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真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか

2007年02月27日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るでしょうか


 信教の自由に関する新たな論説は、同じく宗教的事柄における行動の自由を「(真理)探求の自由」、すなわち誤謬の中に生きながら、天主について、また真理について潜在的に「探求している」、「興味をもっている」と称する人の内的な状態に根拠を置こうと試みました。その論旨は次のようなものです。「探求している最中の人に影響を与えたり、強制したりすることは、当の人を天主ならびに真理へと導き得る道から逸らせてしまうことになる。それゆえ、たとえ文化的ないしその他の性質を持った、真の宗教に相対立する行為をとおして外的かつ表立ったかたちで表明される「自由な探求」を各人に保証しなければならない。」


 かかる前提は、次の3つの主張へとつながります。


1-ただ「可能態的」に真理に恭順する者は、「現実に」真理に恭順している者と同じ権利を有する。

2-全ての誠実な人の精神は、自らの力によって宗教的真理に達することができる。

3-全ての宗教は真の天主および宗教的真理に達する道となり得る。



 次に、以上3つの主張を検証してみることにしましょう。


1-「探求している」人のもつ権利

● 真理に対する潜在的な恭順でしかない「探求」は、ただ真理に対する「現実態的な」恭順のみに与えられる権利を享受し得ません。天主ならびに啓示された真理に対しての実効的な依存のみが人間に真の尊厳と行動の自由に対する権利を付与するからです。



● 誠実な探求は、たしかに(カトリック教国における)教会の愛徳に満ちた忍耐の対象となるに値するものですが、それは何よりもまず福音宣教への熱意の向かう対象となります。


 さらに、そもそも誠実な探求というものは非キリスト教者の間では、一般的傾向というにはほど遠いことであり、これはカトリックでないキリスト教徒についても同様です。カトリック教会から離れたキリスト教徒らの精神的状態は、探求はおろか対話ということにさえも抵抗を示すものだからです。
「これらの人々は、自分たちの考えにきわめて強く固執しています。彼らが自由な批判検証と呼ぶところのもの、あるいは自由思想のために、総じて彼らの精神は非常な膠着状態にあります。あまりの確信をもって彼らが[カトリック]信仰の教義に反対し、この反論自体が真の教義として提示されるのを見るにつけ、驚かざるを得ません(中略)。「精神の頑なさ」(神学大全第2部第2巻第5問第3項;第11問第2項)、すなわち(中略)自分たちの考えに頑なに固執する態度は、彼らの精神的状態の特徴でさえあります。そのため、考え方に幅があり、全てに対して開かれていると自ら信じ、かつ公言している彼らプロテスタント教信者は、私たちの目には意固地で視野の狭い者として映ります。」
(R.べルナール神父『Somme Theologique de Saint Thomas』, Revue des Jeunes, La foi, II, p.383)


 同様に、イスラム教のファナティックな態度(理性を欠いた狂信的性格)は、それ自体、イスラム教信者が誠実な真理探究をなす妨げとなっています。これらの人々が正当に希求することができる唯一の宗教的自由とは、彼らを誤謬の中に閉じこめている、イスラム教の社会的・宗教的束縛からの解放に他なりません。


結論: 「自由な探求」の名において、見境なく全ての宗教の信奉者に対する寛容を求めることは、盲目的なリベラリズム(自由主義)の幻想と罠とに陥ることに他なりません。

 


2-「誠実な人は皆かならず、自由な探求によって宗教的真理に達することができる」のか?


 このように主張をするのならば、人間の知性能力に過大な信頼を置くことになるでしょう。実際、当の主張は驚くほど現実的感覚に欠け、なおかつ異端的な自然主義に基づいているように思われます。


●「自由な探求」の非現実性
 宗教的自由に関する宣言草案  についてマルセル・ルフェーブル司教がなした発言(テクストゥス・エメンダートゥス)中の一節をここに引用します。
「(自由な探求、交換、対話)――[草案中の]当の箇所は、当宣言の現実離れした性格をよく著しています。この地上に生きる人々において、真理の探求は何よりもまず、何某かの権威に、すなわち家庭内の、あるいは宗教的権威、あるいはまた世俗的な権威にさえも従い、自らの知性を服従させることに存します。しかるにの助力為しにどれほどの人が真理に達することができるでしょうか。」
(マルセル・ルフェーブル司教、第2ヴァチカン公会議の書記局に送付された意見書[1964年12月30日]『J'accuse le Concile』(私は公会議を弾劾する)?dition Saint-Gabriel, 1976, p.43)


●「自由な探求」という概念がはらむ自然主義
「自由な探求」という考え方は、原罪とその結果、とりわけ「無知の傷」という、人祖の罪以来人間の知性が被る欠陥を考慮に入れていません。人間の知性が原罪のために傷つけ弱められているという事実は、聖パウロによってローマ人への手紙1章18-23節およびエフェゾ人への手紙4章17-18節において明らかに示されています。(読者は同箇所を参照されたし)ベルナール神父の注解を以下に引用します。(上掲書p.43)

「全ての人の命運を存在のみに帯びた最初の首長[アダム]の行為によって人類は過失を犯した状態にあります。人類は天主がこれを創られ、そのようにあれかしと望まれたとおりの状態に留まりませんでした。ここから、天主に関する真理についての無知が、天主との友愛に対する無関心と同様、由来しています。また、ここから神的啓示に近づき、見出し、これを[真の啓示ではないものから]区別し、理解するにあたっての一種の無力さが生じています。無論、誰一人として天主から見捨てられている人はいません。各人は救われるにたるだけの天主の介入に浴しています。しかし、人類全体は一種の韜晦(とうかい)に見舞われています。大部分の人は天主から来る光に目を開くためには、実生活における便宜や精神における光をほとんど有していません。たいていの場合、これらの人々は[天]上から来るこの光を覆いかくす雲をつくり出し、その光線をさえぎりながら、自らが賢明にふるまっていると信じこんでいます。」


 聖トマス・アクィナスは、単純にこう述べています。
[原罪によって]霊魂の全ての能力は、いわば、それをとおして徳に自然的な仕方で秩序づけられていたところの各自に固有な秩序を奪われるが、この剥奪は自然本性の傷と呼ばれる・・・(略)・・・。理性が真なるものに対する秩序付けを奪われているかぎりにおいて、無知の傷が残る。
(神学大全第2部第1巻第85問3項)


 それゆえ、人間が天主および宗教に関する諸々の超自然的真理のみならず自然的真理さえも知り得るために外的啓示が必要となってくるのです。

「かかる天主の啓示に属する事柄として、次のことを認めなければならない。すなわち、この天主の啓示によって,天主について,本来人間の理性によって理解できることを,人類が現在おかれている状態において,すべての人が,やさしく確実に,また少しの誤謬も交えないで認識することができるという事実である。」
(第1ヴァチカン公会議 教理憲章『デイ・フィリウス』DS 3005)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html


「もし誰かが、天主の啓示によって人間が天主ならびに天主に捧げるべき礼拝について教えられるということはあり得ない、ないしは適当でないというなら、彼は排斥される。」(第1ヴァチカン公会議教理憲章『デイ・フィリウス』中「デ・レヴェラツィオネ」
第2カノン DS 3027)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html


 そしてこの外的な啓示[そのもの]、ないしはこれが実現されるにあたって、その本性に適合した通常のあり方は、福音の働き手らによる宣布および説教に他なりません。
「それなら、かれらはまだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう。そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう。宣教する者がなければ、どうして聞けよう。使わされなかったら、どうして宣教できよう。実に、「よい便りをもたらす者の足は美しい!」と書き記されている。しかるに、みなが福音にしたがったのではない。イザヤは、「主よ、誰が私たちの宣教を信じたでしょうか。」と言っている。したがって、信仰は宣教により、宣教はキリストのみことばによる。」
(ローマ人への手紙10章14-17節 なおレオ13世回勅『サティス・コグニトゥム』Actus V p.5-7 / EPS Eglise 541も参照のこと)
 


結論: 誠実な人は皆、自由な探求によって真理の認識に達することができると主張することは、暗に聖書および[教会の]教導権にもとる異論を唱えること、したがって、自然主義に根差す異端を暗に唱道することに他なりません。



3-「あらゆる宗教は真の天主および宗教的真理に達する道となり得る」のか?

 ここで問題となる当の主張には、単に一種のあいまいさがあるだけでなく、暗黙上と言うには明白すぎる誤謬が含まれています。すなわち、この主張は2つの誤謬をはらんでいます。

――救いについての過度に寛大な見解

――本来の意味での宗教無差別主義


● 救いについての寛解な観念
 教会は「洗礼に対する暗黙の望み」によって、カトリック教会の目に見える境界の外にある人も救いに与ることができると教えています。洗礼に対する暗黙の望みとは、真の宗教についての「克服し得ない無知」、すなわち過失によるのではない無知を被りつつも(ピオ12世 1854年12月9日の訓話 Recueil p.341 / Dz 1647)、自然法を遵守し、誠実で廉直な生活を営み、かつ天主に従う心の態度を有しているところの(ピオ9世 『クアント・コンフィチアムール』 Recueil p.48 / DS 2866)非カトリック者および非キリスト教徒の中のある者たちにおいて見出され得ます。この教理は1949年8月8日に異端検閲省がボストン大司教宛に出した書のおいて確認されています。(EPS Eglise 1256-1262 / DS 3870)


 しかるに、教会の目に見える境(さかい)の外にいるという事実は、「誰一人として自らの救いを確信することができない」道にあるということを意味するにとどまらず、「一体誰が、当の克服し得ない無知というものが民族や地域、知的特性ならびにその他諸々の要因を踏まえて、どの範囲まで適用されるのかをあえて定めることができるでしょうか。」
(ピオ11世 1854年12月9日の訓話 Recueil p.341 / Dz 1647)


 それゆえ、当の命題は、それが明らかに意味するところに従えば、寛解に過ぎます。なぜなら、望みの洗礼の可能性を、諸々の誤った宗教に含意的に含まれているものとして制限なしにおし広げているからです。


● 本来の意味での宗教無差別主義

 当の命題において含意的に、と言うにはあまりに明白に表れている宗教無差別主義の誤謬をよく理解するために、次のことを銘記しておかなければなりません。

――天主が聖霊の目に見えない恩寵によって、偽りの宗教に属している霊魂を真理に引き寄せることができる、ということは本当であるにしても、天主が当の偽りの宗教をご自分に到るための道として積極的な仕方でこれを用いると言うことは誤りです。諸々の誤った信条ならびに迷信的あるいはそれよりもさらに質の悪い実践を伴った偽りの宗教は、それ自体として天主に到る道たり得ません。

――当の霊魂が救われるとすれば、それはこの人の信奉する偽りの宗教にも関わらず、その実質を伴わず迷信的な儀礼にも関わらず救われるのです。したがって、かかる宗教の外的なあるいは公然の表明は、当の人の-たとえ彼が善意の人であるにしても-「探求」の表現であると見なすことは断じてできません。

――この人の霊魂が救われるとすれば、それはキリストおよび教会の目に見えない影響によるものです。すなわち、当人が自ら意識することなくキリスト教徒であり、カトリック信者であるがためにこそ救われるのです。かかる霊魂がたどる道は、彼の[信奉する]誤った宗教ではなく、「道、真理、命」であるキリストに他なりません。当の人が救いに到るために他の道があると主張することは、まさしく宗教無差別主義の異端に他なりません。

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