アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
さて、私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。
第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由
【3】良心と人間の行為の自由
第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?その1
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?
【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
そこで、私たちは【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、を見てみることにします。
*****
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは
【聖伝によれば、イエズス・キリストとは】
昔ながらの聖伝によれば、人間は、購い主キリストとともに、天主の栄光のために十字架を担うべきである。キリストは聖父の栄光のみを求め、自分を天主の栄光のために犠牲にした。人間も、救われるために、天主の栄光をのみ求め自分を犠牲とささげるべきである。
【天主であるとの信仰宣言】
聖伝によれば、イエズス・キリストは位格的結合 (unio hypostatica) により天主である。私たちの主イエズス・キリストは、真の天主であり真の人、人間となり給うた、本性により真の天主の御一人子である。
【イエズス・キリストは真の人間】
聖伝によれば、イエズス・キリストは、私たち罪人をして洗礼を受けさせ、天国に連れて行く、永遠の命をえさ得るという救霊のために生まれ給うた。
聖伝によれば、キリストは第二のアダム、新しいアダムである。
聖伝は、イエズス・キリストの贖いを受け入れ洗礼を受け、天主の養子となあり、天主の神殿となり、超自然の聖寵を受けるという恵みをかたじけのうしたカトリック者としての尊厳のすばらしさを教えた。キリスト者となった者はその尊厳を考えて、罪を避け善を行うように戦っていかなければならない。
天主の御言葉は、天から降りて人となったが、それは私たちを天主のようにするためであった。天主の命に生きさせるためであった。
【第二バチカン公会議によると、イエズス・キリストとは】
第二バチカン公会議によれば、人間は、復活したキリストとともに、人間の崇高な栄光のために、天主によってもたらされた復活を喜ぶべきである。天主は人間の栄光を求め、ご自分を人間の栄光のために犠牲にした。復活したキリストは、人間の栄光を求め自分を犠牲とした天主を世に示している。
ここで暗黙のうちに言われていることは次である。十字架は恐るべきものである。苦しみによってキリスト者となり天主の養子となるよりは、平和に単なる人間のままでいる方がよいのではないか。元来、人間はその自由により天主の似姿である。だから、より人間となることにより、より天主となる。天主の御子は人間のために人間となった、それは人間が天主の養子となるためというよりもより人間らしくなるためである。何故なら、キリストは、その托身により、全ての人々と一致しているからである。
[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。
【天主であるとの信仰宣言の省略】
第二バチカン公会議の文章の中には、イエズス・キリストが位格的結合により天主であるとはどこにも言われていない。第二バチカン公会議文書は、イエズス・キリストが真の意味で固有の意味で天主であると言ったことが一度もない。
イエズス・キリストが天主であると思わせるような箇所が第二バチカン公会議全文章の中でたった2カ所しかない。しかもすこし触れただけだ。
エキュメニズムに関する教令 20(キリストに対する信仰)
われわれはまず第一に、父と子と聖霊との唯一の神の栄光のために、イエズス・キリストを神として、主として、また神と人間との唯一の仲介者として、公に宣言しているキリスト者のことを考える。
【「イエズス・キリストを神として公に宣言する」のではなく、「そう宣言しているキリスト者のことを考える」という。イエズス・キリストを「天主として宣言する」だけではなく、天主と人間との「仲介者」としても宣言する人々を考えることにより、天主であるということがぼやかされる。】
教会の宣教活動に関する教令 3
キリスト・イエズスは、神と人との真の仲介者として世に派遣された。キリストはそのうちに神性充満が実体的に内在しており(コロサイ 2·9)・・・。
【「イエズス・キリストは天主である」というのではなく、「キリストはそのうちに神性の充満が実体的に内在している」という。間違ってはいないだろう。しかし、神殿のうちにおいても「神性の充満が実体的に内在する」という表現も可能だ。しかし神殿は天主ではない。ここでも、イエズス・キリストが、天主と人間との「仲介者」としても宣言することにより、天主であるということがぼやかされている。】
【間違ってはいないが不完全な表現】
キリストが「秘蹟」であると暗示的にあるいは明示的に言われるとき、イエズス・キリストこそ真の天主であるというよりも、天主がキリストのうちにある、天主の御言葉がキリストにおいてある、ということを暗示する。
第二バチカン公会議後の文書では、常に、聖父が単に「神」であるといわれ、キリストは「神の子」、精霊は「神の霊」であるといわれている。
【イエズス・キリストは完全な人間】
第二バチカン公会議の文書において、天国に行くという救霊については残念ながら語られない。
第二バチカン公会議にとって、キリストは「新しい人間」「最後のアダム」(テイヤール・ド・シャルダン流のオメガ点としてのキリストを連想させる)である。
キリストの啓示の内容と目的は、人間である。完全な人間である。キリストの受肉により、すべての人間は善意の人間となったかのようである。何故なら、キリスト信者ばかりでなく、すべての善意の人、すべての人が、復活秘儀(=過ぎ越しの神秘)にあずかると信じなければならないからである。
第二バチカン公会議は、カトリック者としての善ではなく人間の善を、道徳的な人間の善のためではなくすべての人間たちの善のため、純粋に人間としての人間を考えた。
人間は、純粋にどのような人間であれ尊厳に満ちあふれている。第二バチカン公会議は人間としての人間への賛美と賞賛と感嘆とに満ちている。
イエズス・キリストは、完全な人間であり、私たちをしてより人間らしくさせる。
22(新しい人・キリスト)
「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・
「見えない神の像」(コロサイ 1:15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。・・・
神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
キリスト者は、無数の兄弟の中の長子である子の姿に似たものとなり、愛の新しいおきてを守ることを可能にする「霊の初物」(ロマ 8:23)。「相続の保証」(エフェソ 1:14)であるこの霊によって、人間全体は「肉体の復活」(ロマ 8:23)に達するまで内面的に刷新される。・・・
多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・
われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」
第2バチカン公会議終了の、第9公開会議における演説(1965年12月7日)の中で、パウロ6世
「事実、公会議を開催した教会は、…人間についても考察したのであります。すなわち、現代に生きる人間、自分のことだけに専心している人間、また自分がすべてのものの中心であると考え、自分がすべてのことの原理であり目的であると考える人間について考察したのであります。…
世俗の天主なき人間主義がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教─なぜならそれも一つの宗教ですから─とが出会ったのです。何が起こったのでしょうか。衝突や紛争や排斥が起こる可能性はありましたが、そんなものは何も起こりませんでした。良きサマリア人の昔の話がこの公会議の霊性のモデルとなったのであります。すなわち、人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略したのであります。この公会議は、地上の子らがますます自らを偉大に考えるにつれてそれだけ大きくなる人類の必要を、全力を傾けて考察しました。
皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚するものなのです。…
公会議は現代人に対する愛と賛美に満ちていたのであります。…
公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。…
単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」
(中央出版社:『歴史に輝く教会』440-448頁参照。石橋泰助、浜寛五郎訳にのっとったが、あるところは原文に沿って訳し直した。)
-------------
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【関連記事】
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
さて、私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。
第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由
【3】良心と人間の行為の自由
第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?その1
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?
【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
そこで、私たちは【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、を見てみることにします。
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは
【聖伝によれば、イエズス・キリストとは】
昔ながらの聖伝によれば、人間は、購い主キリストとともに、天主の栄光のために十字架を担うべきである。キリストは聖父の栄光のみを求め、自分を天主の栄光のために犠牲にした。人間も、救われるために、天主の栄光をのみ求め自分を犠牲とささげるべきである。
【天主であるとの信仰宣言】
聖伝によれば、イエズス・キリストは位格的結合 (unio hypostatica) により天主である。私たちの主イエズス・キリストは、真の天主であり真の人、人間となり給うた、本性により真の天主の御一人子である。
【イエズス・キリストは真の人間】
聖伝によれば、イエズス・キリストは、私たち罪人をして洗礼を受けさせ、天国に連れて行く、永遠の命をえさ得るという救霊のために生まれ給うた。
聖伝によれば、キリストは第二のアダム、新しいアダムである。
聖伝は、イエズス・キリストの贖いを受け入れ洗礼を受け、天主の養子となあり、天主の神殿となり、超自然の聖寵を受けるという恵みをかたじけのうしたカトリック者としての尊厳のすばらしさを教えた。キリスト者となった者はその尊厳を考えて、罪を避け善を行うように戦っていかなければならない。
天主の御言葉は、天から降りて人となったが、それは私たちを天主のようにするためであった。天主の命に生きさせるためであった。
【第二バチカン公会議によると、イエズス・キリストとは】
第二バチカン公会議によれば、人間は、復活したキリストとともに、人間の崇高な栄光のために、天主によってもたらされた復活を喜ぶべきである。天主は人間の栄光を求め、ご自分を人間の栄光のために犠牲にした。復活したキリストは、人間の栄光を求め自分を犠牲とした天主を世に示している。
ここで暗黙のうちに言われていることは次である。十字架は恐るべきものである。苦しみによってキリスト者となり天主の養子となるよりは、平和に単なる人間のままでいる方がよいのではないか。元来、人間はその自由により天主の似姿である。だから、より人間となることにより、より天主となる。天主の御子は人間のために人間となった、それは人間が天主の養子となるためというよりもより人間らしくなるためである。何故なら、キリストは、その托身により、全ての人々と一致しているからである。
[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。
【天主であるとの信仰宣言の省略】
第二バチカン公会議の文章の中には、イエズス・キリストが位格的結合により天主であるとはどこにも言われていない。第二バチカン公会議文書は、イエズス・キリストが真の意味で固有の意味で天主であると言ったことが一度もない。
イエズス・キリストが天主であると思わせるような箇所が第二バチカン公会議全文章の中でたった2カ所しかない。しかもすこし触れただけだ。
エキュメニズムに関する教令 20(キリストに対する信仰)
われわれはまず第一に、父と子と聖霊との唯一の神の栄光のために、イエズス・キリストを神として、主として、また神と人間との唯一の仲介者として、公に宣言しているキリスト者のことを考える。
【「イエズス・キリストを神として公に宣言する」のではなく、「そう宣言しているキリスト者のことを考える」という。イエズス・キリストを「天主として宣言する」だけではなく、天主と人間との「仲介者」としても宣言する人々を考えることにより、天主であるということがぼやかされる。】
教会の宣教活動に関する教令 3
キリスト・イエズスは、神と人との真の仲介者として世に派遣された。キリストはそのうちに神性充満が実体的に内在しており(コロサイ 2·9)・・・。
【「イエズス・キリストは天主である」というのではなく、「キリストはそのうちに神性の充満が実体的に内在している」という。間違ってはいないだろう。しかし、神殿のうちにおいても「神性の充満が実体的に内在する」という表現も可能だ。しかし神殿は天主ではない。ここでも、イエズス・キリストが、天主と人間との「仲介者」としても宣言することにより、天主であるということがぼやかされている。】
【間違ってはいないが不完全な表現】
キリストが「秘蹟」であると暗示的にあるいは明示的に言われるとき、イエズス・キリストこそ真の天主であるというよりも、天主がキリストのうちにある、天主の御言葉がキリストにおいてある、ということを暗示する。
第二バチカン公会議後の文書では、常に、聖父が単に「神」であるといわれ、キリストは「神の子」、精霊は「神の霊」であるといわれている。
【イエズス・キリストは完全な人間】
第二バチカン公会議の文書において、天国に行くという救霊については残念ながら語られない。
第二バチカン公会議にとって、キリストは「新しい人間」「最後のアダム」(テイヤール・ド・シャルダン流のオメガ点としてのキリストを連想させる)である。
キリストの啓示の内容と目的は、人間である。完全な人間である。キリストの受肉により、すべての人間は善意の人間となったかのようである。何故なら、キリスト信者ばかりでなく、すべての善意の人、すべての人が、復活秘儀(=過ぎ越しの神秘)にあずかると信じなければならないからである。
第二バチカン公会議は、カトリック者としての善ではなく人間の善を、道徳的な人間の善のためではなくすべての人間たちの善のため、純粋に人間としての人間を考えた。
人間は、純粋にどのような人間であれ尊厳に満ちあふれている。第二バチカン公会議は人間としての人間への賛美と賞賛と感嘆とに満ちている。
イエズス・キリストは、完全な人間であり、私たちをしてより人間らしくさせる。
22(新しい人・キリスト)
「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・
「見えない神の像」(コロサイ 1:15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。・・・
神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
キリスト者は、無数の兄弟の中の長子である子の姿に似たものとなり、愛の新しいおきてを守ることを可能にする「霊の初物」(ロマ 8:23)。「相続の保証」(エフェソ 1:14)であるこの霊によって、人間全体は「肉体の復活」(ロマ 8:23)に達するまで内面的に刷新される。・・・
多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・
われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」
第2バチカン公会議終了の、第9公開会議における演説(1965年12月7日)の中で、パウロ6世
「事実、公会議を開催した教会は、…人間についても考察したのであります。すなわち、現代に生きる人間、自分のことだけに専心している人間、また自分がすべてのものの中心であると考え、自分がすべてのことの原理であり目的であると考える人間について考察したのであります。…
世俗の天主なき人間主義がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教─なぜならそれも一つの宗教ですから─とが出会ったのです。何が起こったのでしょうか。衝突や紛争や排斥が起こる可能性はありましたが、そんなものは何も起こりませんでした。良きサマリア人の昔の話がこの公会議の霊性のモデルとなったのであります。すなわち、人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略したのであります。この公会議は、地上の子らがますます自らを偉大に考えるにつれてそれだけ大きくなる人類の必要を、全力を傾けて考察しました。
皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚するものなのです。…
公会議は現代人に対する愛と賛美に満ちていたのであります。…
公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。…
単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」
(中央出版社:『歴史に輝く教会』440-448頁参照。石橋泰助、浜寛五郎訳にのっとったが、あるところは原文に沿って訳し直した。)
-------------
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【関連記事】
- 第2バチカン公会議とは 第2バチカン公会議の権威について
- 第2バチカン公会議後20年の後、ラッツィンガー枢機卿は、メッソーリとの対話の本『信仰について』の中で第2バチカン公会議語教会の中の状況が悪化していることを述べている
- カトリック教会と第二バチカン公会 by フランツ・シュミットバーガー神父
- 「過ぎ越しの神秘」(「復活秘儀」)について
- 2つの神学は2つのミサを産み出し、今や2つの宗教を産み出しつつある
- 第2バチカン公会議について ピオ9世教皇の回勅 Quanta Cura と第2バチカン公会議は「信教の自由に関する宣言」、第2バチカン公会議後の実りとしての改革
- 第2バチカン公会議を少し振り返って見ると(「マニラのeそよ風」より)
- 永遠のローマ
- [1] 『司祭の役務と生活に関する教令』の序文を考察する -- 司祭は、教会という神秘体のために叙階され秩序付けられる。
- [2] 『司祭の役務と生活に関する教令』の2番を考察する -- 第2バチカン公会議の司祭の第一の直接の目的は、共通善への奉仕ミサ聖祭は、目的のための手段、共通善への奉仕のための単なる手段に過ぎない
- [3] 『司祭の役務と生活に関する教令』の論理構造を見る --- 神の民の全てが、キリストの唯一の司祭職に参与する司祭は、神の民の共通祭司職のために叙階される。
- [4] 第2バチカン公会議の新しい司祭が捧げる「いけにえ」とは何か -- 新しい司祭職に対応する、新しいいけにえ:「霊的供え物」
- [5] 典礼上の論理的結論 --- 第2バチカン公会議のいけにえのために新しい典礼(第2バチカン公会議のミサ)が作られた。その祝う主体、祝う対象、祝い方、祝う場所、司牧上の論理的結論などを考察する
- [6] 結論:全てのカトリック司祭らに聖伝のミサを返し、祭壇と御聖体の方に全生活を向かせること 参考資料 1:『司祭の役務と生活に関する教令』 Presbyterorum Ordinis (一部) 参考資料 2:『教会憲章』Lumen Gentium (抜粋)
- 新しい司祭像と聖伝のカトリック司祭職
- 第2バチカン公会議の前と後では司祭像がどのように変わってしまったのか