Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス様の立てた教会は後にはもう一度、かつてあった通りの素晴らしい形で、聖伝において復活する事を私たちは確信しています。より良い状態で復活する事を確信しています。

2022年03月10日 | お説教・霊的講話

2022年2月25日(金)御受難の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は金曜日で、イエズス様の御受難の随意ミサを行なっています。

このイエズス様の受難は、イエズス・キリストが同時に天主であってそして人間であった事から可能でした。イエズス様は人間になった時に、人性を取られた時に、天主である事をやめたわけではありません。イエズス様が十字架に付けられて、十字架の上に死するまで、自分を無とされたというのは、だからといって天主であるという事を放棄したという事ではありません。

イエズス様はいつでも、どんな時でも、御托身をした後には、同時に天主であって人間でした。マルチン・ルターはこの点で間違っていました。マルチン・ルターは、「天主である事を放棄した」と誤解して理解していました。

ところで現代の教会も、教会の受難を迎えていると思われます。教会は、一・聖・公・使徒継承の真のイエズス・キリストの教会は、イエズス・キリスト天主がお立てになった、創立したものですから、決して地獄の門に負ける事はありません。しかし同時に、人間がその構成員であるので、その構成メンバーである人間の弱さの為に、人間性を帯びているが為に、苦しむ事もあります。

そして現代、ベネディクト十六世が言っている通り、「教会は、姿をますます、見分けがつかないほど汚されてしまっている」と言っています。そして実際、その受難はますますひどくなるようです。もうこれ以上教会が、こんなにここまで苦しむ事はないだろう、と思ったのが、更に苦しみを受けているかのようです。ちょうどイエズス様が、まさか天主でありながら、なぜ十字架の上で亡くなってしまったのか、そのような苦しみが可能だったのか、弟子たちも使徒たちも理解を超えていたように、教会も大きな苦しみを受けているようです。

去年の10月から来年の10月まで、約2年に渡って教会では、「シノダリティについてのシノドス」というものが行なわれています。これは結局は、教会を変えてしまおう、フランシスコ教皇様の言うには、「別の教会ではないけれども、これまでとは違った教会を作ろう」と言っています。

どのように違うかというと、それはすでに数日前にドイツで、「シノドスの道」という会議が開かれていますけれども、それでこれからどうやるのか、という事を全世界に示したようです。このシノダリティの為のシノドスというのは、ローマで、去年の10月10日に開かれました。そしてその一週間後の主日の10月17日から全世界の司教区で開かれています。今その真っ最中です。

それはどういう事かというと、かいつまんで説明します。「全ての洗礼を受けた人は、そのシノドスに参加して、教会はそのような人たちの声を聞きたい」と言っています。聖書の言葉を聞きたい、あるいは神学者の言葉を聞きたい、司教様の教えを聞きたいというのではなくて、「信徒の声を聞いて、特に教会に来なくなってしまったような、教会を離れてしまった人々の声を聞きたい。」「そういう人たちが主体になって、それを司教区ごとにまとめる」と。

三段階あって、まず司教区ごとのそのような集まりです。私が韓国にいた時は、韓国ではその話で持ちきりでした。小教区ごとに信徒たちが発言をする、それをまとめる。司教区でそれをまとめて、それを上げる。そしてそれを次の段階では、今年の秋頃に、大陸ごと、あるいは地方ごとに、アジア、北アメリカ、南米、アフリカ等と、司教あるいは平信徒たちが集まって、その色々上がった司教区の内容をまとめて、そして来年の10月にはローマで、そのような代表者たちが集まって、最終的な文章を決定する。

これがシノダリティについてのシノドスで、教会の言ってみれば民主化であって、今まで教会がやった事がないような事をやろうとしています。

つい最近ドイツでは、その「シノドスの道」という会議があって、採決が執られました。ドイツは2019年から既にそのようなものを始めています。そして初めての採決をしたのですけれども、その内に絶対多数で、2/3以上で可決されたものがいくつかあります。たとえば、「女性司祭を導入しよう」とか、あるいは「司祭の独身制を廃止しよう」とか、あるいは「罪の状態にある人々にも御聖体を配る事ができるようにしよう」とか、あるいは「平信徒でも教会の指導的な立場に立ったり、ミサをしたり、ミサの司会をしたり」とか、あるいは「司教様の役割をもっと縮小すべきだ」などという革命的な、全く教会が一体何であるか、天主が立てた教会がどのような構造か、という事を全く理解できていない、そのような決議が可決されました。

今、日本でも同じような事がなされています。ローマでもそのような、似たような文章が絶対多数で認可されるのかもしれません。教会は今までの美しいその姿を、苦しみの姿に、見違えてしまうほどの姿に変えさせられようとされています。

しかしイエズス様は、その御自分の苦しみを、私たちの罪の償いの為に、より大きな善の為に、それを捧げて下さいました。そして最後には復活を以って、御自分が真の天主であって、真の人間であるという事を証明されました。それと同じように、これから私たちは、教会の色々な苦しみを目撃するかもしれませんが、決して何も恐れないで下さい。何も絶望したりなさらないで下さい。イエズス様の立てた教会は後にはもう一度、かつてあった通りの素晴らしい形で、聖伝において復活する事を私たちは確信しています。より良い状態で復活する事を確信しています。

だからといって、私たちは教会を他の人と一緒になって痛めつけたり、汚したりしてはなりません。私たちは聖ベロニカのように、あるいはマリア様のように、苦しむイエズス様に寄り添って、イエズス様をお慰めして、そして苦しみを捧げつつ、復活を待ち望みましょう。それと同じように、教会の苦しみを私たちはなるべく和らげようとしつつも、そしてその教会を汚すような方には決して与ずに、そして教会の復活を確信して待ち望む事にしましょう。

その為にはどのようにしたら良いのでしょうか?

教会が最も大切にする宝、このミサに与り続ける事によって、教会を守る事ができます。教会をそのままの栄光のまま保つ事ができます。そして今、多くの方々が教会を発見しています、カトリック教会のあるべき姿がどこにあるか、という事を発見しています。全世界中で、「聖伝のミサにこそ、救いがある」という事を、人々が目覚めています。ですから私たちは是非それを助けるように、教会を助けるように、ミサを捧げ続けていくように致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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1 コメント

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今は受難の時 (ヨハネ)
2022-03-10 23:07:19
今はイエズス様の神秘体である教会の受難の時のようです。イエズス様が疲れ切った体にもかかわらず十字架の道行きの登り坂で担った重い十字架を、不承不承だったかもしれないけれど少しは軽くして差し上げたキレネのシモン、十字架の道行きの途中で茨の冠で血だらけになっていたイエズス様に顔を拭く布を差し出したベロニカ、長い間十字架の前にたたずんで、死にゆくイエズス様を見て悲しみのあまり泣いていただろうマグダラのマリア、ヨハネ、ご婦人たち、ののしられてもののしり返すことをせず、死にゆくことを甘受しておられるイエズス様を見て回心した良き盗賊、そしてシメオンの預言通り剣で心を貫かれた聖母様。

カトリック教会がこれから、どのような苦難の道を歩むことになり、たとえ私たちが殺されるようなことになってもマリア様とともにイエズス様の元にとどまる決意をすることが求められているようです。

少しオーバーかもしれませんが、これぐらいの覚悟が必要なのでは。そういう時代に入りつつあるのではないでしょうか。今、世界で起きていることを見ていると、そう思います。
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