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「助産婦の手記」47章  愛というものは、腸詰とは違うものです。

2020年09月10日 | プロライフ
「助産婦の手記」
 
49章
 
『リスベートさん、どうか急いでケラーおばさんのところへ来て下さい。マクスちゃんが病気なのに、お医者さんが留守なんですよ……』と、一人の学童が午後一時頃に走って来て言った。いつまで経っても、こういう具合で、もし医者が不在だと、人は助産婦を呼ぶのだ。人々が私に対して非常な信頼をかけてくれることは、ほんとに嬉しいことだ――もっとも私は、彼らにしばしば真実を全く明からさまに告げ、そして全然彼らと意見が合わないことがあるのではあるが。
 
マクスちゃんは、すばらしい子供だ。金物商の独り息子。ほどなく四つになる。きょう、この子は少し熱があり、頸(くび)が痛む。親たちは心配のため、死んだようになった。きっとジフテリアだろう。彼らは、すでにあらゆる家庭医学書を開けて見た。それは三種類の厚い本だ。しかしどうもよく判らなかった。これらの本もまた、実に一つの人騒がせ物で、人を健康にするよりは、むしろ病気にする。その本の中に、ある一つの病気の徴候が非常に麗々しく書かれていると、すべての読者は、きょうは、この徴候が、あすはあれが、自分にぴったり当てはまることを発見する。
 
マクスの咽喉を見終わるまでは――それは全く大変なことであった。で私は、その子は扁桃腺を少しわずらっていることを確かめたので、湿布をしてベッドに休ませるように忠告した。同時に塩茶でうがいをすることも……
『こんな小っちゃい子供は、まだ、うがいなんか出来ませんよ、まだ大変むずかし過ぎますよ……』と母親は、マクスのために抗議した。それに対して私は言った。『私の小さな姪と甥は、三つの時には、もう、それがよく出来ましたよ。もし人がそういうことを子供たちと一緒に行うと、子供たちは喜んでそれをやり、そして、いざという場合に、出来ていいのですね。』
『明るい日中には、うちの子供はベッドになんか寝ていませんよ。』と、今度は父親も言った。『暖かい部屋のソーファの上に寝かせてやりましょう……』
 
そこで両親は、マクスに湿布をしてやり、そして靴と靴下をはいたままソーファの上に寝かせた。そして母親が戸口から外へ出て行くたびに、 マクスは後から飛んで行った。 冷たい台所へ、鶏小屋へ、穀物倉へ、外の雪の中に、母親がいろんなものを取りに行くたびに。それなのに父親は、部屋の戸口のそばに手を揉みながら立っていて、こう言うばかりであった。
『マクス、さあここにいなさい!……マクス、さあ、よく聞き分けなさい……マクス、そんな乱暴をしちゃいけないよ……マクス、それじゃ病気が直らないよ……』
私が夕方、見舞おうとしたとき、 私はその家の人たちに出会った。『御覧なさい、今は新時代です。今日では、もう自由の気持ちが、子供の中に潜んでいるんですね。どうすればいいでしょうか……』
 
二分間のうちに、私はマクスをベッドに寝かせつけた。それは非常に驚くべきことだったので、マクスは、びっくりして泣きわめくことを忘れた。いつもこの子は、よく泣き叫ぶことを心得ていたのではあったが。そして、ただ一度深く太息をして、不平も言わなかった。
『あなたは、お子さんをお持ちになったことがないと見えますね。そうでなければ、そんな手荒らなことは、ようなさらないでしょう……』と、ケラー奧さんがむっとして言った。たとえ私はマクスに対して全然何のひどいこともしなかったのであるが。その子はただ、私の実に断固たるやり方に会って、これは、従順にせねばならぬと感じただけである。
『いえ、ケラー奥さん、あなたは、お子さんは、一人だけと見えますね。もしお子さんを三四人お持ちでしたら、きっともっと合理的にお扱いになるでしょう。でも、あなたは、その独りのお子さんをまるで半分主なる神様ででもあるかのように御覧になっているんです――取り返しがつかなくなる前に、この村の年寄り連中から、一度、話をお聞きになるといいですよ。肉屋のヘルマンさんが一人息子を際限もなく我儘放題にして育てそこなった結果、どういうことになったかということを。』
『私たちの境遇では、子供は一人だけで十分です。そうだと、少なくとも、正しく教育できます。その子が将来、どの道へでも進めるようにして置いてやれます。今日、子供が何人もあるところでは――少なくとも私たちの状態では、子供は大変いろいろなものに不足せねばならないし、いろいろ制限を受けなければなりません……』
『でも、お子さんが数人いて、互いに顧みあい、助けあうことを学びますと、それは子供たちのためになりますよ。大きな方が、小さな方を保護してやることに慣れるといいんです。また子供たちは、全世界が自分のために存在するものではなく、ほかのものたちも、自分と同じように、太陽の下に席を持っているのだということを学び知らねばならないんです。また子供たちは、お互いの間で遙かによく楽しむことができるものです。子供は、子供同士の方が、大人とよりは遙かに面白く遊ぶことができるんです。子供の立場から見れば、ひとりでいるよりは、兄弟姉妹たちと一緒に育つ方が遙かによいのですよ。』
『一年中、つぎはぎだらけのズボンをはいて走り廻るなんて、可哀そうですよ、ちょうど私たちが、以前、八人きょうだいだった時と同じように……子供部屋の中で、早くも人生の厳粛さに触れるなんて……私は、そんなのは真っ平です。そうさせるには、私のマクスはあまりにも可哀そうです。』
『あなたは、人生の厳粛さというものは、お子さんには味わわされずにすまされるとでも考えていらっしゃいますか? 一体、子供が、小さい時から困難に打ち勝つことに慣れるということ、欲望を捨てるということは、遙かにより良いことではないとでもお考えなのですか? そんなに子供のために、すべての小石を道から取りのけてやろうとすることは、全く誤っています。むしろ子供は、小石の上を飛び越えることを学ぶべきです。あなたは、お子さんに、人生にはいるための教育をせねばなりません――母親のスカートにぶら下りながら、永久に続く子供部屋にいつまでもいるように教育すべきではありませんよ。』
『もしのちに変わるようなことがあるなら、その時でも遅すぎることはありません。私たちに関するかぎり、子供には何一つ不自由をかけてはならないんです。もしそれが、兄弟姉妹を持っていたら、親の愛も分割せねばならないでしょう。』
『もしも一人の子供に兄弟姉妹があるとすると、あなたは、その子を愛する程度がより少なくなるというほど、自分の心持を貧弱なものとお考えなのですか? 愛というものは、腸詰とは違うものです。腸詰は、もし数人から請求されると、それは当然、数個の切れに分割されるのです。このへんのことは、あの年寄りの籠作りが、もっと正しく理解していました。彼は、こう言いましたよ。子供は、多くなれば多くなるだけますます可愛くなるものだ。そして、それだけますます一人でも他人にやりたくなくなる、と。』
『私たちのマクスは、私たちのただ一つのもの、私たちの全部です。また今後もその通りでなければならないんです。あの子は、私たちを全く満足させてくれます。そして私たちは、この一人息子と一緒にいるんです。そうじゃありませんか、あなた?』
『リスベートさんの言われた事柄には、確かに何らかの真理があります。しかし我々の境遇にとっては、子供は一人だけで十分です。もしそのひとり子が、何一つ不自由なく暮しておれるとしたなら、兄弟姉妹のある子供が恐らく量的にまさっているとしても、それを質的にきっと補うでしょう。』
 
マクスが始めて学校にはいったとき、悪質の猩紅熱(しょうこうねつ)が急に流行した。学校は閉鎖され、あらゆる予防法がとられた。それなのに、自分の家に留まっていないで、全くの我儘と生意気とから、病気の友達のところへ、こっそり抜け出して行ったのは、誰あろう、このケラーさんの家のマクスだった。彼は、病人のところへ行ってはいけないというのは、一体どんな悪いことがあるからだろうか知りたいと思った。彼は、ベッドの上によじ登り、その友達をあらゆる方向からつぶさに観察した。
『マクスや、言うことを聞いて、 お母さんのそばにいらっしゃい。』と、ケラー奥さんは、言いつけて置いたのであった。『いやだ、僕は退屈でたまらないや!』とマクスは叫んだ。『僕は小路を通って、ペーテルとハンスのところに行くんだい!』早くも彼は出かけた。夕方、彼がどこをかけ廻って来たかを、さも勝ちほこったように報告したとき、両親は少なからず驚いた。『ちっとも大病じゃないさ。友達は、ただ赤い斑点(まだら)があるだけだよ……』この子は、ひとたび学校でほかの子供たちと一緒になってからというものは、自宅で独りでいるのは、もはや気に入らなかった。彼は、何かを支配し、命令し、抑圧し、そして自分の我儘をどこかで発散させたがった。飼犬のカロは、それに疲れて、彼に噛みついた。猫は、その子が近づいて来ると、フーッといって引っ掻いた。
 
二日後に、マクスは、自身、猩紅熱で重い病床に横たわった。そして、この我儘に育てられ、虚弱になった男の子は、危機に堪えることはできなかった。早くも二週間後に、私たちは、その子を埋葬した。この村における最初の犠牲者の一人。ひとり息子を先立たせねばならないことは、つらいことである……もし兄弟姉妹が三人あれば、もっとたやすく堪えることができるだろうと、ある人たちは言った。――他の人たちは、こう言った。子供を一人だけしか持ちたくないなどというから、こんなことになるんだ。何か起ると、直ぐ一度にすべてのものが失われるのだ、と。
『きょうもまた、そうなんですよ。』と、年寄りの教会の門番が、それに対して意見を述べた。『もし我々の天主樣が御摂理によって、一人の子供を奪われますと、直きにまた、ほかの子供が生れるものです。ただあらかじめ生れないだけですよ……』
 
その子の親たちは、このように思いも寄らずに、自分たちのあらゆる希望を裏切られたので、殆んど絶望しようとした。奥さんは、憂鬱症に陥らないために――自殺をしないように、何ヶ月も、あるサナトリウムで手当てを受けねばならなかった。それから、新たな子供に対する憧れが、燃えるように目覚めた。長びけば長びくだけ、ますます多く。しかし、時はいたずらに経過した――しかし、もはや一人も生れなかった。彼らは、医者を訪れ、また州の首府の有名な教授のところへも赴いた――それでも、子宝は、訪れて来なかった。彼らはこれまで何年間も、各種の化学的および技術的方法を尽して、妊娠を防いでいたものだから、今では妊娠は全く起らなかった。『今では、天主様は、もうそれを欲せられないのだよ。』と舅(しゅうと)が言った。この人は、かつて子供を八人育てたことがある。『お前さんたちが、そんなに長く欲しなかったからだ。私は、いつも言っていたよ、そんな策略は、いつかは報いを受けるよと。』
 
しかし、ここで私は、次のことをつけ加えて置きたい。すなわち、もしどこかの家庭で、子供が一人しかない場合には、その原因について、早計に判断を下してはならないということである。現に私自身、この村で子供が一人しかない母親を二人知っているが、その人たちは、ひとり子のほかに、もっと子供を燃えるように欲しがっているのであるが、どうしてもそれ以上は得られないのである。こういうことは、以前にもいつもあったことであり、今日でもなおある。子供が一人しかないという事実は、その夫婦が、多分、正しくない生活をし、そして子宝を不正な方法で防止しているためだと見なす権利を、私たちにまだ与えるものではない。そうだと信じるためには、私たちは確実なよりどころを持たなければならないのである。





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