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「助産婦の手記」9章 『お医者さんへ使いをやりましたか。奥さんは死にますよ!』

2020年07月28日 | プロライフ
「助産婦の手記」

9章

二十四時間も私はウンテルワイレルの百姓のお上さんのそばに坐っていたが、お産はまだいつ終るとも見えなかった。陣痛は、来たかと思うとまた去った――そして、その憐れな女を非常にゆすぶり動かしたので、彼女は踏みにじられた虫のように、のたくり廻った。しかし、分娩はまだ始まらなかった。嵐は、まだ最後を目ざして力を集中することなしに、いつも衰えた。

心配と、募る苦痛と苦悶との中にあること二十四時間――二十四時間というものは、長い長い時間である。もし人が、長い、暗い一夜を、苦痛のため、のたくり廻ったとしたならば、最後にやっと夜が明けそめて、日光がさして来るときには、いかに息を吹きかえすことであろうか。 朝の活動の潮が、少しばかり寄せて来る。人々の往来がはじまる。彼等は、よく時々、非常に詰らないことを話していることもある――しかし、それでもそれは一つの変化であり、気分転換になる。それに反して、夕方が近づいて来て、眼に見るものとては、ただ夜ばかりということになるとどうであろうか――あの長い、暗い、苦痛に満ちた夜……

このような二十四時間というものは、この世において限りもなく長いものである。母親でなくともその傍らで眠らずに待ち受け、希望し、かつ心配し、そして彼女に対してほんとに全く何の助けもなし得ない者にとっても、また同様である。

繰返し繰返し陣痛が、その憐れな女をゆすぶった。それなのに分娩は、まだ始まらない。
『お百姓さん、まだお医者さんを呼びにやらないのですか? 奥さんは、少し様子が変ですよ!』もう私は、とっくにお昼頃に、 その百姓にウイリ先生のところに使いをやるように頼んで置いたのであった。ところが彼は、お八つに来たとき、それをやっと思い出した。
『あっ、なに、自然は時間がかかるものさ。待っているよりほかに仕方がないさ。』 と、彼は気むずかしげに言って、中庭に出て行った。私は、彼について行った。
『ただ待っているだけでは何もできませんよ。今度は、何だか、いつものようではないと、私は気づいているんですよ。お医者さんをお呼びなさい。』
『時間は、かかるものだよ。お前さんは、家畜小屋で、もう三晚も待っていてもいいよ。お前さんたち、女というものは、全く何と騒々しいんだろう……』

夕方になった。クリスマスの頃には、夕方は余りにも早く暗くなる。病室では、ランプの光が、せわしなく油煙を立てていた。揺れ動く長い影を、壁に描いていた。雨が降りはじめ、そして風が重い水滴を窓ガラスにバラバラっと打ちつけた。外では、犬が吠えた。そして徴かな戦慄が、その家を通って行った。それは、死の陣痛であって、死神は、そのいけにえを眺めていたのだ。下女は、硬ばった眼つきで病室をのぞき込み、十字を切った。煉瓦ストーヴのそばにある革のソーファの上に、百姓はうずくまってジッと前を見つめていた。
『お医者さんへ使いをやりましたか。奥さんは死にますよ!』
『お医者さんだって、この悪い天気では断わるだろう……うるさい女だね。だが、待っておれるだろう。俺は、お金を窓から投げ捨てるために持っているわけじゃないよ。今までに、もうふんだんに金がかかっているんだ。だが、もちろん、お前さんの仕事が早くすまなくちゃ困るだろう。何かこわいことでもあるかい!』

夜が更けた。陰気な、真黒な夜だった。病室は静かだった、無気味なほど静かだった。そして今や、陣痛は衰えて、段々と短く弱くなって来た……全く無くなってしまおうとしているようであった。母親の胎內は、静かだった。もはや子供の心臓の音は聞えなかった……
そのとき、馬係りの若者が部屋にはいって来た。そこで私は、彼に呼びかけた。 『フェリックスさん、どうかお願いだから、村に走って行って、お医者さんを連れて来て下さい。子供がお腹の中で、死ぬんです、お母さんも。』
彼は、百姓の方を見た。『夜が明けるまで待っておれるだろう。今夜のことにするというと、沢山お金がかかる。自然は時間がかかるもんだよ。』 と、百姓は言って、ソーファの上に体を伸ばして鼾(いびき)をかいた。そこで馬係りの若者は、こっそり部屋から抜け出て、提燈を持って村に行った。その若者は、お上さんに対しては、その百姓よりも、もっと多くの親切心を持っていた。

こんな夜には、時間はいかに長々しく、心配に満ちたものであろうか! やっと、その下男は帰って来た。低い音で、彼は窓をたたいた。彼は、百姓の怒りをおそれて、部屋の中に、はいって来なかった。医者は、彼が村に着かないうちに、あいにく、よそへ呼ばれて行っていた。しかし、後でお宅ヘ行くでしょうと、医者の母親が言われたそうだ。

百姓のお上さんは、寝入っていた。しかし、青白い頬には、赤い斑点が現われていた。私は、体温計で測った。体温は、目立って下りはじめた。とうとう夜半すぎに、医者が見えた。
『遅すぎましたね。』と、医者は言った。『またしても半日遅すぎましたよ。』
わざと鳴らしていた百姓の喉の轟音が、停った。もし妻が死ねば、それはお前の責任だ! 殺人者だ!という考えが、彼の心にひらめいた。
『もう午前中から、私は先生をお呼びせねばならないと言い張っていたのです。どうも調子がよくないと見てとったものですから……』
もう一度、下男は村の薬局へ行かねばならなかった。彼は、できるだけ早く走った。しかし、またもや長い心配な時間が経った。あらゆる方法を尽くし、注射だの、産科鉗子や鉤(かぎ)だのを使って、長い時間をかけた後、やっと死んだ子供が母胎から取り出された。それは男の子であったが、すでに母胎の中で窒息していた。また母親にも、死体の毒がすでに感染していた。

五日後に、私たちは、その母と子を埋葬した。
その当座の日々を、その百姓は、いかに気違いのように振舞ったことか! 今や彼は、三人の子供をかかえて、自分の吝嗇(りんしょく)の果実を蔵におさめねばならなかった。老司祭は、さらに不幸が引きつづいて起らないようにするため、百姓を自殺させないように、お骨折りになった。
遅すぎた!

この初めての出來事から余り経たないうちに、私はさらに、もう一度、全く文字通りの悲劇を経験せねばならなかった。すなわち、自分自身の責任によって遅すぎたという事件である!
村はずれに、幾つかの工場がある。その近くに、労働者たちの家がある、醜い古いあばら家だ。そして、さらに森の方へかけて、工場の使用人たちが、次から次へと、小さな一戸建ての住宅を建てて移住している。もっとも、その当時は、やっと、こんな家が一軒立っていただけであった。この家には、一人の技術監督が、若い妻と住んでいた。もし正確に言おうとするなら、「ここに彼の若い妻が住んでいた」と言うべきだ。というのは、その監督は、在宅しているよりは、居酒屋か、または近くの町かにいる方が遙かに多かったからである。彼は、放蕩者というわけではなかったが、極端に意志の弱い人だった。 ほんの僅かな誘惑にも負けた――もっとも、彼は非常に才能のある男だった。もし、そうでなかったなら、彼の不しだらな生活は、もうとっくに彼の地位を失わせていたであろう。
しかし、彼は、半日怠けたところのことを、短時間のうちに 十分取りかえすことができたのであった。
もっとも、彼がそうできたのは、工場内で機械や設備と取っ組んだり、新しい考案を練る場合のことであって、生きた人間を相手にしたのでは、そうはゆかなかった。
かつて、彼は休暇に、ある山間の小さな町に逗留していたとき、今の妻を知ったのである。そして世間によくあることであるが、彼がそこにいる間は、万事うまく行った。彼女は、非常に物静かな、可愛らしい娘であって、自分が置かれた境遇に対して余りにも物柔らかに順応した。彼女が、その村はずれの家から、私たちの村にやって来たのは、稀であった。彼女は、プロテスタントであったから、日曜日には時々町の教会へ乗り物で出かけた。なぜなら、私たちの村には、カトリック教会があるだけであったから。村はずれの森の端には、彼女の家以外は、まだ一軒も立っていなかった。そこで彼女は、静かに独りで、家の周囲に色とりどりに美しく咲いている花と一緒に住んでいた。夫は、彼女をよその家庭に連れて行くような面倒なことはしなかった。恐らく、彼女がそこで、いろいろなことを経験するかも知れぬことを恐れたのであろう。そして彼女としても、自ら進んで、人と交際することはしなかった。

彼女の結婚から数ヶ月たって、その母親が一度、彼女のところへ訪ねて来た。その当時、その二人の婦人は、新妻が妊娠していることを知っておいてもらうために、私のところへもやって来た。そのとき、すでに私は、彼女の暗い眼の中には、深い悲しみが横たわっているかのように思われた。しかし、私は別に尋ねようとはしなかった。それから、数ヶ月経つうちに、私たちが、日曜日などに、ちょっとした散歩に連れ立って行くことができたときに、私は彼女を時々観察した。そのとき、彼女は赤ちゃんのために作って置いたものを私に見せた。そのよく気を配るお母さんは、疲れも知らずに、美しい小さなものを編んだり、縫ったりした。彼女は、あれこれと質問した。彼女は、旧い習慣に從って、まだ何も知らずに結婚したのであった。そして、そういうことが、かつては最高の理想とみなされていたのである。しかし、何ものかが彼女の心の中に、また眼の中に横たわっていた。 何ものかが、それは飛び出そうとはしたが、飛び出すことはできなかった。しかし、私はあえて尋ねようとはしなかった。というのは、恐らく彼女が予感もしなかったであろう事柄を、彼女の心の中に運びこむ怖れがあつたからである。

結婚してから数週間後に、その監督は、人が変ったかのように思われた。わずか数週間で、彼の以前の怠惰な生活が再びはじめられた。彼は、仕事が非常に忙しいのだと、彼女の前で偽りをいった。しかし、彼が帰宅したときの大抵の状態は、彼女にそれと気づかれずにはいなかった。彼女がいかに大きな愛情を持っていても、それは彼女をそれほど盲目にすることはできないであろう。

そうしているうちに、大体、お産の時刻を計らねばならぬほど近づいて来た。ある朝、この若い妻は、特別に具合が悪かった。そして昼食のとき、ごく微かに最初の陣痛が起った。
『今晚はどうか早く帰って来て下さいね、ヨハン。できるだけ急いで。私たちの赤ちゃんが、生れるような気がするんです。』
『もちろんだよ、マリア。仕事が片づき次第、早速ね……』
『もし、そうでなかったら、誰かをうちに寄こして下さい。もし具合がもっと悪くなって、リスベートさんを呼ばねばならぬようなことがあると、私ひとりでは困りますから……』
『お前は、何を考えているんだね。僕は、もちろん、直きに帰ってくるよ。』
『お母さんにきのう、手紙を出して下さったですか?』
『いや、そこまでは手が廻らなかった。』
『では、私が書きますから、葉書を持って行って下さらない?』
『それは止したまえ。僕が電報を打とう。お母さんは、用件をよく御存知だから、驚きはしないだろう。』
午後五時頃に、彼は工場で帰り支度をして出て行った。しかし、入口の門の前で、親友のある保険監督官と出会った。彼はちょうど、きょう、この村に着いたばかりであった。『弱ったなあ! 帰らなけりゃならないんだが……』
『三十分ぐらいは構わないだろう。初めての子は、そう速くは生れないものだよ。お互いに随分長い間、会わなかったね! それに、言おうと思っていたのだが、実はエルドマン氏も来ているのだ。そら、あのインキ塗装器具屋の彼氏だ。直きに、ここへやって来るはずだ……』
彼等は、居酒屋にはいって行き、酒を飲み、一緒に晚飯を食べた。昔の青年時代のいたずら気が目覚めた――連れ立っての冒険……自宅で苦しみ心配している憐れな妻のあることは忘れてしまった。アルコールの酔いが、いま彼が最も関心をもたねばならぬ現実の上に、ますます厚いヴェールを投げかけたのであった。――
村はずれの森の端では、これから母になろうとする妻が、夫の帰宅を待っていた。陣痛はますますひどくなった。忍び寄って来るもの――未知のものに対する恐怖は、ますます大きくなった……彼女は、あけ放たれた窓に腰をかけて、細い步道をずっと眺めやっていた。秋風が、気づかわしいほど冷やかなのに、気がつかなかった。夫は、どうしても帰って来るに違いない――どうしても。薄暗くなって、晩がやって来た――夜になってしまった。神樣、ああ神樣、あの人はいつ帰って来るのでしょう! 誰かを私のところへ送ってよこしたのでしょうか? お母さんもまた、どうして来ないのでしようか? ヨハンは、電報を打つのをまた忘れたのだろうか? いま私は全くの一人ぼっちだ。そしてあたりの恐ろしさ……彼女は頭を窓枠に置いて、胸も張り裂けるばかりに泣き出した。彼女が今までそんなに静かに胸の中に畳んでいた数ヶ月以来の苦痛と悩みとが、今や一度にほとばしり出た。彼女は、どのくらい長く待っていたのか、気がつかなかった。どこかで時計が鳴った。そして彼女は無意識に算えはじめた――十時。それなのに、夫はまだ帰って来なかった。
もう私は、誰かのところへ行かねばならない――どこかへ――もはや待ってはおれない――もうどうしても……
両足が彼女を運んで行くことは、非常な骨折りであった。苦痛に堪えかねて、彼女は地面に体を折り曲げた。そして、さらに垣根に添うて、苦労しながら進んだ――樹から樹へと――そしてとうとうまだ燈火がついている最寄りの労働者の家に辿りついた。そして彼女は、窓をたたいた。年寄りの女――母親――が燈火を手に持って戸口に出て来た。『あらまあ、監督の奥さん。どうなさったんですか……』そして彼女を内に引き入れた。部屋の中で、若い母親は崩れ落ちた。『宅の主人が帰って来ないんです……でも、私はもう待っていることができません。』
その年寄りには、子供がある。事情は、あまり尋ねなくても、よく判った。若い女をソーファに寝かせ、枕を運んで来た。そして、すでに寝ていた息子を呼び起した。『早くリスベートさんのところへ走ってお出で!』熱いお茶をわかした。優しい慰めの言葉を二つ三つ言った。直きに万事終ってしまいますよ。すると苦しみの代りに、母の喜びが来るのですよ。男っていうものは、確かにそういうものですね。いつも外に留められてばかりいて。妻がどうなっているか、知りもしない。それでも、女は子供を産まねばならぬとすると――この世には、もっとよいことが 非常に沢山あるだろうと。お婆さんは、少し冗談を言おうと試みた。

私は、呼ばれて行って見て、少なからず驚いた。熱、悪寒、陣痛……これは、一度には余り多すぎる。そこで私は、早速、お医者さんを呼びにやった。ウイレ先生が見えたが、これはどうなるのか、自分にはよく判らぬとおっしゃった。とにかく、非常に体が冷えている。それに多分、また興奮もある。その家の息子は、工場の災害救護部へ寄って来た。そして医者と若者とは、若い母を注意深く、その自宅へ運んだ。
重苦しい、心配な夜が来た。一時頃に、その夫が帰って来た。よろめき、わめきながら。彼が、私たちが彼の妻のベッドのそばに立っているのを見、そして事態が解りはじめたとき、彼は急に酔いがさめて、子供のように泣き叫び出した。そこで、ウイレ先生は、彼の襟首をつかんで、別室へ引き立てて行った。一言も言わないで。バタンと戸をしめた。『酔っぱらいの豚め……』と、先生は唸った。『ここは静かにしていなくちゃならないんですよ。』明け方に、女の子が生れて来た。しかし、お医者さんは、まだその家を辞さないうちに、すでに母親が両肺とも重い肺炎にかかっていることを確認することができた。そこで、今や本当に電報を打って姑を呼び寄せた。熱は、どんどん昇った。
そして三日目に、若い母親は死んだ。心臓がそれ以上持たなかったのだ。憐れな心臓……今までに、それが何に堪えて来なければならなかったかを、誰が推量することができようか……
夫の監督は、もはやそのベッドを離れなかった。髮をかきむしり、そして非常に優しい言葉をもって、亡き妻に向って、どうかただ一瞥を――ただ一言を――と乞い求めた。そしてあまつさえ、苦悩に満ちて祈りはじめたのであった。
遅すぎた!






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