四旬節の四季の斎日です。聖伝によると、大小斎を守る日です。義務は今ではなくなってしまいましたが、聖ピオ十世会の会員はこれを今でも義務として守っています。もしも、皆さんも一緒に大小斎を捧げたいという方は、どうぞ寛大に一緒にお捧げいたしましょう。

【復活祭の義務】
また復活祭の義務というものがあるのをお知らせしたいと思います。公教会の掟によると、年に一度、少なくとも年に一度、復活祭の頃に御聖体拝領をする、また年に一度、少なくとも年に一度、告白の秘跡を受けるというものがあります。特に告白は、四旬節の間に行うというのが教会の伝統的な習慣です。ですからぜひ四旬節の間に少なくとも一度告白をされて、すべての罪を赦されて、復活祭の時には良い聖体拝領をなさるようになさってください。復活祭の義務をよくお捧げするようになさってください。

【キリストは誘惑を受けた】
今日、四旬節の第一主日の福音では、私たちの主が荒れ野で四十日間断食をしたのちに、悪魔から誘惑を受けたということが読まれました。これは本当にあったことです。ですから私たちも、主がうけた誘惑について一緒に黙想いたしましょう。

【キリストは何故誘惑を受けたのか】
何故キリストが誘惑を受けたのかというと、聖トマス・アクィナスによると、主が誘惑を受けたのは、四つの理由からです。

一つは私たちを誘惑において助けるためです。なぜかというと、御自分の死で死に打ち勝ったように、御自分の受けた誘惑で私たちをして誘惑に打ち勝つことができるように、助けるためだからです。

第二の理由は、どれほど聖なる者であったとしても、聖徳の極みに達した者であっても、誘惑からけっして免れることはできないということを教えるためでした。

第三には、ご自分で誘惑に打ち勝って見せることによって、どのように誘惑に打ち勝つかを私たちに教えるためでした。

第四の理由は、主は御自身で誘惑にあった方ですから、誘惑を受けるということがどれほど辛いことかということをよくご存じです。ですから私たちのことを同情することができて、私たちが主の憐みにますます信頼することができるようにさせるためです。

以上の四つの理由のために主は誘惑を受けた、と聖トマス・アクィナスは説明しています。

同じ聖トマス・アクィナスによると、悪魔から来る誘惑というのは、誘(いざな)いの形をとると言っています。誘いの形というのは、人々の傾向によってさまざま違います。ですから、効果的な結果を得るために、悪魔は、聖徳に達した人にはすぐに大罪を犯させるような誘いはしません。小さな過失から誘惑して、徐々に大罪を犯すようにとさせるのです。人祖アダムとエバに対しても、このやり方をつかいました。

聖トマス・アクィナスによれば、まず、食べてはいけないと言われた木の実を食べることに同意させます。
次に、虚栄に同意させます。「おまえたちの目は開かれるだろう」と。
最後には傲慢へと誘惑します。「おまえたちは、善と悪を知り、天主のようになるだろう」と。悪魔は砂漠でイエズス・キリストにも同じやり方で罪へと誘惑しました。

【パンのしるし】
第一に、パンのしるしを使いました。イエズスは四十日の厳しい断食の後、体は疲れ、やつれ、弱り、お腹が減って、空腹に苦しんでいました。その前にサタンが現れ、誘惑するのです。「お前は腹が減っているだろう。あなたが天主の子なら、本当のメシアなら、この石がパンになるように命じてみろ」と。

サタンは「本当のメシアなら、救い主ならば、本当の天主の子ならば、旧約のすべての預言が成就する」ということを知っていました。パンのしるしが、旧約にはあります。
たとえば、サレムの――エルサレムの昔の名前です――サレムの王にして大司祭であるメルキセデクは、主にパンとブドウ酒を捧げました。この預言が成就すべきです。
あるいは、モーゼは、シナイの山で天主の十戒を受けるために、砂漠で四十日間断食をしました。この同じモーゼが、イスラエルの民を養うために天からのパン(マンナ)を食べさせました。この預言が成就しなければなりません。
あるいは、ダヴィドは神殿のパンを得て、力を得ました。この預言が成就しなければなりません。
預言者エリアは、天使からパンをいただいてそれを食べて後、四十日間何も食べずに断食します。これも成就しなければなりません。
イエズスが本当にメシアならば、このパンのしるしをしなければならない、奇跡を行わなければならない。「さあやってみろ。」「おまえはお腹が減っているだろう。石をパンにしてみろ。」

しかし、イエズスは断固として悪魔の誘いに乗りませんでした。
確かにモーゼは、天のマンナによってイスラエルの民を養いましたけれども、それは物質的なものを与えるためではなくて、ヤーベの天使の教えを教えるためだったからです。モーゼはこう言っています。
「天主はおまえたちを遜(へりくだ)らせ、おまえもその父たちも知らなかったマンナを食べさせてくださった。それは、人間とはパンだけで生きるのではなく、天主の口から出るすべてのものによって、生きるものであることを教えるためであった。」(第二法8:3)
つまり、マンナという物質的な食べものにこだわってはいけない。人間は、食べ物・この物質的なパンのために生きるのではなくて、主の御旨を果たすためにマンナが与えられたのだ。イエズス様は、モーゼと同じ言葉をサタンにかえし、サタンの誘惑を拒絶します。

主の御旨は、石が石のまま残ることでした。何故かというと、石というのは、償いと悔悛のしるしだったからです。なぜかというと、アダムの罪のために、この地は、石ころは、呪われました(創世記3:17)。罪のためにこの地はイバラを生みだすようになりました。罪の償いのためにイエズス様はこのイバラを冠としなければなりませんでした。罪のために、アダムは呪われて、これから人間は額に汗してパンを得なければならない、労働しなければならないといわれました。ですから、パンというのは償いを果たして後にようやく得なければならないのです。奇跡で得るものではありません。

イエズス様は、ゲッセマネの園で額に血の汗を流して、茨の冠で御頭から血を流して、私たちに特別のパンを与えようとしてくださいました。いったいこの特別なパンとはなんでしょうか。それは御聖体です。なぜかというと、イエズス様は岩だからです。モーゼは、荒野で人々に岩を打ってその岩から湧き出る水によって、人々に飲ませました。聖パウロは言っています。「かれらはついてきた霊的な岩から飲んだが、その岩はキリストであった。」(コリント前10:4)

つまり、イエズス様は、イエズス・キリストは、償いと悔悛の犠牲をささげるべき祭壇石です。このうえで生け贄が捧げられるべき石・岩なのです。ですから岩は岩として残らなければなりません。祭壇は祭壇として残るべきです。祭壇が食卓になってはいけません。ミサ聖祭は十字架の生け贄の再現として残らなければなりません。食卓を囲む集会になってはなりません。

イエズス様はサタンが誘ったよりももっと偉大な奇跡を行います。それは岩であるイエズス様が、こう宣言しています。「私は天から下った生けるパンである」と。パンを増加させて何千人もの人々に食べさせます。最後にはご自分の体を御聖体にします。つまりパンをご自分の肉体に変えさせて、砂漠のようなこの世に生きる私たちを、生ける天からのパンで、御聖体で養おうとします。これこそが、主が望んだパンの印であって、主のみ旨でした。これをするためにイエズス様はサタンの誘惑を拒みます。人はパンだけで生きるのではない、天主の口から出るすべての御言葉によって生きる。私は主の御言葉だ。私の御言葉・私の御聖体によって生きる。

【芸術家のノミに身を任せるような石ころのような被造物】
イエズスは、さらにこう誘惑を受けます。「もしもあなたが天主の子なら、この高い神殿から身を投げよ、そうしたら天主はあなたを救うだろう。聖書にそう書かれてある。聖書が実現する。みんながすごいというだろう。」「人々の目は開かれるだろう」虚栄心をそそります。

すると、イエズス様はもう一度モーゼの言葉を引用します。モーゼはこう言っていました。
「主なる主を恐れ、敬い、その名によって誓いをせよ。他の民が拝むような神々を拝むな。おまえたちの中に住まわれる主は、嫉妬深い天主であるから、そのようなことをするなら、天主の怒りは燃えるだろう、地の面からおまえは消し去られるに違いない。主を試みてはならない」(第二法6:13-16)

私たちは石ころです。土であって、塵であって、また塵に戻るべき罪人です。もしも私たちが、主の御姿に倣って、天国に行くのであれば、本当の幸せを受けるのであれば、主のみ旨を果たさなければなりません。ちょうど土くれ・粘土が、壺造りの職人の手のままにろくろで回されてその通りになってこそ、立派な芸術品となるように。また、石ころでも芸術家のノミが打つままにまかせると、それが立派な芸術作品になるように、私たちも主のみ旨のままにこの身をまかせなければなりません。ちょうどマリア様が仰ったように「われは主のつかいめなり、仰せの如くわれになれかし。」といわなければなりません。

ですから、主のみ旨を果たすことにこそ、私たちの本当の完成があるのであって、何をしてでもいいんだ、跳び下りてもいいんだ、ではないということです。

つまりもしも誰かが私たちに「私たちは何をしても天国に行く。地獄はない。あっても空だ」といっても、信じてはなりません。私たちが何をしても主が助けてくれる、いつくしみのキリストだ、と言っても、掟を忘れて自分の思う通りのままにしては、私たちは主を試みることになります。

【天主のみを礼拝する】
最後に主は、更に試みを受けます。今度はもっとひどいものです。全世界を見て「これはすべては私のものだ、だからお前は私を礼拝せよ。」悪魔は言います。「そうしたらすべてを教えるお前のものにあげよう。」

するとイエズスはそれを聞いて「サタン!退け。主なる天主のみを礼拝して、主にだけ仕えなければならない。」そして一切対話を断って、サタンを追い払います。

もしも誰かが私たちに「なにかをしたら、罪を犯したら、この世で利益があるよ、全世界を儲けることができるよ」と言ったとしても、私たちはそれに聴いてはなりません。なぜかというとそれは嘘だからです。イエズス様と同じように「サタン退け」と言わなければなりません。イエズス様はこう仰います。「全世界を儲けても自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つだろうか。」

【聖木曜日】
イエズスは御父に従順に従います。ついには聖木曜日つまり、今から四十日後、パンをご自分の体に変えて、そして世の終わりまで、私たちを養わせようと、ご自分の体で養わせようとされました。これこそが主の御み旨でした。ご自分の空腹を満たすために、石をパンに変えるのではなくて、岩であるご自分を生けるパンとして私たちを養うために聖変化させることが御父のお望みでした。これを世の終わりまで続けることがお望みでした。

もしも私たちがイエズス・キリストの弟子となろうと思うのならば、人はこの世のことだけで生きているのではない、天主の御旨を知り、それを果たして、そうすることによって、天主ともに天国に行くことができる、永遠のいのちを生きるために生きているのである、ということを私たちも知らなければなりません。

【遷善の決心】
では今日四旬節のよい遷善の決心を立てましょう。四旬節は主の断食を真似ることにあります。教会が定めたやり方でそれに私たちを合わせることにあります。主が定めたものであるからこそ、み旨にかなうものであります。価値があります。ちょうど、旧約の時代がすべて、イエズス様を現すイメージだったように、私たちもイエズス様に倣えば倣うほど、私たちの行為に価値が永遠の価値が生まれ出ます。どうぞこの四旬節の間、ミサ聖祭によく与るようになさってください。イエズス・キリストこそが、私たちのためにパンとなった岩です。

イエズス様は、聖ペトロにこう言いました。「目覚めて祈れ、なぜならば、精神は逸(はや)っても、肉体は弱い。誘惑に陥らないように目覚めて祈れ。」

この四旬節をよくすごすことによって、祈りと犠牲とによって過ごすことによって、私たちは誘惑に打ち勝つことにしましょう。マリア様にお祈りしましょう。私たちがよい四旬節を過ごすことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズスは、すぐ、かれらに、「安心せよ、私だ、おそれるな!」とおおせられ、弟子たちとともに舟にお乗りになると、風はやんだ。

2023年08月08日 | お説教・霊的講話

2023年2月25日(土)修道院での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今週の水曜日(2023年2月22日)から四旬節に入りました。四旬節には、毎日固有のミサがあります。固有の書簡と固有の福音が読まれます。 

今日の福音は、聖マルコから取られています。弟子たちが、夜、海でガリラヤの湖を渡っているところです。

イエズス様は、地上に残って、お祈りをしておられました。弟子たちだけが、船に乗って、湖を渡ろうとしています。ところが、風が吹いて、いくら漕いでも漕いでも、なかなか進みません。非常に苦しんでいる弟子たちを見て、弟子たちの横を、イエズスが海の上を歩いて渡られるのです。弟子たちは、イエズス様に気がつきます。最初は、主を幽霊だと思うのですけれど、主は近づいてきて、心配するな、私だ、と言って、船に乗り込みます。その途端に、風は凪となって、船は安全に進むことができます。ゲネサレトの港に着くと、皆が病の人をイエズス様のもとに持ってきて、イエズス様が触れると皆病が治る、という箇所でした。

これは、私たちに、この四旬節をイエズス様と共に過ごすように、ということを教えています。

私たちが、四旬節をあるいはこの人生を、この人生という四旬節を、イエズス様なしに一生懸命やっても、風は反対ですし、悪魔は妨害しますし、この世も妨害します。私たちの肉体も、私たちの進みを妨害します。そんな抵抗や反対がたくさんあるこの世の中を、私たちは天国に向かって、進まなければなりません。

イエズス様がいらっしゃらないならば難しいことも、イエズス様が私たちと共におられるならば、私たちの船に乗ってくださるならば、すべてはうまくいきます。四旬節もイエズス様と共に過ごすならば、聖なるものとなります。

また、ゲネサレトの港についても、病の人たちもイエズス様の服に触るならイエズス様と一緒であるならば皆、癒されるように、私たちもイエズス様と一緒であるならば、悪も罪も癒されます。イエズスだけが私たちにくださる平和を、得ることができるのです。

イエズス様は、今日私たちに、私たちの霊魂の中に入ろうとされて、安心せよ、心配するな、勇気を持て、とおっしゃっています。

この四旬節を、よくイエズス様と共に過ごして、復活の主日を迎えることができるように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「イエズスは、すぐ、かれらに、「安心せよ、私だ、おそれるな!」とおおせられ、弟子たちとともに舟にお乗りになると、風はやんだ。」


【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2

2023年08月08日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2

  • 高品質の製品とは、カトリックの教理、道徳、典礼を象徴しています。低品質の商品との競争とは、近代主義的なイデオロギー的ながらくた、つまり主に改革されたミサ典礼のことです。…ほとんどすべての販売拠点を閉鎖し、…輸入製品が粗悪品であることを人々に見抜かれないようにするため、高品質の製品を単になくしてしまうことで比較を回避しています。
  • もし「顧客」が「大規模小売業者」によって押しつけられたものを買うことを諦めるとすれば、それは詐欺や市場操作によって自由な選択の可能性を奪われたからに他なりません。
  • 地獄の門は遊園地のお化け屋敷と同じように、すでに私たちの主によって決定的に征服された者たちによって作られた印象的な舞台装置に過ぎないことを私たちは理解するでしょう。

Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2
第2部(7月28日追加)

【解説】ヴィガノ大司教は、カトリック教会の高位聖職者です。以前はバチカンの行政機構の上層部で働き、ベネディクト十六世によって在米教皇大使を任命されました。聖ピオ十世会という修道会に所属する司教ではありません。聖ピオ十世会の考えを代弁しているというわけでもありません。ただし、以前、新しいミサを行っていたけれどもその弊害に気が付き、聖伝のミサに立ち戻った高位聖職者であり、第二バチカン公会議の実りとは何かを直視することができるようになった司教の一人です。そこで参考情報として最近のヴィガノ大司教の発言を日本語で紹介します。私たちは教皇さまのことは普通は教皇としての名前で呼ぶ習慣があります。たとえばベネディクト十六世とか、フランシコとかです。しかしイタリア語では、時として教皇の苗字で呼ぶこともなされるとのことです。例えば、パパ・パッチェリ(ピオ十二世)、モンティーニ(パウロ六世)など。

【問い】大司教様、第1部の終わったところから続けましょう。教会で起きていることと世俗の領域で起きていることは、明白な並行関係にあります。大司教様がよく使われる表現に、「すべてが一つで説明がつく」“everything holds together.”というものがあります。これについてもう少し説明していただけますか。

【ヴィガノ大司教】民主的な国家機関や超国家機関の権威主義(昨日は口実のパンデミック緊急事態、今日は不条理な環境緊急事態)は、シノドスのバチカン機関の権威主義(昨日は口実のエキュメニカル対話、今日はそれに劣らない口実である性的・道徳的逸脱の奨励)とまったく変わるところがありません。どちらも真の権威が腐敗したものの表現であり、一方は世界的なクーデターのディープ・ステート、他方はザンクトガレン・マフィアのクーデターのディープ・チャーチです。どちらにおいても、メンバーの腐敗が、彼らが従属的であり続けることを保証しています。なぜなら、その腐敗のせいで彼らを脅迫するのは簡単なことだからです。この理由で、これらの機関で一定のレベルに昇進している人々が正直であることは不可能です。なぜなら、正直であれば、腹話術師の手中にある操り人形のような、重要な役割を担う操作しやすい操り人形を欲する人々の支配から逃れることができるはずだからです。

ですから、離教がベルゴリオの究極の目標です。なぜなら、それはファリザイ派のやり方、つまり、偽善的で偽りの形式主義というやり方であり、教会から善きカトリック信者を追い出して、教会を裏切り者や反逆者の権力に完全に委ね、その時点で彼らが望むことを教会に対して自由にできるようにするからです。

同じことが世俗の領域でも起きています。西側諸国の支配者や支配階級全体が、誰も選んでいない権力に完全に隷属しています。国家の利益に反してでも、また市民の基本的権利を侵害してでも、彼らはこの権力に従っています。そして、彼らを大逆罪で裁いて断罪する意思も能力もある機関や司法は存在しません。

ベルゴリオの保守派に対する排斥は、グローバリストのエリートが新型コロナウイルス感染症や地球温暖化の「否定派」に対して行う排斥と同じです。サイコパンデミックや環境の茶番劇に科学的根拠がなく、著名な科学者や反論の余地のない証拠によって否定されていることは問題ではありません。科学は科学主義に取って代わられ、これらのテーマに関するあらゆる科学文献は今や削除され、取り消され、検閲されています。ですから、カトリックの教導権に関して第二バチカン公会議以降の「教導権」があからさまに矛盾していることを考えれば、ここでも教会との並行関係があらゆる証拠によって見えてくるのです。教理は異端に、道徳は個人の主観に、典礼儀式は冒涜的な即興に取って代わられました。そして、たとえば、ワクチンを受けた者だけの突然死や、公会議後の期間の召命の危機を強調することによって、公式の物語(ナラティブ)に疑問を呈する者たちは犯罪者とされます。なぜなら、彼らの反対意見は理性的かつ合理的であり、反論できないものだからです。反論する代わりに、その反対意見を表明する各個人を攻撃することによって、その意見を委縮させるのです。


【問い】この時点で、「どうすればこの状況から抜け出せるのか」という問いに戻ります。ここ数日間、ここ「Duc in altum」では、多くの読者の参加を得て、このテーマについて幅広い議論が交わされてきました。ベルゴリオと彼の部隊がカトリック世論にクロロホルムをかがせることに失敗したのは明らかなようです。

【ヴィガノ大司教】祈りによってそこから抜け出さなければならない、と提案する人々もいます。それは正しいことです。全能の天主に歴史の手綱を握っていただくことは、確かに効果的な手段です。しかし、同時に、それだけでは十分ではありません。祈り(それは常に欠かすことのできないものです)はまた、私たちの信仰の父祖たち(使徒たち、初期キリスト教徒たち、そしてすべてのカトリック信者たち)が常に行ってきたように、暴君たちやサトラップたちに、過去二千年にわたって立ち向かってきたように、行動を伴っていなければなりません。この暴君たちは、ヴォルテールが冒涜して言った「"恥知らず"を粉砕せよ」(écrasez l'infame)が可能だと確信していました。しかし、教会の敵どもは今やすべて死んで葬られたものの、教会は今でも生きています。

最初のインタビューで述べたように、この行動はまず第一に、聖伝の運動の戦略的分断化を見越しておかなければなりません。聖伝の運動は、一撃で全体を攻撃されるのを不可能にするために、協調しつつも独立した状態のままでいなければなりません。私の考えでは、聖伝の運動を分断化しておくことが、現在の攻撃に対する唯一の可能な対応策です。私たちは、新たな教会に似たような組織を設立してはならず、むしろ、異なる勢力間で最小限の協調を維持するのです。そうすれば、真のカトリック信者がとどまるべき唯一の真にして合法的な場所である教会において、遅かれ早かれ、自分たちが完全な市民権を取り戻すことが分かるでしょう。明らかなことですが、このことは、沈んでいく船の乗客として、起きていることを傍観して見守っていることではありません。それどころか、教会にとどまることで、私たちは教会の子として、内部から敵の第五列【反逆者、スパイ】として行動する人々の攻撃から教会を守るように駆り立てられなければなりません。

一方でベルゴリオが私たちの逃げ道をすべてふさぎたいと思っているのなら、他方で私たちは他の逃げ道を開ける必要があります。もしベルゴリオの行動が、私たちを孤立させることで、臆病にさせて【活動を】思いとどまらせることを目的としているのであれば、私たちは使えるあらゆる手段で横領を糾弾しなければなりません。そして、遅かれ早かれ、迫害は「必然的に」、もう一度言います、必然的に、バチカンの報復の可能性から何とか守られていると信じ込んでいる人々にも広がっていくでしょう。ですから、彼らも今や、信者に聖なるミサと秘跡を保証することになる、ますます切迫した「必要性の状態」によって強化された抵抗の形態を組織し始めることができるようになるでしょう。

【問い】この点に関して、大司教様は、司教としての兄弟の方々にどんな提案をなさいますか。

【ヴィガノ大司教】私は彼らに、良心の呵責をもって(onerata conscientia)、このことを検討するように勧めます。つまり、ベルゴリオによる更なる策略の可能性や、世俗当局が聖伝のカトリック信者を公然と迫害する行動に出ることを考慮して、自分たちの保守的な司祭のために秘密の形態の役務を考えることが適切かどうか、を検討することです。米国でトリエント・ミサに関連する信者のグループをFBIが調査したことは、諜報機関の逸脱した部分がカトリック信者を彼らの破壊転覆的計画にとって脅威とみなしていることを示唆していますが、一方で彼らはベルゴリオの教会に味方を得ています。

聖伝の修道共同体、特に観想生活の女性たちの共同体は、物質的・霊的な相互支援と援助を与え合うために、常に連絡を取り合っていなければなりません。教会の最高レベルを占拠しているこの異端者たちや変質者たちの集団に反対する非主流派が、メディアやソーシャル・ネットワーク・プラットフォームでますます存在感を増すことが重要であり、そうすることで、背教に対する諦めたような沈黙と必要とされる反対との間でまだ躊躇している人々を励ますことができます。これらの司祭たちに語ってもらいましょう。彼らに声を与え、彼らを慰め、彼らに家庭や教会、修道院で歓迎されていると感じてもらいましょう。

忘れてはならないのは、グローバリストのエリートたち、そしてその手先であるベルゴリオのセクトを動かしているメンタリティーは、商業的なもの、つまり典型的なプロテスタント的かつ高利貸的なものだということです。支配的な考え方は、権力と利益であり、これはあらゆるものを商品化することによって、つまり、生活のあらゆる面を、売却したり購入したりできる商品に変えることによって得られるものです。そして、商業戦略は常に、市場を征服するための明確に決められたプロセスに従います。

【問い】例を挙げていただけますか。

【ヴィガノ大司教】承知しました。二つの会社があると考えてください。一つは、第三世界で質の悪い製品を低価格で生産している外国の多国籍企業で、もう一つは、同じ製品をイタリア国内だけで生産された高品質の原材料を使い、熟練した技術と適正な価格で生産しているイタリアの職人企業です。このような状況では、多国籍企業が新たな外国市場で自らを押しつけることができる見込みがないのは明らかです。通常の条件下では、政府は自国の国内企業家の優秀性を保護する形をとり、輸入品に重い関税を課しているからでもあります。しかし、欧州連合(EU)に加盟すると、加盟国は自国企業を優先することを禁じられ、過酷な税金や関税が課され、原材料や生産のコストが上昇し、多国籍企業への信用供与が容易になり、中小企業への利用が大幅に制限されます。こうした経済・財政政策の背後には、もちろん大金融グループのロビイストがいます。この時点で、イタリアの企業は値上げを余儀なくされ、多国籍企業は直ちに競争力を持つようになります。そこで多国籍企業は、イタリア市場に参入し、印象的なメディア・キャンペーンを展開しますが、小さな競合企業にはそんな余裕はありません。しばらくすると、多国籍企業はその小さな会社を買収し、しばらくの間その会社に仕事をさせます。多国籍企業は何を得たのでしょうか。代替製品の消滅と全般的な製品の品質低下です。競争は排除され、製造された製品は、市場で唯一提供されているという理由だけで、価格を上げることができます。このプロセスでは、高品質の製品を排除することが不可欠です。なぜなら、中国の刑務所やインドの村で大量生産される製品との比較は、迷惑な話だからです。そうなれば、貴重な職人製品を排除し、質の悪い製造品を優先することになります。

では、外国との競争に対処するために、どのような解決策が提案されているのでしょうか。原材料コストを下げた後に残るのは、人件費コストの削減だけであり、それは賃金の引き下げと低賃金の外国人労働者の導入により、また北アフリカからの不法移民の上陸や、トルコから欧州に入国した移民の圧力のせいでもあります。この協調攻撃に、エネルギーコストの上昇(これらはすべて意図的に引き起こされたものです)とEU加盟国(あるいは少なくとも一部の国)の財政均衡の義務を加えると、この場合も、唯一の望ましい道を除いて、すべての逃げ道が閉ざされていることが分かります。でも、その望ましい道は、それを選んだ者にとっては致命的です。

【問い】大司教様、口を差しはさむのをお許しください。しかし、このような表現をされると、次のように言う人々がいます。「ヴィガノ大司教は司牧者としての自分に関係のないことを話している」と。

【ヴィガノ大司教】ここで、司教として発言しているテーマに対して、私たちが少なくとも「通常ではない」土台にいることを、私は理解しています。私は、かつてバチカン市国行政庁次官として、経済問題にも取り組まなければなりませんでした。お気づきのように、私が今説明した商業戦略は、教会の領域でも採用されています。高品質の製品とは、カトリックの教理、道徳、典礼を象徴しています。低品質の商品との競争とは、近代主義的なイデオロギー的ながらくた、つまり主に改革されたミサ典礼のことです。「顧客」は、比較にならないほど劣ったものと引き換えに、いつも持っている高品質の製品を自由に手放そうとはしないため、「公会議の多国籍企業」が「小さな職人会社」を買収し、その製品を「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の下で提供させますが、その後、ほとんどすべての販売拠点を閉鎖し、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)という法を押し付けることによって、伝統的な「学事規定」(ratio studiorum)に従った聖職者や修道者の教育形成を妨げます。また、輸入製品が粗悪品であることを人々に見抜かれないようにするため、高品質の製品を単になくしてしまうことで比較を回避しています。しかし、このような作戦は、組織的な観点からは効果的であったとしても、二つの選択肢の間の溝が非常に明白になるのを防ぐことはできません。もし「顧客」が「大規模小売業者」によって押しつけられたものを買うしかないと諦めるとすれば、それは詐欺や市場操作によって自由な選択の可能性を奪われたからに他なりません。

宗教的な問題において、このような「小売店主」的なアプローチが不適切で不快なものであることはよく承知しています。特に、信仰の善は計り知れない価値があり、天主の壮大さによって私たちに惜しみなく与えられている一方で、私たちに提案されているもう一つのものは少なくとも競争不可能なものであり、その代価は私たちの永遠の滅びであるからです。しかし、異端や倒錯の販売者たちの高利貸的な冷笑主義が、この問題を商業的な交換とみなして、あらゆるものに値段をつける、ということを超えることができないことは、私たち誰もが気づくことだと思います。ユダの裏切りに対して最高法院(サンへドリン)が支払った30デナリオはこのことを裏付けており、この金額を支払う用意のある大司祭や、神殿の衛兵に接吻して進んで主を引き渡す反逆の使徒が常にいるということです。

これが商人を動かして方向づけるメンタリティーです。世界経済フォーラムは、社会に新たなライフスタイルの採用を強制する場合には、金と権力を渇望する企業家のロビーであることを忘れてはなりません。社会的操作はマーケティング活動に不可欠な部分であり、販売される「製品」が実験的な血清や電気自動車である場合、需要を喚起して市場に投入する方法には、マスコミ、個々のジャーナリスト、いわゆる「専門家」(たとえばウイルス学者や気候学者)や政治家の協力による、パンデミックや環境社会への警鐘を鳴らすメディア・キャンペーンが含まれます。彼らのすべてが、事実上、世界経済フォーラムの技術ロビーに雇われています。なぜなら、彼らはバンガード、ブラックロック、ステート・ストリートといった大手投資ファンドに所有されているか、あるいは直接・間接的にスポンサーになってもらっているからです。

新聞が特定のニュースを流すとすれば、これやそれやの多国籍企業がその新聞を支配しているから、あるいは広告スペースを買い、イベントに資金を提供しているからです。また、研究機関や大学、財団にも同じことが当てはまり、その物語(ナラティブ)を裏付けるような研究を発表する任務が割り当てられています。これは、公的機関への干渉やロビー活動を伴うものであり、公的機関の職員は民間団体と協定を結んでおり、よく知られた回転ドアの慣行に従って、見返りとして活動に資金を提供したり、任期終了後に雇用したりしています。

このサークル(円形)は、欠けていた最後のピース(部品)で閉じられます。それは、グローバリスト・エリートのクーデターに対するカトリック教会と他の宗教の協力ですが、完全に副次的なやり方です。ディープ・チャーチは、この醜い同盟に役立つのを一瞬も躊躇しません。なぜなら、ディープ・チャーチは、完全にディープ・ステートにつながる人物によって占められているからです。サイコパンデミックの茶番劇に迎合し、次にウクライナ危機に足並みを合わせ、次にパチャママ崇拝を通じてアマゾンの香りのグリーン物語(ナラティブ)を受け入れ、ついにはシノドスを目覚めた(woke)イデオロギーに身売りさせたのです。

そして、サンタ・マルタ館のセクトのこの「奴隷根性」(libido serviendi)が自発的でなかった場合でも、私たちは、主要な人物の恐喝によって、息をつく間もなく足並みを揃えるように説得されたであろうことをよく知っています。元枢機卿マカリックと、まだ権力を握っている彼の手下たち(スーピッチ、グレゴリー、ファレル、トービン、マッケルロイ…)のスキャンダルは、ジョー・バイデンの息子のスキャンダルと大差はありません。

検閲や隠蔽という、あわれでグロテスクな試みは、現在権力を握っている小児性愛者・悪魔崇拝者の集団を待ち受けている「会計の報告」(redde rationem)を先延ばしにすることはできるかもしれませんが、真実がその恐るべき重大性で明らかになったり、悪しき者【悪魔】に自らを捧げるこれらの変質者たちに正義を行ったりするのを阻止することは成功しないでしょう。私たちはこの局面で、広大な共謀ネットワークに目を見開く用意をしておかなければなりません。そうなれば、この地獄のマシーンがなぜここまでうまく機能しているのかが明らかになるでしょう。

【問い】しかし、このような広範で組織化されたネットワークに、どのようにして効果的に対処すればいいのでしょうか。それに反対する人々の力は、大きな情熱と犠牲の精神に支えられているとはいえ、はるかに不十分なように見えます…。

【ヴィガノ大司教】いいですか、私は、敵【悪魔】の勢力が非常に効率的に組織化されていることは、私たちの無秩序と分断に比べれば、確かに強みであると思っていますが、同時に、そのことは敵【悪魔】のアキレス腱であるとも思っています。私たちが無秩序であること、私たちに自律的に動く能力があること、私たちの動きが予測不可能であることが、ディープ・ステートが私たちを教会から追い出そうとする企てを成功させるのを阻むことになり、同様に、私たちを世俗社会から追い出そうとするディープ・ステートの努力をも阻むことになるのです。そしてその逆もまた然りで、まさに彼ら組織に霊魂がないこと、そして彼らの指揮系統が特定可能であることが、私たちが彼らの計画を妨害し、その計画の作者を糾弾し、彼らの行動を挫折させることを可能にするのです。

ですから、短期的なプロジェクトと長期的なプロジェクトを検討し始めましょう。私たちは、ただ抵抗するだけであってはなりません。反応する者(reactors)になるのではなく、行動する者(actors)にならなければなりません。私が各地で起きていると思っているように、主導権を取らなければなりません。そうすることによってのみ、「小さな群れ」(pusillus grex)はそれほど小さくはないこと、地獄の門は遊園地のお化け屋敷と同じように、すでに私たちの主によって決定的に征服された者たちによって作られた印象的な舞台装置に過ぎないことを私たちは理解するでしょう。

最後に、ベルゴリオの軍事政権(junta)によって迫害されている司祭、神学生、男女の修道者を支援するために私が設立した団体「Exsurge Domine」(主よ立ち上がり給え)の活動を支援してくださるようお願いしたいと思います。皆さんのご支援があれば、信仰を持たず、何よりも愛徳を持たない恥知らずの傭い人の標的となっている、これらの善き霊魂に対する多くの差別状況に対応することができます。ウェブサイトwww.exsurgedomine.orgを訪問していただければ、すべての情報と寄付の方法をご覧になれます。

英語版 UPDATED: Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

イタリア語版(第1部)Intervista a monsignor Carlo Maria Viganò (prima parte) / “Ecco come Bergoglio lavora per lo scisma. E usa la sinodalita’ per i suoi scopi” - Aldo Maria Valli

イタリア語訳(第2部)Intervista a monsignor Carlo Maria Viganò (seconda parte) / “Questo il momento di agire. La nostra apparente disorganizzazione è una forza. E la frammentazione una risorsa” - Aldo Maria Valli


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年08月06日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計92人でした。大阪では39人でした。
東京では、東海道線が不通だった影響があったのか、夏休みで旅行をされた方々が多かったのか、残暑で体調を崩されたのか、ミサに来ることができなかった方々もおられました。大阪では新しくミサに来られた方々がおられ、大変興味深いお話をすることができました。天主に感謝します!

典礼法規総則16によると、一般に二級主日と二級の祝日とが重なった(競合した)場合、主日のミサを行い、祝日については記念だけを行います。ただし、その二級祝日が主イエズス・キリストの祝日(例えば今回のように御変容の祝日)であった場合、主の祝日のミサを行い、主日については何もしないことになっております。そこで、今日は御変容の祝日を祝いました。

【16 二級主日は、二級祝日よりも優先する。しかし
a) 一級或いは二級の主の祝日が、二級主日に重なった場合、全ての権利と特権を保ったままこの主日の場所をしめる。そして主日についてはいかなる記念もしない。】

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 92 including children.

09:00 mass
M: 32 (incl. 4 children)
F: 25 (incl. 7 children)
Total: 57 (incl. 11 children)

11:30 mass
M: 16 (incl. 1 child)
F: 24 (incl. 3 children)
Total: 40 (incl. 4 children)

Total of 2 masses (excl. 5 persons who participated in multiple masses)
M: 45 (incl. 5 children)
F: 47 (incl. 10 children)
Total: 92 (incl. 15 children)


【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その1

2023年08月06日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その1

2023年7月26日(水曜日)

Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)

アルド・マリア・ヴァッリ

親愛なる友人の皆さん、数日前にカルロ・マリア・ヴィガノ大司教が私と行ったインタビューが大きな反響を呼んでおり、数カ国語訳されています。この対談は、特にベルゴリオが追求した戦略と、その結果として、信仰と正しいカトリックの教理を擁護するために取るべき種類の対応について、多くの重要な考察ポイントを提供しました。インタビューで取り上げたテーマをさらに掘り下げるために、私たちはヴィガノ大司教に再び接触し、2回目の対談を行いました。2部に分けて掲載します。

【問い(アルド・マリア・ヴァッリ)】大司教様、今回の対談は、ベルゴリオが最近の枢機卿の指名で従った論理に関して、私の質問に大司教様がお答えになった発言から再開するのが適切だと思います。大司教様はこう言われました。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】ベルゴリオの論理は完全に明らかです。彼は、離教(schism)の口実を作り出そうと望んでいるのです。言葉では離教を否定して嘆いてはいるものの、しばらく前から離教を準備しているのです。ベルゴリオは何とかして、信者や聖職者の善き部分を公式の教会から分離させたいと思っています。そしてこれを成し遂げるために、その人々が近代主義の最高法院(サンヘドリン)から距離を置くのを確実にするために、ローマ教皇庁の重要な地位に、部署の管理を可能な限り悪いものにするのを保証する人物たちを配置して、教会の体にとって可能な限り最も悪い結果と最も大きな損害をもたらすようにしたのです。

古代の典礼の挙行を漸進的に制限することは、保守派を"狩猟保護区"に閉じ込めて、その後、聖ピオ十世会へ向かわせるのに役立ちます。シノドスが、現在進行中の教理的、道徳的、規律的な変更という悲劇的な結末を迎えるや否や、-- エクレジア・デイ団体の廃止または正常化【新しいミサを受け入れさせること】の後 ---、聖伝の独占者となるであろうもの【聖ピオ十世会】へとカトリック信者らの大脱出が起こるでしょう。しかし、その時、つまり、聖伝のカトリック信者たちが聖ピオ十世会に移行して、同会の指導者たちが、廃止された「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)との競争に勝利したと信じるとき、新たな耐え難い挑発がなされ、聖ピオ十世会の少なくとも一部は、ベルゴリオのローマから距離を置くのを余儀なくさせることでしょう。これにより聖伝主義は「破門」されます。聖伝主義は、公式の教会内では代表することは――過去にはそうだったとしても――もはやなくなるでしょう。このような理由から、私の考えでは、聖伝のカトリック信者を教会の体から追放するという悪意ある作戦をさらに複雑にするために、何らかの抵抗の断片化を維持することが重要です。

女性助祭、教会の独身制の廃止、同性愛カップルの祝福、一夫多妻制の容認、ジェンダー論、LGBTQイデオロギー、テイヤール・ド・シャルダンのような環境保護主義的な汎神論。これらは、ベルゴリオが意図的に拡大している保守派(すでに距離を置いていて、構図から外れている聖伝派ではありません)と超進歩派の対立点です。彼の目的は、対立を作り出して、それを大きくさせ、最も極端な要求の支持者を励まして任命したり昇進させたりし、残っている数少ない良き司教、司祭、修道者らが非難されることへの予想通りの反応を目にすることなのです。良き司教や司祭らは、ベルゴリオの落とし穴に直面して、二者択一を迫られることになるでしょう。つまり、沈黙のうちの苦しみに戻るか、それとも、立ち上がってカトリックの真理に対する裏切りを糾弾し、自分の地位を辞さざるを得なくなり、地下で役務を行使するか、あるいは、少なくとも見かけ上は教会法的には正常ではない立場におかれるか、です。

いったん不都合な牧者たちが追放され、忠実な保守派らが解任されれば、ベルゴリオの位階階級は聖職者と人々を完全に支配することができるようになるでしょう。残った人々の従順は確実なものとなります。するとこのセクトは、カトリックという名前を持っているだけで(おそらくそれさえもなくなるでしょう)、キリストの教会を破壊するためにキリストの権威を濫用する裏切り者で腐敗した位階階級という逆説の中で、小羊の花嫁を完全に日食で覆い隠すでしょう。

【問い】要するに、その論理とは、真のカトリック信者にペトロの舟を放棄させるような状況を作り出そうとするもののように思えます。正しいでしょうか。

【ヴィガノ大司教】いいですか、すでに2019年(こちら)にベルゴリオは、離教を恐れていないと明言しています。そして、彼は「離教者は常に一つの共通点を持っています。彼らは民から、民の信仰から、天主の民の信仰から自分自身を切り離します」と述べる一方で、こう付け加えました。「イデオロギーの道徳性は、皆さんを硬直性へと導き、今日では、教会内に多くの硬直性の学派があります。それらは離教ではありませんが、悪い結果となる疑似離教的なキリスト教的やり方です。皆さんが硬直したキリスト信者、司教、司祭を見るとき、彼らの背後には問題があり、健全な福音はありません」。いつものように、彼は、自らがしようとしていることをするとして、カトリック信者を非難しました。

【問い】ベルゴリオが採用した戦略をさらに浮き彫りにするために、大司教様は、ある米国人コラムニストの小論に言及されました。彼は、すでに2018年に、すぐに裏付けられることになったある行動指針を強調していました。この小論について教えていただけますか。

【ヴィガノ大司教】もちろんです。著者はパトリック・アーチボルドで、彼の小論は2018年に「Actuating Schism(離教を促す)」というタイトルで、「クリエイティブ・マイノリティー・リポート」(Creative Minority Report)に5回にわたって掲載されました(こちらこちらこちらこちらこちら)。この小論の中で著者は、彼の考えによればカトリック教会の中心に故意に離教を引き起こすことを意図したこのアルゼンチン人の悪意ある行動がどんなものだったかを、非常に明晰に概説しています。アーチボルトはこう書いています。

「このプロセスは今後も続くことが予想できる。異端のボールをグラウンドに転がし続けるという、あらかじめ定められた結果を作り出す賭け事のようなシノドス。(…)教会はしばらくの間、事実上の(de facto)離教状態にあったが、もはや教会の教えを保持していない人々が去ることを拒否しているに過ぎない。今や、彼らはここにいるだけでなく、責任ある立場にある。彼らは自分たち自身の別の教会や権力構造を求めたのではなく、長期的な見方を持って、カトリックという名前とその権力構造を欲していたのである。自分たち自身の教会を欲していたのではなく、私たちの教会を欲していたのだ。今や、彼らは権力を持ち、権力を行使している」。

アーチボルトは続けます。

「だから、ずっと私の心に存在している疑問はこうだ。自分の権力と戦うこれらのカトリック信者を、どうやって排除するのだろうか。定義上、唯一の真の教会に粘り強く執着している忠実なカトリック信者を、どうやって排除するのだろうか。真のカトリック信者を真の教会から、どうやって追い出すのだろうか。事実上の(de facto)離教を、どうやって本当の離教に変えるのだろうか」。

ここでアーチボルドは賢明にも、サンタ・マルタ館中央委員会が採用した構想を概説し、いくつかの異なる事例から見て取れる一貫性によってそれを特定しています。その事例とは、無原罪聖母のフランシスコ会、南米のロジェリオ・リビエレス・プラノ司教、米国のマーティン・ホリー司教、フランスの「贖いの御母マリア小修道女会」(Petites Sœurs de Marie Mère du Rédempteur)です。この短いリストに、2018年以降、ベルゴリオの「あわれみ」を味わった多くの司教や修道共同体(特に女子修道者の共同体)の名前を加えることができます。

そのシステムはいつも同じです。ごく短い予告で使徒的訪問が行われ、その結果や発見された重大な問題についての報告はなされず、調査の対象となった人々には説明や弁明の可能性はありません。

「そのメッセージや方法は明確である。彼らが、あなたたちがいなくなることを欲するなら、あなたたちをいなくすることができる。彼らはもはや、正当な手続きや教会法の下での権利といった申し立てや感覚などを一切無視しているのだ。これこそが、どの司教をも神経質にさせることであり、まさに核心なのである」。

この完全に非合法な教会法上の行動と並行して、ベルゴリオの使者は、司教や共同体が追放された人々を迎え入れるのを阻止するために、司教や共同体を威嚇することを躊躇しません。フィデンツィオ・ヴォルピ神父が、無原罪聖母のフランシスコ会に対するテロ行為を実行するために、イタリア司教協議会の会合に不定期に参加し、司教団を脅して保守的な修道士を教区に編入しないように言ったことを、私たちはよく覚えています。

「しかし、規則によって虐待された者の逃げ道を他の司教が提供することができる場合、それらの高位聖職者は脅され、遠く離れた教区で新しい忠実なカトリックのグループを作ることをどの司教もできないように規則が変更されたのだ」。

【問い】「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)は、まさにこの計画を表現したもののように思えますが…。

【ヴィガノ大司教】その通りです。「トラディティオーニス・クストーデス」は、「聖伝の」団体を教会法的に設立する権限が聖座にあると主張し、どの教区の司祭も古代の典礼に従って祭儀を行う許可を得られないことを司教たちに理解させました。「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の取り消しは、これと同じ方向に進むものであり、このことは明らかです。とりわけ、ピエンツァのベネディクト修道女会やマラディのドミニコ修道女会の事例を思い浮かべれば十分でしょう。彼女らは偶然にも、「贖いの御母マリア小修道女会」と何ら変わらない状況に置かれています。「彼女らは、少し保守的すぎるということと、地元の教区長が欲しがる不動産を所有しているという二重の罪を犯したのです」。その不動産とは、オルチャ渓谷を見下ろす丘の上の土地や、アペニン山脈にある16世紀の巨大な修道院です。テキサス州アーリントンのカルメル会でも同じことが起こりました。ここでは、修道女たちの保守主義に対する怒りが、修道院長を中傷するという恥ずべき事態を引き起こし、修道院長は担当管理官の下に置かれ、教会法上の規範に反して解任されました。そこもまた、膨大な不動産と油田がある修道院なのです。

しかし、バチカンは、司教が特定の聖伝の共同体の存続を助けることを妨げるために、司教の権利を制限することを躊躇しない一方で、そのような共同体を抑圧・迫害するために役立つときはいつでも、自分たちの手下の不正や虐待を制裁することによって、法律を超えて他の司教の権利を大幅に拡張します。これに、ベルゴリオが修道会から自治権を剥奪し、自称修道者省【奉献・使徒的生活会省】の超進歩的な、中国式の再教育に沿った、厳格な統制のもとで修道会を連盟に編入した憲章「ヴルトゥム・デイ・クエレーレ」(Vultum Dei Quærere)と教令「コル・オランス」(Cor Orans)を加えることもできるでしょう。

政治局公認のカトリック・メディアは、シノダリティーとは、教会の統治を分散化させて、司教協議会の形態でもっと民に近づけることだ、と言うだろう。明らかに、これほど真実からかけ離れたものはない。その嘘が実証される信じられないような出来事として、シノダリティーに関するシノドス文書のインクが乾かないうちに、教皇は自ら介入し、米国司教協議会が虐待スキャンダルについて何か無駄なことをするという議論について考える前に、同協議会を公に骨抜きにした。ベテランの教会ウォッチャーにとっても、これはかなりの見ものだった」。

アーチボルドはこのパターンを次の言葉で要約しています。

「それは、迷える正統的な司教が聖伝の砦となり、聖伝のカトリシズムの安全地帯となることができないのを確実にすることである。その司教は、新しい修道者のグループが自分の教区に形成されることを許可することができず、聖伝の修道女たちを自分の教区に招き入れることもできず、あまりに伝統的なことをするならば、司教協議会とうまくいっていないという罪で使徒的訪問を受けて終わりを迎えることになる。このすべては、聖伝のカトリック信者の逃げ道をすべて断つためなのである」。

ここで、アーチボルドは孫子の兵法の一節を引用します。「囲師には必ず闕(か)く(包囲した敵には、逃げ道を残しておかなければならない)【師は軍隊のことで、囲師は軍隊を包囲すること】」。

アーチボルトはこうコメントしています。

「敵を包囲するには、他の逃げ道をすべて断たなければならない。敵とは、伝統的で『真実を知ってしまっている』(red-pilling)保守的なカトリック信者であって、自分たちがもっと安全だと感じる一カ所に集める必要があり、その後で一撃を加えるのだ。しかし、一撃だ。それはやって来る。(…)私は、ローマが聖ピオ十世会と交渉を完了することができない場合、彼らは、『スンモールム・ポンティフィクム』と、そのミサを唱える司祭の個々の権利を廃止し、すべての聖伝のカトリック信者を、一つまたは少数の認可されたところ、おそらく聖ペトロ兄弟会や王たるキリスト会、またはいくつかの燃料を補給されたエクレジア・デイ委員会【傘下の団体】に強制的に送り込むつもりだと信じている。(…)彼らは私たちを特別許可(indult)の時代に戻し、私たちをいくつかのグループ(聖ペトロ兄弟会、王たるキリスト会など)やいくつかの免除された特別許可の場所に統合するだろう。『これは反聖伝の動きではありません』と、彼らは主張するだろうし、カトリックの主流メディアに登場するおべっか使いの仲間たちはまくしたてるだろう。『教皇はただの一つの聖伝のミサも廃止していません。これは統治行為に過ぎません』。(…)」

「だから、これで終わりだ。変更に抵抗したり、大声で不平を言ったりする認可団体は、使徒的訪問を受け、教皇に服従することを拒否したとして潰される。抵抗する教区の特別許可共同体は潰される。では、地下に潜って誰かの家でミサが行われると考えるカトリック信者はどうか。駄目だ。個々の司祭には、もはやミサを行う権利はない。それを行えば、教皇の権威に服従することを拒否したことになる。あなたは離教者だ。どの司教であってもそうだ。圧迫されて第二バチカン公会議を受け入れるか、離教者であるかのどちらかなのだ」。

「修道者としてであろうと、全時代のミサにあずかるだけであろうと、真正な聖伝のカトリック生活を送ろうとすれば、それだけであなたは離教者になる、とされえるだろう。聖ピオ十世会に行けば、あなたは離教者にされる。地下ミサに行けば、あなたは離教者とみなされる。ローマの許可を得ずに聖伝の規則の下で信者のグループを結成すれば、離教者とされる。このようにして、彼らは、聖伝のカトリックの生活を送ろうとするあらゆる試みを、不従順の行為に変えるだろう」。

【問い】5年後、アーチボルトの2018年の小論によって提起された警鐘が、十分に根拠のあるものであったことが証明されたことは明らかだと思えます。しかし、多くの聖職者、修道者、信者が当然問うように、この時点で、私たちがどのような道を歩もうとも、私たちが離教者として非難されることになるのであれば、私たちはこの破壊転覆的行為にどのように抵抗すればいいのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】殉教者や証聖者たちの英雄的行為から、何世紀にもわたって同じ選択を迫られてきた聖職者、修道者、平信徒ら多くのカトリック信者の沈黙の信仰心に至るまで、私たちは先人たちの確固とした抵抗に、その答えを見いだすことができます。妥協と背教という広くて快適な道か、狭くて困難なキリストへの忠実という道かのどちらかです。それはしばしば痛みを伴う選択ですが、主が私たちに用意してくださった選択です。「私が地上に平和を持ってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣を持ってきた。つまり、私は息子をその父から、娘をその母から、若い嫁をその姑から別れさすために来た。人は自分の家の者を敵に回すだろう」(マテオ10章34-36節)。

この剣は、聖パウロが天主の言葉である聖霊の剣(エフェゾ6章17節)と同一視しているもので、キリストの忠実な信者を反抗的で腐敗した位階階級から、忠実な修道者を異端の長上から、忠実な司祭を近代主義者の司教から別れさせます。ですから、私たちの敵は自分の家の者、つまり教区司祭、司教、そして誤謬と分裂を広めるためにペトロの玉座を簒奪している者なのです。

「つまずきを起こすこの世にのろいあれ! つまずきは避けがたいけれども、つまずかせる人にのろいあれ」(マテオ18章7節)。これらの言葉は、教理的、道徳的、典礼的なつまずきが深刻であることと、最後の審判の前に悪しき者が一時的に勝利する結果であるつまずきが避けがたいことについて、私たちを戒めています。しかし、これらの言葉はまた、つまずきに抵抗し、それを糾弾し、それが日常生活のあらゆるレベルで広まっているからといって、それが普通のことだと考えないよう、私たちを戒めているのです。

60年間にわたって、私たちは、司牧者たちの権威が、表面上は形式的な合法性を保ちながら、信者に対して、また教会自身に対して利用されるのを見ることに慣れてきたことを忘れてはなりません。「公会議」そのものは、――近代主義者が立役者である唯一の公会議であり、公会議についてのカトリック的なものがない唯一の公会議であるため、彼らが大切にしている唯一の公会議ですが、――教会の体に対する巨大な欺瞞でした。なぜなら、公会議は、エキュメニカル公会議の権威を維持しつつも、異端の教理を詐欺的にほのめかしているからであり、また公会議は、公会議教父とローマ教皇の権威を維持しつつも、まさにカトリックという大伽藍を取り壊すために利用されているからであり、また公会議は、途切れることのない不変の教導権とは対照的に、規範に対する盲目的で隷属的な従順を押し付けたからです。パウロ六世が自分の使徒的権威を利用して意図した聖伝の典礼の廃止は詐欺でした。そして、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)を、同じ自発教令(明らかに同じ教会法上の効力を持っています)で取り消そうとする現在の試みも、それに劣らず悪質です。その目的は、教会の善と信者の救いではなく、両者の破滅なのです。他方、最高法院(サンヘドリン)が私たちの主に対して行った、冒涜したという告発でさえも、天主なる罪なき立法者に対して行われたため、本質的には非合法かつ無効であったにもかかわらず、形式的には申し分のない行為のような外観を持っていたのです。

権威当局は、それ自体の権威性によって従順を得ることもできますし、権威主義によって自らを押し付けることもできます。前者の場合、権力は当局が制定された目的のために行使されます。後者の場合、権威はそれ自体が目的となってしまいます。権威主義は、キリストの唯一の権威と、キリストを代表する地上の権威という代理性を排除するがゆえに、現世の問題においても、宗教の問題においても、天主の秩序を破壊します。要するに、権威主義は、あたかも権威の座にある者(統治者や司教)が、キリストの権威の代理人だからではなく、その者自身に正当性があるかのように振る舞うのです。このため、権威主義は破壊転覆的な権力となり、共通善を追求するキリストのご意志に自らを合わせる義務から解き放たれ、このような理由から、否応なく憎むべき専制政治へと変貌を遂げる運命にあるのです。

(続く)


「イエズス、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。見えるようにしてください。」

2023年08月02日 | お説教・霊的講話

2023年2月19日(主日)大阪での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は2月19日、五旬節の主日です。来たる水曜日は、灰の水曜日です。成人の21歳以上から59歳までの健康な男女の信者は、灰の水曜日とそして聖金曜日のこの日に、大小斎を守らなければなりません。大斎というのは、一日に一回だけ十分な食事をすることです。小斎というのは、一日にいっさい肉を取らないことです。小斎は、14歳以上の健康な信者は死ぬまで生涯守らなければなりません。

復活祭の義務もあります。少なくとも一度復活祭の頃に聖体を受けること、また少なくとも毎年一度告白すること、です。教会の掟と習慣によると、特に四旬節の間に告白の秘跡を受けて、頻繁な告解が勧められてはいます。しかし少なくとも一度、四旬節の頃告白をして、そして復活祭の時にご聖体拝領をすること、特に少なくとも一度すること、が義務付けられています。寛大な四旬節と良い四旬節復活の義務をお捧げいたしましょう。 

今日の福音では、イエズス様が十二人の弟子たちをおそばにお呼びになって、ご自分の受難について予告されました。一緒に黙想いたしましょう。

「見よ、私はエルザレムに登る。人の子について、預言者たちを通して書かれたことは、みな成就するだろう。」
イエズス様が具体的にどのようなご受難を受けるかということを説明しても、しかし弟子たちには、何のことかよく分かりませんでした。そこで主は、彼らの信仰を強めようとして、そして彼らの目を開かせようとして、直後に奇跡を行います。

その時ちょうど、目の見えない乞食がいました。彼はナザレトのイエズスが通るということを聞いて、叫びます。
「イエズス様、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。」すると「なんだ、この乞食は。黙れ。うるさい。」と言うんです。すると、そのような叱責にも関わらず、彼はもっと大きな声で「イエズス様、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください!」
その叫びに、イエズス様はお憐れみを示して、ご自分の近くにお呼びになります。
「何をしてほしいのか。」
「見えるようにしてください。」
「私は言う。見えよ。」
すると彼はその瞬間に見えるようになって、イエズス様に付き従うようになります。

私たちもこの四旬節に入ろうとするこの直前、イエズス様の受難を黙想しなければなりません。受難の神秘に関する旧約の預言が、イエズス・キリストにおいて、あとかたもなくすべて成就した、すべて完成した、ということを、私たちが深く理解することができますように、今日の福音の乞食と一緒に祈りを捧げましょう。
「イエズス様、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。私が見えるようにしてください!」

イエズス様はおっしゃいます。「人の子について、預言者たちを通して書かれたことは、みな成就する」と。
イエズス様は、「人の子」と言います。これはへブライ語では、アダムの子という意味です。アダムとは、人間という意味だからです。
聖パウロはこう言っています。アダムは来るべきお方の前兆であった、と。
もしも私たちが旧約時代のすべての出来事を理解しようとするなら、目が見えることを望むなら――旧約にはいろいろな不思議な出来事があります、いったいなぜか?と思うようなことがあります――それを深く理解することができるとするならば、イエズス・キリストという鍵がなければなりません。なぜかというと、イエズス・キリストが、すべてその旧約に意味を与えるからです。

もっというと、天主はこの全人類の歴史を作るとき、人類だけではなくて、天主と人間とのすべての救いの歴史をつくるときに、最初に考えたのが、イエズス・キリストでした。

ご自分の御子が人間となって、イエズス・キリストとなる。それこそがブループリント、設計図、原型であって、イエズスのもとにすべてを一つにまとめようと計画されました。アダムから始まって全人類の最後の人間まで、イエズス・キリストにどのようにかかわるかによって、すべてが決まります。私たちの人生の意味が、決まります。

ですから、私たちは本当にこういわなければなりません。「初めに御言葉があった。万物は彼によって、御言葉によって創られた。造られたもののうちに一つとして、彼によらずに造られたものはない。」

旧約のすべての歴史は、イエズス・キリストという実体を照らし出す影にすぎませんでした。イエズス・キリストこそが本物であって、原型であって、その旧約の時代のすべての人たちはその写しでした。イメージでした。

今日は――もちろん旧約の時代のすべての太祖について、預言者について、そのイエズス・キリストの話について語りだしたら、おそらく永遠が必要かもしれません、ですから――今日は、旧約の太祖ヨゼフについてお話することを提案します。

ヨゼフ――なぜかというと今日は2月の19日です。19日ですから聖ヨゼフの日でもあるからです――太祖ヨゼフについて語るのがよいのではないかと思います。

ヨゼフについて創世記を読むと、こういわれています。自分の父親イスラエルから、非常に愛された、特別に愛された子どもであった。だから特別の服を着せられて、そして兄弟たちからの嫉妬・妬みを買った。しかしエジプトで、高い位について、飢饉から人々を救い、パンを与えて、救い主と呼ばれた。飢餓に苦しむ人々に寛大にパンを与えたから。多くの民を、民族を救った。救い主と呼ばれた。まさにヨゼフは、イエズス・キリストの淡いイメージではないでしょうか。

ヨゼフの生涯を見ると、三つの服があります。お父さんのもとに居たときには、きれいな色とりどりの良い服を着せられて、そして幸せでした。

しかし兄弟たちから裏切られて、そしてエジプトに奴隷として売り飛ばされます。兄弟たちによって井戸に投げさせられて、井戸の中には幸いに水がなかったので、その中で気を失っていると、通りかかった商人に助けられ、エジプトに奴隷として売り飛ばされます。その時、ヨゼフは奴隷の服を着ます。

のちに、ファラオのもとで働くことになり、ファラオから、エジプトの飢饉を救ったので特別の絹の服を着せられるようになります。

ちょうどこれらは、天主イエズス・キリストが天主御父のふところに居た時に、栄光に満ちて美しい幸せでおられたことを意味し、天から人間の本性をとって、あたかも奴隷の姿を取って、十字架の死に至るまで従順になられたことを示唆し、最後には復活されて、栄光の肉体を取っておられるということの淡いイメージではないでしょうか。

人の子、アダムの子、イエズス・キリストは、アダムのしたことによってもあらわされています。特にイエズス・キリストの御受難は、アダムの眠りによってあらわされます。眠ったアダムのわき腹からエワが作られたように、ちょうどイエズスも十字架の上で死の眠りについている間、わき腹から血(御聖体)と水(洗礼)が流れ出て、花嫁である教会が作られるからです。

ヨゼフも眠って夢を見たと創世記には書かれているのではないでしょうか。

ヨゼフは、子どものころ、夢を二回見ます。お父さんのもとできれいな服を着ている時の夢です。その夢によると、自分は太陽と月と星から礼拝を受けたとか、麦の穂から尊敬を受けた、という夢です。この夢の解釈でヨゼフは家族からの怒りを買います。

これはイエズス様がご受難を通して、死の眠りを通して、全人類の救い主として、崇敬を尊敬を礼拝を受けるべきものとなる、ということを意味することではないでしょうか。

ヨゼフは、牢獄に投獄されたときに、やはり牢獄にいた二人の夢を解釈します。この二人の人は、ひとりひとり別の夢を見ました。一人はファラオの王のパンの管理者の夢で、もう一人はぶどう酒の管理者の夢でした。パンの管理者は、鳥に王さまのパンを取られるのをそのまま許した、これは仕事を怠けたという意味で、断罪され死刑になるだろう。しかしぶどう酒の責任者は、ファラオに忠実だったということが示されて、牢獄から解放されてよい地位につくだろう……という夢の解釈をします。

イエズス・キリストは私たちの地上という悪夢が終わったのちに、御聖体に忠実であったかどうかによって私たちを審判して、解釈して、そして私たちを地獄に、あるいは天国に、審判するべきお方ではないでしょうか。

ヨゼフは、ファラオの夢をも、解釈します。ファラオは同じような夢を二回見ます。これは太祖ヨゼフによると、このような時には、天主はもはやこれを変えることができない、決定されている、このことは必ず起きるという夢だ、といいます。それは七年間の豊作の後に、七年間の飢餓が来るだろうということでした。ヨゼフはそのことをファラオに忠告します。ヨゼフだけがその夢を解釈することができて、エジプトを救います。また周りの国々をも救います、なぜかというと、パンを準備していたからです。

これはイエズス・キリストだけが御聖体をもって、ついには悪に勝利するという、これは決定的であって誰にも変えることはできないということを意味するのではないでしょうか。

今日、太祖ヨゼフの話を黙想しましたが、そればかりではありません。その他多くの旧約時代の出来事が、すべてイエズス・キリストの御受難とそして復活、そして私たちの贖いのわざについて、予告しています。私たちの人生も、まさにイエズス・キリストとどれほど一致しているか、イエズス・キリストの似姿にどれほど寄り添っているか、イエズス・キリストの様になっているかによって、私たちの人生も判断されます。

四旬節は私たちがイエズス様の御受難を黙想すると同時に、ますますイエズス様のようになるときでもあります。ぜひそのお恵みを求めましょう。マリア様の御取次によって、四旬節の神秘を、イエズス・キリストの神秘を、深く観ることができるようにお祈りいたしましょう。

「イエズス、ダヴィドの子、イエズス様、私を憐れんでください。見えるようにしてください。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2023年8月2日は、八月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年08月02日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年8月2日は初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


[告白]はどのようにすればよいか?大罪をもっている人はその罪を司祭に告白する以外に救霊の手段がありません

2023年08月01日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月30日は聖霊降臨後第九主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第九主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報 Paix Liturgique】フランスの聖伝のドミニコ会修道女【元エクレジア・デイ委員会の傘下の女子修道会】がノブス・オルドの受け入れを強要され、共同体は人員を喪失

2023年08月01日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】フランスの聖伝のドミニコ会修道女【元エクレジア・デイ委員会の傘下の女子修道会】がノブス・オルドの受け入れを強要され、共同体は人員を喪失

French traditional Dominican nuns being forced to embrace Novus Ordo; community suffering losses

団体「Paix Liturgique」(典礼の平和)は、この聖伝のドミニコ会修道女の共同体に関するフランスでのドラマを追ってきました。彼女らは、ノブス・オルドの受け入れを強要されており、共同体が不安定になった結果、挫折し、苦しんでいるように見えます。ジョン・ペピーノ博士による「書簡946」(出典)の翻訳です。―PAK (Peter Andrew Kwasniewski)

今度は確かです。新しいミサ――もちろん「ふさわしく挙行される」新しいミサです!――が、こっそりと、しかし確実に、聖霊ドミニコ修道女会【以前のエクレジア・デイ委員会の傘下にあった女子修道会】のすべての修道院に、すなわちポンカレック(Pontcallec)の本部修道院(ヴァンヌ教区)、ナントのデュ・フォール学校付き修道院、エピナル教区のラ・バフェの修道院、ナンテール教区のサン・クルー修道院に入ってきています。

実際、彼女らは、今後、進んでノブス・オルドを挙行する司祭に依頼するよう求められており、それには二つの結果を伴います。第一に、聖ペトロ兄弟会、王たるキリスト会など【以前のエクレジア・デイ委員会の傘下にあった司祭修道会】に所属する司祭を徐々に遠ざけて、教区司祭のみにすることであり、それは、小教区が学校の担当司祭職を引き継いでいるサン=クルーの修道院ではすでにそうであるのと同じです。第二に、修道会のさまざまな修道院にノブス・オルドを導入することであり、これは当初は例外的なことだとされていましたが、次第に頻繁に行われるようになると考えられています。

修道会内では、新しい召命がほとんどないという、すでにひどい状態でしたが、今ではまさに流出(haemorrhage)が起こっています。修練者であれ修道者であれ、過去10年間で修道会を去ったり修道院外に居住(exclaustration)したりしたシスターが(かろうじて100人の共同体のうち)20人ほどに達しており、最近、さらに修道院外に居住した4人のシスターが加わりました。言い換えれば、シスターのほぼ5分の1が修道会を去り、さらなるシスターがそうしようとしているのです。その他の理由では、最近やって来たシスターのうちの一人が、有期誓願を解かれるように申し出ています。

「従順の誓願は完全に乗っ取られた」

聖伝のミサを固有のアイデンティティーの一つとする修道会では、近年の激動――その中には、ローマから詳しい説明もなく修道会を解任されたマザー・マリー・フェレオールの処遇があります――がシスターたちに影響を与えています。圧力鍋は沸騰状態にあり、蒸気の行き場はありません。

「従順の誓願は完全に乗っ取られています」と、シスターの一人の親しい友人がそう打ち明けます。「従順という口実の下で、彼女らはこの典礼の変遷を受け入れ、自分たちの立ち位置が分からなくなっているのです」。

モンマルトルの聖心のベネディクト会では、精神的な虐待や支配が話題になっています。ポンカレックでも同じように思えます。20人ほどのシスターが修道会を去るか、不在か、修道院外に居住しており、生徒たちは影響を受け、修道会内にいる「伝統的すぎる」シスターは【外部との接触を】制限され、生徒や卒業生との接触はでき得る限り少なくなっています。シスターたちには箝口令が敷かれているため、全会一致という主張は幻想だ、と生徒や卒業生は言っています。

マザー・マリー・フェレオールの解任を正当化するために、サン・ワンドリル修道院長で使徒的視察官であるドン・ジャン=シャルル・ノー神父は、「疑惑や恐怖という雰囲気の根底にあるのは、まやかしと嘘」と語りましたが、この非難は、まさに修道会の現指導部とローマの彼らの支持者たちに対しても同様に向けられ得るものです。

さらに、修道院外に居住を求めるシスターに押し付けられた条件は、あらゆる正義に反しています。シスターの数は、どの教区でも一人を超えず――イル・ド・フランス(パリとその周辺!)全体では一人だけ――、修道会の修院がある教区では、修道院外に居住する(exclaustration)シスターはあってはならないことになっています。このような状況は民法にも教会法にも反しており、現指導部の傲慢さを明らかにしています。また、一部のシスターが【今までの修道院を離れて別の共同体を作り】学校を再建したり、女子修道会を再設立したりするのではないかという見え透いた懸念も明らかにしています。

女子サン・マルタン共同体という「第三の道」を創設する夢

この混乱は、生徒とシスター両方の数に表れています。サン・クルーでは、もはや入学順番待ちリストはなく、実際、空き枠が増え始めています。確かに、新型コロナウイルス感染症の影響もありましたし、社会の状況の変化もありました。選択できる学校が増え、多くの家庭が郊外からさらに郊外に移り住む一方、インフレで学費が払えなくなった家庭もあります。

エピナル近郊のラ・バフェでは、新学期が始まると、4人のシスターが去っていくのに対して、2人のシスターが入ることになり、もう一人は単に入るのを取りやめています。司祭の交代をしようとするなら必ず保護者からの争いが生じた伝統的な担当司祭のいる二つの学校――ラ・バフェとナントのデュ・フォール校――は閉鎖されるか、ドラギニャン【の学校】のように、保護者に引き継がれる可能性があるとささやかれています。

聖霊ドミニコ修道女会【ポンカレック】は致命傷を負ったように思えます。「ローマは気にしていません。その反対です」と人は言うでしょう。その結果、修道会は活動拠点を半分に減らし、ポンカレックとサン・クルーに引き込もることになりました。もう召命はないのですから、修道会の将来は不透明です。修道会は以前とは違うものに変貌しつつあるように思えます。

トゥールーズ出身のドミニコ会士の神学者アンリ・ドノー神父は、「真福共同体」(the Community of the Beatitudes)の教皇庁担当委員長(2010-15年)を務めましたが、ポンカレック修道女会に徐々に新しいミサを押し付け、伝統的な修道女をすべて修道会から追い出して、「女子版のサン・マルタン共同体」にすることで、ポンカレック修道女会を「正常化」させたいと考えています。しかし、それには召命が必要です…。サン・マルタン共同体は、創立者であるモンシニョール・ゲランが当初から意図していたように、「第三の道」(完全な聖伝の修道会とノブス・オルドの中間)です。しかし、聖伝から「第三の道」へと進んだそれらの共同体(例えば、ラ・コテリーのマリアの小さき兄弟会)は、あまりうまくいっていません。

さらに、「公認の」聖伝の世界における、女学生のための私学教育【l’enseignement hors contrat 国家と契約を結ばず国からの補助金を受けずに行う私立学校教育】のポンカレックの事実上の(de facto)独占は崩れ去りました【ポンカレックの女子修道会は以前はエクレジア・デイ委員会の下にあった】。さらには、完全に聖伝的な(聖ピオ十世会と提携している)ドミニコ修道女会の「競争相手」は極めて優位な健在ぶりを示しています。

ブルターニュのこの世界に詳しいある人物はこう言います。「非常に多くの構造(団体)があり、誰もが関与しています。また多くの独立した(共同体)があります。ドミニコ修道女会について言えば、ファンジョー(Fanjeaux)やブリニョール(Brignoles)のシスターの数のほうがもっと多く、ダイナミックな召命の流れもあります【ファンジョーに本部を持つ女子聖ドミニコ修道会も、ファンジョーに本部を持つ女子聖ドミニコ修道会も、ともに聖ピオ十世会と提携している】。ブルターニュでも、ポンカレックは今や数ある学校の中の一つに過ぎず、ケルナバ(Kernabat:ギャンガン近郊)【ファンジョーの聖ドミニコ修道会による経営】やデュ・ラフレー(ナント近郊)【ブリニョールの聖ドミニコ修道会による経営】は、聖伝のシスターたちや、伝統的な娘たちが湧き出る泉となっています。彼女らの数は、ほかのどこよりもブルターニュで増えつつあります」。

ポンカレック、ベルゴリオの教皇職のもう一つの「成功談」。湿地の塩

修道院外の居住(exclaustration)が認められるためには、シスターたちは、上記のような、懲罰的、独裁的、恣意的な条件に従わなければなりませんでした。しかも、修道者という身分から完全に追い出され得ることを覚悟の上でのことでした。

とはいえ、ウエレット枢機卿(彼は奉献・使徒的生活会省の管理者として自分で自分を任命しました)がいなくなれば、最終的に何が起こるかは誰にも分かりません。現在の修母総長、そして、全権を持っていたダルヴュー修道女(彼女を通じて、いわばあのキツネのウエレットが鶏小屋に入りました)が、同じ力を振るうことができるかは分かりません。

ローマの介入は、その恣意性が目立っており、その頂点は使徒的視察官ドン・ジャン=シャルル・ノー神父の予備報告書に基づいて、2021年4月22日付の教令による、マザー・マリー・フェレオールの修道者としての身分からの追放です。

教皇フランシスコは、ポンカレックの一件を常ならぬ関心をもって追っています。この一件は、カトリック世界の規模から見れば、砂粒のようなもので、一つの国の五つの学校に過ぎません。ところがウエレット枢機卿は、2021年6月、ラ・クロワ紙に、「教皇は個人的にこの事件の全過程を追ってきた」と述べました。

しかし、天主が悪を許されるのは、その悪からより大いなる善がもたらされるからです。その善とは、奉献された女性たちによる若い女子の教育のための、真にカトリック的な組織が、ささやかではあるものの独立した形で再生することかもしれません。いわば、新しい「門外の」(Outside the Walls)ポンカレックです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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