Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「贖い」ということについて公教要理をみてみます

2006年09月13日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


今回は「贖い」ということについて公教要理をみてみます。



イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。


イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、天主に対する人間の罪のあがないを成就されました


私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。


私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって天主に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです


天主の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは天主であると同時に人間である必要がありましたか。


苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に天主でなければなりませんでした。


何故、イエズス・キリストの功徳が無限の価値あるものでなければなりませんか。


人間が罪によって侮辱を与えた天主は無限に偉大を御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。


イエズスにはあれほどひどい苦しみを受ける必要があったのですか。


イエズスには必ずしもあれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。


では、何故イエズスはそのような苦しみを受けられたのですか。


イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、

天主の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、

人間には、天主の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。



十字架上の犠牲は、新約唯一の犠牲ですか。


この犠牲によって主が天主の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さったという点から見れば、十字架上の犠牲は新約唯一の犠牲です。そして、このようにして得られた功徳は、天主が教会の中に制定された手段を通して実際に私たちに与えられるのであり、ミサ聖祭もこの手段のひとつなのです。


ミサ聖祭をささげる目的は何ですか。


ミサ聖祭をささげる目的は、
1ふさわしい方法で天主を礼拝し(崇拝)、
2そのご恩に感謝し(感謝)、
3天主をなだめるために罪のつぐないをし、練獄の霊魂のために代願し(贖罪)、
4必要とする聖寵を乞い求める(懇願)
ことです。


▼△▼△


 これをみると、天主の正義を満足させる「贖い」ということが教えられていることが分かる。


● 人間が罪によって天主に加えた侮辱は、ある意味で無限だから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方(天主)が必要だった。

● イエズス・キリストの十字架の犠牲によって、主は天主の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さった。

● そして、この本当の意味での「贖い」において、罪を忌み憎む天主の正義の厳しさ、そしてそれと同時に、罪人である私たちを贖って下さった、天主の無限の愛が現れる。

● 天主の正義ゆえに、天主の愛が輝いている。これが全聖書とキリスト教の全聖伝の教えだ。

 

◎ だから、例えばロンバルドゥスは、

『命題集』第3巻19区分2章に、「何故、天主は人となり死に給うたか」 Cur Deus homo et mortuus の問題を提起し、次の説明を挙げている。

 それは、天主が死すべき人間となり、その死によって悪魔に克つためであった。けだし、人間は自分の意志によって悪魔に服したのであるから、天主が直接に悪魔から人間を救い出すのは不当であり暴力的である。人間が悪魔に克って解放されるのでなければならない。しかし人間ひとりの力では悪魔に克つことはできない。それゆえ人間でありながら、他の全ての人間と異なり、完全に罪から無汚である人間にして初めて、その死によってすべての人間を悪魔の支配から救い出すことができる。それはただ「人の子」と成った「天主の聖子」によってのみなしうることであった。

(以上は山田晶著『トマス・アクィナスの "レス" 研究』853ページ、「レスとラチオ」の項よりの孫引き)


◎ だから、たとえばピオ12世教皇様はこう言った。

天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主(キリスト)は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」
(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮスHaurietis aquas』)



◎ だからトリエント公会議もこう宣言している。

DzS 1751(948)1条
「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか「捧げられるというのは、キリストが食されるために私たちに与えられることに他ならない」と言う者は排斥される。


DzS 1753(950)3条
「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない、あるいは、御聖体拝領する者だけにとって利益となるものである、また、生存者と死者のため、罪、罰、償い及びその他の必要のために捧げられるべきではない」と言う者は排斥される(DzS1743参照)。



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 では何故「カトリック新聞」では、こう書かれているのだろうか??

★ 私たちは、聖体祭儀【御聖体ではなく「聖体祭儀」】のうちにキリストが私たちと共にいることを信じています。私たちは【聖体祭儀が】キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ、体現していくため【のもの】であることを信じています。


 この全文を読みたい方は次をご覧下さい。
http://www.cwjpn.com/kiji/hikari/hikariold/hikari3871b.htm

 

★ これをみると、天主の正義を満足させる「贖い」ということが全く無視されている。「イエズス・キリストの十字架の犠牲」、「天主の正義をおなだめになったこと」、「人間の罪のあがない給うたこと」は無視されている。

★ イエズス・キリストの功徳でも愛でもなく、ただ単にミサが「世界のための神の愛を告げ知らせ体現していく」ためのものとなっている。

★ 私たちがイエズス・キリストとともに贖罪のいけにえを捧げるのではなく、私たちが何かを捧げると言うよりも、ミサは、天主の愛を告げ知らせる賛美と感謝であって、キリストが共にいるということを受け取ってそのことを告げ知らせるための祭儀だと教えている。

 


何故だろうか??? 何故「天主の正義」が省かれているのだろう?



 私たちはここで、日本で出版された『イエス・キリストを学ぶ』(サンパウロ1986年)の記述を思い出す。


「『あがないの代価』という表象は、ヘレニズム世界では譬喩にとどまらず、現実的に理解され、そこからテルトゥリアヌス、オリゲネス、アウグスティヌスにもみられるように、この代価が悪魔に対して支払われたというような、様々な思弁が展開されるに至った。しかし、そのような神話的な想像(!!)は、十字架の死に至る史実のイエスの姿からも、イエスの復活によって基礎づけられた神の国の福音からも遠ざかっている。現代に至るまで、通俗的な(!! 聖ピオ十世の公教要理も?)教理の理解に継承されている、カンタベリーのアンセルムスに端を発するいわゆる「贖罪論」に対しても、私たちは批判的でなければならない。すなわちアンセルムスは、『なぜ神は人となったか』という著作の中で、人間がつみによって神を侮辱したこと、この神は無限であるゆえ罪は無限であり、有限な人間には償うことができないこと、したがって無限の神の御子がこれを償わねばならなかったことを説明する。・・・だが、新約の使信はそもそも、ご自身を遠ざかった人間を呼び戻そうとされる父なる神の救いのわざを告げるものではなかったろうか。イエスの十字架の死は、イエスの功徳としてではなく、まず神の創意による救いのわざとして理解されたのではなかったろうか。神の怒りがなだめられるのではなく、神の愛が悲惨に沈む人間を回復しようとするのではなかったろうか。とりわけアンセルムスの贖罪論には、復活のケリュグマが欠けている。」(254ページ)

 


 私たちは更に、チュービンゲン大学の神学講義案から成り立った有名な『キリスト教入門 Einfuehrung in das Christentum』の記述を思い出す。


「このことがらについての、一般のキリスト教意識は、先にだいたい述べた非常に粗大化されたカンタベリーのアンセルムスの贖罪神学の考えによって定められている。非常に多数の信者にとって、ことに信仰をかなりはるかからしか知らない人々にとって(!!)、十字架は、傷つけられ、また回復された権利の機構の中で解すべきもののように見える。それは無限に傷つけられた神の義を、無限の贖いで和らげる形式のように見える。こうしてそれは人々には負債と債権との正確な均衡を主張する態度の表現として映ずる。・・・神の主張する『無限の贖い』は、二重の不吉な光をあびる。実際多くの信心書は、あたかも十字架のキリスト教信仰は、容赦なき正義で、人身御供、己の息子の犠牲をさえ望んだ神の姿を示すかのように思わせ、・・・。ひろまってはいるがこの考えは間違っている。聖書の中で十字架は、傷つけられた権利の機構の中の経過として現れてはこない。・・・ほとんどすべての宗教が、贖罪という問題を中心にしている。神の前で己の罪深さを知り、この罪の感じをのぞき、神にささげる償いの行為によって罪を克服しようとするのである。新約聖書では事態は、ほとんど逆になっている。・・・十字架は、人が怒れる神にささげる償いの業としてそこに立っているのではなく、・・・神の愚かしき愛の表現として立っている。・・・ 贖罪観、つまりあらゆる宗教の枢軸におけるこの転回によって、キリスト教の中で、礼拝や全実在も、新しい方向をえる。キリスト教では、礼拝はまず神の救いの業の感謝を込めての受容となっておこなわれる。従って、キリスト教礼拝の本質的形式は、ただしくエウカリスチア(感謝)とよばれる。この礼拝においては、人間の所業が神の前にもちだされるのではなく、むしろ人間が贈り物を甘受することなのである。・・・キリスト教の捧げものは、・・・贈与ではなく、むしろわれわれが全く授与者とな(る)・・・ことなのである。


「新約聖書を初めから終わりまで読む人は、そこではイエズスの贖罪行為が天父へのささげものとして描かれ、十字架はキリスト教が天父に従順にささげる犠牲として描かれているではないかという疑問を押さえきれないであろう。一連のテキストの中で、十字架は人間から神への上昇的運動として現れ、さきにわれわれが斥けたものが、再び前面に躍り出てくるように見える。・・・彼ら(=弟子たち)は、旧約で考えられたことはすべてイエズスにおいて成就されたと信じ、逆に旧約の事柄の真意は、イエズスからしてはじめて把握できると信じて、旧約の典礼テキストや規定を引き出した。かくして、新約聖書における十字架は、その他もののと混じって旧約聖書の礼拝神学の考えで解釈されたわけである。」
(『キリスト教入門』小林珍雄訳 エンデルレ書店 1973年)



 つまり『キリスト教入門』の著者は「無限に傷つけられた天主の正義を、無限の贖いでなだめる」という、トリエント公会議の主張し、公教要理にも教えられるほどの公式の教えは、「ひろまってはいるが、この考えは間違っている」と言う。



 つづけて著者はこう教える。

「十字架は、正義を損なわれて義憤に怒れる天主にささげる償いの業ではなく、天主の単純な愛の表現のみ」、

「キリスト教では、礼拝は、天主の救いの業を感謝を込めての受容すること」

「キリスト教礼拝の本質的形式は、エウカリスチア(感謝)」

「この礼拝においては、人間の所業が神の前にもちだされるのではなく、むしろ人間が贈り物を甘受すること」

「キリスト教の捧げものは、贈与ではなく、授与」



 つまり新しい神学の観点から言うと、「贖い」とは「天主に何かを返却するのではなく、天主を人間へと返すことを目的とする。」


 「贖い」はもはやキリストによってなされた天主の正義を満足させることではなく、天主が人類にした永遠の契約の最終的な「啓示」となる。


 キリストの「贖い」の業は、人々の罪に対し天主の正義を満足させることを目的とするのではなく、聖父の愛を完全に啓示することであるとすると「贖い」に関する古典的な神学を変更している。


(1)「贖い」の業は、人としてのキリストにと言うよりも、むしろ天主聖父に帰されなければならない


(2)イエズス・キリストは、固有の意味でもはや贖い主ではない。むしろ天主聖父がそこ(=キリスト)において救う場所になる。何故ならキリストという場所において聖父の愛とその名前が私たちに啓示されるから。


(3)「贖い」の主要な行為は、もはやキリストの死ではない。そうではなく、キリストの復活・御昇天である。十字架の死よりも復活・御昇天こそが「贖い」のもっと重要な行為となる。 何故か? 何故なら、新しい神学によれば、復活は啓示の充満であって、この啓示のためにキリストは人となったから。



 だから、この新しい神学を真にうけて「カトリック新聞」では、上のように、天主の正義を満足させる「贖い」ということが全く無視され、ミサは単に「世界のための神の愛を告げ知らせ体現していく」ためのものとしてのみ書かれたのではなかろうか。



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 でも、なぜ? なぜ新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのでしょうか??

 


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1 コメント

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贖いとは (なし)
2009-05-17 07:47:01
ヘブライ語で「コーフェル」つまり「覆う」の意。
最初の二親が失った完全な命に全く対応する「キリストの完全な命」が、法的な意味においても必要だった。
まさき神の完全な「公正さ」の表れであり、故にみ使いや神人では不可能でした。

贖いの備えは原則的には単純ですが、非常に奥深い神の知恵を反映しており、感動的です。貴方に同意します

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