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「助産婦の手記」12章 『もうまた』

2020年07月31日 | プロライフ
「助産婦の手記」

12章

『もうまた』と婦人たちが言った、『踏切番のお上さんが、また赤ちゃんを生んだ! 全く恐ろしいことですね。今度のは、四番目ですよ。一番上のが、やっと復活祭に入学するというのに。それもまあ何とかよくなって行くでしょう。でも、こんなことは、非常な早婚の結果ですね……』
『もうまた』と男たちも、ビールのテーブルを囲んで話し合った、『踏切番さんは、実際、気が狂っているよ。そんなに子供を作るなんて。』そこに坐っていた連中のうち、幾人かは、自分もそれに劣らぬぐらい子供を持っていた。ほかの幾人かは、次のことをよく知っていた、すなわち、自分たちに子供がそんなに多くないのは、ただ偶然であるに過ぎぬということ、そして自分たちの生活のやり方では、恐らく十ヶ月每に一人子供が生れ得るということである。当時は、まだ大抵の人々が、自然を欺く試みをしようとするまでには立ち至っていなかった。しかし、二三の人たちが『もうまた!』と叫んだ以上、みんな黙ってしまい、そして何か違った意見を敢えて述べようとする者はなかった。ただ一人言ったのは、最初問題となったその本人であった。
『もうまただって、全くそうだ。私のうちでは、いつも直ぐそうなんだ。だが、どうすることができようか。我々だって、ほかの人たちよりも、放埓な生活をしているわけじゃないですよ。』
『そうだ、君、だが人間は、まさに自らを助けなくちゃならないんだよ!』と、一人しか子供のない太った行商人が叫んだ。『君は、いかに男たちが遊興や浮気をしながら、その厄介な結果の起るのを避けているかということを知らないほど馬鹿じゃないだろう。』
『私は、そんなことなんか知りたくもない。私は家にはれっきとした家内がある、淫売婦じゃないですよ。分ったかね!』
『君、軍隊では、そんなことは、みんな知っていたんだ。しかもその後、技術は一層進歩したんだよ……』
『軍隊ではお前さんは策略を使って公娼のところへ行っていたっけ。だから、私には構わないで、きょうでも、やはりその手を使ったらいいだろうね。私は、家庭を清らかにして置きたいんだ。私は、自然のありのままに妻と一体なんだよ。だからそれ以外のことは真平だね』踏切番は、怒り出した。

そこで行商人は、自分の考え通りの正しいドイツ語で話した。
『我々もまた紳士的な人間です――ただし、まさに理性的な人間です。もしもあんたが、子供たちを養育することができなければ、子供を沢山持っていても、どうするのですか? むしろ、一人だけ持っていて、その世話を正しくやって行く方が、より善くはないですかね?』
『私の子供たちの世話をするものは、我々以外には誰もいないんだ、だから誰にも関係のないことですよ。で私は、も一度言っておきますがね、我々はきちんと生活しているんですよ、それなのに、ほかの人たちと来たら……それに、私の子供たちの母親は、私にとっては善すぎるんだ――そしてほかの女たちは、どれも悪すぎるんだ、左様なら。』

彼は立ち上り、自分のビール代を払って、忠実な妻と、笑っている子供たちのいる自分の家に帰って行った。 しかし、不快なものが、彼の心の奥底に横たわっていた。彼が妻を見たとき、『もうまた』という言葉がまたもや耳にひびいて来た。きょうは、彼は非常に無口だった、全くいつもの習慣に反して。もしそうでなければ、彼はいつもその日に出くわしたいろいろのことを話して聞かせるのだった。二三週間前から、彼は最寄りの停車場を管理していた。そして、そこに常勤したいと考えていた。そこの社宅は、より大きく、庭もそうだった。しかも、その庭は、非常に綺麗な明き地であったから、何か小さい家畜を飼うこともできる。給料も少し高い。上級監督官は、彼にけさ約束した、『もうまた』子供が出来たのだから、あんたを真っ先きに推薦して上げましょうと。だから最初、この希望の光が、彼の気持を非常に嬉しくさせていたので、彼はいつもの習慣に反して、帰り道でビールを一杯引っかけたわけであったが、今やこの『もうまた』という言葉が、彼を腹立たせた。彼の妻は、さぐるように彼を眺めた。何事があったのだろうか? 彼女はそれを見いだすことができなかった。夕食後、子供たちをベッドへ連れて行った後で、妻は、きょう着いた彼の母親の手紙を渡した。読んでゆくと、『お前さんたちが、もうまた赤ちゃんを授かったことは……』とあった。『止せやい! もうまたなんて!』踏切番は、拳で食卓をたたいたので、お上さんがちょうど片づけようと思っていた皿が、跳ねとんだ。『おふくろまでが「もうまた」と書いてる! そのくせ、おれたちは、郷里では十一人きょうだいだったんだ!』
『でも悪い意味でじゃないでしょう、ペーター。』
『どこでも「もうまた」と言っている。今に私がどこに姿を現わしても、人から小突かれ、嘲けられないですますことはできないだろう。だが、きょう、私は、一体それがどうしたというんだと、あの連中に言ってやった。徹底的に言ってやったんだ。これからは、あの連中は私を煩らわさないでいてくれるだろう……』
ハハ―、そこが気に障ったのだな、と彼の妻は思った。私がいつも、自分の悩みを胸にたたみこんで、それを夫に知らせなかったのは、ほんとによかった。『もうまた』―― 何度、人は私にそう言ったことだろう。私の夫は、もっと賢くはないのか?
『いいですか、ペーター、男たちがどんなに馬鹿かってことは、あんた、よく知っているでしょう。勝手にしゃべらせて置きなさい。ビールの席で、ある一人が大きな口を開けて物を言うと、それが真面目なことに関係のあるときには、誰も違った考えを述べようとするものはないのですね。たとえ、どんなに反対意見を持っていても。ただ政治のことが問題になると、みんな互いに相手をどなり伏せようとするんです。ところが、もし道德問題か宗教問題について自分の考えを述べねばならぬ段になると、あの人たちはテーブルの下にもぐりこんでしまうんです。そんなことを気にやまなくてもいいですよ。私たち二人は、上の方に向って、光へ、天へ、進んで行こうと約束し合ったんです。そしてどんな困難、どんな不幸のときも、またどんな希望についても助け合うことを。そして自然に属する事柄についても。そして私たちは、お互いに助け合うために、夫であり妻なんです。他人には何のかかわりもないんです。そして結婚して子供が出来るなら―――それは、天主様から与えられるんです。そして、子供に歯を与えて下さる御方は、また食事の心配もして下さるでしょう。このようにして私たちは、直きにまた子供を育て上げることになるでしょう。』

踏切番のお上さんは、気丈夫な女であった。村中で最も気丈夫な人たちの一人だった。私はもうすでに、彼女の子供が三人生れるのを手助けした。しかし、四番目の子が生れたとき、彼女の結婚した若い妹が、何も知らずにたまたまその家にやって来て、そして全く驚いて『もうまた!』と叫んだときには、さすがのお上さんも、わっとばかりに泣き出した。もう数ヶ月前から、夫の親戚たちは、彼女が、もうまたそういうような有様で、夫にそんなに沢山の子供の重荷を背負わすという非難を彼女に浴びせかけたのであった! また、この村の上層の官吏や実業家の奥さんたちも、子宝ということを嘲笑した。その多くの人々の考えでは、それは愚かなことであり、他の人々にとっては、それは冗談であり、二三の人々にとっては、それはまた現代ばなれした精神であった。しかし、この「もうまた」という言葉は、その都度、針で刺すように、この母親の心にこたえた、それがますます繰り返されるほど、ますます深く。そして最後に、お産の苦痛のために、体力がもはや衰えてからは、今まで堰き止められ、彼女ひとりで辛抱して来た悲しみが、一度にほとばしり出たのであった。

私が彼女をなだめることに成功したとき、彼女は私に物語った。
『私は、あるお医者さんのところで、私として最後の勤めをしました。先生は、大変よいお得意がありました。財産もあって、いわゆる素封家です。で、一人お子さんが生れました。お姑さんが洗礼にお出でになったとき、その若い奥さんに申されました、「ですが、あんた、もうまた子供が出来ないように注意して下さい。私たち婦人は、もっともっと強くなければなりませんよ」と。そのお医者さんの奥さんは、 この忠告をよく肝に銘じました――そして御主人を拒みました。 ところが二年後に、そのお医者さんは、ある町の郊外で私生児を作ったのでした。――このことは、私をこのような問題について、篤(とく)と考えるようにさせました。そのお医者さんは当時、自分で言っていました、妻が私を拒んだから、そういうことになったんだと……そして私が結婚したとき、先生は、も一度私に言いました、「あんたの御主人にあまり禁欲を要求しないようになさい、そして御主人と仲よくなりなさい。男というものは、大抵、普通の女よりも欲望が強いものです。それは、自然にそうなっているもので、このことは、よく理解しておかねばなりません。私は、放縦な生活をすべきだというのではありません――断じてそうではない。しかし、すべてのことは、結局、限界があるんです。そして結婚した人の場合と、独身の人の場合とは違うのですよ……」
このことを私はたびたび熟考しました。聖パウロも言っているじゃありませんか、人、焦心するよりも結婚するを可とすと。お互いに助け合うこと、特にこのむずかしい問題についても、そうすることは、実に婚姻の目的ですね……
リスベートさん、私たちは、ほかの人たちよりも悪い生活はしてはいません。私たちは、力を鍛え、増すために、いつもある期間は禁慾しています。最初の子の産れた後は、三ヶ月でした。その次は、六ヶ月。最後のときは、殆んど一ヶ年でした。しかし、私の夫が、もはや昼も夜も落付きがなくなったということ、それを抑える力が殆んど足りなくなったということ――つまり、夫が誘惑に負けて婚姻を汚すかも知れないという危険が生じた(男たちは、このことを、いともたやすく、やってのけたものでした!)ということに、私が気がつくときには、私は彼の妻にならねばなりません。妻は夫に従うべしという天主の掟を別としても、私はこうせねばなりません。なぜなら、私は夫を愛し、そして助けたいと思っているからです。
いつも直ぐ子供が出来るということは、私の宿命でしょう。でも、生活のすべてが、天主の御手の中にあるのでしたら、このことも、また全く同様です。そして私は、私の小さな十字架を担うのです――しかも、私は喜んでそれを担います。子供たちは、実際、とても可愛いいものです。特に、全く小っちゃなのは、そしてそんな黄金のような小さなものを持っている家の中には、祝福があるわけですね……』

子供が生れたちょうどその日に、踏切番は、よりよい地位を与えられた。それは、赤ちゃんへの贈物ですよと、上級監督官は言ったが、彼自身も、実は五人も子供があった。さて、この出来事は、またビールの席で議論された。しかし、今度はウイレ老先生も同席しておられたので、いつもと違って鋭い反対票が存在したわけである。このときは、一人が演説をすると、他の人々もおのおの意見を持ち出すことを憚(はば)からなかった。
『実に旧式な人だね、』 と太った行商人が不平を鳴らした。『我々は、おっぴらに、そういう人の味方をするわけには行かぬだろう。』
『もし人が生活するなら――今のような生活の仕方では、』と老医師は言った。『男というものは、事の結果を自分で引受ける勇気も持たねばいけませんね。そうでなければ、その人は憐れむべきものですよ。』 先生は、まだ旧式な人であった。
『しかし、それは今日では、実際、変ってしまっているんですよ……』
『自然の法則は、決して変わるものではありません。成程、これまで自身自身を抑制することを学ばなかったか、または全く自制することを欲しない意志の弱い人々が、そのような手段をとることは理解できます……しかし、それは決して正しいことではありません。しかも、そうすることを人々に勧めようとすることは、実に、まさしく犯罪です。もしそういうことになれば、夫婦間の最も密接な関係は全く明るみに曝されることになるから、その神聖さは、ことごとく失われてしまうでしょう。相互の喜びであるべきものが、相互に対する嫌悪となります。自然に反してなされるものは、常にその報いを受けます。それは根本的には、人間にとって、貧困化をもたらすものであり、掠奪であり、傷害です……』
『しかし、人間は、自然を支配することを学ばねばならないですよ……』
『確かに、自分自身の中にある自然をですね。しかし、あんたの考えているものは、 自然の支配というものじゃありません。支配というものは、自分の衝動を抑制し、その満足を棄てることでしょう。これに反し、それ自身の目的から離れて、ただ享楽しようとする欲望は、自然を濫用することであり、あざむくことです。一つの暴行であって、それは罰せられずには置かれません。私は、互いに全く身を滅ぼし合った夫婦者を一組以上、あなた方にお目にかけることができます。また、まさしくそのために、もはや調和して行くことができない結婚生活を一つ以上、挙げることができます。この年老いた医者の言うことを信じて下さい。人間は、勝ったように見えるときに、却って破滅してゆくということを。そういう人たちは、子供を育てる代りに、金を節約しようと欲する。ところが、それから金を医者と薬剤師のもとへ、そしてまた病院の中に運ぶのです。彼等は、情欲を享楽しようと欲する――そして心の奥底では、お互いに忌みきらうのです。そして相変らず、満足を得られず、救われることもなく、そしてかようにして情欲の適正を得た真の不安に達することは決してできないのです。人は、もはや、自分自身にいや気がさすのです――その理由が判りもせずに。私はあなた方に特に警告しますがね。どうか現在、ドイツに氾濫しようとしているこの流れの中に、身をさらわれないようにして下さい……』
そこに居合わせた男たちのうち、踏切番の家に出産のお祝いに行った一人が、そのことをそこで話したのであった。

産児制限の問題が、当時初めて私の視野にはいって来た。確かに、いつまでも独身でいて機会を避けることのほうが、結婚していて、互いに相手に対して権利を持ち、そして昼も夜も機会がありながら自らを抑制することよりも、むしろたやすい。結婚していて、長い間、禁慾生活をおくるためには、大きな勇気が必要である。しかし、そうしようと思えば、できるのである。









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