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「天主に倣う者となれ。キリストがそうなさったように、私たちの為に犠牲として御自分を捧げたように、愛において歩め」2020年3月15日(主日)四旬節第3主日のミサ(東京)

2020年03月31日 | お説教・霊的講話
2020年3月15日(主日)四旬節第3主日のミサ(東京)
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

「天主に倣う者となれ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今年の四旬節は、天主様の御摂理によって、特別な四旬節となりそうです。

今までは、「さぁ、四旬節だ。霊的に世俗の精神から離れて、お祈りをたくさんしよう。」あるいは、「もっとテレビを止めて、家族と一緒に時間を過ごそう。」あるいは、「ロザリオの祈りをたくさんしよう」と思っていながらも、結局はできなかった、という年が多かったのですけれども、今年は、多くの人は家に居るように要請されて、そして学校もお休みになって、私たちはたくさんお祈りをする機会に、家族と一緒に過ごす時に、恵まれるようになりました。

では今日は、聖福音の精神に従って、四旬節を良く過ごす為に、この福音のイエズス様の御話を黙想して、それから遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様は、自分が「天主である」という事を証明する為に、福音では啞の人を治します。そして彼は後で話す事ができるようになります。それを見て多くの人は、単純に、「素晴らしい!」イエズス様の事を感嘆しました。

しかし、悪意のあるファリザイ人たちは、イエズス様を何とかその事を否定しようと、「これは、悪魔の力によって、ベルゼブルの悪魔の頭によってやっているのだ」と反論します。

そこでイエズス様は、「自分は天主の力によって、私のやっている事はまさに、天主の指がここにおいて現れている。聖霊の力においてやっているのだ」という事を証明しようとします。

論拠は二つあります。

「もしも悪魔がやっているのならば、互いに争っていたら、悪魔が、そんな国が持つわけがない。だから悪魔がやっているのではない。ベルゼブルが自分の弟子を追い払うわけがない。」

第2は、「これは、人間の戦いと同じだ。もしも強い人が武器を持って、自分のお城を守っていたら、どうだ、その敵がやって来て、より強い人がやって来て、それを追い払うしかない。」

このこれは何を意味しているかというと、教父たちによると(これは聖トマス・アクィナスの『カテナ・アウレア』という所からの孫引きですけれども、それによると、多くの教父たちを引用して)こう言います。

「この『強い人』というのは、『悪魔』の事である。そして『武器を持って守っている』というのは、『罪』の事である。あるいは『悪意』の事であったり、『嘘』であったり、『偽り』の事であって、その煩わしさを持って、それを武器としている。」「そして『自分の城』というのは、これは『人間たち』の事で、なぜ『強い』のかというのは、実は本当は強いわけではないのだけれども、しかし人間の弱さと対比すると、その悪魔は強かった事になるから。罪を以て悪魔は人間を支配している。」「しかし、この世を支配して、この人間を支配しようとしている悪魔たちは、より強い者が来ると負けてしまう。」

「より強い者」とは誰かというと、「イエズス様御自身」の事であって、イエズス様は御自分の持つ聖霊の力によって、天主の力によって、その悪魔と戦い、勝利します。今までイエズス様がいらっしゃる以前では、悪魔はこの世に、あるいは信じない人々の間に喜んで、何の抵抗もなくしがみついて、そこに支配をしていたのですけれども、イエズス様の前では、立ち所もなく去ってしまうしかありませんでした。

ところで、イエズス様が使う「武器」というのは何かというと、「福音の真理」であって、使徒たちを通して私たちに与えてくれます。そしてイエズス様は守護の天使たちを送り、私たちを守ってくれようとします。

「使徒たちのように、『イエズス様と共に悪魔と対して戦う』事をしない人、私と一緒に働かない人、私と共に天主の子供たちを、天主の子たちを集めない者は、つまり私に反対している者だ」と言います。

そうやってこの強い男と、より強い人との戦いについて言及した後に、「ところで、この出された悪魔は、その後行き場所がないので、今度は戻って来る場所を探す。そして綺麗になっている家を見て、綺麗になっている所を見て、『あぁ、綺麗に片付けられているから、より悪い七匹の他の悪魔たちを連れて、この家をまた占拠しよう。』」

この「七匹の悪魔」というのは、これは「全ての悪徳、より悪い悪徳」の事です。アレキサンドリアの聖チリロによると、「この綺麗になったけれども、しかしもう一度悪魔に入られてしまったというのは、ユダヤ民族の事だ」と言います。

なぜかというと、エジプトにいた悪い霊たちから清められて、エジプトを脱出して、そしてモーゼの十戒を与えられて清められたはずなのにもかかわらず、そしてモーゼの指導の下に子羊の血をふりかけて清められたにもかかわらず、旧約の律法によって清められたにもかかわらず、イエズス様を拒否して、そして悪魔たちがまた入るその隙を与えてしまったからです。

その為にユダヤの人たちは、教父たちによると、「より悪い状態になった。昔は予言者を殺害する事だったけれども、今度は預言者の頭である、預言者の王であるイエズス様を殺害しようとさえする。」

ですからこの罰としても、「昔はエジプトとバビロンでの苦しみを受けたけれども、今度はローマのヴェスパシアヌス、あるいはティトゥスローマ皇帝からの苦しみを受けなければならなかった。」そして教父たちは更に言葉を進めて、「なぜかというと、せっかく天主の御摂理によって与えられた、そして御恵みが与えられたにもかかわらず、彼らはそれを拒否したので、徳を欠き、そして悪徳に満たされてしまったからだ」と言います。

ところで、聖ベーダによると、「このこれは、ユダヤ人たちのみならず、離教徒やあるいは異端者や、悪しきキリスト教徒たちにも当てはまる。せっかく洗礼の御恵みを受けて、せっかく御聖体を受けたにもかかわらず、しかしその御恵みをなおざりにすると、私たちは悪しき悪魔が来る事を招いてしまう」と、私たちを警告しています。

そこで教会は、先週の主日には、私たちの待つ栄光の姿、その御変容を見せた後に、「もしも私たちがこの四旬節をおろそかにするならば、もしも私たちが形だけに、あるいは心を入れなかったとしたら、結局ユダヤ人のように、あるいはより悪い状態になってしまう」と、警告しています。

では、私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

それは聖パウロが今日、書簡の中で言っています、「天主に倣う者となれ。キリストがそうなさったように、私たちの為に犠牲として御自分を捧げたように、愛において歩め」と。

ですから私たちもこの四旬節を、天主に倣う者として、天主に愛された子供たちとして天主に倣う者として、そしてキリストの愛の内に歩む事に致しましょう。

具体的にはどういう事でしょうか?

私たちはますます、イエズス様の犠牲に私たちを一致させる事です。愛を以て一致させる事です。今回、今年は色々な不安な事や、色んな不愉快な面白くない事もたくさん起こりつつあるかもしれませんが、それを私たちは、イエズス様を愛する為に犠牲としてお捧げ致しましょう。

そしてもしも自宅に居なければならない場合には、せっかく与えられた機会ですから、世俗の精神を入れないように、テレビを消して、あるいはインターネットをしばらくやめて、そして祈りに時間を使う事に致しましょう。イエズス様の御受難を黙想致しましょう。イエズス様の40日の断食と苦業を黙想致しましょう。

この四旬節が良いものとなりますように、ますますイエズス様と一致する者となりますように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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