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2018年7月:聖ピオ十世会日本、大阪と東京での聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の活動報告

2018年07月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか?7月の2回目のミサのご報告をご紹介いたします。
 特に7月16日のうみの日には、多くの方々とともに、ファチマの聖母とマーチフォーライフができて幸福に思います。マーチフォーライフの主催者の方々に感謝いたします。

 次回の聖伝のミサは8月3日、4日(大阪)、8月5日、6日(東京)です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ミサの報告が遅くなってすみません。お送り致します。

7月13日(金) 聖母の汚れなき御心のミサには13人、
7月14日(土) 聖ボナヴェントゥーラのミサには18人が
7月15日(主) 聖霊降臨後第8主日のミサには20人が
7月16日(月) カルメル山の聖母の祝日のミサには14人が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!

13日はファチマの聖母の第三回目のご出現の記念日でしたので、お説教ではもう一度、ファチマのマリア様のご出現の目的を黙想しました。
13日、14日両日とも御ミサの後に御聖体降福式をして頂き、御聖体にましますイエズス様を礼拝できて大きな御恵みでした。
14日には小学生や幼稚園の子供達が4人もいらっしゃったのでお聖堂がより教会らしく感じました。
長い歌ミサと、御聖体降福式とを続けて与る事は小さい子供達には大変な事だったと思いますが、立派に最後まで参加されていたのでこれからが楽しみなお子さん達だなと思いました。

15日の主日には自由についてのお説教をして頂きました。
人間は原罪の結果により、悪に傾きやすいが、恩 寵により道徳的自由を上手に使う事によって天国での身に余るほどの幸福を得ることができるというお話でした。
この暑い夏、自由をよく使うことが出来るよう、マリア様のお取次ぎを乞い願いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

7月15日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供3人)
女: 32人(内、子供3人)
計: 61人(内、子供6人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第8主日のごミサをありがとうございました。

このつまらない惨めなものである私が 天主の養子となる霊をいただいていることをあらためて思い感謝しました。天主の超自然的な意味での養子とされたのであれば、この世の人・肉の人として考え振舞うのでなく、光りの子として考え生きるよう努めなければと思いました。

カトリック信仰を持つ者というのは、なんと特別な賜物をいただいている者でしょう。天主にむかい親しく 御父よ!と呼びかけることができるのですから。

この孝愛の恵みも、堅振の秘蹟によって与えられる恵みの一つということで、自分の人間的な望みから来る生き方よりも御父が喜ばれるような生き方をしたいと望むように変えられるとのことです。聖霊の働きが感じられるときにその聖霊に逆らうことのないようにと思います。せっかくいただいた堅振の恵みを失うことのないように、気をつけなればと思います。自分では右にいった方が楽と思うのに、聖霊にまっすぐに進むように促されているとしたら、厄介だと思うかもしれません。でも、父の勧めに従う子供のようにまっすぐ進むことができるようにと思います。

また、聖福音のなかの不正な管理人の話のことですが、ここは読んでもいつもよくわからないままにおりました。お説教を伺ってしばらく黙想しておりましたが、少し天国に友人をつくるコツがわかったように思います。天国に行くために資金が必要だとしたら、私など全く足りません。せめて ちょっとした機会をつかまえて隣人にご奉仕することをできますようにと思いました。またちょっとしたことで怒ったりしないで、すぐに心からゆるすことができますように。「この世の子らは、自分の仲間に対しては、光りの子らよりも巧妙なものである。」という言葉は本当かもしれません。心から天国へ行くことを望む徳をいただけますようにと思います。

ミサの最後には 総会のために Veni Creatorを歌い、Sub tuum praesidium(「聖母の御保護に寄りすがり奉る」)の祈りを唱えました。

また、この日はご聖体降福式で日本の小さないのちが守られますようにと祈りました。70年前の7月13日から日本では堕胎が罰せられなくなり、それから3800万人以上もの赤ちゃんがお腹の中で殺され続けてきているその罪の償いのため聖母の連禱を祈り マリアさまのお取次ぎを願いました。

至聖なるイエズスの聖心われらを憐れみ給え!
聖マリアの汚れなき御心我らのために祈り給え!

【報告】
公教要理の講話をありがとうございました。
8月19日の堅振式のための堅振についてお話しいただきました。
この日は参加者が多く子供も含めて最後には22人で一緒に学ぶことができました。
堅振について全般的なことをお話しくださいました。
わかったことを簡単にまとめてみました。

◎堅振とは「堅く振まう」ということから来る言葉。ラテン語では confirmatio。
中国語でも韓国語でもこの堅振の字を用いている。

◎洗礼は 天国に行くために絶対的に必要なものである。その人の救霊のために必要なもの。緊急の場合は誰でも授けられる。

◎堅振は目的地である天国により効果的に達するために必要なものである。司教が授ける。

◎洗礼を受けると 霊的な生命を新しく受ける。洗礼はその人個人に必ず必要である。質量は単純な“水”で、水は世界中のどこにいてもすぐに手に入る。イエズス様がご自分も洗礼を受けられたことですべての水を聖別してくださった。

◎堅振を受けると、霊的な生命の完全な年齢に達することができる。信仰を話すことで伝えたり、それとなく信仰が良きものであることが感じさせられる良い香りのように伝わったり、周りの人とのコミュニケーションにおいて堅振を受けたことが働く。質量はバルサム香とオリーヴ油の混じった聖香油で、それは 他人に良い香りを伝え 火の舌のように信仰を話して伝える愛徳の燃える火となるものであることをあらわすもの。オリーヴ油を用いるのは、オリーヴの樹は常緑樹でいつも青々と茂っていて、旅人に憐れみの木陰をくれる聖霊を意味するものだから。堅振はより簡単に天国行くためのものであり、より複雑な難しい質量となっている。そしてその聖香油は 一年に一度 聖木曜日に聖別される。

◎堅振の形相・・・《聖父と聖子と聖霊との聖名によって 汝に十字架の印を授け 汝を救いの香油において堅める》

◎聖霊の充満を与える原因は誰か? 三位一体である。だから三位一体の名前が述べられる。

◎堅振のときは、お恵みを与えるだけでは足りなくて、洗礼とどれほど違うものであるか詳しく述べられなければならない。長い文章がある。

◎“十字架の印”が授けられる、とは? 軍人の持つ旗が与えられることである。外的な戦いが必要であり、自分が聖になるのみならず、敵と戦わなければならない。そのために十字架の印の御旗も与えられなければならない。

◎霊的な刻印を与えられ(霊印)、霊的に成人の年に達し信仰の戦いにおいて霊的な戦いができるようになる。外にでてイエズス様のために働くようになる。

◎十字架の印を額につけるのは、皆の見える所に印がなければならないこと。また信仰を表明するのを邪魔する要因である畏れや恥ずかしさを克服するためである。

◎なぜ司教さまだけが堅振を授けられるかというと、その人の信仰を最後に固める業をおこなうため。料理における味付けをする料理長や、家をつくる際の棟梁や、手紙をしたためた際の最後のサインをする最高責任者の社長のようなもの。それと同様に、霊魂は天主の家であって最後の完成をさせられるときに 普通の神父ではなく司教が最後の仕上げとしてサインを施す。

以上に簡単にまとめてみました。

次回の公教要理も堅振のお話をしてくださるとのこと、どうぞよろしくお願いします。

いつも貴重なお話をありがとうございます。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

7月16日(うみの日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供2人)
女: 17人(内、子供3人)
計: 35人(内、子供5人)

ちなみに今日のマーチフォーライフの参加者は、歩きながらざっと数えたとこ
ろ、27人でした。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

カルメル山の聖母の記念ミサをありがとうございました。
カルメル山の聖母のくださったスカプラリオの代用の御メダイというのがあります。その絵柄はスカプラリオを持つ聖母子像ですが、もう一つの面はイエズスの聖心の御絵です。

もう昔々のことです、教会からすっかり足が遠のいていた時期のことですが、あるものが地元の巷のアクセサリー売り場に並んでいたのを見た時に、どうしても欲しいという気持ちが抑えられず買ってしまいました。普通のアクセサリーとは明らかに違うとわかるもので なぜこんなところでこのようなものを売っているのだろうと不思議に思うものでした。それは、イエズス様(と思われる方)がこちらを向いて聖心を指し示している絵柄で、私はすっかり魅了されてしまいました。でも御メダイという言葉すら知らなかったのです。シルバー製なので時折磨きながら傷んできても大切にいつも首に掛けて愛用していました。イエズスの聖心の御絵に惹かれたのですが、もう一方の面も愛らしい御絵で聖母と幼子イエズスの二人が持っているバックは何かしら なんでバッグをもっているのかしら とずっと気になっていました。

後にロザリオのおかげで教会に戻らせていただきましたが、しばらくしてそれがスカプラリオというものだということを知らされました。このバッグと思っていたのはたくさんのお恵みそのものだったのでしょう。そののちに着衣式によって本当のスカプラリオを身につけさせていただいています。

いまそのことを思いだしました。とても大切だったのでなくしてしまわないようにすっかりしまい込んでいましたが、その御メダイを引っ張り出して眺めながらこのお手紙を書いています。

お説教の「マリア様のお望みの服を着るというのがカトリック信者の務めです。(罪をおかしたときに裸であると気づいた)アダムとエヴァが楽園を追放されるときに 天主さまは御摂理で保護するという意味で服を与えました。マリア様もスカプラリオという服を与えてくださいました。」というお話を思いだしながら、罪びとの私ですのにこのような方法でマリア様のお望みの服を着ることができるように御守りいただいたのだと思うと感動いたします。

お話の中で このスカプラリオのより霊的な意味もお話しくださいました。土曜日の特権とのことで、このスカプラリオを着衣して決められたお祈りや身分に応じた貞潔を守るなら、マリア様は煉獄にいってもその者を守る、亡くなった次の土曜日にはその者を煉獄にまで探しに来てくださるというお話でした。特に ファチマでマリア様が10月にルシアに御出現されたとき、ルシアは太陽の奇跡ではなく、聖家族のマリア様、御悲しみのマリア様、カルメル山の聖母のマリア様の順にお現われになられたお姿をみていた、そのことがマリア様は私たちをカルメル山の聖母として天国へ導いてくださることを現わしている、と神学者たちは言っているとのこと、そして、「聖家族、御悲しみの聖母、カルメル山の聖母」というのは喜びの玄義、悲しみの玄義、栄えの玄義とも関連するものでロザリオの玄義を象徴するものともいえる、この終りの時代にはマリア様はロザリオとスカプラリオの二つの簡単な手段で私たちを天国に導こうとされている、という神父様のお話を思いだして考えております。

洗礼を受けてもマリア様の話を何一つ聞かされないまま教会を離れ路頭に迷っていた私だったのに、昔から続くカトリックの教えかたの神父様たちに出会い、今またこのすばらしい天国のようなごミサに与れていますのは、マリア様のお望みの服のスカプラリオの服を身につけることができたおかげだったかもしれません。天主さまの御憐れみと御摂理とご保護に感謝いたします。

ロザリオとスカプラリオの二つの手段で天国へ行けるというのは、聞く者にとってあまりに簡易で疑わしく思われるかもしれないけれど、ひどい罪人である私のようなものがスカプラリオの代用のメダイを手にしたことで多くの恵みを受けるようになったことを考えると、やはりスカプラリオの恵みというのは本物だと感じられます。天国へ行くことができますように最後まで堅忍したいと思います。マリア様にしがみついているイエズス様のように イエズス様とマリア様とスカプラリオの紐につながり離れないでいることができますようにと思います。

そして、その他にもカルメル修道会がどのようにしてできたかなどとても興味深いお話もありがとうございました。小野田神父様のカルメル山の聖母の聖伝のごミサに与ることができましたことを、心から感謝申し上げます。



【報告】
マーチフォーライフに参加して

今年もマーチフォーライフに参加いたしました。
出発地である築地カトリック教会に着いた時は、ファチマのマリア様も既に到着されていて、広場は参加者でいっぱいでした。外国人の方が多いように思いましたが、それでも昨年よりも明らかにたくさんの方々が集まっているようでした。

今年は長引く猛暑の最中でしたので照りつく暑さが心配でしたが、歩きはじめたらうっすらと曇り微風も時折吹いてくれているようで、なんだかお守りいただいているかのように感じられました。歌とロザリオの祈りの先導をしてくださる神父様についていくのに集中して歩きましたが、小野田神父様は黒いスータン姿でさぞ暑かったことと思います。

カトリックだからこそこのいのちのことについてもっとよく考えるのでは思うのに、実際はそうでないことをいろいろ見聞きします。私が生まれてくる新しいいのちについての疑問を解決できたのは小野田神父様のいのちのお話を聞くようになってからです。

日本では、第二バチカン公会議の前と後とではカトリックの要理などの教え方が変えられたのだと実感するなか(そもそも教えられないのが普通となった)、カトリック信仰を求める人は幾重もの障害を乗り越えなければならなくなったのだとふと思いました。

神父様の先導のもと、日本で侵されているいのちへの冒涜の罪をつぐなうために、ファチマのマリア様の御像と一緒に東京の中心をロザリオとマリア様の連禱とイエズス様の聖心の連禱を誦えながら歩くことができましたことを感謝いたします。

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