アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会のインテリジェンス・ウェブ・サイトDICI に掲載された記事を日本語に訳してくださった方がおられますので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
原文はこちら
日本──長崎、西坂の丘は「重要なカトリック巡礼地」
二〇一二年十月八日
今年の六月十日、日本のカトリック司教協議会は、二〇一二年二月の年次総会の間に告知されたことに一致して、長崎の西坂の丘を「重要な国際的巡礼地」であると指定した。今後、巡礼者たちは、大阪、広島、福岡を通過して、京都から長崎へと旅行できることになるだろう。巡礼者たちが通過する五つの各教区における記念のプレートとともに、つまり、一五九七年二月五日、西坂の丘ではりつけにされ、一八六二年六月八日、ピオ九世によって列聖された二十六人のカトリック信者たちが辿った道のりに従うことになる。
時の権力者、豊臣秀吉は、一五八二年のその治世の初めに、イエズス会士たちに大阪に逗留し、同地で説教する許可を与えたにも関わらず、一五八七年、カトリックの全宣教師の追放令を発布した[訳注: バテレン追放令]。日本のキリスト信者の共同体は当時、二五〇の教会を持ち、信者数は二十万人に達していた。一五九五年には、一三七名のイエズス会とフランシスコ会の宣教者たちを含め、三十万人にまでなっていたと思われる。日本のカトリック教会の発展は、大名たち──影響力ある封建的総督──の改心によって成長を遂げ、九州の大名たちにすでに不満を抱いていた権威者たちを怯ませるほどであった。一五九六年十二月に、宣教師たちに反対する配下の一部の大名たちの讒言を受けて、豊臣秀吉はすべての宣教師と日本のキリスト信者たちの根絶を宣言した[訳注: サン・フェリペ号事件]。同年十二月三十日、秀吉は京都で捕縛された修道士たちと信者たちを大阪と堺を経て長崎へ連行し、そこではりつけにして殺害せよと命令を下した。死刑囚たちの公式名簿には二十四人の名前が乗せられており、その他二名の信者は長崎に向かう道中で加わった。囚人たちは縄で縛り上げられ、移動途中の村々の住民たちに見せしめとしてさらし者にされ、耳を削ぎ落とされ、陸路と海路で八百キロ以上の旅をした。一月のさなか、その地方では最も寒冷な月の一つであり、二十六日間旅は続いた。二月四日、二十六名はついに長崎から三十五キロ離れた彼杵に到着した。
一五九七年二月五日、日本最初の二十六名の殉教者たちは、西坂の丘ではりつけにされた。イエズス会士、フランシスコ会士、そして平信者たちは、いっせいに処刑されたのである。殉教者たちの遺骸は九ヶ月間、十字架上にさらされたままであった。
その他六〇〇名の信者たちが、日本を血で染めた迫害の間、同じ場所で殉教を耐えた。それは一八七三年まで続いた[訳注: キリシタン禁令の撤廃]。一部の歴史家たちによると、殉教者の数は三十万に及ぶのではないかとのことである。
処刑場所は長崎市と長崎湾の反対側に位置する小高い山にあり、死刑囚のキリスト信者たちが処刑された場所であった。今日では「殉教者の丘」という名を与えられ、長崎の中心を走る駅の近くにある。日本では、古代ローマのように、はりつけでの処刑は屈辱的かつ重罪犯のための処刑方法であった。西坂の丘の頂には、京都から日本のゴルゴダの丘へと徒歩で引き回された二十六名の信者たちに敬意を表して、一九六二年に感動的なモニュメントが立てられた。信者たちはその丘に祈りを捧げるために訪れる──殉教者たちは直立し、ずらりと並んだ姿で描かれている。隣には近代的なチャベルと、迫害時代からの多くの遺物を収めた博物館がある。
一五四九年、聖フランシスコ・ザベリオの来日以来、日本におけるカトリック教会の信者数は、人口の一バーセントに満たない。約半パーセントが日本人であり、残りの半パーセントは、大部分が東南アジアやラテン・アメリカからの移民で成り立っている。
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사랑하올 형제 자매 여러분,
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二〇一二年十月八日
今年の六月十日、日本のカトリック司教協議会は、二〇一二年二月の年次総会の間に告知されたことに一致して、長崎の西坂の丘を「重要な国際的巡礼地」であると指定した。今後、巡礼者たちは、大阪、広島、福岡を通過して、京都から長崎へと旅行できることになるだろう。巡礼者たちが通過する五つの各教区における記念のプレートとともに、つまり、一五九七年二月五日、西坂の丘ではりつけにされ、一八六二年六月八日、ピオ九世によって列聖された二十六人のカトリック信者たちが辿った道のりに従うことになる。
時の権力者、豊臣秀吉は、一五八二年のその治世の初めに、イエズス会士たちに大阪に逗留し、同地で説教する許可を与えたにも関わらず、一五八七年、カトリックの全宣教師の追放令を発布した[訳注: バテレン追放令]。日本のキリスト信者の共同体は当時、二五〇の教会を持ち、信者数は二十万人に達していた。一五九五年には、一三七名のイエズス会とフランシスコ会の宣教者たちを含め、三十万人にまでなっていたと思われる。日本のカトリック教会の発展は、大名たち──影響力ある封建的総督──の改心によって成長を遂げ、九州の大名たちにすでに不満を抱いていた権威者たちを怯ませるほどであった。一五九六年十二月に、宣教師たちに反対する配下の一部の大名たちの讒言を受けて、豊臣秀吉はすべての宣教師と日本のキリスト信者たちの根絶を宣言した[訳注: サン・フェリペ号事件]。同年十二月三十日、秀吉は京都で捕縛された修道士たちと信者たちを大阪と堺を経て長崎へ連行し、そこではりつけにして殺害せよと命令を下した。死刑囚たちの公式名簿には二十四人の名前が乗せられており、その他二名の信者は長崎に向かう道中で加わった。囚人たちは縄で縛り上げられ、移動途中の村々の住民たちに見せしめとしてさらし者にされ、耳を削ぎ落とされ、陸路と海路で八百キロ以上の旅をした。一月のさなか、その地方では最も寒冷な月の一つであり、二十六日間旅は続いた。二月四日、二十六名はついに長崎から三十五キロ離れた彼杵に到着した。
一五九七年二月五日、日本最初の二十六名の殉教者たちは、西坂の丘ではりつけにされた。イエズス会士、フランシスコ会士、そして平信者たちは、いっせいに処刑されたのである。殉教者たちの遺骸は九ヶ月間、十字架上にさらされたままであった。
その他六〇〇名の信者たちが、日本を血で染めた迫害の間、同じ場所で殉教を耐えた。それは一八七三年まで続いた[訳注: キリシタン禁令の撤廃]。一部の歴史家たちによると、殉教者の数は三十万に及ぶのではないかとのことである。
処刑場所は長崎市と長崎湾の反対側に位置する小高い山にあり、死刑囚のキリスト信者たちが処刑された場所であった。今日では「殉教者の丘」という名を与えられ、長崎の中心を走る駅の近くにある。日本では、古代ローマのように、はりつけでの処刑は屈辱的かつ重罪犯のための処刑方法であった。西坂の丘の頂には、京都から日本のゴルゴダの丘へと徒歩で引き回された二十六名の信者たちに敬意を表して、一九六二年に感動的なモニュメントが立てられた。信者たちはその丘に祈りを捧げるために訪れる──殉教者たちは直立し、ずらりと並んだ姿で描かれている。隣には近代的なチャベルと、迫害時代からの多くの遺物を収めた博物館がある。
一五四九年、聖フランシスコ・ザベリオの来日以来、日本におけるカトリック教会の信者数は、人口の一バーセントに満たない。約半パーセントが日本人であり、残りの半パーセントは、大部分が東南アジアやラテン・アメリカからの移民で成り立っている。
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