Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

霊魂の生命なるキリスト 第1講の六 天主の御計画実現のために聖寵をもって我等を養子とならしめ給う――霊的生命の超自然的特質

2020年07月15日 | カトリックとは

霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

六 天主の御計画実現のために聖寵をもって我等を養子とならしめ給う――霊的生命の超自然的特質。

我等はすべて、イエズスの聖德に与からなければならない者である。それは イエズス・キリストは我等を天主の子とさせ、天主の生命に与からせるためにこそ世に降り、十字架に釘つけられて死し給うたからである。「キリストはすべての人のために死し給えり」(コリント後5:15)。もともと聖父は聖子キリストが多くの子の頭、多くの兄弟中の長子となることを望み給うので、キリストが一人孤立し給うては、天主の御計画は完成したとは言えないし、またキリストも完全とは言えない。それで聖パウロは「天主は天においてキリストを己の右に置き、一切の権勢と能力と主権との上、またすべて今の世のみならず来世にも名づけられて、名あるものの上に置き給い、万物をその御足の下に服せしめ、(その体たる) 教会の万事の上に頭となし給えり」(エフェゾ1:20-23) と言っているのである。

キリストの体なる教会。さらに聖パウロはキリストがこの団体なる教会をご自分の手に収められたのは、終りの日においてこれが染みなく皺なく汚れなく聖ならんがためなることを明確にして、「光栄ある教会を、自ら己がために備えてこれをして聖なるもの、汚れなきものたらしめんためなり」(エフェゾ5:27)と言っている。つまりこの教会という団体こそ、キリスト自ら創立し給うて御自分のすべての権利を譲り、これをすべての国・すべての時代の人の上に行わせ給うカトリック教会なのである。人は洗礼によってこの団体に入り、聖寵によって信望愛に活き、天国において完全実体なる天主と一致し、これを自分のものとして終りなく直観し、楽しむ光栄の団体に入るのである。

人が完全に安息する永遠の都。これこそが、天主が人間のために建て給う御計画の完全なる実現であり、恩寵によって建てられたる真理の御国、人類が完全に安息する永遠の都である―これこそが、イエズス・キリストが人の世にもたらし給うた偉大かつ無比なる恩寵であり、聖パウロが「天主の恩寵はわが主イエズス・キリストによれる永遠の生命なり」(ロマ6:23)と言う所である。

このように啓示の道を辿り来ると、天主の深遠で偉大なる御旨・御計画は、聖子イエズス・キリストによって御自分を我等に与え給うことであることがはっきりする。そのすべてが愛の御心より出ることを知るなら、それが浅はかなる人智には悟り難く極め難い恩寵であることを黙想しつつ、ただ心の深き処において「我もし天主の賜を知らば・・」とつぶやくのみとなる。しかも天主がこのように計らい給うのは、我等を御自分の子とならせ、自ら我等の父となって我等を愛したいと欲し給えばなのである。「我等が天主の子等(こども)と称せられ、かつしかあらんために、父の我等に賜いし愛の如何なるかをみよ」(ヨハネ一3:1)。

されば、我等は聖レオが言うように、天主が人をわが子と呼び給い、人に天主を我等の父 Pater Noster と呼び奉らせるものは、一に天主の愛によるものであることを知る。「天主は特別の愛と慈悲の御心より我を創造(つく)り我を招き、洗礼の秘蹟をもって御自分の子たらしめ給えり、主は無限の富に充満ち給えば、他に被造物を必要とし給わざりしなり」、主は「御心よりして真理の言をもって我等を生み給いしなり」(ヤコボ1:18)。特別の御寵愛をもって我等を選んで、人間本性の低きより御自分の無限の高きに上げ至福に至らせ、御計画の一部をこの身に実現させ、かねてより選ばれてイエズスに似奉るものとなった霊の群に我をも加え、共に天国の世嗣(よつぎ)とならせ給う事を黙想するとき、聖パウロと共に「ああ、天主の御計画の極め難さよ、愛のはかり難さよ」と心から感謝と歓喜とが湧き上るのを覚えるだろう。

このように天主は御子イエズス・キリストを世に遣わして、この愛の御計画を彼の上に顕わし輝かせ、彼によってこれを我等に理解させてくださった。「天主のこの世を愛し給えることは、御独子を賜う程なり」(ヨハネ3:16)。このように天主が御独子を世に賜うたのは、これ、御子が我等の兄弟となり給い、我等を彼と共に、天国の世嗣となして、その光栄と恩寵の富に与かる者とならせるためであった。「これ、キリスト・イエズスにおけるその善良をもって、我等の上における恩寵の非常なる富を・・・・ 顕わし給わんためなり」(エフェゾ2:7)。これが、天主が御慈愛の中に潜め給う御計画である。

天主がこのように御独子イエズス・キリストを世に遣わしてまで我等に御計画を示し、我等が聖なるものとなるようにと計り給うのは、これ、一に我等を愛し給うが故である。そのことを知るなら、我等もまた己の成聖を熱望し達成して、天主の御望みに応え奉らねばならないであろう。

天主はどのようにして人を成聖し給うか。天主はすべてを聖子イエズス・キリストによってなし給い、聖子イエズス・キリストによって我等に聖寵を施し、御自分と一致させ、聖とさせ給う。「我によらずしては父に至る者はあらず」(ヨハネ14:6)。だからキリストは我等を天主に導く道、しかも唯一の道で、我等はキリストを離れては何もすることができない。「我を離れては、汝等何事をもなす能わず」(ヨハネ15:5)「そは据えられたる基礎(どだい)すなわちキリスト・イエズスを除きては、誰も他の基礎を置くこと能わざればなり」(コリント前3:11)。
このようにして、天主はその充満てる生命を、キリストの人性を通じて「キリストの賜いたる量に応じ」(エフェゾ4:7)すべての霊にこれを与え給うのだ。このような理由で我等の成聖の程度は我々の中に宿るキリストの生命の量によって定まる。しかもこれは天主の計画し給う唯一の成聖の方法である。だから重ねて言うが、人の成聖はキリスト・イエズスによる他に道はない。

聖パウロは、天主が我々を御自分の子としてくださる御恵みに対する感謝と、天主の永遠の愛とキリスト・イエズスの功力と恩寵によって実現させられる驚嘆すべきその方法について、たびたび述べている。「天主の我等を救い、かつ聖なる召をもって召し給いしは、我等の業によれるに非ず、御自らの規定により、またイエズス・キリストにおいて世々の以前より我等に賜いたる恩寵によれるなり」(テモテオ後1:9)「けだし、汝等が信仰をもって救われたるは、恩寵によるものにして自らによるに非ず、すなわち天主の賜なり、また業によるに非ず、これ誇る人のなからんためなり」(エフェゾ2:8,9)。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。