2020年10月11日(主日)聖霊降臨後第19主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は10月11日で、聖霊降臨後第19主日です。
ところで10月11日というのは「マリア様が天主の御母である」という事の祝日なのです。
これは、ピオ十一世教皇様が、エフェゾ公会議の1500周年を記念して、1931年に「全世界で祝うように」と命令したので、普遍教会で祝う祝日となりました。
エフェゾ公会議というのは、431年、今はトルコのエフェゾという所で開かれました。これについては非常に興味深い話があります。
エフェゾ公会議では、ネストリウスというコンスタンティノープルの総大司教が排斥されて、「彼の教えが間違っている」と宣言されました。
ネストリウスは何を言ったかというと、「キリストには2つのヒポスタティスがあって、そしてそれが2つのヒポスタティスが、1つのプロソポンという所で結合している。そして1つは天主のヒポスタティスであって、もう1つは人間のヒポスタティスがあるから、イエズス・キリストというのは実は、ちょうど預言者が天主を運んでいたように、天主に生かされていたように、何か一体となっていたように、そういう意味で天主を運ぶ者であって、でも合体していたわけではない」と言ったのです。
ですからネストリウスによると、「マリア様は、天主の御母“テオトコス”ではなくて、天主を運ぶ者“テオドコス”、そしてもっと正確には、『天主の御母』ではなくて、『キリストの御母』(クリストコス)と言うべきだ」と言ったのです。しかもそれはクリスマスの日に。コンスタンティノープルの総大司教が。
それで民衆はびっくりしました。そして立ち上がって「おかしい!」と騒ぎ出しました。
そこで、エフェゾ公会議では、「そうではない。カトリックの、私たちの受け継いだ教えでは、イエズス・キリストは真の天主であって、真の人間である。つまり天主の御言葉のヒポスタティス、天主のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性が、1つとして合体して、混乱する事なく結合している。そして天主は、完全に真の天主であって、同時に真の完全な人間である。イエズス・キリストはそうである」と仰いました。
「ですからマリア様は、イエズス・キリストの御母であるので、そしてイエズス・キリストは真の天主であるので、マリア様こそ、『天主の御母』と言わなければならない」と言いました。431年です。
そしてその1500周年を記念して、10月11日の今日、ピオ十一世がこれを全世界で祝うように制定したのです。
ところで今日、ちょうど聖霊降臨後第19主日では、「ある王様が、その王子のその息子の為に、婚宴の大宴会を開いた、準備していた」という福音を黙想しました。
教父たちによると、「この宴会、この『婚姻』というのは、天主の聖子の『人間本性』と『天主の本性』とが合体した、その『天主の御言葉のペルソナにおいて合体した』という神秘的な婚姻を祝う事である」と言っています。
そして私たちは、この婚姻の席に、本性ではなくて、「恩寵」によって、「成聖の状態」によって招かれている事を、一緒に黙想しました。
天主は愛であって、私たちを愛するがあまり、人間本性と、御自分の天主の本性を、一つに、婚姻のように一体として、合体させました。
そして今日、この神秘を同時に祝いました。
ではこれを、どうやって良く黙想する事ができるでしょうか?
それは、「ロザリオのお祈り」をよく唱える事によってです。なぜかというと、ロザリオでは、私たちは何度も何度も、この婚姻の神秘が起こった、その瞬間の事を祝っているからです。
「めでたし、聖寵充ち満てるマリア。主、御身と共に在す。御身は女の内にて祝せられ、御胎内の御子、イエズスも祝せられ給う。」
「“天主の御母”聖マリア、罪人なる我らの為に、今も、臨終の時も祈り給え。アーメン。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2020年11月06日
カトリック東京大司教区の皆様
教皇フランシスコの同性婚に関する発言について
ドキュメンタリー映画「Francesco」における教皇フランシスコのインタビュー内容について、過日報道がなされました。教皇フランシスコのこの発言は全世界で報道され、教会内外からさまざまな反応が出ています。この発言について、東京大司教としての見解を以下に記します。
1: 映画において実際にどのような発言があったのかは、その映画を見ていない段階で確実に知ることは出来ません。報道された断片的な言葉によれば、教皇フランシスコは、何人も性的指向・性自認の如何によって、家庭から排除されてはならないことを指摘しています。
性的指向・性自認の如何によって人を裁いてはならないことや、これまでの同性愛者に対する教会の裁きの態度について深い反省を述べてこられた教皇フランシスコの姿勢は、ここでも一貫しています(例えば2016年6月26日のアルメニア訪問時の機内記者会見など。また使徒的勧告「愛のよろこび」250参照)。教会も同様に、性的指向・性自認の如何によってだれかを教会共同体から排除するような態度を否定します。
2: 教皇フランシスコの発言は、パートナーとして生活している同性愛の方々のみならず、性的指向・性自認の如何を問わず、すべての人が差別されることなく尊厳が守られなくてはならないとする教皇の姿勢の表れです。これは2013年の教皇就任以来繰り返し強調されてきた、いつくしみ深い教会、だれひとり排除されない教会、隅に追いやられた人のもとへ出向いていく教会などという教皇の考えと一貫性のある発言であり、すべてのいのちを守るためという呼びかけを具体化するものです。
また教皇の発言の後半は、10年ほど前のアルゼンチンにおける同性婚の法制化議論において、生活をともにする人が差別されることなく公的保護を受けられるようにするべきだという趣旨の発言をしたことに触れたものだと伝えられています。
なお、この発言は「婚姻の秘跡」の教義に関して述べたものではありません。「婚姻の秘跡」に関するカトリック教会の教義に変更はありません。(使徒的勧告「愛のよろこび」251参照)
神のいつくしみそのものである主イエスに倣う教会は、神からの賜物であるいのちが、その尊厳を守られ、だれひとりとして排除されることのない社会が実現するために、常にいつくしみを提供する野戦病院である事を目指し、特に社会的に弱い立場にある人たちと歩みを共にしていきます。
カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/40606/
私自身子供の頃から同性愛者だった。
同性愛の傾向は先天的であれ、後天的であれ、霊的な傷、或いは病だ。
原罪がそうであるように。
これを助長させるのが、ナルシズムや傲慢だ。
そして、その肉の誘惑は歯止め無くあらゆる罪を伴うようになり、霊魂をその罪の泥沼に陥らせる事になる。
教会は、罪に妥協することはないはず。
聖書にある通り、同性愛を行うものは罪を犯す者だ。
イエズス・キリストの救いがあってこそ、改心と許しがあるが、改心の無いところには救いはない。
これははっきりさせなければならない。
だから罪のある者、改心を望まぬ者、許しを望まぬ者にあえて近づく事も賢明ではない。
人権は尊重されるべきだが、敢えて病のある者に近づき癒せるのは医者である司祭だけ。
真摯な告白に赦しの秘蹟を与え、償いに導く聴罪司祭だけだ。
司教様のコメントはまるで偽善の真綿でくるんで罪を断罪もせず擁護しているように聞こえる。
私は同じく天主に罪を犯しながらも、いまだにそれを罪と認められない哀れな霊魂のために祈ろうと思った。
同性愛の行為は自然法に背き、生命という賜物から閉ざされ、真の感情的・性的補完性を欠いているためです。したがって、これを認めることはできません。
2.特定の、そして時には同性愛の根強い傾向を持っている、同性愛の条件にいる男性や女性がいます。この条件は彼らにとっては試練ではあるけれども、それ自体は罪を構成しないかもしれませんが、それにもかかわらず、客観的には、これは秩序を乱す傾向です(『カトリック教会のカテキズム』2358番、教理省『Homosexualitatis problema、同性愛者の司牧的ケアに関するカトリック教会の司教への手紙』3号[2])。
したがって、彼らについては、不当な差別を避けて、敬意と思いやりと感受性をもって受け入れられるべきです。カトリックの信仰は、信者に罪を憎み、しかしながら罪人を愛することを教えています。
3.信徒、特にカトリックの政治家は、同性関係の法的承認に反対する義務があります(教理省『Considerations Regarding Proposals to Give Legal Recognition to Unions between Homosexual Persons, Diverse questioni concernenti l'omosessualita』10号[3])。
家族をつくる権利は主張さるべき私的な権利ではなく、人間を性的な差異(ちがい)のうちに「男と女とに天主がつくりだされ」(創世記1章27節)、人を、つまり男と女を、生命の伝達にお呼びになる創造主のご計画に対応したものでなければなりません。
「結婚した夫婦は(父、子供、孫、曾孫などと)世代世代の継続継承を保証するので、抜きん出て公共の利益に合致します。そのため、市民法は夫婦の結婚に制度的な承認を与えます。
一方、同性関係は、この機能を公共善のために果たさないため、法的観点から特別な注意を払う必要はありません」(同上9号[4])。結婚した夫婦間の結合と同じ意味において同性間の結合を語ることは、実際には、非常に大きな誤解を招くことになります。なぜなら、同性の人の間にはそのような結合は存在しえないからです。司法の運用に関しては、同性愛の状態にある人は、他のすべての市民と同じように、自分の私的権利を保護するために、常に法律の規定を利用することが可能です。
報道機関によって非常に大きく強調されて報道された、教皇フランシスコのものだとされる個人的な意見が、聖書と聖伝に表わされ、そして教導職によって守られ、保護され、解釈される教会の不変の教えに一致していないことは、最も深い悲しみの源であり、また差し迫った司牧的な懸念の源です。
また同様に悲しく、かつ懸念されることは、カトリック教会が路線変更をした、すなわちそのような基本的かつ重要な問題について教会の永続する教えを変更した、という完全に誤った印象を与えることによって、一般的に言えば、それらが引き起こすつまずきに加えて、カトリック信徒の間に引き起こされる動揺、混乱、誤謬です。
レイモンド・レオ・バーク枢機卿
2020年10月22日、ローマにて
愛する兄弟姉妹の皆様!
次の証言集は、とても貴重です。
http://gokyo.webcrow.jp/diary2017/index-ex.html
これを日本語で作ってくださったヨゼフ・ジェンマさんに感謝いたします。