Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

枝の主日の解説と黙想 2020年4月5日(枝の主日)

2020年03月30日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

【枝の主日の解説と黙想】 
王たるキリストは、御自分の民を戦いに、そして勝利に導く。
今日の典礼は、イエズス・キリストがエルザレムに入城し歓迎され給うたことを記念するだけではない。
むしろ、私たちが私たちの主イエズス・キリストと共に荘厳に御受難に付き添うことである。そのためには、私たちに準備が必要である。その準備が枝の儀式である。キリストは私たちのただ中におられ、私たちは私たちの主の弟子であり、私たちは主のために凱旋を準備する。主は、オリベト山から聖なる町エルサレムに入城され、そこで苦しまれる。
第一:オリベト山(枝の祝別)
第二:オリベト山からエルサレムの城門(枝の行列)
第三:聖なる町エルサレム(指定巡礼教会でのミサ聖祭)

行列の先頭を歩く十字架、あるいは司祭は、キリストを象徴する。
全ての信徒は、キリストの弟子らを象徴する。
ミサに来た子供たちは、ホザンナと叫ぶヘブライの子供たちを象徴する。

第一部:枝の祝別
オリベト山を象徴する小さな教会、或いは別の祭壇から儀式が始まる。祭壇の近くの台に棕櫚、かんらん、あるいはその他の枝がおかれ、祝福される。ピオ十二世の典礼革新以前には、あたかもミサ聖祭であるかのような儀式(聖変化の代わりに枝の祝別があり、聖体拝領のところを枝の配布)が行われた。
キリストを象徴する司祭が入堂すると、キリストに対して歌われるかのように、聖歌隊は次の交誦を歌う。「ダヴィドの子にホザンナ。祝されよ、主の御名によって来る者、イスラエルの王よ、いと高き所にてホザンナ。」これはいわば入祭唱である。司祭が祭壇に登るのは、私たちが天国に登る日のことを思い起こさせる。これは枝の行列が教会の門にたどり着くときも同じだ。
次にいわば「集祷文」がくる。枝の祝別である。「祈願。主よ、この棕櫚の枝を、祝福し給え(…)」棕櫚、或いは橄欖(カンラン)、オリーブの枝は、キリストの殉教とキリスト者らの殉教を象徴する。キリストは自ら御受難へと向かう。私たちも手に枝を持ってキリストに従う。ノエの方舟から放たれた鳩は、平和の印としてオリーブの枝を加えてきた。棕櫚の枝は、死と地獄に対する主の勝利を予告する。
信徒は、キリストからあたかも叙勲され、騎士とされ、勝利の棕櫚を戴くかのように、枝の配布を受ける。枝を受け取りながら、王たるキリストに従う者として、御受難に従う者としての恵みを受ける。枝を手にしながら、私たちは「ヘブライの子供たち」である。手に勝利の棕櫚の枝を持ち、キリストの前に行って、歓喜する。
2月2日の御潔めの式では、教会は私たちにローソクを配った。私たちが世の光であるキリストを運ぶため、私たちが世の光となるために。枝の主日では、教会は私たちに棕櫚の枝を配る。私たちは殉教者の王であるキリストを誇りにし、私たちもまた「殉教者」「証し人」となり信仰を告白することが出来るために。私たちは自分の部屋に、この祝別された枝を飾る。それはキリストを証しする務めを持っていることを思い出させるためだ。
聖福音では、歓喜に囲まれてのイエズス・キリストの荘厳なエルザレム入城についてが読まれる。「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ!」今日、典礼によって、キリストは、私たちキリスト者を、復活へと導いておられる。十字架の道を通って復活へと。私たちが手にする棕櫚は、それを意味する。行こう!私たちもキリストと共に行こう!キリストは私たちの内におられる。私たちも御受難に、そして復活に進もう!「我等安らかにいかん。(平和のうちに行こう。)」

第二部:枝の行列
私たちは、叙勲を受けたキリストの騎士として、キリストのための殉教者(証し人)として、王たるキリストに従う。キリストは必ず勝利する。死と罪と地獄とに打ち勝つ。私たちもキリストに従って勝利する。私たちの先祖キリシタンの時代のことを考えよう。私たちの信仰の兄弟たちが信仰のために殉教していた時のことを。私たちもその殉教の地に詣でた。今日、典礼では、私たちはキリストの御受難の地に詣でる。十字架の後に従う。キリスト者は、キリストと共に行進する。勝利者たちの、英雄たちの、凱旋の行進である。「ホザンナ!」私たちは棕櫚を高く上げて喜び歌う!教会は、そこでオルレアンの司教テオドゥルフォの作った王たるキリストに対する賛歌を歌う。「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。子等の美しい声は、敬虔なホザンナを、主に向けて歌う。」「いと高き天の全ての群れは御身を褒め称える。死すべき人間も、被造物も皆、声を合せて主を称える。栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」
信徒らの行列が教会の門の前に立つ。十字架を運んでいた副助祭が、十字架の足で教会の門を三度叩く。すると教会の門は開き、共同体は教会の中に入ることが出来る。アダムとエワの罪以来、天の門は閉められていた。しかしイエズス・キリストがこの地にやって来て、十字架と共に天の門を叩く。天の門は再び開き、キリストに従う者たちは天国に入ることが出来るようになる。枝の主日の地上での行列は、天国への行列となる。ヨーロッパの大聖堂の正門の上には、よく最後の審判が描かれている。大聖堂の正門は、キリストのための凱旋門である。勝利した者が勝利者であるキリストと共に通過する凱旋門だ。「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」

第三部:ミサ聖祭
ラテラノ聖ヨハネ大聖堂は、エルサレムを象徴する。キリストはエルサレムに入り、弟子である私たちもキリストに従う。「主が、聖なる都に入り給うたとき、ヘブライ人の子等は、あらかじめ、彼の復活を告げた。手に棕櫚の枝を持って、彼等は勝利者を讃美した。いと高きところに、ホザンナ。」キリストは、何故エルサレムに入城したのか?王として戴冠式を行うためか?否。苦しむため、十字架に付けられるためだった。私たちも準備は出来た。覚悟ができた。ミサ聖祭に、キリストの御受難に入る。

預言者ダヴィドが、十字架の予告をする。それが入祭唱だ。「主よ、御身の救いを私より遠ざけ給うな。私を守りに来給え、私を、獅子の口よりとき放ち、みじめな私の生活を、牛の角より解放し給え。天主よ、わが天主よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を見すて給うたのか。私の罪の叫びは、私から救いを遠ざける。」(詩篇21)
私たちの主イエズス・キリストも、十字架の上でこの詩篇21を唱えた。「天主よ、わが天主よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を見すて給うたのか。」

詠誦も同じ詩篇21から取られている。「天主よ、わが天主よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を見すて給うたのか。」
「私は、もはや人間ではなく、うじ虫にすぎない。私は、人間の恥辱、人々の嘲弄となっている。私を見る者はみな、私をあざけり笑う。かれらは、口でののしり、頭を振る。(…)かれらは私をながめ、私を見つめた。私の服をさき、私の衣をくじ引きした。」

聖パウロの素晴らしい書簡が読まれる。「(キリストは)死ぬまで、十字架上に死ぬまで、おのれを卑うして従い給うた。このために天主も彼を称揚し、すべての名にまさる名を与え給うた。これは、イエズスの御名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」といいあらわすためである。」この部分は、聖週間の最後の聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の聖務日課の重要なアンティフォナとなっており、キリストの御受難の核心である。

司祭がパンとぶどう酒を捧げる時、キリストの御受難を思い起こし、奉献文は「かれらは、私の食物として苦胆を与え、飲物として酢をのませた。」と歌う。キリストは御自分と共に苦しむ者を求めておられる。「私の心は、侮辱と悲惨とにみちている。私は、私と共に悲しんでくれる者があろうと期待したが、一人としてなかった。私を慰める者を求めたが、一人としてなかった。」キリストは一人で苦しまれる、しかし、私たちの同伴を求めておられる。私たちは棕櫚の枝を持ってキリストに従う。キリストと共に、天の国に入るために。

共同体が御聖体を拝領している時、この聖体拝領誦を歌う。オリベト山から始まった行列は、オリベト山のふもとのゲッセマニで終わる。「私の父よ、この杯を、私が飲まずしては去りえないならば、思召のままになし給え。」



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