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カトリック聖伝によるイエズス・キリストと第二バチカン公会議によるイエズス・キリスト

2009年04月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

 さて、私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由
【3】良心と人間の行為の自由

第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?その1
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か


 そこで、私たちは【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、を見てみることにします。

*****


【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは

【聖伝によれば、イエズス・キリストとは】

 昔ながらの聖伝によれば、人間は、購い主キリストとともに、天主の栄光のために十字架を担うべきである。キリストは聖父の栄光のみを求め、自分を天主の栄光のために犠牲にした。人間も、救われるために、天主の栄光をのみ求め自分を犠牲とささげるべきである。

【天主であるとの信仰宣言】

 聖伝によれば、イエズス・キリストは位格的結合 (unio hypostatica) により天主である。私たちの主イエズス・キリストは、真の天主であり真の人、人間となり給うた、本性により真の天主の御一人子である。

【イエズス・キリストは真の人間】

 聖伝によれば、イエズス・キリストは、私たち罪人をして洗礼を受けさせ、天国に連れて行く、永遠の命をえさ得るという救霊のために生まれ給うた。

 聖伝によれば、キリストは第二のアダム、新しいアダムである。

 聖伝は、イエズス・キリストの贖いを受け入れ洗礼を受け、天主の養子となあり、天主の神殿となり、超自然の聖寵を受けるという恵みをかたじけのうしたカトリック者としての尊厳のすばらしさを教えた。キリスト者となった者はその尊厳を考えて、罪を避け善を行うように戦っていかなければならない。

 天主の御言葉は、天から降りて人となったが、それは私たちを天主のようにするためであった。天主の命に生きさせるためであった。



【第二バチカン公会議によると、イエズス・キリストとは】

 第二バチカン公会議によれば、人間は、復活したキリストとともに、人間の崇高な栄光のために、天主によってもたらされた復活を喜ぶべきである。天主は人間の栄光を求め、ご自分を人間の栄光のために犠牲にした。復活したキリストは、人間の栄光を求め自分を犠牲とした天主を世に示している。

 ここで暗黙のうちに言われていることは次である。十字架は恐るべきものである。苦しみによってキリスト者となり天主の養子となるよりは、平和に単なる人間のままでいる方がよいのではないか。元来、人間はその自由により天主の似姿である。だから、より人間となることにより、より天主となる。天主の御子は人間のために人間となった、それは人間が天主の養子となるためというよりもより人間らしくなるためである。何故なら、キリストは、その托身により、全ての人々と一致しているからである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた


【天主であるとの信仰宣言の省略】

 第二バチカン公会議の文章の中には、イエズス・キリストが位格的結合により天主であるとはどこにも言われていない。第二バチカン公会議文書は、イエズス・キリストが真の意味で固有の意味で天主であると言ったことが一度もない。

 イエズス・キリストが天主であると思わせるような箇所が第二バチカン公会議全文章の中でたった2カ所しかない。しかもすこし触れただけだ。

エキュメニズムに関する教令 20(キリストに対する信仰)
 われわれはまず第一に、父と子と聖霊との唯一の神の栄光のために、イエズス・キリストを神として、主として、また神と人間との唯一の仲介者として、公に宣言しているキリスト者のことを考える。
【「イエズス・キリストを神として公に宣言する」のではなく、「そう宣言しているキリスト者のことを考える」という。イエズス・キリストを「天主として宣言する」だけではなく、天主と人間との「仲介者」としても宣言する人々を考えることにより、天主であるということがぼやかされる。】

教会の宣教活動に関する教令  3 
 キリスト・イエズスは、神と人との真の仲介者として世に派遣された。キリストはそのうちに神性充満が実体的に内在しており(コロサイ 2·9)・・・。
【「イエズス・キリストは天主である」というのではなく、「キリストはそのうちに神性の充満が実体的に内在している」という。間違ってはいないだろう。しかし、神殿のうちにおいても「神性の充満が実体的に内在する」という表現も可能だ。しかし神殿は天主ではない。ここでも、イエズス・キリストが、天主と人間との「仲介者」としても宣言することにより、天主であるということがぼやかされている。】


【間違ってはいないが不完全な表現】

 キリストが「秘蹟」であると暗示的にあるいは明示的に言われるとき、イエズス・キリストこそ真の天主であるというよりも、天主がキリストのうちにある、天主の御言葉がキリストにおいてある、ということを暗示する。

 第二バチカン公会議後の文書では、常に、聖父が単に「神」であるといわれ、キリストは「神の子」、精霊は「神の霊」であるといわれている。


【イエズス・キリストは完全な人間】

 第二バチカン公会議の文書において、天国に行くという救霊については残念ながら語られない。
 第二バチカン公会議にとって、キリストは「新しい人間」「最後のアダム」(テイヤール・ド・シャルダン流のオメガ点としてのキリストを連想させる)である。

 キリストの啓示の内容と目的は、人間である。完全な人間である。キリストの受肉により、すべての人間は善意の人間となったかのようである。何故なら、キリスト信者ばかりでなく、すべての善意の人、すべての人が、復活秘儀(=過ぎ越しの神秘)にあずかると信じなければならないからである。

 第二バチカン公会議は、カトリック者としての善ではなく人間の善を、道徳的な人間の善のためではなくすべての人間たちの善のため、純粋に人間としての人間を考えた。

 人間は、純粋にどのような人間であれ尊厳に満ちあふれている。第二バチカン公会議は人間としての人間への賛美と賞賛と感嘆とに満ちている。

 イエズス・キリストは、完全な人間であり、私たちをしてより人間らしくさせる。


22(新しい人・キリスト)
「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・
 「見えない神の像」(コロサイ 1:15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。・・・
 神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
 キリスト者は、無数の兄弟の中の長子である子の姿に似たものとなり、愛の新しいおきてを守ることを可能にする「霊の初物」(ロマ 8:23)。「相続の保証」(エフェソ 1:14)であるこの霊によって、人間全体は「肉体の復活」(ロマ 8:23)に達するまで内面的に刷新される。・・・
 多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・
 われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」


 第2バチカン公会議終了の、第9公開会議における演説(1965年12月7日)の中で、パウロ6世
「事実、公会議を開催した教会は、…人間についても考察したのであります。すなわち、現代に生きる人間、自分のことだけに専心している人間、また自分がすべてのものの中心であると考え、自分がすべてのことの原理であり目的であると考える人間について考察したのであります。…
 世俗の天主なき人間主義がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教─なぜならそれも一つの宗教ですから─とが出会ったのです。何が起こったのでしょうか。衝突や紛争や排斥が起こる可能性はありましたが、そんなものは何も起こりませんでした。良きサマリア人の昔の話がこの公会議の霊性のモデルとなったのであります。すなわち、人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略したのであります。この公会議は、地上の子らがますます自らを偉大に考えるにつれてそれだけ大きくなる人類の必要を、全力を傾けて考察しました。
 皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚するものなのです。…
 公会議は現代人に対する愛と賛美に満ちていたのであります。…
 公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。…
 単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」
(中央出版社:『歴史に輝く教会』440-448頁参照。石橋泰助、浜寛五郎訳にのっとったが、あるところは原文に沿って訳し直した。)


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天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】

祝!我ら主の御復活

2009年04月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Haec dies, quam fecit Dominus: exsultemus, et laetemur in ea.

今日というこの日は、
主の作り給うた日、
この日において我ら
喜び踊り歓喜しよう。

 私たちの主のご復活を黙想して復活祭を終えて、私たちの主イエズス・キリストの御姿とルフェーブル大司教様の御姿とが重なってきました。そこで、うたいます。


キリストは
死に至るまで
従いき
十字架上の
死に至るまで。

信仰の
変えてはならぬ
遺産とて
ル大司教は
守り抜きけり。


命なき
石の殻をば
突き割りて
生まれ出るかな
イースターエッグ。

ミサ自由
破門も無しと
パパ様は
聖伝のため
聖会のため

聖伝の
そのままのミサ
よみがえれ
どこもかしこも
ピオピオとかな。


愛する兄弟姉妹の皆様、こころは聖伝の復活祭に与り得ない愛する兄弟姉妹の皆様のことを考えつつ、天主様の祝福が豊かにありますように祈っております。

聖なる私たちの主イエズス・キリストの御復活をお過ごしください。

もし一度、愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて復活の主日の任務を終えて

君の聖心に我らとこしえに

2009年04月11日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖土曜日です。聖週間はいかがお過ごしだったでしょうか。

 聖伝のミサ聖祭に与りたいけれど与り得ない或る方から、ソウルでお手紙をいただき、こんな歌をいただきました。日本の桜の花を見ずに私がソウルに行ったのではないか、自分はミサ聖祭に与りたいもそのような旅ができない、と歌ってくれました。

せめてご一緒したかった
ごミサむりでも
ロザリオの粒

桜のつぼみも
膨らみを増す
我が旅立ちも膨らみ、
たたずんでいた夢
はじけりに増す

花満つる
前に旅立つ
我が兄の
勇姿たたえん
皆ともに

君よゆき給うなかれ
せめて桜花
満つるまでは

主こそ我が誉れよ
輝く光よ
こよなき安らいよ
たぐいなき友よ
真心尽くして
我、愛しまつらん

うるわしき
主のみこころ
花咲く丘に
み教えの香りたかし
しらゆりの花

 そこで、返歌。

ふぶき散る
桜の花の
舞うように
み旨のままに
動きさすらう

主のために
咲いた花なら
いさぎよく
散るのは覚悟
主のためにこそ

聖霊の
いぶくままかな
風ふけば
いついずこにも
この身委ねん

憐れみの天主(かみ)よ
天のみ助けよ
永久(とわ)の幸こそ
我が篤き願い
空しく過ごし日
み赦しを願わん

よろずの国の
君たる主イエズス
やまとの国を
なれにぞささぐ
君の聖心に我らとこしえに
誠をぞ誓わん
主よ、王たり給え!


 私たちの主イエズス・キリストに、私たちの弱さを助け給うように祈りつつ。

イエズスのみこころよ、我らを憐れみ給え!

天主の御母聖マリア、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖金曜日

2009年04月10日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は聖金曜日。聖務日課ではこう歌います。

Proprio Filio suo non pepercit Deus, sed pro nobis omnibus tradidit illum.

天主はご自分の御子を惜しみ給わず、私たちすべてのために御子を渡し給うた。

 私たちすべての罪の償いのため天主の御子が。

 罪がどんなに恐ろしいものなのか。天主の正義は、罪に対してどれほどまで要求するのか。

 それと同時に、天主はどれほどまで我らのために愛し給うのか。無力で罪人の私たちのために、もっとも大切な御子までも惜しまなかった。

 罪の醜さと恐ろしさ、それと同時に、天主の私たちへの愛の巨大さ。では、私たちは、天主のために何をすべきか。

 礼拝、感謝、痛悔、悔い改め、償い、愛、祈り、信頼、懇願。

 愛する兄弟姉妹の皆様、良い聖金曜日をお過ごしください。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か

2009年04月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、明日は聖木曜日ですね。

【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、を見てみましょう。


【新しい典礼と新しいいけにえ】

  カトリックの聖伝の教えによれば、人間は天主の本性に預かることができる存在として、天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた。人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される。しかし、人間は自由を濫用し、天主への従順を破り罪を犯したがゆえに、超自然の聖寵を失い、自然は傷ついた。

 罪は天主の怒りを呼び起こす。
 「淫行、汚れ、情欲、邪欲、偶像崇拝である肉欲、これらが天主の怒りを呼ぶ。」(コロサイ3:5-6)
 「かつては肉の望みのままに生活し、肉と不義の思いに従い、他の人々同じく本来は怒りの子であった。」(エフェゾ2:3)
 「人の虚しい言葉に騙されるな。不従順なものの上に天主の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である。」(エフェゾ5:6)

 天主はその御怒りを私たちがこの地上にいるうちから現す。
 「実に、天主の怒りは、真理を不正のとりことする人々の全ての不敬と不義に対して、天から現される。・・・」(ローマ1:18~)
 「異邦人を救うために宣教する私たちを妨げ、こうして、どこにいても自分たちの罪を満たしている。ここにおいて彼らの上に、天主の怒りは極みに及んだ。」(1テサロニケ2:16)

 天主は、ご自分の怒りを、苦しみを送ることによって現す。
 「おまえたちの先祖はそこで私を試み、私を試した、40年の間、私の業を見ていたのに。・・・私は怒りのうちに誓った、『彼らは私の休息に入るまい』と。」(ヘブライ3:9-11)

 天主の怒りは特に最後の審判の時に輝く。
 「天主の正しい裁きの現れる怒りの日に、自分のために怒りを積み重ねるである。・・・真理に従わず不義に従う反逆者のためには、怒りと憤りを返される。悪を行って生きるものにはすべて、・・・艱難と苦悶がある。」(ローマ2:5-9)
 「天主が私たちに怒りを向けられるのが不正だろうか。決してそうではない。」(ローマ3:5-6)
 「愛するものよ、自分で復讐するな。かえって天主の怒りに譲れ。」(ローマ12:19)
 「迫り来る怒りから私たちを救うイエズスが、天から来られるのを待ち望んでいる」(1テサロニケ1:10)

 この原罪と罪の状態から私たち人間を解放するのは、唯一私たちの主イエズス・キリストの十字架による購いである。

 何故なら、私たちの主イエズス・キリストだけが真の天主かつ真の人として流血のいけにえにより人間の罪の負債を支払うことができるからだ。何故なら、罪を犯すことによって、人間は天主の正義を犯し天主に償いの負債を負ったからである。

 キリストは、人類の身代わりに、人類の代理として天主の正義を宥めた。
「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死去された。・・・いまキリストの御血によって義とされた私たちは、なおさらに主によって天主の怒りから救われるのである。」(ローマ5:9)

「天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」
(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮス Haurietis aquas』)

 人間は、購い主キリストとともに、天主の栄光のために十字架を担うべきである。キリストは聖父の栄光のみを求め、自分を天主の栄光のために犠牲にした。人間も、救われるために、天主の栄光をのみ求め自分を犠牲とささげるべきである。





 第2バチカン公会議によれば、「天主の啓示」とは天主が超自然の玄義を人間に啓示することではない。そうではなく、天主の啓示とは「聖父を啓示しつつまた聖父によって啓示されたキリストが人間を人間自身に啓示し尽くすこと」である。"en révélant le Père et en étant révélé par lui, le Christ achève de révéler l’homme a lui-meme." (Henri de Lubac, Catholicisme - Gaudium et spes)

[愛の秘儀の啓示]

 キリストは聖父が人間を愛しているという愛の秘儀を啓示することによって、人間の崇高さを人間に啓示する。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

 「『過ぎ越しの神秘』とは、天主のきわめがたい神秘を啓示する頂点にあるキリストである。」
(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 8. カトリック中央協議会日本語公式訳によると「復活秘義なるキリストこそ、きわめがたい神の神秘の頂点におられます。」)

 イエズス・キリストの十字架上での死は、私たちに対する天主の愛の単なる現れであり、天主の愛の啓示以外の何ものでもない。信じる者たちに明らかにされた「神秘」は、天主の愛の啓示であって、私たちの間に常に現存している現実である。

 全ての人の父である天主は、全ての人の救いを望んでおられる。愛そのもの、そしてその愛は御子キリストの「十字架の死」を通して(過ぎ越しの神秘)世に示された。その愛は代償(罪の償い)を求めない「無償の愛」でなければならない。

 「過ぎ越しの神秘」という概念により、天主の愛や、復活の新しい生を強調することができるようになる。『過ぎ越しの神秘』において、実に私たちの救いに関する全ては、天主の愛と憐れみから発し、天主のご自由なイニシアティヴという、生き生きとした無償の行為によってなされたこととして現れる。愛そのものである聖父なる天主は、その愛をキリストの十字架において啓示した(世に示した)。キリストの十字架は全人類の罪の償いというよりは、全ての人間を救う聖父の愛の啓示である。

[救いは、正義を満足させる償いではなく、償いを求めない愛によってもたらされた]

 過ぎ越しの神秘によれば、天主は不可変の完成された方であり、罪によって天主が傷つくことは無い。罪によって、人間だけが傷つく。天主は、人間を人間のためだけに創造した。天主は誰をも永遠の罰をもって罰することは無いだろう。

 人は罪を犯して自分或いは社会に損害を与えるけれども、天主に対していかなる損害も与えない。罪は天主の正義を傷つけない。ただ、罪が天主の愛を拒むことであるという意味において、天主の愛を傷つけるだけだ。

 「罪は、理性、真理、正しい良心に背く過ちです。また、神と隣人への真の愛の欠如で、これはあるものへのよこしまな愛着によります。罪は人間の本性を傷つけ、人間の連帯を損ないます。「永遠の法に背く言葉、行い、または望み」という罪の定義があります。」(『カトリック教会のカテキズム』#1849)

 「罪は天主に背くことです。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩編51:6)。罪はわたしたちへの神の愛にあらがい、わたしたちの心を神の愛から退けます。」(『カトリック教会のカテキズム』#1850)

 「天主の正義を満足させる」ことは、もはや天主のなす報復という次元を全く離れて、単なる治療的であるだけに過ぎない。

 「罪はさらに罪人自身ばかりでなく、神ならびに隣人との関係をも傷つけ弱める。赦しの秘跡は罪を赦すが、罪が引き起こしたすべての無秩序を修繕するわけではない。罪人は、罪から解放された後も、霊的健康を完全に回復しなければならない。だから、罪の何らかの償いをせねばならないのである。つまり、適当な方法で「弁償する」、言い換えれば「罪滅ぼし」をせねばならないのである。この弁償を「償い」と呼ぶ。」(『カトリック教会のカテキズム』#1459)

 「贖い」はもはやキリストによってなされた天主の正義を満足させることではなく、天主が人類にした永遠の契約の最終的な「啓示」となる。(この契約は罪によって決して破棄されることはなかった。)

 「真実、神の子とされる尊さへの永遠の選びの道に沿って歴史上キリストの十字架はまさに立っています。そのキリストは神のひとり子、「光よりの光、まことの神よりのまことの神」として神と人類、神と人間、一人ひとりの人と感嘆すべき契りへの最終のあかしをたてに来られたのでした。」
(ヨハネ・パウロ2世1980年11月30日回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 7.)

 「神の愛の深み・・・その愛とは、類例を見ない御子のいけにえをいとわず、人々に対する創造主かつ父であるお方の忠実を全うしようとするもの・・。このあがないは、全きものの絶対の充満である神の神性の究極、決定的な啓示である」
(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 7.)


[キリストではなく聖父が人間を救う、キリストは聖父の愛を示す道具]

 キリストの「贖い」の業とは、人々の罪に対し天主の正義を満足させることを目的とするのではなく、聖父の愛を完全に啓示することである。

 「贖いについてのキリスト教の信仰は、何よりもまず天主に対する信仰である。イエズス・キリストにおいて、すなわち聖父の固有の唯一の人となった御子において、「人々が天主と呼ぶ方」(つまり聖父)は、全ての人が信頼することの出来る唯一の真の救い主として自らを啓示し、自分を顕わにする」
(国際神学委員会, Quaestiones selectae de Deo Redemptore, 1994年12月8日、第4部第14番)


 キリストにおいて聖父の愛とその名前が私たちに啓示される。従って、イエズス・キリストとは、固有の意味でもはや「贖い主」ではなく、むしろ天主聖父が、そこにおいて救う場所である。


 「イエスとはヘブライ語で「神が救い給う」という意味である。お告げのときに、天使ガブリエルは、本質と使命を同時に表すこの名前を生まれるべきお方の名前として与えた(ルカ、1昭、31参照)。「神おひとりのほかに、一体だれが罪を赦すことができるだろうか」(マルコ、2章、7)であるならば、人となった御ひとり子、つまりイエスにおいて、「自分の民を罪から救うのは」(マテオ、1章、21)神ご自身である。イエスにおいて、神は人類の救いの全歴史をこのように完結されるのである。・・・イエスという名は、神の名そのものが御子の人格に現存することを、つまり全人類を決定的に罪から解放するために人となった方の中にあることを意味する(使徒行録、5章、41;ヨハネの手紙、三、7参照)。イエスとは神的な名前で、人を救う唯一の名であり、(ヨハネ、3章、18;使徒行録、2章、21参照)、今より後すべての人がそれを呼び求めることができる。なぜならば、ご託身によってイエスがすべての人間と結び付き、その結果「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒行録、4章、12。また使徒行録、9章、14;ヤコボ、2章、7参照)からである。」(『カトリック教会のカテキズム』#430, 432)


[キリストの十字架ではなく、復活が人間を救う]

 「贖い」の主要な行為はもはやキリストの死ではない。過ぎ越しの神秘によれば、十字架よりも、キリストの復活、御昇天こそが「贖い」のもっと重要な行為となる。復活は啓示の充満であって、この啓示のためにキリストは人となったからである。十字架は復活への過ぎこしていく通過点に過ぎない。キリストの神秘の中心は復活である。

 「キリストが3日目に復活させられたことは・・・、悪に支配されている世界の中のいつくしみ深い愛の全啓示を全うするしるしとなります。・・・キリストは復活のうちに、御父が御子に向けられる愛と、御子を通して全ての人に向けられる愛を明らかにされたのでした。神は死者の神ではなく、生きているものの神である。復活をもってキリストはいつくしみ深い愛の神を現されました。」
(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia, 8.)


 過ぎ越しの神秘によれば、人間は、復活したキリストとともに、人間の崇高な栄光のために、天主によってもたらされた復活を喜ぶべきである。天主は人間の栄光を求め、ご自分を人間の栄光のために犠牲にした。復活したキリストは、人間の栄光を求め自分を犠牲とした天主を世に示している。

 繰り返せば「『過ぎ越しの神秘』とは、天主のきわめがたい神秘を啓示する頂点にあるキリストである。」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia, 8.)



【典礼】

 人間は、自分を犠牲にして罪を償いつつ、天主に栄光を帰す債務を負う。

 「1740 この天主であり、私たちの主は、十字架の祭壇で、死を通して、一度、聖父なる天主に自分をささげようとしていた。彼らに [そこで] 永遠の贖いを成すためであった。しかしまた、主の司祭職は死によって消去られるべきではなかったので(ヘブレオ7・24、27)、「渡される夜」(1コリント11・13)最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に、(人間の本性が要求するとおりの)目に見えるいけにえを、すなわち、それによって十字架上で一度血を流して遂行されるべきであるかのいけにえが再現され、且つその記憶が世の終りまで永続し、またその救いの力が私たちによって毎日犯される諸々の罪の赦しに適応されるいけにえを残すために、主は自らが「メルキセデクの位による永遠の司祭」(詩編109・4)として立てられていることを宣言して、自分の御体と御血とをパンとブドウ酒の形色のもとに聖父なる天主に捧げ、更には、同じものの象徴の下に、(その時主が新約の司祭として制定した)使徒たちに、彼らが拝領するように与え、そして、同じ使徒たちと彼らの司祭職における後継者たちに「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)というこの言葉で、それを捧げるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。・・・

 1743(940) ミサにおいて行われるこの天主的ないけにえにおいて、十字架の祭壇で「御血を流して自分自身を一度捧げた」(ヘブレオ9・14, 27)その同じキリストが含まれ、御血を流さずに屠られているので、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、このいけにえは真に贖罪のためであり(第3条)、このいけにえを通して、贖罪となる、それはもし私たちが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔をもっているなら、砕かれて悔悛しつつ天主に、「近づいて、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブレオ4・16)ためである、と。実に、この捧げものによってなだめられた主は、悔悛の聖寵とたまものとを与え、たとえ巨大な犯罪と罪でさえも赦し給う。いけにえは同一であり、あの時御自分を十字架の上で捧げた同じ方が今司祭の役務によってささげている。捧げられ方だけが異なる。この(流血の)捧げものの結実は、この無血の捧げものを通して非常に豊かに受けることができる。しかし、この後者の捧げもの(ミサ)を通して前者のいけにえが如何なる仕方であれ廃止されるのではない(第4条)。そのため、生きている信者たちの罪や罰または罪の償いのためまたはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承に相応しく従えば、キリストにおいて亡くなったがまだ完全に清められていない霊魂のためにも捧げられる(第3条)。」
(トリエント公会議)

 旧典礼では、私たちが「聖名の尊まれんことを」と祈り、天主の本性や実体に何かが加えられることではなく、天主の外的栄光がいや増さんことを祈る。すなわち、天国の諸天使諸聖人のように彼らに習って、私たちが言葉と行いとをもって天主に従属することを祈る。
(トレント公会議の公教要理)



 第2バチカン公会議の典礼に関する憲章の目的は、典礼の形式や言葉を換えるだけに止まらず、むしろ信者たちの養成と司牧的実践を呼び起こし、典礼がそれらの頂点であり源であることを目指すものである。何故なら、現在に至るまで典礼において導入された変更、また今後導入されなければならない改変は、この目的のために秩序づけられているからである。ところで、典礼の周囲へと秩序づけられているこの司牧的活動の力は、典礼生活によって「過ぎ越しの神秘」と呼ばれているところにある。」(1964年9月26日の宣言「Inter oecumenici」5, 6番)

 「(第二バチカン公会議後の典礼改革の)第一の原理は、教会の典礼における「過ぎ越しの神秘」の現実化である。」(ヨハネ・パウロ2世、1988年12月4日 « Vicesimus quintus annus », ヨハネ・パウロ2世、第2バチカン公会議の「典礼憲章」の発布25周年 Documentation Catholique 1985, 4 juin 1989, p. 519)

 過ぎ越しの神秘によれば、天主は、ご自分を犠牲にしても人間を栄光化する債務を負う。感謝の祭儀では、会衆が集まるや否や、キリストはそこに現存される。新しいミサでは、人間の手による労働の実りをささげることにより、人間の労働に栄光を帰し、貧困と暴政(エジプトの奴隷状態)から開放され自由となったことを感謝する。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
(新しいミサの総則7)


 「ミサは司祭だけがささげるものではなく、信者全体がささげる」(『カトリック教会の教え』197ページ) のであって、叙階の秘跡を受けた司祭は単なる司会者にすぎない。


 新しい神学においては、主体が信者であり、会衆が「感謝の祭儀」に集い、「過越の秘義」を生き生きと感じること、主の復活を体験することが大切となる。 信仰はますます、センチメンタルになっていく。

 新しい神学によれば、ミサは、主の十字架から復活への過越の記念であって、復活したキリストとの出会いが体験される場である。

 「イエス・キリストは、ユダヤ人の旧約の過越祭を、ご自分の死から命への過越、すなわち十字架から復活への過越を記念する祭儀へと変容させて、新しい過越祭を制定しました。感謝の祭儀とも呼ばれる新しい過越祭は、同時に神の国が完成される時の栄光の教会の過越をも先取りするものです。イエス・キリストは最後の晩餐において新約の過越祭を制定し・・・ました。・・・教会はミサにおいて、『主イエスの死と復活の記念』を行います。『記念(アナムネシス)』とは、キリストの死と復活の神秘が『今、ここで』現在化されることを意味します。」(『カトリック教会の教え』191ページ)

 「ミサは人々を新約の恵みにあずからせる『記念』の祭儀であることが明らかになってきます。」(『カトリック教会の教え』193ページ)

 「わたしたちは復活されたキリストとさまざまなしかたで出会うことが出来ます。つまり、二人、三人がキリストの名によって集まるところに(マタイ18:20参照)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに(マタイ25:31-46参照)、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサの司会者のうちにキリストと出会うことが出来ます。特に聖体の秘跡においてわたしたちは、実際に神であり人であるイエス・キリストに出会うのです。」(『カトリック教会の教え』192ページ)

 「聖体の秘跡の記念を挙行する祭儀は、普通『ミサ』と呼ばれます。・・・ミサは、わたしたちがイエス・キリストの死と復活を記念し、その復活の恵みにあずからせていただく、喜びに満ちた感謝の祭儀だからです。ミサはまた『主の晩餐』『聖餐式』とも呼ばれます。それはミサが、最後の晩餐に起源をもち、神の国が完成される時に行われる羔の婚宴の前表、先触れでもある聖なる会食だからです。キリスト者は使徒の時代から、主の日である日曜日に集まり、主の復活を祝う感謝の祭儀を挙行することを大切にしてきました。」(『カトリック教会の教え』197-198ページ)

 新典礼では、私たちが「聖名の尊まれんことを」と祈るとき、一つの賛美、一つの感謝の意味で、神と人間とどちらにも関係のある願い、望み、期待として祈る。つまり、み名が聖とされますようにと願うことで、私たちが、私たちのために、私たちから、私たちのうちに聖とされるという条件によってのみ成就する。天主の光栄は、私たちの光栄に従属し条件付けられている。
(参照:カトリック教会のカテキズムによる「主の祈り」Ⅰ み名が聖とされますように 2807)


天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか

2009年04月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 枝の主日、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。

 カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、同じ「聖伝」という言葉で、別の概念が意味されています。そう考えると、良く理解できます。

 すこし間が空きましたが、聖伝について以前書いたものはあまりにも要点だけでしたので、以前にも何回も書いた内容ではありますが、それらをコピーペーストしてご理解しやすいように説明を加えてみました。


【聖伝とは何か】

 聖伝は、その古さにより(使徒たちは、聖書を記す前に説教を始めた)、
その充満さにより(聖伝は聖書の起源であり、天主が啓示し給うた全ての真理を含む)、
その十分さにより(聖伝はその権威を確立するために聖書を必要としないが、聖書はその権威と意味とを確立するために聖伝を必要とする)、
啓示の二つの源泉の第一である。

 カトリック教会の教導権だけが唯一、何が信ずるべきことであると啓示された真理であるか否かを断定することができる。教会が不可謬的に、天主による啓示に属すると定義した教えを「ドグマ」と呼ぶ。

 ただし「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって,使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」
(第一バチカン公会議(DS3070))

 使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられた。啓示が閉じられるまで、天主の信仰の遺産はその充満が、最初から、キリストの花嫁たる教会によって忠実に守らるように委ねられた。聖伝とは、それを忠実に伝えることである。

 私たちの主イエズス・キリストが教えなかったような、また教会の知らないような宗教に関する真理、善に関する真理、道徳的な真の価値をもつことがらはありえない。天主なる私たちの主イエズス・キリストは、救霊に必要な全てを伝えつくした。これ以上、新たな内容が増えることはありえない。

 教導権により、たとえば「consubstantia 同一本質」や「transsubstantiatio 全実体変化」などの概念のように、啓示の内容が、同一性を保ったまま、より明確化され、暗示的な内容がより明示的にされ、曖昧な意味がより精緻にされうるが、教導権が不可謬権を行使して定めた信仰の内容とその明確化に矛盾する内容に変わることは出来ない。また教導権が排斥した内容が信仰箇条になることもありえない。

 従って、信仰の教義は、使徒達から正統信仰の教父達を通じて、常に同じ意味、同じ解釈に従って、過去から将来にいたるまで守るべきであり、変えられて伝えられてはならない。

 従って、教義が、時代の経つに従って、教会が初めに信じていたものとは異なり、一つの意味から別の他の意味へと進化すると考えるのは異端説である。

 従って、信仰の内容が、人間の努力により徐々に形作られ、将来に亘る無限の発展をして完成さるということも異端説である。


「使徒達より、正統信仰の教父達を通じ、常に同じ意味及び解釈に従いて我らに至るまで伝えられし信仰の教義を、我は誠実に受け入れん。故に、教義が、教会が初めに保持せしものとは異なり、一の意味より他の意味へと進化すると説く異端説を、我は拒否す。
 同じく、キリストの花嫁たる教会に任され、これによって忠実に守らるべき天主の信仰の遺産を、人間の努力により徐々に形作られ将来に亘る無限の発展によりて完成さるべきとする謬説を、我は全て排斥す。」
(近代主義の誤謬に反対する誓い )

 天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち同一の教義,同一の意味,同一の見解において in eodem scilicet dogmate, eodem sensu eademque sententia」。

「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、実に説明するためである。」
(第一バチカン公会議(DS3070))

 だからこそ、ピオ六世、ピオ七世、グレゴリオ十六世、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世など、過去の教皇たちは現代世界の革命精神(「自由」「平等」「博愛」「人権」など)をそのまま排斥し続けてきた。過去の教皇たちはこれらの近代のリベラルなイデオロギーを「浄化する」ことを求めなかった。それは教皇たちに識別の能力が無かったからではない。ただ単にこれらの「価値」といわれる現代世界の革命精神がカトリックの教義の中に取り入れられ同化されることが不可能であったからだ。過去の教皇たちは教皇としての責務を立派に果たしてきた。彼らは、厳格に力強く、教会と革命原理との和解の試みを排斥し、除外してきた。過去の教皇たちは、何が教会の教えであり、何が天主の啓示であるかを良く知っていた、本当のカトリック聖伝の証人であった。

 だからピオ九世は「ローマ教皇は、進歩や自由主義や現代文化と和解し友情を結ぶことが出来るしそうしなければならない」という命題を排斥した(シラブス 排斥命題80)。

 リベラリズムは、キリスト教概念の奇形に過ぎない(チェスタートンの表現を借りれば「狂ったキリスト教概念」)。何故なら、天主の権威を拒否する制限の無い「自由」を求めるなど、リベラリズムに固有のものは、それ自体として、反キリスト教的である。だからこそ、過去の教皇たちは何度も何度も排斥し、告発し、断罪してきた。その最高の記念碑が、ピオ九世教皇のシラブスである。



 第二バチカン公会議によると、使徒たちに啓示された内容ではなく、教会の外にあった概念であり人間の才能から産み出されたものであるけれども、今日特に高く評価されているような価値がある、すなわち「民主主義」や「自由」や「人権」などの概念である。これら過去二世紀間のリベラルな文化を、福音と天主の啓示に結び付けるべきである。

 フランス革命のモットーである世俗の新しい原理である「自由」「平等」「博愛」「民主主義」「人権」「信教の自由」「良心の自由」「国家におけるイデオロギー多元主義」「イデオロギーの自由競争」などは、カトリック教義によって教会のものとされなければならない。

 たしかに、ピオ六世、ピオ七世、グレゴリオ十六世、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世など、過去の教皇たちは現代世界の革命精神をそのまま排斥し続けてきた。過去の教皇たちはこれらの近代のリベラルなイデオロギーを「浄化する」ことを求めなかった。しかし、第二バチカン公会議によれば、聖伝と天主の啓示とは、現代のメンタリティーに適応しなければならない。従って、現代のリベラルなイデオロギーと革命精神と原理とを、カトリックの教義の中に取り込まなければならない。

 従って、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられた、とは言えず、常に現代世界の思潮に合わせて教会が知らなかった良い道徳概念を取り入れていかなければならない。現代世界との対話と通して、教会の外で生まれたよいものを取り入れていくべきである。

 必要ならば、教導権が不可謬権を行使して定めた信仰の内容とその明確化に矛盾する内容に変わるし、また教導権が排斥した内容が信仰箇条になることもありえる。それが生きている証拠である。それが「生ける聖伝」である。

 天主の啓示した真理とは完全によそ者である要素を、信仰の遺産の中に取り込まなければならない。教会は、世の終わりまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進む


現代世界憲章 11(霊の呼びかけに対する答)
 公会議はまず第一に、今日特に高く評価されているような諸価値を、信仰の光のもとに判断し、その源泉である神に関係づけようと考える。これらの価値は神が人間に与えた才能から産み出されたものである限り、非常によいものであるが、人間の心の腐敗によって、それらが正しい秩序からはずされることも稀ではない。そこで浄化が必要となる


「1960年代の問題は、二世紀の間のリベラルな文化から引きだされた価値のより良いものを得ることであった。事実、教会の外に生まれたにもかかわらず、その世界観において浄化され訂正されて(教会内に)その場所を見つけることが出来る諸価値がある。これが(公会議において)なされた。」
(ラッツィンガー枢機卿【現ベネディクト十六世教皇】「信仰について」)

「十九世紀の進歩主義者たち(たとえばフェリシテ・ド・ラムネーなど)は、別のそしてしばしば教会に対して敵意的な世界に生まれた概念、それがそう意味したように、敵意的な精神でまだ一杯の概念を頻繁に取り上げ、そしてそれらに「洗礼を授ける」と考えてつつ、キリスト教に導入しようと試みた。・・・カトリック教会と実証的近代世界(そしてこれはその全てが1864年のシラブスによってまったく排斥された)との和解は、教会の中に、現代世界の概念をそれらの概念がそう意味したまま導入することによってなされることは出来なかった。この教会と現代世界との和解のためには、必要に従って現代世界の有効な貢献を抽出し浄化したあとそれを同化することにより、カトリシスムの常なる原理が新しい発展をすることによって深みのある仕事が要求された。」
(コンガール神父【後に枢機卿となる】 Yves Congar: "Vraie et fausse reforme dans l'Eglise", Cerf, Paris, 1950, pp. 345-346.)


 「公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。… 単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」
(パウロ六世、第2バチカン公会議を終了しようとするその日、第9公開会議における演説(1965年12月7日)の中で)


 「この文書 (=現代世界憲章) の全体的評価を求めるなら、信教の自由に関する文章と世界における諸宗教に関する文章との関連において、この文書はピオ9世の『シラブス』の修正であり、ある意味で『反シラブス』であると言うことが出来るだろう。・・・この文書は、教会が、フランス革命以降このようになった世界と公式に和解しようと試みている意味において、シラブスの反対の役を果たしている。」
【Cardinal Ratzinger, Principes de Théologie catholique, Téqui 1985, p. 426-427.】


 「第2バチカン公会議によって肯定された信教の自由は1864年のシラブスと内容的に別のことを言っている、しかもその文献の第16・17・19命題とほぼ反対のことを言っているということを、人は否定できない。」
【Yves Congar, La crise de l’Eglise et Mgr Lefebvre, le Cerf, 1977 p. 54.】


 「第2バチカン公会議の公文書である『エキュメニズムに関する教令』が、数世紀にもわたって教会が理解してきた意味においての『教会の外に救いなし』という格言とは別のことをいろいろ言っていると言うことは、明らかであり、隠すのも虚しい」
【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 85.】

 「エキュメニズムに関する教令」は、ピオ11世教皇の「モルタリウム・アニモス」と明らかに矛盾している。
【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 85. 】

 「教皇の要求に従って、私は『信教の自由に関する宣言』の最後の数段落を書くのを手伝った。私の仕事は、信教の自由というテーマが既に聖書の中に現れていたということを証明することだったが、実は、聖書の中にはそのようなものは存在しない。」
【Yves Congar, interview avec Eric Vitré, A la droite du Père, Edition de Maismie, 1994, p. 118.】

「第2バチカン公会議の以前にはローマで『唯一真実である』として教えられていた学説であるが、しかし公会議の教父たちによって否定された多くの説が数多くある。私たちは、それらの学説の目を見張るばかりの大きなリストを作ることが出来る。」
【Cardinal Suenens, Informations Catholiques Internationales, du 15 mai, 1969.】

 「ルフェーブルには、信教の自由に関する公会議の宣言を疑問視する正統な権利がある。何故なら、いかなる説明もなしに第2バチカン公会議は、第1バチカン公会議の立場を正反対にしたからである。」
【Hans Küng, National Catholic Reporter, October 21, 1977.】


 私たちの主イエズス・キリストが教えなかったような、また教会の知らないような宗教に関する真理、善に関する真理、道徳的な真の価値を、教会は受け入れなければならない。

 ピオ六世、ピオ七世、グレゴリオ十六世、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世など、過去の教皇たちは現代世界の革命精神(「自由」「平等」「博愛」「人権」など)をそのまま排斥し続けてきたが、彼らは識別能力が無かったからである。

 より人間らしい世界の建設のために、「ローマ教皇は、進歩や自由主義や現代文化と和解し友情を結ぶことが出来るしそうしなければならない。」


 従って、第二バチカン公会議によれば、「聖伝」(ここでは聖伝の聖伝と区別するために「新聖伝」と呼ぼう)とは、今でも続いている啓示であり、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられたわけではない。諸命題によって説教されるわけでもなく、使徒とその後継者に依存するわけでもない。

 新聖伝は「生ける聖伝」と呼ばれ、文化的にも歴史的にも条件から影響を受け、主観的に、フィーリング的にますます深められ、自覚され、意識を変え、気づいていかなければならない。従って、「生ける聖伝」は絶えず変化しなければならない。

 8(聖伝について)
 この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ 2·19 および 51参照) 信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。



【教導権】

 カトリックの聖伝によれば、教導権こそが信仰の最高の規準であり、従って、聖伝によれば、教会教導権の判断や定義こそが、聖書解釈者を熟させるようにする。

 教導権により、啓示の内容が、同一性を保ったまま、より明確化され、暗示的な内容がより明示的にされ、曖昧な意味がより精緻にされうるが、教導権が不可謬権を行使して定めた信仰の内容とその明確化に矛盾する内容に変わることは出来ない。また教導権が排斥した内容が信仰箇条になることもありえない。

 「使徒達より、正統信仰の教父達を通じ、常に同じ意味及び解釈に従いて我らに至るまで伝えられし信仰の教義を、我は誠実に受け入れん。故に、教義が、教会が初めに保持せしものとは異なり、一の意味より他の意味へと進化すると説く異端説を、我は拒否す。同じく、キリストの花嫁たる教会に任され、これによって忠実に守らるべき天主の信仰の遺産を、人間の努力により徐々に形作られ将来に亘る無限の発展によりて完成さるべきとする謬説を、我は全て排斥す。」

 従って、聖伝が、教導権の不可謬権を行使して定めた信仰の内容とその明確化に矛盾する内容へと変わることがあるとすれば、それは聖伝の死である。過去において否定されていた教えが肯定されることは、聖伝の不完全で矛盾している理解である。何故なら、第一バチカン公会議がはっきりと教えたように、「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、実に説明するため」だからだ。(第一バチカン公会議(DS3070))

 また、過去の歴代の教皇たちの一致した教えに反することを「聖伝」の名で教導権が教えるとするならば、それは矛盾している聖伝の理解である。何故なら、「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない、聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない、よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない」からである。すなわち同一の教義,同一の意味,同一の見解において in eodem scilicet dogmate, eodem sensu eademque sententia」理解しなければならないからである。


 第二バチカン公会議によれば、信仰の最高の規準は聖書であり、それは「聖伝とともに」である。もちろん、第二バチカン公会議に引用されている「聖伝」は、「生ける聖伝」つまり新聖伝の意味で理解されて初めて第二バチカン公会議の正しい理解になる。

[神の啓示に関する教義憲章] 21(聖書の尊重)
教会は、今日も、今までと同じように、聖書を聖伝とともにおのが信仰の最高の規準と考えている。実際、聖書は神の霊感によって永久に一度書かれて、神自身のことばを変わることなく伝え・・・ている。

 第二バチカン公会議公文書および第二バチカン公会議後の文書は、言葉遣いがより曖昧になり、どのようにでも解釈できる表現が使われる。例えば、聖伝によればキリストの教会はカトリック教会である、というように「である」と同一視されていたが、第二バチカン公会議後の文章は「の内にそんする subsistit in 」と曖昧に表現されるようになった。この表現は、プロテスタント牧者であるヴィルヘルム・シュミット(Wilhelm Schmidt)の考えついた言い回しである。

 従って、第二バチカン公会議に従って、聖書を「聖伝」(つまり新聖伝、「生ける聖伝」)とともに、信仰の最高の規準として受け入れないのならば、それは「不完全であり矛盾する」。たとえそうすることによって、過去の教皇たちの教導権に反対したとしても、全カトリック教会の昔ながらの聖伝の概念に反対したとしても、新しい聖伝の概念を受け入れなければならない。過去との断絶があったとしても、新しい聖伝の概念を受け入れないことは、ローマの司教と司教団という二つの頭によって保持されている「秘跡としての教会」の普遍的教導権に矛盾対立することである。

 第二バチカン公会議によれば、新聖伝とは今でも続いている啓示であり、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられたわけではないし、諸命題によって説教されるわけでもなく、過去の歴代の教皇らの教えと矛盾することを含むのであるから、使徒とその後継者に依存するわけでもない。

 何故なら、信仰の最高の規準は、第二バチカン公会議のいう時代によって変わる「生ける聖伝」つまり新聖伝とともにある聖書であるからである。概念がますます曖昧になっていくのが新聖伝だからである。「要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。」


 もしも新聖伝を受け入れることが出来ないならば、それは第二バチカン公会議後のこの世に生ける「秘跡」としての「教会」からの離教行為である。

 だから、昔の聖伝の概念にしがみつき、第二バチカン公会議の新聖伝を受け入れなかったルフェーブル大司教は「離教的行為」を行ったことになる。

「4. この離教的行為の根本は、「聖伝」についての不完全で矛盾した概念の中に認めることができる。不完全、何故ならそれは「聖伝」の生きた性格を十分に考慮に入れていないからである。第二バチカン公会議がはっきりと教えたように、「この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ 2·19 および 51参照) 信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。」
 しかし特に矛盾しているのは、ローマの司教と司教団とによって保持されている教会の普遍的教導権に対立する聖伝の概念である。キリスト御自身が使徒ペトロのペルソナにおいて御自分の教会において一致の奉仕職を委ねたところの者(=ローマ教皇)との教会的絆を断ち切りながら聖伝に忠実にとどまることは不可能である。」

(使徒書簡「エクレジア・デイ」APOSTOLIC LETTER "ECCLESIA DEI")


天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

■ 聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ、「ローマ典礼様式のミサ」)にようこそ!

2009年04月05日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに歓迎します! 

何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。

何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。

何故なら、新しいミサはエキュメニズムのために作られたからです。

2009年4月の聖伝のミサの予定(不規則になっております)



【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

4月3日 金 大阪 17:30 平日(3級)紫
4月4日 土 大阪 11:00 平日(3級)紫


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館2F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
(!!主日は二階で、10時から開始します!! よろしくお願いいたします。)

4月4日(土)午後6時30分 グレゴリオ聖歌に親しむ会
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課

4月5日(主)午前9時30分  ロザリオ及び告解
午前10時(←!!)  枝の主日(1級)紫 の儀式 および ミサ聖祭
(!!今回はいつもよりも30分早く繰り上がった10時からです!! よろしくお願いいたします。)

4月6日 月 東京 午前7:00 聖月曜日(1級)紫
4月7日 火 東京 午前7:00 聖火曜日(1級)紫

それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2009, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2009" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】