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「助産婦の手記」10章『さあ、あっちへ行って仕事をなさい! ここで見物している必要はないんです! お母さんも、あんた方のために一度はこんなことがあったんですよ。行きなさい―― みんなここから! 』

2020年07月29日 | プロライフ
「助産婦の手記」

10章

紡績と織物工場の数本の煙突が、空高くそびえて、黒い煙の雲を盛んに吐き出している。あたかもそれらの煙突は、工場が拡張されたことを知っているかのように、そして自分たちも、それに対して、実際何ものかを寄与しているかのようであった。

繊維製品工場が、最近新たに付設された。いよいよ多数の労働者の群れが、かつては非常に静かだったこの村に移住して来た。近代工業のあらゆる暗い面があらわれて、私たちのかつては非常に透明だった空を暗くしていった。空には、陰気な黒雲が次から次へと作られてゆく。
これに反して、セメント工場は、ひっそりとしている。その製品は、ちっともはけ口がなかった。そして倉庫には貯蔵品がいっぱい詰っていた。とにかく、それは優れた品質のセメントではないという噂である。この村の建築業者でさえ、そのセメントは現場では使わない。この工場を建てる前に、多くの人々が、この企業に反対したため、この村では長い間、議論が戦わされた。反対論者は、埃(ほこり)がいつも立つのは、一般の健康を害すると言ったが、それは確かに誤りではなかった。その工場の周囲は、遠くまで、樹木と灌木、野原と牧場が、いつでも厚い灰色の埃の覆いで被われていた。幾人かの百姓は、よほど以前から、彼等の所有物被害の件について訴訟を起している。しかし、この件では、今日に至るまで、幾つかの家庭の間に、敵意が続いているという以上の結幕は出てはいない。今、この工場は休止している。それが再び操業を開始するかどうかは、まだ誰も知らない。人の話によると、セメント工場は、すべて合同するとのこと、そしてそのときは、全く優秀な工場だけが操業することになる、ということである。それはとにかくとして、もしこの埃工場が、その仕事を中止してくれるなら、私たちはみんな、ほんとに喜ぶことであろう。しかし、問題は、今日ではもはやそんな簡単なものではない。いま、多数の労働者が、その家族を連れてこの村に移住して来ている。彼らは今や路上に坐って、パンもなければ、またこの村でそれにありつく見込みもないのである。他の工場は、一定数の熟練した男女工をもっている。その多くの若い人たちは、当地方のあらゆる地域から出て来ている。従ってセメント工場の労働者は、大部分、どこにも避難所を探すことはできないのである。

種々の工場が建てられてから、この村には根本的な変化が起った。貧しい人々が、やって来た。彼らは、少しばかりの賃銀以外には、何も持っていなかった。この乏しい源泉が、ひとたび塞がってしまえば、彼らは全く無一物であった。彼らは、決して何ものをも蓄えることができなかった。何となれば賃銀は余りにもわずかであったから。

彼等は手から口への生活をせねばならず、 そして子供たちは、獣脂でいためた馬鈴薯や、薄いスープや、乾いたパン以外には、何も与えられることができなかった。やっと一切れの肉を料理鍋に入れるか、または自分で飼った小兎を食べるのは、彼らにとっては祭日以外にはなかった。

最初の二十年間というものは、この労働者のは、私にとっては、よい仕事場であった。そこヘ私はたびたび行った。もっとも支払いという点になると、時々、別問題であった。大抵の女たちは、多少の金は貯めていた。しかし、そうでないこともたびたびあった。すると彼女たちは、折り折り土曜日に二マルクずつの分割払いをした。彼女たちは、少なくとも、みんな善意をもつていた。そこで、私は、料金が全部支払われたかどうかを調べて見たことは決してなかった。むしろ私は、支払いのできない貧しい人々のところで、幼いキリストのために働いているのだと考えていた。なるほど、保健金庫は、数年前から労働者のために作られていた。しかし、お産の費用は、当時はまだそこから出してもらえなかった。それは各家庭で、工面せねばならなかった。

それにも拘らず、今日、私たちが非常にたびたび出くわすような、そんなに何もかも使い果たしてしまったような家庭は、まずなかった。大抵、世帯は非常に整頓されていた。お互いに、小さく狭くはあったが。しかし、私たちは、過ぎ去った世代の善い精神をその中に今なお認めた。女たちは世帯ということについて、なお何ものかを理解しており、そして彼女たちが持っているわずかなものを、正しく維持し管理することを心得ていた。ベッドは、たとえ青と赤の弁慶縞の布で被われ、そして繕われてはいたが、清潔で完全であった。たとえ、二三人の子供が、一つのベッドに寝ていても(一緒に寝ることは、私たちの地方では、かつては大体、普通であった)、 ベッドはよく整頓されていた。
私は、時々不思議に思った。どうしてそこの女たちが、大抵は織物工場へ行っていながら、よくこのことをやり通していたかということを。というのは、当時は、労働時間は十時間にも達していたからである。

ある水曜日の朝、私は、繊維製品工場へ呼ばれた。これは珍しいことと驚いて、私は出かけた。
大きな裁縫室の片隅に、人々が寄りたかっている。もちろん、前の方には、まだ十分に成長しない若者たちがいた。彼等は、この部屋には何の関係もなく、休憩時間に、他の職場から馳せ集って来た連中である。彼等は手をポケットにつっこんで、物珍しげな大きな目で見つめながら、傍らでクスクス笑いながら首を伸ばして見ている娘たちに向って、嘲笑的な言葉を弄していた。見ると、一人の憐れな女が、地面に横たわって、陣痛のため、身をもんでいた。機械に崩れかかって、もはや家に帰ることもできなかった。子供が、もう生れかかっていた。
  
ここに、一人の母親が身をもみながら、一つの新しい生命のために闘っている。その生命は、母親の心臓の一部分を取って、この世に生れて来るのである――それに反して、その周囲には、愚かなおしゃべりたちが、叱声を発したり、からかったりし、そしてその不純な眼には、官能的な焔が燃えかがやいているのである……しかも、そこで、そんなに恥も知らずに、ぐるりと立ち並んでいるすべての人々のためにも、かつて一度は、母親がこのように苦しみ、かつ血を流したのであった……

初めて私は、押し寄せて来る新世代に対立している自分自身を見いだした。戦慄と同時に怒りが、私をとらえた……
『馬鹿な人たち、さあ、あっちへ行って仕事をなさい! ここで見物している必要はないんです! あんた方のお母さんのことを思い出しなさい。お母さんも、あんた方のために一度はこんなことがあったんですよ。行きなさい―― みんなここから! 誰も口をあけて立っている必要はないんです!』
私は、強い一衝(つ)きをくれて、一番手近に立っている奴を後ろへ押しやった。唸りと怒声が起った――しかし人垣は、後ろへ退いた。幾たりかは、本当に恥じて立ち去った。ほかの人たちは、よほどそこに残っていたかったのであるが、今はもうあえてそうしようとはしなかった。遂に職工長と工場監督たちが私に加勢をして、その部屋から彼等を一掃してくれた。女工たちは、機械に取りかからねばならなかった。調革(ベルト)と歯車の音が、やかましく鳴った。その母親は、一言も語らなかった。お産が終ると私たちは、赤ちゃんを一枚の作業用前掛の中に包みこんだ。すでに工場災害救護班から、二人の男が担架を持って来ていたので、母子を急いでその家へ運んだ。

その憐れな女がベッドに身を横たえたかと思う間もなく、小さな足音が、階段をちょこちょこと上がって来た。五人の子供が、学校から帰って来たのだ。一番小さなのは保育園から。子供たちは、浴用の手桶の中に、お母さんが工場から連れて帰った赤ちゃんが、またもや手足を動かしているのを見たとき、少なからず驚いた。しかし、一番年上の八つになる男の子は、泣き出した。
『パンを食べるのが、また一人増えちゃったよう……』
すると、その母のこわばっていた表情もまた融けた。そして可哀想な女は、むせび泣いた。パンを食べるのがまた一人……しかも、彼女は家の中には全く一切れのパンもないのである。夫は、三週間前から失業している。セメント工場から解雇されたのだ。わずかな退職金は、もうとっくに使い果してしまった。彼等は、もはやこれ以上、身を支えることはできない。しかも、雇い主は、労働者が今後どうして生活して行けるかということについては、ちっとも心配してくれないのである。『あの人たちの鍋の中は、一杯なのです――それなのに私たちは? 三週間この方、うちの人は一銭も賃金をもらって帰りません。そこで私は立ち上って、工場にまた勤めたのです。実は、私は六週間前までは、そこで働いていたのですが、機械と取っ組んでいると、体が段々ひどく衰えるので、仕事を止めねばなりませんでした……そして今では、私も失業です……この子は、四週間も早すぎるんです……』
私が赤ちゃんをきちんと整えて母親にそれを渡したとき、子供たちはベッドに走り寄った。『また女の子なのね』と非常に優しく彼女は、その小さな子供を胸に抱いた。『お前が男の子であってくれたならねえ。もっとたやすく世を渡って行けるだろうに、可哀想な女の子……』そして母親の涙が小さいものの上に降りかかった。
子供たちの手がおどおどとこっそり、ベッドの掛蒲団の上に伸びた。『パン、お母さん。』『お父さんが帰るまで待っておいで。お父さんはきょうお城の百姓さんのところへ穀物打ちのお仕事に行ってるのだよ。だから多分パンを持って帰って下さるでしょう。ヨゼフ、お前もあすこへ行って、お父さんに女の子が生れたと言いなさい。』

失業! ――その経験のない人は、それがどんなものであるかは知らない。ところが、この村の百姓たちは、自分たちが、いかによい暮しをしているかということは全く知らない。パンは、いつでも家にある。誰もパンがなくなる心配をする必要はない。それなのに、ほかの人々は、朝、何もはいっていない戸棚の前に坐り、そして手も足もあって、働きたいのは山々なのであるが――誰も仕事を与えてくれない。子供はパンを求めて泣くが、親は彼等に何もしてやることができない。失業はしているが、乞食に出ることは恥かしい。そして、赤ちゃんは母の乳房にすがって泣く、なぜなら、その乳房からは乳が出ないから。母はまた母で、何も食べるものがない。

失業――今に冬が来たら、どうなることだろうか――あすは――あさっては。長い冷たい日々――燃やす木もなく――石炭もなく――職業もなく……
その頃というものは、私は、その前年中にお産をさせたすべての婦人たちのところへ出かけて、失業中の母親たちのために、物乞いをした。彼女たちの困窮を、これ以上、傍觀することができなかった。しかし、私も独りでは、彼女たちを助けてやることはできない。たとえ、朝、一瓶のコーヒーとパンを、そして晚にスープを持って行ってやっても――彼女たちの数は、私にとっては多すぎた。そこで、殆んどすべての婦人たちが、起ち上ってくれた。ある婦人は、一籠(かご)の馬鈴薯を送った。ヘルマンは、一瓶の豚油を。他の人々は、一塊のパン、卵、ヘット、穀粉といったような、田舎の人たちが持ちあわせているものを。最近、数年間は、貨幣は少なくなっていた。しかし、村では生活物資は高く評価されてはおらず、そして今度の場合のように、まさに何ものかが人々の心に触れるときには、彼等は喜んでこれを与えた。そして百姓たちは、次第に、失業中の家族の父親に対して、農場や田畑で日雇仕事を与えるようになって行った。今では、百姓と工場の人たちを分離していた塀が、少し打ちこわされた。なるほど、農家では、これらの日雇労務者に対し、大抵、金銭ではなく、収穫物をもって支払ったが、しかし、それは全く同じことであった。たぶん家族が空腹で苦しみさえしなければ、それでよかったのである。





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