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シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー:私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?

2022年05月19日 | ファチマ

シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー:私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?

2022年5月3日(火曜日)

Sister Lucia’s 1957 Interview with Fr. Fuentes: Are We Now Rejecting the Last Means of Salvation?

ロバート・モリソン(レムナント・コラムニスト)

シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー

「私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?」

1957年12月26日、アウグスティン・フエンテス神父(ファチマの幻視者フランシスコとジャシンタの列福の申請代理人)は、ファチマの幻視者の最年長者シスター・ルシアにインタビューしました。カール・シュテーリン神父(聖ピオ十世会)が「ファチマの大いなる秘密」(第3巻)で以下のように記しているように、その後すぐにローマの進歩的な当局がフエンテス神父とそのインタビューの信用を落とそうとしていますが、このことは、このインタビューが今日において重要であることを示唆しています。

「なぜ、この【インタビューの】文章にそれほど強い反応があるのでしょうか? 第一に、この文章のために、シスター・ルチアは、ヨハネ二十三世が公会議開会の演説で非難した破滅の予言者の一人として位置づけられたのです。ですから、教皇は、彼女の述べていることを好ましく思っていなかったに違いありません。それに関係なく…シスター・ルチアは、このインタビューの中で、第三の秘密の特定の詳細を明らかにしたのです」。

以下のインタビューの抜粋から分かるように、シスター・ルチアは、第二バチカン公会議とそれに続く数十年の間にまったく明らかになった、信仰の大危機について語っていたのです。私たちにとってさらに重要なことは、1957年のシスター・ルチアの言葉が、直近の未来について私たちが得ている最も重要な警告であるということです。

1957年当時、そして現在におけるこの世の悲惨な状況。「神父様、至聖なる童貞は、善人も悪人も、誰もそのメッセージに注意を払わなかったため、非常に悲しんでおられます。善人は、メッセージを重要視せず、自分の道を歩み続けています。悪人は、天主の罰が自分たちに実際に下るのを知らず、メッセージについて関心を持たずに、罪の生活を続けています。でも、私を信じてください、神父様、天主はこの世を罰せられます。天からの罰は差し迫っています…」

この世は、1957年当時も悪かったのですが、今日では比較にならないほど悪くなっています――私たちは、このことを至るところで見ています。今日では、私たちはもっと多くの天罰を受けるに値するのですが、自分の生活を改める必要があることにほとんど気づいていません。1957年に天罰が差し迫っていたとすれば、2022年(あるいは5月)になっても天主から懲罰を受けずに済むと誰が確信できるでしょうか?

聖職者の堕落はイエズスとマリアを苦しめ、信者の地獄行きにつながります。「マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心を苦しめるものは、修道者や司祭の霊魂の堕落です。悪魔は、美しい召命から堕落した修道者や司祭が、多くの霊魂を地獄に引きずり込むことを知っています…。悪魔は、奉献された霊魂を自分のものにしたいと欲しています。悪魔は、信者の霊魂を眠らせ、それによって信者を最終的な背信に導くために、聖職者の霊魂を堕落さようと欲するのです。その結果、内的生活が不毛になり、信者の間では、楽しみを捨てて自らを天主に奉献するというテーマに対して冷淡になるのです」。

聖職者の堕落は何十年も前から完全に明白になっていましたが、パンデミック時に教会が閉鎖されたことで、それはさらに明らかになりました。重大なのは、この堕落の及ぼす影響のうち、ほとんど認識されていないのが信者に関するものだということを、シスター・ルチアがはっきりさせたことです。つまり、「楽しみを捨てて天主に完全に自らを奉献するというテーマに対する冷淡さ」です。マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心が、私たちが楽しみを捨てて天主に自らを完全に奉献することに冷淡であることに苦しまれるというのは、驚くべきことでしょうか? もしそうなら、シスター・ルチアが指摘するように、悪魔が、すべてのカトリック信者に天主に対して寛大であるよう呼びかけるべき聖職者を堕落させることに成功したからかもしれません。天主と聖母のメッセージを無視し続けた原因および結果として、私たちの牧者たちはしばしば、まるで聖人のように天主に立ち返らなければならないと説教すれば、私たちをつまずかせてしまうかのように振る舞うのです。悲劇的なことに、この天主に立ち返ることこそが、今日私たちが切実に必要としているメッセージなのです。

私たちが終末の時代にいるという三つの理由――第一の理由。「神父様、至聖なる童貞は、私たちがこの世の終末の時代にいると私にお告げにはなりませんでしたが、三つの理由から私にこのことを理解させられました。第一の理由は、悪魔が聖母に対して決定的な戦いを挑むつもりになっていると、聖母が私にお告げになったからです。そして、決定的な戦いとは、一方が勝利し、他方が敗北する最終決戦のことです」。

第二バチカン公会議以降、またフランシスコがローマを占拠している間にますます、私たちは、教会内部の戦線が明確に区分されていることを目の当たりにしてきました。彼のパチャママの導入、特に「トラディティオーネス・クストーデス」(Traditiones Custodes)における聖伝のカトリシズム(すなわちカトリシズム)への直接的な攻撃、そして「シノドス(司教会議)中心主義」(Synodality)に関するシノドスによって、フランシスコは、見る目のある者に対して、正当なカトリックの宗教と、今や事実上、新世界秩序の霊的部門となり、第二バチカン公会議の精神によって活発になった悪魔的な偽りの宗教のどちらかを選択するしかないということを、明白にしているのです。私たちは確かに、最終決戦の真っただ中にいるように思えます。中立を保とうとする人々は、しばしば、マリアとその軍隊に対する悪魔の攻撃において、悪魔の最大の道具となるのです。

私たちは終末の時代にいる――第二の理由。「第二の理由は、聖母がこの世に二つの最後の救済策を与えておられるからです。それは聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心です。これは、最後の二つの救済策であり、今後ほかにはもう何もないという意味なのです」。

インタビューの後半で、シスター・ルチアは直接ロザリオについて語っています。

「見てください、神父様、私たちが生きているこの終末の時代に、至聖なる童貞は、私たち一人一人の個人的な生活、家族、世界の家族、修道会、あるいは民族や国家の生活において、どんなに難しい問題であっても、ロザリオによって解決できないものはないというところまで、ロザリオを唱えることに新しい効力を与えてくださったのです。ロザリオで、私たちは自分を救い、自分を聖化します。ロザリオで、私たちは主をお慰めし、多くの霊魂の救いを得るのです」。

ロザリオへの信心を持つ人々は、天主がロザリオを唱えることに特別な効力を与えておられることを、経験を通じて理解しています。聖母とロザリオへの信心を批判する人々は、天主がどのような救済策を選ぶかを決めることがおできになるという、この重要な事実を取り違えています。天主は、【救済策として】聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心を選ばれたのです。自分がカトリック信者だと思っているほとんどの人々は、この救済策をほとんど、あるいは全く利用していません。つまり、この救済策の重要性を認識している人は、それを最大限に利用するよう求められているのです。

私たちは終末の時代にいる――第三の理由。「第三の理由は、天主の御摂理の計画において、天主は常に、世を懲罰しようとされる前に、すべての救済策を使い尽くされるからです。いま、この世が全く注意を払わないのを天主がご覧になると、私たちの不完全な言い方で言えば、天主は、ある種のおののきをもって、最後の救いの手段である至聖なる御母を私たちに差し出されています。『ある種のおののきをもって』(with certain trepidation)というのは、もし私たちがこの最後の手段を軽んじ、拒絶するならば、私たちは福音が聖霊に対する罪と呼ぶ罪を犯すため、もはや天からの赦しを何も受けられなくなるからです。その罪は、聖霊が差し出される救いを、十分な知識と同意のもとに公然と拒絶することなのです」。

フランシスコがローマにパチャママを迎えて以来、天主は、この世の邪悪な勢力が、天主と天主のみ旨を果たそうとする人々に対して公然と結束していることを、これまで以上に明らかにしてくださいました。大多数の人々は、「何か」が間違っていることに気づいていますが、自分たちのパンとサーカスがある限り、言われたとおりにすることにおおむね満足しています。天主はまた、私たちが次の選挙でどれだけ良い結果を出そうとも、イーロン・マスクがツイッターを支配したらどれだけ真実のツイートを許そうとも、助けが来るわけではないことを私たちに分からせてくださいました。世俗の勝利は、この世の邪悪な支配者たちが私たちを檻に押し込めるために必要な支配力のすべてを得るまでの時間を、もう少し稼ぐのに役立つだけなのです。

天主は私たちに、救いの最後の手段である至聖なる御母を利用することが唯一の方法であることを理解させてくださっているのです。そして、私たちがマリアを通して天主に立ち返らなければならないことが明確であればあるほど、そうしないことで私たちは、さらに罪深い存在となるのです。シスター・ルチアが指摘したように、私たちは「主が与えてくださる救いを、完全な知識と同意をもって公然と拒絶する」段階に近づいているのです。ですから、聖人になりたいと願いながら、今、マリアを通して天主に立ち返ることは、単に数ある良いことの中の一つではなく、必要な一つのことなのです。私たちがそうするなら、天主は他のものも与えてくださいます。私たちがそうしなければ、どんなに政治的にうまくいっても、私たちの助けにはなりません。

償いの大いなる必要性。「私の使命は、私たちが頑固に罪を犯し続けるなら、永遠に霊魂を失うという差し迫った危険にさらされていることを、すべての人に指摘することです。神父様、私たちは償いをするために教皇様の呼びかけを待っていてはいけません。また、教区の司教や修道会から償いの呼びかけが来るのを待っていてもいけません。そうではありません! 私たちの主は、すでに何度もこれらの手段を用いておられますが、この世は全く注意を払ってきませんでした。ですから今、私たち一人一人が霊的に自分を改革し始めることが必要なのです。一人一人が自分の霊魂を救うだけでなく、天主が私たちの前に置かれたすべての霊魂を救わなければならないのです」。

第二バチカン公会議以降、ノブス・オルドに従うカトリック信者の間では、償いの実践が著しく減少しています。私たちの信仰に対する感謝が教えているように、償いの不足は罪を増やし、その罪はさらに多くの償いを必要とするのです。その結果、私たちは霊的な死のスパイラルに陥っており、一人一人が天主に立ち返る必要があることに目覚めなければならないのです。「一人一人が霊的に自分を改革し始めることが必要です」。この聖性への呼びかけを牧者から聞くことができそうにないという事実は、聖人になるために全力を尽くすべき、さらに大きな理由になるはずです。

懲罰の道具としてのロシア。「神父様、彼らに伝えてください。至聖なる童貞は、私のいとこのフランシスコとジャシンタと私に、多くの国が地上から姿を消すでしょう、と何度も言われました。聖母は言われました。ロシアが全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具になるでしょう、そのあわれな国【ロシア】の回心をあらかじめ得られなければ、と」。

ロシアやウクライナに対する思いはともかく、ロシアが「天が全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具」となる事態が、これまで以上に近づいているように思われます。人間が聖人のように天主に立ち返らないならば、大いなる懲罰のためのすべてが用意されているのです。

「司教や司祭はこのことを広く知られるように説教すべきです。しかし、たとえ彼らがそうしなくても、カトリックの心でそれを知っている私たちは、キリストの約束にふさわしい者となるために、童貞聖マリアに御取り次ぎを願うべきです。

残された時間を使って、私たちは生活を改め、聖人になることにすべてがかかっているかのように行動しなければなりません。シュテーリン神父が、以下のように書いているように、聖母はあわれみの御母であり、私たちが聖母に叫びさえすれば、私たちの声を聞いてくださいます。

「例えば、ある子どもがいて、とても悪くて悪質で、おそらく多くの犯罪に手を染め、全世界から拒絶されていると想像してみてください。もし、その子どもの母親が良い母親であったなら、その子どもを見捨てたりはしないでしょう。聖モニカが息子の聖アウグスティノのためにしたように、その子どもの回心を生涯天主に願い続けるのではないでしょうか? そして、その子どもが少しでも後悔の念を示したら、急いで母性愛を見せるのではないでしょうか? そして、その子どもが絶望の中で「お母さん」と叫んだら、母親の心はその助けを求める叫びに耳を貸さないことができるでしょうか? 母親のところへ行くのに怖がる人がいるでしょうか? しかも、ここにおられるのはただの母親ではなく、むしろその本質があわれみの御母である、すべての母親の中で最高の母親なのですから」。

天主は、私たちが愛に満ちたあわれみの御母を「切実に」必要としていることを、今、はっきりと分かるようにしてくださったのです。司教や司祭は、このことを広く知られるように説教すべきです。しかし、たとえ彼らがそうしなくても、カトリックの心でそれを知っている私たちは、童貞聖マリアに、私たちがキリストの約束にふさわしくなるように御取り次ぎを願うべきです。明日では遅すぎるかもしれませんから、今、そうしなければならないのです。いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え。

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1 コメント

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ファティマと秋田 (ヨハネ)
2022-05-19 21:56:23
ルチアによれば、聖母がこの世に与えておられる二つの最後の救済策とは「聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心」です。

秋田の三度目のメッセージでは、「私たちに残された武器は、ロザリオと御子の残された印」と告げられています。

この二つのメッセージは同じことを告げているはずと思われますが、最初の「ロザリオ」は同じでも、その次は「マリアの汚れなき御心への信心」と「御子の残された印」というように異なっています。

安田神父様は「御子の残された印」は「御聖体」とお書きになっておられます。そうすると、「マリアの汚れなき御心への信心」と「御聖体」とは全く別のものなので、ファティマと秋田とで、聖母様は別の異なるメッセージを告げられたことになります。本当に、そうでしょうか。

ファティマの「マリアの汚れなき御心への信心」という言葉は明解です。誤解のしようがありません。それに対し、秋田の「御子の残された印」は、様々な解釈がありえます。「御聖体」もそのひとつですが、大きな疑問があります。「御聖体」よりも先に「ロザリオ」を掲げていることです。順番、逆ですよね。

「御子の残された印」を御子が最後に残された御言葉と解釈すると、聖ヨハネ福音書の「婦人よ、これ汝の子なり」「これ汝の母なり」(ラゲ訳改訂5版、昭和41年2月25日)に注目することになります。

聖母マリア様を母として大切にすることと、「マリアの汚れなき御心への信心」とはほとんど同じことになります。

イエズス様が私たちのためにしてくださった受肉、受難、復活の神秘をロザリオで黙想し、聖グリニョン・ド・モンフォールが『聖母マリアへのまことの信心』で述べたように、聖母マリア様の汚れなき御心に私たちのすべてを奉献してしまうことが、「二つの最後の救済策」であり、「私たちに残された武器」と私たちが受け止めることを聖母マリア様は強く望んでおられるのではないでしょうか。

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