Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年記念の「汚れなき聖母の騎士会の歌」

2017年08月04日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年を記念して、「汚れなき聖母の騎士会の歌」を作ってみました。
み母マリア みもこころも」のメロディーで歌って下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「汚れなき聖母の騎士会の歌」


汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。


上の歌詞は次の祈りからインスピレーションを受けました

 「ああ、インマクラータ(汚れなき聖母)よ、天と地の元后、罪人の拠り所、我らの愛深き母よ、天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望まれ給えり。不肖なる罪人、我(名前)は、御身の足もとにひれ伏し、御身にひれ伏してこいねがい奉る。
我がすべてを全く、御身のもの、御身の所有物として受け取り給え。
 また、我について、霊と肉体のすべての能力について、我が全生涯、死、永遠について、御身がよりお望みになることを全て成し給え。
 もしも御心にかなうならば、我が全てを完全に使い給え。そは、御身について言われた「かの女は、おまえの頭を踏みくだく」また「御身は、ひとりで全世界の異端をことごとく滅ぼされた」が実現されるべき御業のためなり。
 我が、 御身のインマクラータの憐れみ深い御手のうちに、ふさわしい道具としてあらしめたまえ。そは、道を迷い、無関心の、かくも多くの霊魂たちに、御身を知る喜 びを引き起こさせ、御身の栄光をこれ以上ないほど最高にいや増し、かくてイエズスの至聖なる聖心のいとも甘美なる御国が、最高度に拡張するためなり。
 御身が入り給うところはどこであれ、そこで御身は回心と成聖の聖寵を祈り求め給うなり。そは、御身のみ手を通してイエズスの至聖なる聖心から、全ての聖寵は、我らにたどり着くが故なり。」



聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼の準備のためのノベナの祈り

2017年08月04日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼の準備のためのノベナの祈りを提案します(8月11日から19日まで)。



Preparatory Prayer for the Fatima Pilgrimage 2017

O Immaculate Virgin Mary, Queen of the Most Holy Rosary, Woman clothed with the sun, thou who didst visit Fatima one hundred years ago to make known to all men thy maternal and Immaculate Heart, receive our act of total consecration to thee. Welcome us into the safe refuge of thy Immaculate Heart as into the ark of salvation prepared by the Holy Ghost for us and for all the children of the Catholic Church in East and West.

Let each one of us find in thy Immaculate Heart this year a sanctuary of ceaseless prayer, a tabernacle of intimacy with the Most Holy Trinity, a hospital for the healing of every infirmity, a harbour of peace in the midst of the confusion that threatens even the bravest and most faithful souls. Inspire us to take up the rosary that thou so lovest, and to make it during this year the ceaseless prayer of our hearts and the expression of our desire to live and to die consecrated to thy Immaculate Heart.

Turn our hearts to the Lamb who, once immolated upon the altar of the Cross, offers Himself still for our sakes from the altars of the Church and from the tabernacles where He abides hidden, silent, and so often forsaken.

Let this year be for us a great and powerful manifestation of thy compassion for poor sinners and the beginning of the triumph of thy Immaculate Heart in the Church from the rising of the sun to its setting, and indeed in the whole world. Overcoming every resistance, be it of demons or of men, reveal to all souls the flame of love that burns in thy maternal Heart and the glory of the Father that shines on the face of His Christ, Jesus, the blessed fruit of thy womb.

O clement! O loving! O sweet Virgin Mary! Amen.

日本語訳は、後ほどご紹介いたします!

聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼の詳しい日程が発表されました

2017年08月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼の詳しい日程が発表されました。

19 & 20 August, 2017 - 聖ピオ十世会の国際巡礼 International Pilgrimage of the SSPX

2017年8月19日(土曜日)
15:00 – 17:00 荘厳ミサ:Messe solennelle
集合場所 : 至聖所 – « Parking 14 »
ミサ:ロザリオの聖母のミサ(10月7日)
司式司祭:シュミットバーガー神父様
ミサの直後、行列で「オス・ヴァリニョス」まで行く。

17:00 – 19:00 : 行列で「オス・ヴァリニョス」に行き、ロザリオを唱える。
集合場所 : 至聖所 – « Os Valinhos »

20:30 : 御聖体顕示による徹夜礼拝
集合場所 : 至聖所 – « Parking 14 »

8月20日(主日)

6:30 : 聖体降福式 - 御聖体顕示による徹夜礼拝の終了
集合場所 : 至聖所 – « Parking 14 »

9:30 : 司教荘厳ミサ
集合場所 : 至聖所 – « Parking 14 »
ミサ:聖母の汚れなき御心のミサ(8月22日)
司式司教:ベルナール・フェレー司教様

15:00 : ロザリオと巡礼の終了
集合場所 : 至聖所 – « Os Valinhos »

巡礼終了のロザリオの後に、その場で無原罪の聖母の騎士会の聖母の汚れなき御心への奉献が執行される(騎士会創立100周年を記念して)。


8月15日のファチマ100周年の聖母行列にご参加下さい!日本と世界の本当の平和を祈願して

2017年08月02日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 東京ではカトリック築地教会から日比谷公園まで、ファチマの聖母といっしょにマーチフォーライフがありました。



 本当は参加したかったけれども、距離の関係で、或いは時間の関係で、どうしてもマーチはできなかった方々がたくさんおられたと思います。きっと「私も機会があれば参加出来たらなぁ!」と思われている方々も多いと思います。

 そこで、8月15日、大阪での聖母被昇天の歌ミサの後、私たちもファチマの聖母行列をいたします。日本の平和を祈って、日本から堕胎による赤ちゃんへの戦争の終結のため、ファチマのマリア様と一緒に歩きたいと思います。

 この聖母行列は、ファチマのマリア様と一緒に歩く「いのちのための行進」、日本と世界の本当の平和を祈願して行いたいと思います。

 ファチマのマリア様は平和を与えて下さるロザリオの聖母です。「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(聖母)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」(1917年7月13日ファチマの聖母)

 ファチマ100周年を記念して、8月11日から15日まで、聖母の小黙想会を開きますが、その最後の聖母行列です。

 8月15日のファチマ100周年の聖母行列にご参加下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


内容 :ファチマ100周年の聖母行列
日時 :2017年8月15日聖母被昇天の大祝日(日本の終戦記念日)午後1時から3時頃まで
開始地:聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪市淀川区東三国4丁目10-2EG新御堂)
終了地:北中島公園(現地解散)


初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します

2017年08月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、8月2日は、聖アルフォンソ・デ・リグオリの祝日であり、初水曜日(月の初めての水曜日)です。

毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

秋田巡礼-霊的講話【7】-2017年5月4日シュテーリン神父様「初土の信心の本質-償いの精神とは」

2017年08月01日 | お説教・霊的講話
2017年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話7
同時通訳:小野田圭志神父



マリア様がポンテベドラで教えて下さった初土の信心について、前述した通り説明させて下さい。

この初土の信心は、1つ1つが御出現に関わってきています。頻繁に出てくる単語、キーワードが、「慰める」という事です。私たちが天主様を愛する事ができる、愛するという事の最大の行為は、「マリア様の汚れなき御心を通して、天主を慰める」という事です。

この「慰める」という事は、「イエズス様に同情する」、或いは「イエズス様と共に苦しむ」という言葉と繋がっています。

そのラテン語で「同情」という言葉は「compassion」と言います。「com」というのは「共に」という事で、「passion」というのは「受難」「苦しむ」という意味なので、「同情」という意味の「compassion」という言葉は、「共に苦しむ」という意味があるのです。

マリア様はイエズス様の御受難を見て、共に苦しまれました。そこで私たちもマリア様と共にいる事によって、マリア様の苦しみと共に苦しむ、これが私たちの言っている「compassion」です。時々、「同情」と、「同じ情を起こす」と訳しましたけれども、「共に苦しむ」という事です。

私たちは一体どうやって、何を私たちがマリア様の為にする事ができるでしょうか?イエズス様の為に一体何をする事ができるでしょうか?

しかし愛の心で、マリア様の苦しみを黙想する、マリア様と共に留まるという事によって、たとえその苦しみに対して物理的に何かをする事ができなくとも、マリア様に対して犯される罪を償う事ができます。

罪というのは、大体が傲慢によって犯されます。従って、謙遜な愛の行いは、この罪を償う為に非常に有効なのです。

マリア様が私たちに望んでいるのはここです。償いの精神をもって、マリア様は罪によって傷付いているこの秩序、この天主様をそれを償う事を求めています。誰かが美しいお城を御殿を破壊してしまった、粉々にしてしまった、汚くしてしまったら、マリア様は私たちに一緒にこれを修復する事を望んでいます。この償いの精神をもって私たちは、マリア様が要求する他の事をしなければなりません。

マリア様の汚れなき御心に対する信心の本質的な部分は、「償いの聖体拝領」です。

御聖体拝領というのは、イエズス様の御体と御血を拝領する事です。マリア様と一体何の関係があるのでしょうか?一体何で、御聖体拝領がマリア様の汚れなき御心と関係がある信心になるのでしょうか?

それは、私たちがよく聖体降福式の時に歌う『Ave verum corpus』、「マリア様から生まれた真の体よ、挨拶します」というラテン語の言葉に答えが書かれています。つまり、イエズス様の御体はマリア様から生まれた真の御体だからです。私たちが御聖体拝領をする時に受けるイエズス様の御体というのは、マリア様の御胎内によって形造られた御体です。マリア様がいらっしゃらなければイエズス様の御体は無いのですから、御聖体も有り得ません。

全能の天主様が私たちの元にやって来たいと望まれた、しかも私たちの食べ物となって、小さいホスチアとなってやって来られる、この事は想像できますか?そのような愛の行為である御聖体のイエズス様に対して、私たちはどうやって応えているでしょうか?

多くの場合、無関心。多くの場合、冷たい冷淡な心で御聖体拝領をしています。天主様が、そのありとあらゆる全能の愛をもって、私の救いの為にこれほどまでの奇跡を起こして、御自分がこれほど小さくなって、私たちに自分を全て与えようとしているその愛の一方、私は本当に怠けて怠惰で無関心で、その愛の事に全く無頓着で御聖体拝領をしている、そのコントラストを見て下さい。

マリア様が、その汚れなき御心の信心の中心に御聖体拝領を要求するということは、マリア様が、ご自分と共に、ご自分の心を以て、私たちが御聖体を拝領する、愛を以て聖体拝領をする、という事をお望みなるという事です。

時が来ました。私たちの御聖体拝領は今まであまりにもダラダラしていて、あまりにもケチくさくて、あまりにも雑念でいっぱいで、あまりにも無気力で、心の込もっていない聖体拝領でしたけれども、もうそれをやめて、私たちの今そのような心を捨て去って、別の心を入れ替える聖体拝領をする時が来ました。入れ替えるべき心は、私たちの心の代わりにマリア様の汚れなき御心を入れるのです。御聖体拝領の前にどうぞマリア様を招いて下さい。そして「私の心の代わりに、マリア様の心と交換して下さい」と頼んで下さい。そして「私の愛の代わりに、マリア様の愛でイエズス様を愛して下さい」とお願いして下さい。そうすると、私たちの聖体拝領が変わります。

この聖体拝領を「償いの精神をもって」するように求めています。一体何の意味があるでしょうか?

もしも皆さんがどなたかを愛しているとします、心から愛している。でもこの愛している人を、ある時に何故か侮辱して、屈辱を与えるとします。そしてその侮辱した後に、「あっ」正気に戻って、「あぁ、自分は一体何て事をしてしまったのだろうか!何て事を言ってしまったんだ。全く理由もなく私はこの愛するべき人を殴ってしまった。その為にもうその人は涙を流して泣いている、悲しいと思っている。私は一体何をしてしまったんだ。一体、私の人生で最も愛すべき人をこうやって侮辱してしまって、一体何が起こったのだろうか。」

一体、どうしたら良いでしょうか?私が今侮辱して屈辱を与えた人は、その為に泣いて、涙を流してるのですけれども、あたかも何もなかったかのように「こんにちは!どう?」などと言う事はもうできません。今もう悲しんで傷付いているからです。何とかしてそれを、そのしてしまった間違いを償わなければなりません。そこで何とかその人の所に行って、「あぁ、すみませんでした、一体何でそんな事をしてしまったのかもう分かりません」と言って何か、その過失を償う為に何かをします。

私はそんな子供でした。何故かというと、子供の頃は母にとって、とても悪い事ばかりしていたからです。母をとても好きだったのです。母はレストランを経営していたので、とても素晴らしいおいしいケーキを作っていました。ケーキを作る為にはこのスポンジの生地を作ります。そして私は子供の頃ケーキがとても好きだったので、母が作ったケーキをその準備したケーキを隠してあったのですけれども、その隠してあるのを取って、それを盗み食いしてしまいました。そしてその指でかじって食べたので、これはネズミが食べた跡のようで私が、子供の私が食べた跡だったのです。

そして母は私が食べるその現場を捕らえ、そして私に罰を与えました。そして母に叱られて、母は「そんな事をしてはいけない。何故ならば、これは天主様を傷付ける事であるし、せっかく私がやった事ももう台無しになってしまう。もうこんな事をしたらいけない」と。ですから「お母さん、絶対これからはしません」と約束しました。

でも母がまたおいしいケーキを作ると、その誘惑に勝つ事ができませんでした。また母がそれを私を見つけて叱りつけた時には、母はとても悲しい面持ちでした。何故かというと、その盗み食いをしたからというよりは、せっかく約束したにもかかわらず、それを破って、またこれを同じ事をしたからです。その時初めて私は、自分の為に母が涙を流して泣くのを見ました。

一体何をしたら良いのか、母を泣かせたくないと思いました。そこでどうしたらそれを償う事ができるかという事を考えました。「すみません、もうごめんなさい」と言ったのですけれども、まだ母は涙を流しています。そして私は自分の部屋をきれいにお掃除しました。私は未だかつてこんな事をした事がありませんでした。母を微笑まそうと思って、部屋のお掃除をやりました。母に、「すみません、ごめんなさい、でもあの、お部屋のお掃除をしました、初めて掃除をしました」と言いました。でも母は涙を流し続けました。部屋を掃除したからといって、母の涙が止まったわけではないので、一体どうしたら良いか困ってしまいました。母は今でもそうですけれども、たくさんのお花を周りに植えてお花畑を持っていました。お花が大好きなのです。そしてその花を取って摘んで、花束を作りました。たくさんの花を摘んで大きな花束を作ったので、私の顔が見えないほどの大きな花束でした。そして私は、「どうぞこの花束を取って受け止めて下さい。でももう泣かないで下さい、笑って下さい」とお願いしました。その時に母は、もう一度微笑みを戻しました。それを見てホッとしました。

てもイエズス様やマリア様に対しては、私たちはいつも罪を犯して悲しませてばかりいます。イエズス様の事を私たちはよくコロッと忘れてしまって、そしてイエズス様の御旨の事を全く無視して自分の思い通りにしたり、或いはイエズス様の事を全く考えないで生活をしていて、コロッと思い出したように、「あぁこんにちは!イエズス様!」と言う事はもうできません。

ここで、償いの精神による御聖体拝領の意味が皆さんお分かりでしょうか。イエズス様にまた罪を犯して、イエズス様を傷付けてしまったという事を非常に痛悔して、来るイエズス様に元に近付くという事です。マリア様の涙を乾かす、マリア様の御心に刺し貫かされている茨を抜き取る為に何かをする、この罪を犯されたこのダメージを何とかして償う、というそれが償いの御聖体拝領です。

償いの為の聖体拝領というのは、私たちが罪人であるにもかかわらず、真面目に痛悔して「イエズス様にその罪の償いをしたい」と思って、御聖体拝領する事です。

告解も同じです。「償いの精神で」告解をするという事です。告解はその初土曜日にその日に必ずしもする必要は義務はありません。ただ1ヶ月に1回、罪の償いの為にその精神で告解をすればよい言いわれました。しかし罪を償う意向をもって告解しなければなりません。何故かというと、罪の償いの精神というのは、私たちの告解において最も完璧な悔悛の精神を与えるからです。

罪は私たちをして、イエズス様とマリア様に裏切りをさせました。皆さんは過去数週間、長い茨をマリア様の御心にズブリズブリと罪を犯す事によって、痛い茨を刺し貫いてしまったのです。

「お母さん、一体何で私はそんな事をする事ができたのでしょうか、そんなにたくさんの茨を。この茨をぜひ取り抜きたい。この私の傲慢によって私は、イエズス様の冠に茨を、多くの多くの茨を刺し貫いてしまいました。私は私の不潔によって、イエズス様の御体を痛めつけてしまったので、その傷口に何とか香油を塗って、その傷に油を塗って差し上げたい。」

「ごめんなさい、すみません、すみません、すみません」と言うのは簡単ですけれども、それを償う精神がなければなりません。私はマリア様の汚れなき御心を泥の中に投げやってしまって、その上を歩いてしまって、これを踏み潰してしまった。私たちはこのマリア様に対してその償いの精神が大きければ大きいほど、マリア様に対して慰めをする事ができます。

償いの精神の告解は更に効果があります。告解に行く時に考えて下さい。私が付けた茨が、マリア様の御心に貫かされていると同時に、他の人々の多くの茨もマリア様の傷を貫いています。

一体罪を犯すとどんな事が起こるでしょうか?罪を犯すという事は、敵の陣地に行って、「十字架に付けろ!」と言う事です。そしてイエズス様のお母様の顔をピシャリと殴るという事です。つまり私たちがたとえ一人で罪を犯したとしても、敵の陣地に行って、イエズス様を「十字架に付けろ!」と言う事と同じですので、罪人たちの連帯が生じます。ですから罪、私の罪の茨がマリア様に1つ貫かれるのではなく、数え切れないほどの多くの茨が、マリア様の汚れなき御心をたくさん刺し貫かれているという事を考えて下さい。私たちはこの罪の1つ1つが、多くの罪がマリア様を傷付けているという事を理解できます。

もしもその他の多くの人々の茨が被さっているという事を考えると、私たちはこのような事を言う事はできません、「あぁマリア様、この罪は私の罪で、本当にこれはごめんなさい。でも他の人からたくさん茨を受けて苦しんでいるのは、私は関係ありません、私のではないから」と言う事ができるでしょうか。

マリア様は多くの罪によって苦しんでいます。ですからそれを考えると、「あぁマリア様、私の犯した罪をこの茨をどうぞお赦し下さい。でも他の人々がやった罪もどうぞ赦してください、マリア様の汚れなき御心が、誰からによっても傷付けられるのを私は望まないからです」と思うようになります。

「御身がこれほどの愛で愛して下さった子供である私が、不肖の私が御身をこうやって傷付ける事を本当に悲しく思います。そして御身に対して、或いは天主に対して罪を犯すが為に、多くの人々が御身の御心に茨を刺している、それを見て本当に私は悲しく思います。そこで私のやった罪の償いのみならず、他の人々がマリア様に与える悲しみや苦しみをも償いたいと思います。」

これほど完璧な悔悛はありません。私たちの悔悛は完璧であれば完璧であるほど、多くの赦しも完璧となります。

この次には15分の黙想があります。なぜ重要かというと、もしも私たちが口で祈っている祈りの意味をよく考えないとしたならば、私たちの祈りは必然的に表面的だけになってしまって、機械的になってしまって、雑念だけになってしまうからです。

小さな子供は暗記した、丸暗記した事をただ繰り返すだけです。何を言っているか考えずに、ただ舌を動かして言う事があります。でもこのような子供の言った繰り返しは、本当の意味での愛の表現ではありません。私たちが祈りをする時に、口先だけでは主を崇めているけれども、心はほど遠いという時があります。私たちが祈り口に出している事を、その意味を深く考える事が黙想です。

私たちはそのイエズス様にベラベラベラベラベラという口先だけではなくて、一体誰に対してそう申し上げているのか、そのイエズス様のその人柄、そのイエズス様が一体どなたなのか、というその事を考えなければなりません。

残念ながらこの黙想という事を、熱心なカトリック信者も現代ではしなくなってしまいました。この熱心なカトリックといわれる人は、口の祈りはたくさん増えますけれども、しかしその内容は考えていません。

マリア様はそこで私の所にやって来ます、「あぁ、子よ、お前は天主様と個人的なパーソナルな関係を持たなければならない。だからそれが黙想だ。」もしも黙想をするのならば、機械的な祈りから脱出する事ができます。

マリア様は、「15分」の黙想と言います。何故でしょうか?

何故かというと、皆さんの生活でよくなさっている事は大体15分かかります。たとえばミサの御説教は、「15分以上長く御説教をしてはいけない」と御説教の師は言います。「ミサの直後の公教要理は、15分以上やってはいけない」とあります。御聖体拝領の後の感謝の祈りは15分。終課も大体15分。それから朝課や、或いは晩課を唱える時には大体15分。朝起きて着替えたり準備をするのも15分。朝食のコーヒーは15分。大学での授業の間の休みは15分。ロシアには或いは東洋では講話は必ず15分遅れて始まる、これはアカデミックな15分。「もしも15分遅れて始めるのではなくて、時間通りに始めたとしたら、学術的ではない」と言います。これはポーランドだけの話で、ドイツではこういう事はありません。(^^ですからよくある事は15分くらいの時間が、日常生活でそいういう細切れの時間がよく有り得るという事です。

そこでマリア様は、「その時に15分黙想しなさい」と仰っています。ですから15分という時間を日常の中で見つけて、黙想なさって下さい。朝のお祈り15分。ですから日中に15分の休憩があって、夕方に15分終課。このマリア様の言っている15分というのは、60秒が15倍の何秒何秒というその正確な秒計自体の15分というよりは、「約15分」という風に考えて下さい。

この15分で一体何を考え黙想するか、というテーマを与えて下さいます。マリア様はそのテーマとして、「15の玄義を黙想する」という事を仰っています。マリア様はロザリオについての御出現の事が何回もありましたけれども、「15の玄義を黙想する」という風にはっきりと仰った事はありませんでした。しかしこの15の玄義には、イエズス様の御生涯と御死去と御復活の要点があります。例えばカルワリオのイエズス様の十字架のもとに、マリア様が立っておられる、その愛と、信仰と、希望の徳をそれを眺める、黙想する、15分それで過ごす。これで良いのです。

それから最後に、5回続けて初土曜日にロザリオを唱える事を求めます。

これが外的な、聖母の汚れなき御心に対する信心をどうやって行うかという事です。

もちろんこの信心を、私たちの日常の生活に適応させなければなりません。1ヶ月に1回だけという事ではなくて、それを毎日の生活に生かさなければなりません。そこでマリア様の言ったように、毎日ロザリオを唱える、毎日黙想の時間を取る、イエズス様とマリア様の神秘を黙想する、もしもミサに与れない時には霊的な聖体拝領をする。

たとえミサがなかったとしても、霊的な聖体拝領をする事は毎日のようにできます。そういうきれいな鳥がたくさん飛んでいるのをご覧になりますか。マニラで一体どのような事があるか、その例を出しますので、どうやったら毎日霊的聖体拝領できるか参考にして下さい。

マニラの教会にはすずめが入って来ます。毎朝、私たちと一緒に聖務日課を唱えるのにピーチクパーチク言っています。何故かというと、マニラのドアにはガラスがないので、それが入って来ます。

皆さんの霊魂もこの鳥と同じです。そこで体は皆さんの家に居たとしても、霊的には霊魂をきれいな教会にして、シュテーリン神父様がミサをしている所で、そしてきれいな御聖櫃の近くに行って、ここにピタリと止まって、この御聖櫃を眺めて下さい。そしてこの霊的に跪いて、霊的に御聖体拝領をして下さい。でも霊的にしたとしても、本当に御聖体拝領の効果があります。それが教会の教えです。そこで霊的に何度も1日に、毎日御聖体拝領をする事ができます。

告解で一番大切な要素は、悔悛です。そこで私たちはたとえ実際に告解の秘蹟を受ける事ができなかったとしても、悔悛の秘蹟を受ける事ができなかったとしても、痛悔の念を起こす事によって、告解の効果を得る事ができます。

これらはみな、償いの精神をもって実践なさって下さい。

このファチマの子供たちがやっているように、日々多くの射祷を唱える事によって、完壁なマリア様の汚れなき御心に対する信心を行う事ができます。

もしも皆さんがこの信心を実践するならば、マリア様は皆さんの救いを約束されます。マリア様が皆さんの死のその間際に、近くに現存して下さいます、来て下さいます。

この信心をするならば、皆さんが今から死に至ろうとする時に、何が起こるか分かりますか?今この息を引き取ろうとするこの瞬間、天主様の御前で皆さんはたった一人ぼっちで、孤独に現れます。もしもこの信心を実践するならば、マリア様は約束します、皆さんは一人ではない、マリア様と共に一緒にいる、と。その私たちが今から永遠の門に行こう、飛び出とうとするその瞬間、悪魔は私たちを絶望させようと、或いは地獄の門に引きずり込もうとしますけれども、その瞬間、マリア様が立っ下さいますから、悪魔は私たちに何も害を及ぼす事ができません。

この私たちがこの汚れなき御心の信心を実践した、その報いは何でしょうか?

それは、何千何万の多くの聖人たちから選ばれて、天主様の最も近くに置かれる花々のように、貴重な存在となるという事です。

皆さん、私が皆さんの為に昨日今日した事のそれを支払ってもらいたいと思います。それはこれは私の為に、もしも皆さんと日本に住んでいる多くの人の為に、この本が是非日本語に訳される事を望みます。もしもこれが印刷されて訳されたら、また日本にやって来ます。2冊訳されたら、2回来ます。(^^)/

ご清聴ありがとうございます。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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