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「助産婦の手記」37章  再び物乞いの旅に

2020年08月31日 | プロライフ
「助産婦の手記」

37章

戦争が終った。
それは、大きな出来事であった。たとえ、すべての希望は、最も無残に裏切られたとはいえ、たとえ、すべての犠牲は無益に捧げられたとはいえ、かの無意義な殺人は終ったのである。父親たちは、自分の家庭に帰り、子供たちは、親のもとに帰った。私たちは、戦争に敗けた。そして私の耳に、聖書の言葉が絶えず、響いて来るのである。『主は、彼等が主の許へ改宗するに至るまで、彼等をその敵の手にわたし給えり。』 と。もし私たちが、出来るだけ早く、この『至るまで』ということを熟考し、そしてそこから当然の結論を引きだすならばいいのであるが……

今や本当にはじめて、大きな困難が私たちの上にやって来た。数十万もの働く能力のある男たちが帰郷した。ところが、そこには、車輪はすべて一様に、停止している。戦争の必要のために軍需工場に転換された全工場は、もはや生産することは不可能である。その外の少数の工場は、その製品の販路がない。何も輸出することができない。一方、国内では人々は、買う金がない。生活物資は、今も以前と同様に、非常に乏しい。まだまだ切符で配給される。ドイツは、自分自身を養うことは、どうしてもできないのである。パン粉【小麦粉】が、大量に輸入されねばならない。

戦争中に、工場に引き入れられた多数の年少の職工や女工たちは、今や同樣に職がなく、パンがない。国境や割譲された地方から、引揚者たちが群れをなして、この村に流れこんで来る。避難所と、必要な生計とを求める憐れな、そして故郷のなくなった人々。彼等は、どこかでまた、根を張りたいと思っている。 ところで戦争中、一軒も家が建てられなかった。すべての住宅は、満員だった。戦争中に結婚した多くの夫婦者は、まだ自分自身だけの家庭を作れないでいる。食糧難にかてて加えて、住宅難がやって来た。

一部の人たちは、放埒(ほうらつ)になった。大声をあげて革命の到来を宣伝するものは、少数の人たちである。他の人たち――それは遙かに大勢である――は、何もせずに立っていて、そして世の中は一体どうなるんだろうと傍観している。恐らく、それがまた、人のなし得る最善のものであろう。高汐(たかしお)というものは、もしそれが何の抵抗も受けなければ、すなわち、それが何かにさえぎられて増水し、それによって力を集中する、というような機会がなければ、最も速く退くものである。また、人は、ドイツ皇帝が亡命して退位したからには、革命に対して、いかなる理念的価値のあるものを対抗させるべきかということを知らないのである。

この村では、職工長のシュテルンが、一躍して新時代の先駆者となった。一本の血のような赤い旗が、彼の家の屋根窓から村の街路を見下ろして翻っている。しかし、村の状況は、以前とは本当に、全く少しも変わらず、人々は仕事もパンも得られないから、彼の役割は、いずれ間もなく、終ってしまうであろう。彼は、毎日、何らかの指令を発してはいるが、 誰もそれを実行しない。わずか数日にして、早くも彼は滑稽な人物となっていた。しかし、彼はまだ仲々それを悟らない。

新時代がどうなるにしても、一つのことは確実である。すなわち、赤ちゃんは、以前と同様に生れて来るだろうということである。
村はずれの森の縁にあるバラック、そこには以前、ロシヤの捕虜が収容されていたが、今は気の毒な引揚者たちが、そこに貧弱な避難所を見いだしている。彼らは、一切の財産を置き残して、強制的に国境を越えて突きもどされたのであった。数個の行李の中に、最も重要と思われるものだけを入れて持って来た。いま彼らは、その冷たい、寒い木造バラックの中に坐っている。藁布団をとりつけた数個の野外ベッド それは大抵、薄く細い鉋屑を詰めてすらある――それから、数枚の粗末な掛蒲団と、背のない腰掛け、一個の机、手洗鉢と水瓶(みずがめ)の載っかっている一個のベンチ、それから一個の食事用の鉢が、わずかに内部の設備の全部であった。各家族は、それぞれ一家屋内に隅を当てがわれており、そしてそれは、高さ約二米の壁板をもって区切られている。バラックの中央を通っている廊下に数個のストーヴが、置いてあって、それが必要な暖房の役目を果すことになっている。

そのような悲惨な環境の中に、子供が生れて来るのである。いま私はそこで既に三度目のお産の見守りをしている。これらの憐れな子供たちは、すべて、母親の過去の月日の興奮と過労とのために、早産となり、そして絶望的な不幸の中に生み落されるのである。母親たちのうちで、その僅かな全財産中、数枚のおむつと小さな肌衣とを持っていたのは、ただ一人だけであった。青ざめた灰白の貧乏神が、産褥の傍らの私のそばに坐って、その落ちくぼんだ眼から、その妊婦を斜めに見ている。この赤ちゃんは、一体どこに根を張るだろうか? どこで我々は、再び仕事を見つけ得るだろうか? いつ我々は、再び世帯を立てることができるだろうか? 一体、どこに住宅が、新家庭が、我々に与えられるであろうか? そんな子供は、生れない方がよいのではあるまいか?

このような悲惨な経済的困難の場合においては、最も憐れな、最もみじめな生命でも、永遠の光の中で見るならば、無いよりは増しだ、という信仰を堅持することは、いかにむずかしいことであろうか! もはやキリスト教的世界観の基礎の上に立たなくなった何千という母親たちのすべてにとっては、このような苦難の時代を生き抜くことは、いかにむずかしいことであろうか! 人間の永遠の生命に関する信仰をわが国民から奪い去り――そして、その失われたパラダイスに代るべきものを、この地上で与えることも決してできなかったし、また現在も与え得ない呪うべき人たちは、わが国民の上に、どんな辛酸と苦悩の海をもたらしたことか!

それに反し、私たちのキリスト教的信仰は、さらに次のような事柄を私たちに告げるのである。すなわち、汝、同胞(はらから)を助くるために、汝の全力を尽くすことなくして、彼らの苦しむを傍観する勿れ、と。一つの鉄の掟、これなくしては、信仰は無価値である。
経済的困難に対しては、実行の伴わない単なる憐れみも、同情の涙も、妊娠中絶も、敬虔な祝福の祈りも、それだけでは何の役にも立たない。経済的困難は、経済的手段をもつて、除去されねばならない。
経済的困難は、かの引揚者たちのバラックの中にのみあるのではない。さらに、多くの労働者の家の中に、また多くの職人と小百姓のところには、おむつは、もはや見いだされない。それを調達する金もないし、また母親に適当な食事を作ってやれる可能性もない。

そこで、リスベートは、再び物乞いの旅に上るのである。私たちは、これから始めようと思ったスープ作りのために、特に相談会を開いた。母親たちは、大抵、職がない。そこで、家事を自分で処理することは、彼女たちのためになる。また私たちも、革命によって、人を助ける資力が尽きた。

そこで、私は早速、時世に適した新しい課題を持ち出した。それは、産婦に適当な食事を給することであるが、これは比較的たやすく行うことができた。すなわち数軒の裕福な家庭で、進んでそれを引き受け、互いの間に次のような規約を設けた。つまり、産婦は一枚の切符をもらうのであるが、その切符には、どこに食事を取りに行けばよいか――または、誰がそれを贈るかが書いてある。

同様に私たちは、妊産婦が助け手のない場合に、その家事を処理して上げようという、やや年を取った二人の娘を探し出すことに成功した。それから、私たちは、下着類を集めることにした。この場合には、おむつを作ることのできる古いシーツを特に目当てにした。非常に差し迫った即時の必要にも応じ得るようにするために、私たちは、晚になるまで非常に多くの仕事があった。ところが私たちは、さらに予備を作るために働かねばならなかった。私たちは、おむつ籠を作った。そして赤児と産婦とのための下着類を一纏(ひとまと)めにして一つの籠の中に荷作りして置き、そしてこれを貧しい産婦たちに対し、六ヶ月を限って貸付けた。そこで彼女たちは、赤児の下着類が節約できた。六ヶ月後に、私たちはその籠を回収し、そして下着類を消毒し、つくろい、必要に応じて新しいのと取りかえ、そして再び貸し出した。数週間のうちに、そのようなおむつ籠を五個循環させた。

その実際的効果は非常に明らかであったから、赤十字でも引揚者のための仕事を財政的に援助することに同意した。工場は、小さなジャケツやズボンをおむつの材料として大量に無料で供給した。村区も寄附を承諾した。母の会は、おむつ籠を整備し、かつ予備を補充する仕事を引き受けた。
この産婦の世話は、ほかの点についても利益をもたらした。今や、貧しい産婦に薄いスープを与えるのを止めさせることに、遂に成功した。合理的に取り合わされた滋養豊富な食事が作られた。その食事は、非常に豊富に用意されたので、男が取りに来るほどであった――飲みやすい理由からして。なお、序(つい)でに、私たちは部屋の通風も見てやった。そして羽根布団の重すぎるのや、暖かすぎるのを取り除いた。そして、その結果死んだ者は一人としてなく、却って婦人たちは、そうすることによって気持よく感じたので、彼女たちは、非常に徐々にではあるが、改革して行った。

私たちは、スープ調理室を全く閉鎖はしなかった。若い婦人および年頃の娘たちは、もはや料理のことを全然わきまえていないことが、非常に明らかであった。そこで村長は、しぶしぶながら、村区の料理講習会を開くことをやっと承諾した。職の無い婦人と娘(当時は、すべての人が失業者であった)は、村区から小額の貧民救助金を与えられていたので――それには国庫の補助があった――、自費で、そのような講習へ参加することができた。料理講習会のための場所はあるし、光熱は、村区で提供した。ある童貞さんが、その指導を引受けた。主任司祭の妹さんと、も一人の婦人がそれを助けた。娘たちは、家で農業を幾らかやっている限り、講習料を払う代りに、生活物資を持って来てもよかった。參加者は、料理の講習を受けることによって、自然に食糧を給せられたので――彼女たちは、自分で料理したものを食べねばならない――、この学習は、高くはつかなかった。
さらに私たちは、補修室や改造室をも設けた。特に改造室は、非常な人気を博した。女たちは、そこに古着類を持って来て、それを作り直すことができた。例えば、男子服から子供服を、衣裳から着物を作るなどである。婦人たちは、そこで一部分は自分自身と自分の家族のために働き、一部分はまた、寄附された物を慈善的目的のために加工した。今や、リスベートが嘗て裁縫を習っておいたことが、もう一度、ほかの婦人たちのためになった。すなわち、私はいまや指導し、助け、仕上げてやることができた。

このようにして、戦後の最初の数年というものは、戦争それ自身よりも、もっと大きな困難をこの村の中に、もたらした。貨幣価値が下落すればするほど、私たちはますます貧乏になった。いよいよますます私たちの仕事と、私たちの救済施設に対する要求は増大した。しかし、金マルク本位制が再び採用されたとき、そして工場が幾らか正常な操業を再開することができたとき、そして難民たちが次第に田舎で仕事と避難所とを見いだしたとき、初めて、幾分かよりよい時代が訪れた。そして私たちは、私たちのやった種々の経営を、次第に歯止することができた。ただ料理学校だけが、今日もなお、学校を卒業した娘たちのために、存続している。そして、おむつ籠は、なお時々要求されている。国家が、保険に加入していない婦人たちに対しても、産褥救助と、分娩前後の出産金と、授乳金および授乳褒賞を与えることとなってから、多くの貧乏な産婦は、自分で何とかやって行くことができるのである。間接に、そのことはまた、私たち助産婦にとっても利益になった。大抵の婦人は、この目的のために与えられる国の補助金をもって、助産料の支払いをする。補助金を受けながら、支払いをしないものの数は、以前に全く資力がないために全然支払うことができなかった人たちの数に比べれば、遙かに少なくなったのである。
私たちは、今では、上級官庁のある町に、少年保護局を持っている。一人の婦人の地区世話係が、乳児を見舞い、母親たちに忠告し、また戦争生存者、結核患者、小さな利子生活者を保護するために方々をかけ廻っている。およそ救貧制度は、私を悲しませる――なぜなら、その制度は、最善の意図にも拘らず、その仕事が完成し、繁栄することは不可能だと私は見ている。
私には、またしても、そこで本末が顕倒しているように思われるのである。なぜ、人は私たち助産婦を母子に対する公僕として招くことを怠ったのであるか? 一体、誰が本当の助産婦よりも、もっと母親の信頼を得ているか? 従って、誰が私たちよりも、もっとよく彼女たちに忠告を与えることができるだろうか? どこに、そして、いかなる境遇において赤ちゃんが生れるかを、誰がよりよく知っているか? どこに困難があるか、どこで助けられ得るか、 また助けられるべきであるかについて、誰も私たちほど、よい報告を提出することはできないのである。
次の一事に対して、人は眼を覆うてはいけない。助産婦階級も大きな苦難に悩んでいる。出産は、半数に減退した。場所によっては、病院でのお産のため、もっと著しく減っている。州の首府では、約七五パーセント。私の同僚の多くのものは、今日では、一年間に十二乃至十五件のお産しか持っていない。たとえ保健組合は、一九二五年以來、一回の分娩に対し、三六マルクを支払ってはいるが、助産婦の全収入は、必要な最低生活費を遙かに下廻るのである。そこで、婦人たちが誤った道に踏み入つても――かつてのウッツ奧さんのように――人は驚いてはいけないのである。





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